スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽田盃&身分

2021-04-30 19:11:52 | 地方競馬
 昨晩の第66回羽田盃
 アランバローズが迷うことなくハナへ。発走後の正面では外連味なく飛ばしていき,向正面に入るところでは5馬身のリード。2番手にはイグナイター。また2馬身差でフォルメッシとトランセンデンス。5番手にランリョウオー。6番手にチサット。7番手にトゥースパークル。8番手がマカベウスとタブラオでこの7頭は集団。3馬身差でブライトフラッグとセイカメテオポリス。5馬身差でトーセンブライアンとミラコロカナーレ。後方2番手がトーセンダーウィンで最後尾にノットリグレットという隊列。最初の800mは48秒3のハイペース。
 直線の入口でアランバローズのリードは3馬身ほど。外から追ってきたのがトランセンデンスで,コーナーは内を回り,直線でアランバローズとトランセンデンスの間を突いたのがランリョウオー。直線はこの3頭の争いとなり,最後は外からアランバローズを差し切ったトランセンデンスが優勝。逃げ粘ったアランバローズが1馬身4分の1差で2着。これまでより早めのレースをしたためか直線はこれまで程の伸びを欠いたランリョウオーがクビ差で3着。
 優勝したトランセンデンスニューイヤーカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。ニューイヤーカップ以後の2戦は勝てませんでしたが,クラシックの根幹レースで大きく負けることなく上位に入っていましたから,ここでもチャンスがあるとみていました。ここは僕の見立てでは優勝候補が6頭いるという混戦でしたが,そのうちの4頭が4着までを占めていますので,結果としては順当とみていいように思います。ただ,強い風雨の中でのレースとなりましたので,そのために十全には能力を発揮しきれなかった馬もいたとみておくのも大事かと思います。父はトランセンド。祖母の父はマンハッタンカフェ。Transcendenceは超越。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手東京プリンセス賞に続く連夜の南関東重賞制覇で通算45勝目。第61回以来5年ぶりの羽田盃2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞49勝目。羽田盃は初勝利。

 スピノザの哲学で事物が存在するということは,現実的に存在するということだけを一義的に意味するという柏葉の見解opinioに対して,僕が異議を唱えている理由と,僕自身の結論については示すことができました。僕は個物res singularisの観念ideaが神Deusの無限な観念に包容される限りで存在するといわれる場合は,現実的に存在する各々の観念は区別されないという点で柏葉に同意しますが,区別distinguereの可能性が存在existentiaと不存在を分かつという見解に対しては同意しません。これは,僕が個物の形相的本性essentia formalisと個物の現実的本性actualis essentiaを異なったものとして考えることが最大の根拠となっています。そして事物の本性をそのように解釈することが可能であるということは,考察の中で十分に示すことができたと思っています。
                                        
 それでは柏葉の論文を対象とした考察の最後に,第二部定理八および第二部定理八系でいわれている,神の無限な観念の身分に関して考えていくことにします。
 実は柏葉の論文の中では,この神の無限な観念を無限知性intellectus infinitusと同一視することはできないということが主張されているだけで,ではそれをどのように解するべきなのかということについてはっきりとした結論が出されているわけではありません。しかしどのような結論になるであろうかということは,おおよその見当がつけられるようになっています。
 神の無限な観念の身分に関して,柏葉が重視しているのは,第一部定理八備考二で,現実的に存在しない様態的変状modificatioの本性がほかのものの中に含まれているといわれている点です。僕はこのほかのものというのを,第一部定義五に依拠して実体substantiaであると解しましたが,この解釈については柏葉も一致しています。柏葉はこの点を重視することによって,現実的に存在しない個物の観念は,無限様態modus infinitusと有限様態という区分において解するべきではなく,実体と様態という区分で解するべきだといっています。このことは,神の無限な観念と無限知性を同一視する観点の批判に直結します。なぜなら無限知性は,書簡六十四により思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態を意味するので,これは現実的に存在しない個物の観念を,無限様態と有限様態という区分で解釈している場合に該当するからです。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&強力な根拠

2021-04-29 18:56:37 | 地方競馬
 昨晩の第35回東京プリンセス賞
 フライングトリップは左によれて2馬身の不利。ケラススヴィアが逃げてグロリオーソが2番手でマーク。3番手はレディブラウンとウワサノシブコの2頭。5番手にティーズアレディー。6番手にディアリッキー。7番手のアイカプチーノとイヤサカまでは集団。4馬身差でサブルドール。後方2番手がカイカセンゲンで最後尾にフライングトリップという隊列。最初の800mは50秒6のミドルペース。
 3コーナーを回ると前の4頭に外から捲り上げてきたディアリッキーが追いついてきて,5頭が一団に。直線に入ると逃げたケラススヴィアが後ろとの差を離していき,楽に逃げ切って優勝。勢い余って4コーナーでは外に膨れたディアリッキーが,ケラススヴィア以外の3頭を差して7馬身差で2着。その3頭のうち最も粘ったウワサノシブコを,フィニッシュ直前でティーズアレディーが差して1馬身4分の3差で3着。ウワサノシブコがクビ差で4着。
 優勝したケラススヴィア桜花賞からの連勝で南関東重賞4勝目。これまでの3勝の2着馬との着差から,能力は圧倒的に上位と見込まれましたが,今までで最も大きな差をつけての快勝となりました。これは楽なペースで逃げることができた展開面の要素が大きかったからでしょう。このように逃げたり先行した馬が後続を離して勝つレースは,2着は差し馬が有利になるケースが多く,2着以下の着差をみると,これらの馬たちはまた展開次第で着順が入れ替わるという能力差なのだろうと思われます。父はサウスヴィグラス。母の父はネオユニヴァース。祖母の3つ下の半弟に2006年に武蔵野ステークスを勝ったシーキングザベスト。Cerasus Viaはラテン語で桜の道。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は桜花賞以来の南関東重賞44勝目。東京プリンセス賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞48勝目。第31回,33回に続く2年ぶりの東京プリンセス賞3勝目。

 さらに強力な根拠があります。さらに強力というのは,この根拠は,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisをどう解するかということと無関係と考えられるからです。つまりこの形相的本性を,現実的本性actualis essentiaと異なるものと解しても,あるいは現実的に存在する各々の個物res singularisの形相的本性と解しても,それが存在するというべきだという根拠になるのです。
                                  
 第一部定理三五は,神Deusの力potentiaの中にあると僕たちが考えるconcipereものはすべて存在するといっています。ここでいう考えるというのは,真に認識するcognoscereという意味であるのですから,これは,神の力の中にあるものはすべて存在するという意味でなければなりません。よって,もしあるものについて,それは存在しないあるいは存在することが不可能であるというなら,そうしたものは神の力の中にはないといわなければなりません。ところが第二部定理八は,現実的に存在しない個物の形相的本性が神の属性attributumの中に含まれているということを明言していますし,現実的に存在しない個物の観念ideaが神の無限な観念の中に包容されているということも明言しています。ですからこうしたものが神の力の中にないということは不条理でしょうし,こうしたものを僕たちが神の力の中にあるということを概念するconcipereことができないということもまた不条理でしょう。よって現実的に存在しない個物の形相的本性も,現実的に存在しない個物の観念も,神の力の中にあるがゆえに必然的にnecessario存在するというべきだということになるでしょう。
 これらのことから,僕は現実的に存在しない個物の形相的本性は,属性に含まれて存在すると結論しますし,現実的に存在しない個物の観念は,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在すると結論します。ただこの形相的本性は,個物の現実的本性とは異なるものなので,現実的に存在する個々の個物についてはそれを区別することができるものではありません。むしろ,たとえば人間の形相的本性は,現実的に存在する個々の人間のすべてに共有されるような本性を意味するので,現実的に存在する個々の人間を区別しません。そして個々の人間の現実的本性の観念は,神の無限な観念には包容されていません。
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女流王位戦&不同意の理由

2021-04-28 19:01:39 | 将棋
 塩田温泉で指された昨日の第32期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が2勝,山根ことみ女流二段が0勝。
 振駒で山根二段の先手。後手の里見王位の三間飛車に対して先手が向飛車にしての相振飛車。中盤で戦いになってからは後手が有利で進展していましたが,途中は先手にもチャンスが訪れていたと思います。
                                        
 先手が歩を打った局面。ここから☖5四銀☗3二角☖4五銀と進みました。第1図で☖4五銀と打つことができるのですから,この手順は明らかに先手の得で,この将棋で先手に最大のチャンスが訪れたのがここだったのではないかと思います。
 飛車取りなので☗8五飛と逃げました。これが成銀取りになっているので☖9九成銀。先手は☗6五角成としました。
                                        
 第2図で☖5四銀打とされ,先手はやや忙しくなったようです。☗6五角成では☗9九角と駒を補充しておく手も有力で,先手はもう少しだけゆっくり指す必要があったのではないでしょうか。実戦は第2図以下も先手にチャンスはあったと思いますが,ここを逃したのが最も大きかったように思えました。
 里見女流王位が先勝。第二局は来月18日に指される予定です。

 第一部定理八備考二で,考えられることができるといわれるときの考えるconcipereというのは,概念するconcipereというのと同じです。そしてこの概念conceptusは,第二部定義三説明でいわれている概念に該当します。つまり,僕たちは僕たちの精神の能動actionem Mentisによって,現実的に存在しないものを認識するcognoscereことができるといっているのです。よって第三部定理一第二部定理四〇から,それは十全な観念idea adaequataです。もっともこのことは,僕たちが現実的に存在していない様態的変状modificatioについて,真の観念idea veraを有することができるといわれていることから明らかでしょう。
 第一部公理六から,真の観念は観念されたものideatumと一致するのです。よって,Xの真の観念があるのであれば,その観念対象ideatumであるXもあるといわなければなりません。つまり,個物res singularisの形相的本性essentia formalisの真の観念を僕たちがもつことができるのであれば,個物の形相的本性も存在するといわなければなりません。これが僕が柏葉の見解opinioに異を唱えるひとつめの理由です。
 ただしこのことは,第二部定理八でいわれている形相的本性を,個物の現実的本性actualis essentiaと異なったものとして解する僕の見解に依拠しています。柏葉の論文では,僕のいっているところの現実的本性と,第二部定理八の形相的本性が同一視されている面がありますので,この根拠というのは柏葉の主張を否定するまでには至っていません。とはいえ,そもそも第二部定理八の形相的本性を現実的本性と考えることはできないという僕の見解についても説明していますので,僕が柏葉の主張に対して同意することができないという点では変わりはありません。
 さらに,第二部定理八では確かに存在しない個物の形相的本性といわれているのですが,この同じものが,第二部定理八系では,個物が神Deusの属性attributumの中に包容される限りで存在するといわれているということは,この部分の考察の冒頭で僕が指摘しておいたことです。ここでも,柏葉は現実的本性と形相的本性を同一視していますから,柏葉の主張自体がこのことによって崩壊するというわけではないかもしれません。しかしこの系Corollariumでは,個物が存在するといういわれ方をしていますので,柏葉の主張が弱みを抱えているのは間違いありません。
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カーンの雑感⑦&区別と存在

2021-04-27 19:05:05 | NOAH
 カーンの雑感⑥で詳しく示したように,吉村道明の引退の時期や,日本プロレスの崩壊の時期が,カーンのプロレス人生に大きな影響を与えました。ただカーンは,もしもこの当時の自分に度胸があって,ひとりで馬場のところへ行っていれば,また違った人生になっただろうとも語っていて,そのことはカーンにとって仕方がないことであったということよりは,後悔するような出来事であったようです。
 吉村道明を慕っていたジョー・樋口は,日本プロレスを退社して全日本プロレスに入団しました。そしてカーン自身も全日本プロレスにいきたいという気持ちを吉村に打ち明けていて,吉村もそれにとくに反対はしていなかったようです。ですから仮にカーンが吉村が引退する前に全日本プロレスへ移籍することを決断したとしても,それは必ずしも吉村を裏切ったということにはならなかったでしょうし,吉村もその決断を強く慰留するようなこともしなかったろうと思います。一方,日本プロレスが崩壊したときにはカーンは坂口征二の付き人だったわけですが,馬場と坂口の関係というのは良好だったわけですから,そのときにカーンが坂口に対しても吉村にしたのと同じように自身の本心を打ち明けていたなら,坂口もカーンが全日本プロレスにいくことを許したのではないかと思われますし,馬場もきっと快く受け入れることができたのではないかと推測されます。ですからカーン自身がいうように,もしカーンがもっと強いアクションを起こしていれば,新日本プロレスにはいかずに全日本プロレスで仕事をしたという可能性が高かったでしょう。そして実際にそういう機会が少なくとも2度はあったということになります。
 カーンが実際に全日本プロレスで仕事をするようになったのは1985年です。これはジャパンプロレスの所属選手という形でした。カーンはその初日に,馬場の控室まで出向いて挨拶をしたそうです。そのときの馬場がニコーっと笑った表情を,カーンはよく覚えていると語っています。その笑顔を見て,全日本プロレスに来ることができてよかったと思ったそうです。

 とくに無限知性intellectus infinitusによってそれが区別できないのではなく,どのような知性によっても区別することができないということは,実際には柏葉も認めています。そしてこの点では僕も柏葉に同意します。ただ柏葉は,この区別distinguereの不可能性を,存在論的問題と関連付けています。僕はこちらの点には同意しません。具体的にいうと,柏葉は区別が不可能であるものは端的に存在しないと主張します。存在しないものを区別することは,どのような知性にとっても不可能だといわなければならないでしょう。いい換えるなら,それが非存在であるということが,区別の不可能性の根拠として呈示されているのです。僕が同意できないのはこの部分です。
                                        
 第二部定理八は,存在しない個物rerum singulariumや様態modorumの形相的本性essentiae formalesが,神の属性Dei attributisの中に含まれているといっています。また,第一部定理八備考二では,存在していない様態的変状modificatioの真の観念idea veraを僕たちは有することができるといわれています。これらのこと,といっても論文の中で指摘されているのは前者だけで後者については柏葉は何もいっていないのですが,こうしたことから,スピノザの哲学における存在existentiaというのは,現実的存在のことだけを意味すると柏葉は主張します。他面からいえば,存在しないものの形相的本性は神の属性の中に含まれていますし,それと同じように存在しないものの観念は神の無限な観念の中に包容されているのですが,それは含まれているとか包容されているということだけを意味しているのであって,存在しているという意味ではないというのが柏葉の主張の中心になります。これは厳密にいうとやや乱暴な要約になるのかもしれませんが,少なくとも僕のように,柏葉とは異なった見解opinioを有する立場からすれば,柏葉はそのように主張していると解さざるを得ないのです。
 第一部定理八備考二の方は,存在しないというのが現実的に存在しないという意味であり,それ以外の仕方では存在するということが明確にいわれているわけではありません。ですがそれがほかのものによって概念するconcipereことができるようになっているといわれていて,このことは,そのものが何らかの仕方で存在しているのと同じと僕は解します。
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香港チャンピオンズデー&可能な区別

2021-04-26 19:24:00 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われた昨日の香港チャンピオンズデーには,日本から2レースに5頭が遠征しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。ダノンスマッシュは立ち遅れて1馬身ほどの不利がありましたが,すぐに巻き返していって7番手の外を追走。そのまま外を回って直線に向きましたが,まったく伸びることができず,勝ち馬から4馬身差で6着でした。
 この馬は大レースを連勝していて,相手関係はその2回より楽でした。発馬で不利があり,すぐに巻き返していって外を回るという大味な内容でしたが,それ以外にも敗因があったように思えます。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。デアリングタクトが内の3番手でその外にラヴズオンリーユー。5番手の内にキセキでその外がグローリーヴェイズ。最終コーナーで内を回ったデアリングタクトが2番手となり,ラヴズオンリーユーはその外から。内目を捌いたデアリングタクトに対して,早めに押していたラヴズオンリーユーが直線は先に前に。さらに外からグローリーヴェイズが追い込んできました。デアリングタクトは残り100m付近で一杯となり,早め先頭のラヴズオンリーユーが優勝。グローリーヴェイズが4分の3馬身差まで迫って2着。デアリングタクトは半馬身差で3着。キセキも1馬身半差の4着まで追い込みました。
 このレースは香港の3頭に対して日本の4頭の実力が上でしたので,上位独占になったのは順当でしょう。シャティンの馬場に対する適性や,過去の経験などがこの結果になったということだと思います。
 優勝したラヴズオンリーユーは京都記念以来の重賞3勝目。大レースは2019年のオークス以来の2勝目。父はディープインパクト。母がラヴズオンリーミーで4つ上の全兄に2015年に共同通信杯,2016年にドバイターフ,2017年に毎日王冠を勝ったリアルスティール
                                        
 日本馬による海外GⅠ制覇は昨年暮れの香港国際競走の2勝以来。クイーンエリザベスⅡ世カップは2002年,2003年,2012年,2017年,2019年に優勝していて2年ぶりの6勝目。騎乗した香港のヴィンセント・ホー騎手は日本馬に騎乗しての大レース初勝利。管理している矢作芳人調教師菊花賞以来の大レース19勝目。海外GⅠは2019年のコックスプレート以来の3勝目。香港のGⅠは初勝利。

 個物res singularisの形相的本性essentia formalisが神Deusの属性attributumに含まれている限りで,あるいは個物の観念ideaが神の無限な観念に包容される限りで存在する場合に,区別することができないというのは,僕の見解opinioでは,その個物の形相的本性が共通のものの間でのことであって,その形相的本性が別の形相的本性と区別されないということではありません。たとえば第一部定理八備考二から,スピノザはすべての人間に共通の本性が存在するということは認めています。この共通の本性を,僕は第二部定理八の形相的本性と解しています。このとき,この人間の形相的本性によっては,個々の人間を区別することはできません。ところで,すべての人間に共通の本性があるのであれば,たとえばすべての馬に共通の本性というのもあることになるでしょう。するとすべての人間に共通の本性が人間の形相的本性といわれるように,すべての馬に共通の本性は馬の形相的本性に該当します。この馬の形相的本性によっては,個々の馬を区別することができません。しかし,人間の形相的本性と馬の形相的本性は異なるのですから,そこでは区別distinguereが可能であり,区別が発生するのです。よって,神の無限な観念が存在する限りで存在する人間の観念は,個々の人間の観念を区別することができませんし,神の無限な観念が存在する限りで存在する馬の観念は個々の馬の観念を区別することができません。しかし神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれる人間の観念と馬の観念は区別されることになるのです。後に述べる理由から,柏葉はこのことを認めないかもしれませんが,僕の見解はこの通りです。
 柏葉はこの区別の問題を,標準的解釈,第二部定理八系の神の無限な観念を無限知性intellectus infinitusと同一視する解釈を批判する文脈で示しているので,あたかも無限知性がそれを区別することができないといっているかのような記述が論文の中に含まれています。これはあたかもそのような記述なのであり,実際に柏葉そう主張しているわけではありません。ですがこの点には注意することが必要なのであって,この区別が不可能であるということは,知性が何であるのかということとは関係しません。どの知性によっても区別が不可能なのです。
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大楠賞争奪戦&同意の理由

2021-04-25 19:01:45 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは郡司‐岩本の南関東に佐藤,清水‐松浦-小倉-室井の中四国,山田庸平‐山田英明の佐賀。
 松浦がスタートを取って清水の前受け。5番手に山田庸平,7番手に郡司で周回。残り2周のホームの入口から郡司が上昇開始。ホームで清水を叩いて誘導が退避。直後のコーナーで山田庸平が上昇して郡司を叩きました。引いた清水がバックから発進。郡司が合わせて出ようとしましたが,清水が乗り越えました。山田庸平は突っ張ったので打鐘から山田庸平と清水の先行争い。ホームで清水が前に出て,山田庸平は飛びつくことができませんでした。バックから郡司が発進。岩本が離れて山田英明がスイッチする形になりましたが,松浦の牽制を受けた郡司は失速。郡司を止めた松浦がそのまま踏み込んで優勝。マークの小倉が4分の3車輪差の2着に続いて中四国のワンツー。岩本の後ろから直線で松浦の内を突いた佐藤が4分の3車輪差で3着。自力で大外から捲り追い込んできた岩本が微差で4着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は3月の玉野記念以来の優勝で記念競輪10勝目。武雄記念は昨年も優勝していて連覇で2勝目。ここは中四国ラインと郡司の対決。清水が山田庸平を捻じ伏せるように先行し,脚を無理に使わずに番手を回った松浦に有利になりました。郡司は打鐘前のバックではじっとしておいた方が脚力を温存するためにはよかったかもしれません。

 長方形の観念ideaが現実的に存在することによってほかの長方形の観念と区別されるということは,このことによらなければ長方形の観念は区別されないと解することができます。つまり一般的に個物res singularisの観念は,現実的に存在するようになってはじめてほかのものと区別されるようになるのであって,個物の観念が神Deusの無限な観念に含まれている限りでは区別されないと解することができるのです。そして柏葉はそのように解するべきだと主張しています。僕はこの点に同意するのです。ただ,柏葉は標準的解釈,第二部定理八系の神の無限な観念と無限知性intellectus infinitusを同一視する解釈を批判する観点からこのことを主張していて,さらにその先の部分には僕には同意しかねる点も含まれています。そこでまず,この区別distinguereの規準についていくつか僕の方からつけ加えておきます。
                                         
 僕が柏葉のこの部分の主張に同意する理由は,ここまでの論考からある程度は理解してもらえると思います。ここではふたつの観点を繰り返しておきます。ひとつは,僕は事物の本性essentiaは現実的本性actualis essentiaと形相的本性essentia formalisしかないと考えている点です。現実的に存在する個々の人間は,個々の人間の現実的本性が異なるがゆえに区別することが可能になりますが,すべての人間に共通する人間の形相的本性によっては区別され得ません。この意味において,人間の観念は現実的に存在することによってほかの人間の観念と区別されるのであり,人間一般の形相的本性によってはどの人間の観念も区別されることはありません。そしてもうひとつは,第二部定理九を論証するにあたって,スピノザがその冒頭で,現実的に存在する個物の観念が思惟の属性Cogitationis attributumの特定の様態modiであって,ほかの様態と区別されるものであるといっている点です。現実的に存在する個物の観念に言及するときにスピノザが区別について言及しているということは,スピノザが個物の観念は現実的に存在することによって区別され得ると考えているためだと思われます。このことは定理の配置,すなわち第二部定理八備考の直後に第二部定理九があるということから,スピノザに明確な意図があったという観点からも補強されるでしょうし,論証Demonstratioでスピノザが第二部定理八備考に訴求していることからも補強できます。
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第四部定理三七備考一&区別の規準

2021-04-24 19:07:20 | 哲学
 virtusについて説明したとき,第四部定義八により,徳は力potentiamと同一視されて,かつ人間についていわれる徳というのが,人間の能動actioを意味するので,人間の受動passioは人間にとって,力とは正反対の意味で無能impotentiaということになり,スピノザはそのことを肯定しているという主旨のことをいいました。そのことをはっきりと示しているテクストとして,第四部定理三七備考一の一部を示しておきます。
                                   
 「真の徳とは理性の導きのみに従って生活することにほかならない。したがって無能力とは人間が自己の外部にある事物から受動的に導かれ,かつ外界の一般状態が要求する事柄―それ自身だけで見られた彼の本性そのものが要求する事柄ではなく―をなすように外部の事物から決定されることにのみ存する」。
 理性ratioによる認識cognitioは第二種の認識cognitio secundi generisであり,これは共通概念notiones communesを基礎とします。いい換えれば第二部定理三八および第二部定理三九により,十全な観念idea adaequataによる認識です。よって第三部定義二によりこれは能動です。これが真の徳であり力です。これに反して,ある人間がその人間の外部にあるものから働きを受けて生活する場合には,受動といわれ,このテクストではそれは無能力,力と反対の意味で無能力であると明言されています。要するに能動が力で受動は無能力であるというのがスピノザの哲学の基本です。これは能動と受動を,スピノザが,従来とは異なる新たな道徳律として設定したことと大きく関係しているといえるでしょう。
 ただし気をつけなければならないのは,第四部定理四系により,スピノザは現実的に存在する人間が必然的にnecessario受動に隷属するということも肯定しているという点です。つまり能動は力であり受動は無能なのですが,現実的に存在する人間が無能であるということ,あるいは無能であらざるを得ないということも同時に認めているのです。つまり受動が無能力であるということで,受動的であることを全面的に非難する意図はスピノザにはなかったと解するべきでしょう。いい換えるなら,スピノザが設定した道徳律は,現実的に存在する人間によって完全に遵守することはできない道徳律なのです。

 現実的に存在するAとBが共通の本性naturaを有している場合があるということをスピノザが認めているということは,第一部定理八備考二から判明しています。そしてこの共通の本性が,第二部定理八でいわれている形相的本性essentiae formalesである可能性は否定できません。そしてこのことが成立しているとすれば,個物の形相的本性が神の属性Dei attributisに含まれている限りでは,AとBは区別されていないことになります。AとBは何らかの相違によって区別されるのであり,共通のものによって区別されることはないからです。このことは一般的に,どんな事物であったとしてもそれらが区別されるのなら何らかの相違によって区別されるのであり,それらのものに共通のものによっては区別され得ないということから明白でしょう。
 前もっていっておいたように,この区別distinguereの問題が,柏葉の論文では中心的課題のひとつになっています。第二部定理八備考のスピノザの言及をさらに進めることによって,柏葉の課題が理解できます。
 円には,その中で相互に交わるすべての直線の線分からなる長方形が相互に等しいという本性があり,この円の本性により,円の中には無限に多くのinfinita相互に等しい長方形が含まれています。この長方形は,円が存在する限りにおいて存在するのであり,これと同様に,長方形の観念ideaも円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するのです。
 次に,これら無限に多くの長方形のうち,ある二本の線分からなる長方形は現実的に存在すると仮定します。この場合は,この長方形の観念も,円の観念に包容される限りにおいて存在するといわれるばかりではなく,この長方形の存在existentiaを含む限りにおいて存在する,いい換えれば現実的に存在するといわれる限りにおいても存在するようになるのです。そして備考Scholiumの最後でスピノザがいっているのは.このことによってこの長方形の観念は,ほかの長方形の観念と区別されるということです。
 柏葉はこの最後の部分に注目する必要があると強調しています。つまりスピノザは,ある長方形の観念がほかの長方形の観念と区別される規準を,備考のこの部分で示しているのだといっているのです。僕もこの点に同意します。
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マイナビ女子オープン&有力な結論

2021-04-23 19:09:50 | 将棋
 21日に湯村温泉で指された第14期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 伊藤沙恵女流三段の先手で西山朋佳女王の三間飛車。先手が向飛車にしての相振飛車になりました。先手が早めに9筋から仕掛ける将棋。仕掛けて悪くなったというわけではありませんから,成立はしていたものと思われます。
                                          
 後手が桂馬を跳ねた局面。ここで☗2六飛と回って飛車の成り込みを狙ったのですが,結果的にいえば方針を誤ったということになると思います。
 ☖5五角☗同角☖同香と進み,先手は☗4六角と打ちました。この手は☗2六飛との関連ではあまりよくなく,☗2六飛としたのなら☗5六歩と打った方がよかったでしょう。香取りで銀も取れませんから後手は☖5四歩と受けました。
 ここで☗2三飛成と狙いの成り込みを実現させ,☖4四飛に☗5六歩と受けたのが直接的な敗着となった手順。☖5七桂成が厳しい一手となりました。
                                          
 先手にとって何が痛いかというと,4六の角が質駒となっていることです。角の入手が見込めることになった後手の攻めが続くことになりました。なので☗2六飛と回った以上は☗4六角と打つべきではありませんでしたし,角を打ってしまったのなら狙いの☗2三飛成は自重しなければいけませんでした。
 西山女王が勝って1勝1敗。第三局は来月15日に指される予定です。

 個物res singularisの形相的本性essentia formalisが神Deusの属性attributumの中に含まれているのと同じように,個物の観念ideaは神の無限な観念が存在する限りにおいて存在します。これは第二部定理八から間違いありません。よって,もしも神の属性の中に含まれている個物のすべてが現実的に存在するようになるのであれば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念もそのすべてが現実的に存在するようになるのは当然だといえるでしょう。いい換えれば,神の属性の中に含まれている個物の形相的本性には,必然的にnecessario現実的本性actualis essentiaが与えられる,つまり,その個物が現実的に存在するための起成原因causa efficiensが与えられるのであり,それと同様に,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれている個物の観念は,そのすべてに現実的本性が与えられる,つまりその個物の観念が現実的に存在するようになる起成原因が,第二部定理九の様式で与えられるというのが,この場合の結論に相応しいと僕は考えます。ただしそのことを人間の精神mens humanaが個別に確かめることが不可能であることもまた間違いないと考えます。
 とはいえこの結論は,個物の本性の中に,個物が現実的に存在するものであるということ,あるいは同じことですが個物が持続するdurareものであるということが含まれているとした場合の結論です。個物の本性がいかなるものであるのかということについては識者の間でも見解opinioの相違がありますし,僕のような見解,個物の本性に個物が持続するものであるということが含まれるという見解に,難点が含まれているということは僕も認めています。このことについてはここでは繰り返しませんが,このためにこれとは別の結論が出される余地があるということは僕も認めますし,そのような見解にも一理あるであろうことにも同意します。ただ僕がここでいいたかったのは,僕のような見解からはこのような結論が有力となるのであって,それは柏葉の主張に対して,間違いなくヒントになるであろうということです。
 ところで,すべての個物に共通するような本性は,その本性を有する個物について,その各々を区別することができません。これはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&共通の本性

2021-04-22 19:10:20 | 地方競馬
 昨晩の第24回クラウンカップ。レスポンデールが腹痛のため出走取消となり13頭。ヴァヴィロフの本田正重騎手は9レースで落馬し臀部を打撲したため篠谷騎手に,ヒートアップハートの真島大輔騎手は疾病のため矢野騎手に変更。
                                        
 ヴァヴィロフは発馬後に左によれて1馬身の不利。すぐに先頭に立ったのはジョーロノ。ノートウォージーが2番手でマーク。2馬身差でピースフラッグとハートプレイス。5番手にリコーシンザンとディーノランページ。2馬身差でヒートアップハートとジョエルとギガキング。3馬身差でトーセンマッシモ。11番手にニヨドスマイル。最後尾にヴァヴィロフとボウトロイという隊列。前半の800mは50秒6のミドルペース。
 直線の入口にかけてジョーロノのリードが2馬身くらいに。向正面で早めに動いて進出を開始したギガキングが2番手に上がってジョーロノを追いました。ギガキングの後からそれを追うように上がってきたのがジョエルで,直線では前をいく2頭の外から差し切って優勝。ジョーロノとギガキングはフィニッシュまで競り合い,写真判定の結果はギガキングが1馬身半差の2着、ジョーロノがハナ差で3着。
 優勝したジョエルは昨年5月にデビューして新馬戦を勝利。その後の5戦は入着を続け,このレースのトライアルである前走で2勝目をあげ,ここに出走。南関東重賞は初挑戦での勝利となりました。このレースは南関東重賞の勝ち馬の出走はなく,入着歴があったのが2着馬と3着馬。その2頭が僅差の2着争いをしたということは,能力通りの結果となったとみるのが妥当でしょうから,ジョエルはそれくらいの力量をもった馬だと判断していいでしょう。この馬の前走のトライアルは2018年に創設されたものですが,2019年以降はそのトライアルの勝ち馬がいずれもクラウンカップを制することになりましたので,これはレースの傾向として記憶しておいた方がいいでしょう。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞兵庫ゴールドトロフィー,2010年に兵庫ゴールドトロフィーを勝ったトーセンブライト。母の父はダイワメジャー
 騎乗した船橋の張田昂騎手は京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞4勝目。クラウンカップは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は開業から5年9ヶ月で南関東重賞初勝利。

 個物res singularisの形相的本性essentia formalis,その個物が現実的に存在するとき,現実的に存在するその個物のすべてに共通するような形相的本性,いい換えるなら,個物の現実的本性actualis essentiaとは異なるものとしての形相的本性が,神Deusの属性attributumの中に含まれているのと同じように,個物の観念ideaが神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するのであれば,この観念というのは,その観念対象ideatumである個物が現実的に存在する場合に,現実的に存在するその個物のすべてに共通するような観念でなければなりません。そうでないなら,個物の観念が神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する場合について,個物の形相的本性が神の属性の中に含まれていることに対して,同じように存在するとはいわれ得ないことになるからです。
 このことから分かるのは,たとえば人間の観念が,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれるときの観念対象は,たとえばAとかBとかいわれるような人間のことではなく,AであってもBであっても通用するような人間の観念であるということです。Aという人間の現実的本性やBという人間の現実的本性とは異なった,すべての人間に一般的に妥当する人間の本性natura humanaというのが存在するということをスピノザが認めているということは第一部定理八備考二から明らかなのですから,確かにそうした本性が神の属性の中に含まれていて,その観念が神の無限な観念が存在する限りにおいて存在しているのだと解することは可能なのです。
 僕はこの場合は,神の属性の中に含まれている個物は,そのすべてが現実的に存在するようになるという方が,合理性が保てるのではないかと思います。これは単純にいうと,僕は個物の本性の中には,個物が現実的に存在するものであるということ,いい換えれば個物が持続するdurareものであるということが含まれていると考えるからです。よってそうしたことが個物の本性に含まれているのなら,その個物が現実的に存在することが不可能であるという場合には,その本性と矛盾したことになってしまうと考えるのです。そして,それと同じようにといわれている以上は,このことが個物の観念にも妥当しなければならないと考えます。
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廃刀令&個物の形相的本性

2021-04-21 19:10:50 | 歌・小説
 『漱石追想』に収録されている,篠本二郎の「腕白時代の夏目君」から,重要だと思われる部分を何回かに分けて紹介し,僕の見解をそれぞれに示していきます。
                                        
 このエッセーは4章に分かれています。その第1章の冒頭は,篠本と漱石が知り合ったのがいつ頃どこであったかということが示されています。篠本はそれは明治六年だったといっていて,場所はすでに紹介したように,漱石が転校してきた市ヶ谷の小学校です。そしてその直後に,その近所の子どもは,武士でも商人でも一様にこの学校に入学することを許されたという主旨の記述があります。この記述からみて,少なくとも篠本が,江戸時代の階級制度というものを意識していたということが窺えるでしょう。もちろんこれが実際に書かれたのは昭和十年のことであり,そのときに篠本がそれを意識していたとはいえません。ただ,小学生だった時のことを書くにあたっては,篠本にとってこのことは外すことができなかったことだったのです。これはその後のエッセーの内容からも明らかです。そして篠本がこのようにいうことで示唆したかったのは,実際にそれが事実であったということや,篠本自身がそうした意識をもって小学校に通っていたということだけではなく,そうした意識は漱石にも共有されていたということだったと推測されます。そしてそのこともまた,その後の篠本の記述にによって裏付けすることが可能だと僕は考えます。
 さらにこの時代の特徴として,廃刀令の前後であったということを篠本は書いています。実際に日本に廃刀令,つまり軍人や警察官などを除いては帯刀することを禁ずることが発令されたのは明治9年です。ですから漱石と篠本が知り合った頃は,一般人,といってもこれは江戸時代に武士階級に所属していた男子に限られたのではないかと思われますが,そうした人びとの中には,日本刀を持って歩いていたという人がまだいたのではないでしょうか。ただ,篠本がその前後だったといっているのは,廃刀令が発令に至ったのは明治九年であっても,すでにそれに関する議論は始まっていたという事情があったからだと思います。
 漱石の出自は武士の家庭でした。漱石の父が刀を持ち歩いていたかは分かりませんが,漱石の実家には刀があったのです。

 僕は事物の本性essentiaというのは,その事物が現実的に存在するときの現実的本性actualis essentiaと,第二部定理八でいわれている,Deusの属性attributumの中に含まれている形相的本性essentia formalisのふたつしかないと考えています。ですから第一部定理八備考二でいわれている人間の本性natura humanaが,人間の現実的本性と解することができない以上,それは第二部定理八の形相的本性でなければならないと考えるのです。しかしここではこのことを強調することはしません。いい換えれば,それと異なった見解opinioについても受け入れます。ただ,僕がここまでに明らかにしたことから,第一部定理八備考二の人間の本性が,神の属性に含まれている人間の形相的本性である可能性を否定することはできないということに同意してもらえれば十分です。それに同意してもらえれば,たとえ仮定のことだとしても,この前提でさらに考察を進めていくことに意義があることになるからです。あるいはそれが柏葉の主張を考えるためのヒントになるからです。
 神の属性に含まれている人間の形相的本性が,第一部定理八備考二でいわれるような人間の本性であるとしましょう。当然ながらこのことは人間にだけ適用されるわけではなく,現実的に存在するあらゆる個物res singularisに妥当しなければなりません。よってたとえば個物Aの形相的本性というのを有する複数の個物Aが現実的に存在するということを認めなければなりません。逆にいえば,現実的に多数の個物Aが存在するとき,そのすべての個物Aに共通する本性として,個物Aの形相的本性が神の属性に含まれているということになります。よって,個物Aが現実的に存在するようになるか否かを問うことは,個物Aの形相的本性に,何らかの現実的本性が与えられるか否か,あるいは同じことですが,個物Aの現実的本性の起成原因causa efficiensが与えられるか否かを問うているのと同じことになります。たとえ多数の個物Aが現実的に存在するのだとしても,たったひとつの個物Aが現実的に存在するのであれば,それは個物Aの現実的本性が与えられたということになるのです。
 さらに第二部定理八は,この場合の個物Aの形相的本性の観念ideaが,神の無限な観念が存在する限りで存在するといっています。
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クレイグダーロッチ&等置

2021-04-20 19:03:34 | 血統
 ウイニングチケットの輸入基礎繁殖牝馬は1922年にイギリスで産まれたクレイグダーロッチです。馬名はイギリスの城の名前。ダンスタイムと同じでファミリーナンバー11-c
                                         
 この牝系は最近はそれほどでもないのですが,僕の競馬キャリアが始まった頃には名門といっていい牝系で,その後の10年くらいはその状態が続いていました。これまでに紹介した馬ではサクラユタカオーがクレイグダーロッチを祖先にもっています。また,サクラユタカオーの甥にサクラスターオーという馬がいて,この馬は1987年に皐月賞と菊花賞を勝ってJRA賞の年度代表馬に選出されています。
 ウイニングチケットがダービーを勝ったのが1993年。その前年の1992年のダービー馬のミホノブルボンも,クレイグダーロッチ系です。ミホノブルボンは1991年に朝日杯3歳ステークスを勝って最優秀2歳牡馬に,翌年はダービーのほかに皐月賞も勝って年度代表馬に選出されています。
 これ以前にもこの牝系からは大レースの勝ち馬が出ていますが,僕の競馬キャリアの中ではこの4頭。したがってウイニングチケットは現時点で,この牝系から出た最後の大レースの勝ち馬となっています。
 重賞の勝ち馬はその後も数多く出ました。ダンツジャッジが2003年のダービー卿チャレンジトロフィーと2004年のアメリカジョッキークラブカップを勝った後,しばらく間が開きましたが,マイネルスターリーが2010年に函館記念を勝ちました。しかしそれから10年以上,重賞の勝ち馬が出ていません。牝系は続いていますので,どこかで復活ということがないとはいえないでしょう。

 これで第一部定理八備考二の当該部分で,スピノザが何をいっているのかということが分かりました。ひとつは僕たち,すなわち現実的に存在している人間の精神mens humanaは,現実的に存在していない個物res singularisの真の観念idea veraすなわち十全な観念idea adaequataをもつことができるということです。もうひとつはそのことの理由の説明で,それは,現実的に存在していない個物の本性essentiaが実体substantiaの中に含まれているので,実体によってその個物の本性が概念できるようになっているからだということです。なお,このことが個物を真にあるいは十全に認識するcognoscereことができる理由として示されているわけですから,ここではスピノザは,個物の本性を概念するconcipereことと,個物を真にあるいは十全に認識することを同一視していることになります。
 第二部定理八は,現実的に存在しない個物の形相的本性essentia formalisは神Deusの属性attributumの中に含まれているといっています。第一部定理八備考二の当該部分の意味は,現実的に存在していない個物の本性は実体の中に含まれているということです。ですがこのふたつは同じ意味で考えることが可能です。なぜなら第一部定義六により神は実体にほかならないですし,第一部定義四により属性とは実体の本性そのもののことです。備考Scholiumの当該部分が個物の本性を概念することと個物を十全に認識するということを等置しているのですから,実体と属性をあるいは神と神の属性を等置しても問題にはならないでしょう。さらに第二部定理六から,個物というのはそれが個物となっている属性の下で神を原因causaとするのであり,神がほかの属性によって説明される限りでは神を原因とはしないのです。ですから,たとえばXの属性の個物の原因はXの属性であり,そのゆえにその個物の形相的本性が含まれている属性はXの属性でなければなりません。第一部定理二五にあるように,この個物の形相的本性の原因もまたXの属性であることになるからです。
 僕は第一部定理八備考二でいわれている本性が,第二部定理八でいわれている形相的本性である可能性があるといって,この部分の考察を開始しました。実際には僕は,それは可能性があるというのではなくて,そうでなくてはならないのだと考えています。
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ゴールド・ウイング賞&第一部定理八備考二

2021-04-19 19:04:29 | 競輪
 昨日の西武園記念の決勝。並びは高橋‐守沢の北日本,野口‐岡村‐萩原の南関東,町田‐園田の西国で,宿口と村上は単騎。
 発走のやり直しとなり,また牽制がありましたが,園田がスタートを取って町田の前受けに。3番手に村上,4番手に高橋,6番手に宿口,7番手に野口という周回に。残り2周のホームから野口が上昇していくと,高橋が先んじて動き,町田を叩いて誘導が退避。ここからペースが落ちたので,野口がバックの入口で高橋を叩き,ラインの3人で出きりました。スイッチした村上が4番手に入り,5番手に高橋,7番手に宿口,引いた町田が8番手の一列棒状となって打鐘から野口の先行。町田が発進したものの,守沢の牽制が厳しく,外に浮いてしまい不発に。バックから村上が発進。直後の高橋もその外から発進しましたが,ふたりとも前には出られませんでした。逃げる野口とマークの岡村の直線勝負となり,逃げ粘った野口が優勝。マークの岡村は4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。高橋は不発でしたが,開いたコースから伸びてきた守沢が半車輪差で3着。
 優勝した千葉の野口裕史選手は前回出走の前橋のFⅠからの連続優勝。記念競輪は初優勝。ハンマー投げで日本一の実績をもち,34歳で競輪選手としてデビューしたという経歴の持ち主。このレースは単騎も含めて自力を選択した選手の中に,有力と思える存在がいませんでしたので,混戦になるのは間違いないと思いました。ラインが3人なので野口の先行の可能性が高く,その番手を回る岡村か,差し脚ではこの中では明らかに上位の守沢が優勝候補の双璧というのが戦前の僕の見立て。実際に野口の先行となり,岡村にとってはここは勝たなければならないという展開になったと思うのですが,差し切るには至りませんでした。これが岡村の現状の力なのでしょう。

 第一部定理八備考二でいわれている本性naturaを,現実的本性actualis essentiaと解することができないことは理解できたと思います。ではこの本性を,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisと解することはできるのでしょうか。僕の見解opinioでは,そう解することは可能です。その根拠を示していくことにします。
                                   
 同じ第一部定理八備考二の中で,スピノザは次のようなことをいっています。
 「我々は存在していない様態的変状についても真の観念をもつことができる。たとえそうした様態的変状が知性の外には現実に存在しなくともその本質は他の物の中に含まれていて,この物によって考えられることができるようになっているからである」。
 まずこの部分の意味を正しく理解するためにふたつのことを注意しておきます。
 この部分の冒頭で,存在していない様態的変状modificatioといわれているのは,現実的に存在していない様態的変状という意味でなければなりません。このことはその次の文の中に,知性intellectusの外に現実に存在しなくとも,といわれていることから明白です。つまり僕たちは,現実的に存在していない様態的変状,いい換えれば個物res singularisの真の観念idea veraあるいは同じことですが十全な観念idea adaequataをもつことができるということがここではいわれていることになります。
 次に,ふたつめの文でいわれている他の物は,第一部定義五でいわれている他のものと同じ意味であると解します。第一部定義五は様態modiの定義Definitioであって,備考Scholiumのこの部分は様態的変状の本性について言及しているのですが.様態的変状というのは様態にほかなりません。また,第二部定義二から,ある様態とその様態の本性というのは一対一で対応し合います。したがって,様態がほかのもののうちにあるといわれるときのほかのものと,様態的変状の本性がほかのものの中に含まれているといわれるときのほかのものは,同じものだと解するのが適切だと考えられるからです。
 第一部定義五で様態がほかのもののうちに含まれているといわれるときのほかのものは,実体substantiaのことです。このことはこの定義の意味がどういうことでなければならないのかを説明したときに明らかにしていますから,ここではそれ以上の説明は避けます。
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皐月賞&別のヒント

2021-04-18 19:08:29 | 中央競馬
 第81回皐月賞
 ワールドリバイバルが逃げて2番手にタイトルホルダー。3番手にエフフォーリアとダノンザキッド。5番手にアサマノイタズラ。6番手にレッドベルオーブ。7番手にアドマイヤハダルとラーゴム。9番手にグラティアス。10番手にステラヴェローチェとヴィクティファルス。12番手にシュヴァリエローズ。13番手にヨーホーレイクとラーパステソーロ。15番手がディープモンスター。最後尾のイルーシヴパンサーまで一団のレース。前半の1000mは60秒3のミドルペース。
 3コーナーではワールドリバイバルとタイトルホルダーが併走に。レッドベルオーブが外の3番手まで追い上げ,その外にダノンザキッド。さらにその直後に内のエフフォーリアと外のアサマノイタズラ。直線に入る前にワールドリバイバルが一杯になり,タイトルホルダーが自然と単独の先頭に。逃げ馬が一杯になったことで開いたコースに突っ込んだのがエフフォーリアで,直線に入るとすぐに内からタイトルホルダーを差して先頭に。このままエフフォーリアが抜け出して快勝。早め先頭のタイトルホルダーも一杯に粘って3馬身差の2着。内を突いて追い込んだステラヴェローチェがクビ差の3着でタイトルホルダーの外から追い込んだアドマイヤハダルがクビ差で4着。
 優勝したエフフォーリアはこれでデビューからの4連勝で大レース制覇。重賞は前走の共同通信杯に続いての2勝目。2歳王者はダノンザキッドでしたが,今年の初戦となった弥生賞は3着に敗退。エフフォーリアが勝った共同通信杯は2着馬がスプリングステークス,3着馬が毎日杯を勝ったようにとてもレベルの高いレースで,それを2馬身半差で勝っていましたから,今日はこちらの方が最有力候補ではないかと思っていました。僕が思っていたより大きな差をつけての勝利となりましたが,これはコース取りがうまくいった面もあるので,着差ほどほかの馬との能力差があるというわけではないかもしれません。ただ,2戦続けて差をつけて勝っていますから,現時点でトップに立っているのは疑い得ないでしょう。父はエピファネイア。母の父はハーツクライ。3代母がケイティーズファースト。従兄にアドマイヤムーン。Efforiaはギリシア語で強い幸福感。
 騎乗した横山武史騎手はデビューから4年1ヶ月で大レース初制覇。管理している鹿戸雄一調教師は2008年のジャパンカップ以来の大レース2勝目。

 このことを考えるためのヒントがまだあると僕は思っています。
                                   
 スピノザは書簡三十四と,おそらくそれを基にして書かれることになったと僕が推定している第一部定理八備考二の中で,同一の本性naturaを有する複数の個体individuumが現実的に存在するのであれば,その個体は存在するために外部に起成原因causa efficiensを有していなければならないという主旨のことをいっています。現状の考察では,この主旨はあまり重要ではありません。注目しなければならないのは,同一の本性を有する複数の個体が現実的に存在しているということを,ここでスピノザが認めているという点です。スピノザがこれを認めているということは,複数の個体について,20人の人間という具体的な例を両方のテクストに示していることから明白です。つまり,同一の本性を有する20人の人間が現実的に存在するということを,スピノザは肯定しているのです。
 このとき,この本性というのを,人間の現実的本性actualis essentiaと解することはできません。20人は多すぎますので,ここではふたりの人間に限定して説明しますが,現実的に存在する人間Aの現実的本性と,現実的に存在する人間Bの現実的本性は,同一ではないからです。それが同一ではないということも,スピノザのテクストから確定することができます。第三部定理五七は,この場合でいえば人間Aの現実的本性と人間Bの現実的本性が異なるということを前提とした内容になっているからです。
 このことは,単にテクストだけでなく,論理的にも説明することができます。第四部定理三二からして,人間Aと人間Bが受動passioに従属する限りにおいては,人間Aの現実的本性と人間Bの現実的本性は一致しません。しかるに第四部定理四系により,現実的に存在する人間は常に受動に隷属します。よって人間Aと人間Bの現実的本性は一致しない,あるいは同じことですが異なるということになるのです。そしてこのことは一般に現実的に存在するすべての人間に妥当することになります。よってどれほど多くの人間が現実的に存在することになっても,その現実的本性は異なります。いい換えれば現実的に存在する人間のすべてに固有の現実的本性があるのです。
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中山グランドジャンプ&神のうち

2021-04-17 19:13:47 | 中央競馬
 第23回中山グランドジャンプ
 互角の発馬からヒロシゲセブンはすぐに控えました。最初の正面にかけてはケンホファヴァルト,タガノエスプレッソ,オジュウチョウサン,スマートアペックス,マイネルプロンプト,メイショウダッサイの順。ここから3馬身差でシンキングダンサーがいて4馬身差の最後尾にヒロシゲセブンという隊列。ケンホファヴァルトはすぐに控え,タガノエスプレッソとオジュウチョウサンが先頭と2番手を入れ替わりながら進み,3番手にスマートアペックス,4番手にヒロシゲセブンという隊列に。最初の大障害コースを通過すると,オジュウチョウサン,タガノエスプレッソ,スマートアペックス,メイショウダッサイ,ケンホファヴァルトの順でこの5頭が一団。3馬身差でマイネルプロンプト,6馬身差でシンキングダンサー,3馬身差でヒロシゲセブン。
 2度目の大障害コースを通過したところからタガノエスプレッソとスマートアペックスが前に出て,3馬身差でオジュウチョウサンとメイショウダッサイ。3馬身差でケンホファヴァルト,2馬身差でマイネルプロンプトとなり,ここまでが圏内。3コーナーでタガノエスプレッソが単独の先頭に。スマートアペックスの外からメイショウダッサイが追い上げてきて,オジュウチョウサンは後退。マイネルプロンプトとケンホファヴァルトが追走。直線の入口ではこの4頭が雁行でしたが直線に入るとタガノエスプレッソとメイショウダッサイで競り合いに。最終障害を飛越するとメイショウダッサイが抜け出し,ここからは後続を引き離していって優勝。逆にタガノエスプレッソは一杯となり,外からまた伸びてきたケンホファヴァルトが差して4馬身差の2着。タガノエスプレッソは2馬身半差で3着。
 優勝したメイショウダッサイは昨年の中山大障害を勝った後,今年は阪神スプリングジャンプも制し,これで重賞4連勝となる5勝目で大レース2勝目。ここはオジュウチョウサンとの対決でしたが,オジュウチョウサンは前走の京都ジャンプステークスで障害戦では久々の敗戦を喫し,能力に翳りを感じさせていた上に,ここがそれ以来のレース。なので今日はメイショウダッサイの方に分があるだろうとみていました。相手が全盛時の能力を出したとはいい難いですが,直接対決で勝ったのは意味があることで,これでこちらが名実ともに障害のトップに立ったといっていいでしょう。父はスズカマンボ。5代母がルーシーロケット。従姉に2014年にブリーダーズゴールドカップJBCレディスクラシック,2015年にTCK女王盃マリーンカップと,レディスプレリュードチャンピオンズカップを勝ったサンビスタ
 騎乗した森一馬騎手は中山大障害以来の大レース2勝目。管理している飯田祐史調教師も中山大障害以来の大レース2勝目。

 神Deusのうちにその現実的本性actualis essentiaが永遠の相species aeternitatisの下に表現されている個物res singularisの観念ideaは,そのすべてが現実的に存在するようになるということは,この観点から,神のうちで現実的本性が永遠の相の下に表現されているすべての個物の観念が現実的に存在するようになるというのと同じことだと僕は考えます。他面からいえば,現実的に存在することが不可能であるような個物の観念の現実的本性が,神のうちで永遠の相の下に表現されるということはあり得ないと僕は考えます。なぜなら,そもそも現実的に存在することが不可能である個物の観念について,その個物の観念に現実的本性があるということ自体が不条理であると僕は考えるからです。なのでそのような現実的本性が永遠の相の下に表現されるということはあり得ないというべきだと考えます。
                                   
 これでみれば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念は,そのすべてが現実的に存在するようになるという主張,柏葉が標準的解釈の主張と解している主張が正しいように思えるかもしれません。ですが,このことは直ちにそれを意味するわけではないと僕は考えます。というのは,確かに神のうちで現実的本性が永遠の相の下に表現されているすべての個物の観念が現実的に存在するようになるとはいっても,その個物の観念が現実的に存在していない場合に,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれる観念であるとは断定することができないからです。実際に第五部定理二二は,神の中にそうした観念が必然的にnecessario存在するといわれているのであり,神の無限な観念のうちにそうした観念があるとはいわれていません。したがってこのことによって柏葉の主張が崩壊するというわけではないのです。ですがこのことが柏葉の主張に対して条件を提示しているということは間違いありません。つまり,個物の観念の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念は,単に神の中にあるというだけであって,神の無限な観念の中にあるわけではない,とりわけその個物の観念が現実的に存在しない場合に,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれる観念ではないという条件が必要とされるのです。
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第二部定理四七証明&以前

2021-04-16 20:04:09 | 哲学
 第二部定理四七が具体的にどのような意味を有しているのかということを確定させるために,スピノザがどのような手順でこの定理Propositioを証明しているのかをみておきます。
                                   
 まずスピノザは,人間の精神mens humanaが諸々の観念ideaを有するということを論証しています。これについては本来はスピノザが示しているように論理的に裏付けるべきではありますが,僕たちの精神が多くの観念を有しているということは,とくに論証するまでもなく僕たちが知っていることですから,ここでは省略します。そしてこのこと自体はこの定理Propositioがどのような意味であるのかということとはあまり関係しません。ただ,第二部公理五により,人間の精神が有している諸々の観念というのは,物体corpusの観念であるか,そうでなければ観念の観念idea ideae,とくに物体の観念の観念であるという点は,この定理の意味と関係を有します。
 この後にスピノザは第二部定理四五第二部定理四六に訴求することによって,この定理の論証Demonstratioを完結させています。第二部定理四五がいっているのは,現実的に存在する個々の物体および個物res singularisの観念が,神Deusの永遠aeterunusで無限な本性essentiaを含んでいるということです。単に物体の観念といわれているのではなく,物体ないし個物の観念といわれているのは,観念の観念つまり物体の観念の観念である思惟の属性Cogitationis attributumの個物を含ませるためだと解しておきます。
 第二部定理四六がいっているのは,第二部定理四五でいわれている,神の永遠で無限な本性は,人間の精神によって十全に認識されるということです。そしてこのことによって第二部定理四七,すなわち人間の精神が神の永遠で無限な本性を十全に認識するcognoscereということが導かれるのです。
 よって僕たちが認識している神の永遠で無限な本性は,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性に限られることになります。つまり人間の精神は神を十全に認識するのですが,それは延長の属性によって説明される限りでの神と思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになり,絶対に無限な実体substantiaとしての神ではないということになるでしょう。

 第五部定理二二が,現実的に存在する人間の身体humanum corpusだけに成立するわけでなく,現実的に存在するすべての個物res singularisに成立するということは,現実的に存在するすべての個物の現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神Deusのうちにあるということです。それが永遠の相の下に表現されているという点がここでは重要です。永遠の相の下に表現されるということは,表現されているその個物の観念が,現実的に存在しているか存在していないかということには無関係であるということだからです。よって永遠の相の下に表現されている個物の観念は,その個物の観念が現実的に存在しているときには当然のことながら永遠の相の下に表現されているのですが,その個物が現実的に存在していないときにも永遠の相の下に表現されていると考えなければならないのです。というか,このことはスピノザが精神mensの永遠性aeternitasを論証するときに中心的な役割を果たしますから,単にそのように考えなければならないというより,そう考えなければスピノザの精神の永遠性に関する主張は崩壊するといわなければなりません。
 現実的に存在するものは持続するdurareものですから,時間tempusによって説明することができます。したがってその個物の観念が存在する以前とか以後という仕方で説明することができます。そこで,ある個物の観念が存在する以前に,その個物の現実的本性は永遠の相の下に表現されているか否かを問うとすれば,永遠aeterunusは時間によっては説明することはできないとはいっても,その個物の観念が現実的に存在する以前から永遠の相の下に表現されていたと答えるのが適切であると思います。少なくとも現実的に存在する個物の観念については,その個物の観念が現実的に存在するようになる以前というのを考えることができるのであって,しかしその時点ではその個物の現実的本性は永遠の相の下に表現されていなかったというなら,それは実際には,永遠の相と反対の意味で持続duratioの相の下に表現されているといわなければならないからです。
 この条件からは,神のうちで永遠の相の下に表現されている現実的本性を有する個物は,そのすべてが現実的に存在することになるでしょう。
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