スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

JBCクラシック&第一部定義五の意味

2007-10-31 20:53:41 | 地方競馬
 今年の第7回JBCクラシックの最大の注目点といえば,一昨年にスプリント,昨年はマイルを制したブルーコンコルドの,変則的なJBC三連覇がなるかどうかという点だったかもしれません。
 先手を奪ったのはキングスゾーン。やや掛かったフリオーソは内に入れて4番手を進み,これをマークするように外にヴァーミリアン。ブルーコンコルドは中団からレースを進めました。前半の1000メートルは62秒6。ダートのレースですからスローペースといっていいでしょう。
 3コーナーを回ったあたりからブルーコンコルドが大外を捲るように進出。ヴァーミリアンは交わしましたが,前までは追いつけませんでした。直線に入るとまずはフリオーソが抜け出しましたが,一旦は控える形となったヴァーミリアンがフリオーソの内に入ると一気に伸び,4馬身の差をつける圧勝。外からサンライズバッカスとブルーコンコルドが並んで伸びてきましたが,これはフリオーソが凌いで2着。3着はサンライズバッカスでした。
 優勝したヴァーミリアンは1月の川崎記念以来の勝利で大レース2勝目。父はエルコンドルパサー,母系はスカーレットインクの一族。武豊騎手は日曜の天皇賞に続く大レース優勝で,石坂正調教師も先月にスプリンターズステークスを制覇しています。今日はドバイ遠征以来のレースとなりましたので,仕上がりかどうかというのが最大の鍵でしたが,まったく問題はなかったようです。そうであればこの距離では能力上位で,この楽勝も順当といえるかもしれません。武豊騎手の落ち着いた騎乗も印象的でした。
 フリオーソは最初に少し掛かったのが痛い感じ。もう少し前に行ってもよかったかもしれませんが,古馬相手に十分に通用することは示しました。
 注目のブルーコンコルドは大外を回るロスが痛かったですし,やはり本質的にいうならこの距離も少し長いのだろうと思います。

 竜王戦は後手の佐藤康光二冠がごきげん中飛車を目指す立ち上がりでしたが,先手の渡辺明竜王の5手目▲4八銀を見て△8八角成と変化。これは先手から▲5三角と打てないのである指し方です。結果,後手が向飛車穴熊,先手が銀冠の持久戦。微妙なところで封じ手になったという印象です。

 競輪は明日からGⅡのふるさとダービー松阪が始まります。ここは北日本勢が有力であるように思います。

 それでは第一部定義五の意味を考えてみることにします。
 まず,実体の変状ということですが,これについてはここでは,実体が変化した状態という程度に理解しておくことにします。実際,『エチカ』を読むという場合には,ここでは変状とはどういうことであるのかということを考えることよりも,『エチカ』において実体の変状といわれるものは様態のことであると理解しておくだけで十分であると僕は考えています。ただし,もしも無限様態と有限様態すなわち個物との相違に注目する場合にはちょっと別で,これらは双方が実体の変状であるという点では完全に同一ですが,変状のあり方に着目すれば相違点があって,個物というのが実体がある一定の仕方で変化した状態であるのに対し,無限様態はいわば実体,正確にいえば実体の本性を構成する属性が,絶対的な仕方で変化した状態であるということになると思います。
 むしろ様態の定義として重要であると僕が思うのは,その後の,様態はほかのもののうちにあり,ほかのものによって考えられるとされている点です。そしてこのほかのものというのは,当然のことながら実体を示します。すなわち,『エチカ』あるいはスピノザの哲学でいう様態とは,実体がなければあることも考えることもできないようなあるもののことである,ということになります。
 したがって,これをここでのテーマに沿って思惟の様態についていうならば,思惟の様態とは,思惟の実体,といっても思惟の実体とは実在的に考えれば神のことになりますので,思惟の様態は,神の思惟の属性がなければあることも考えることもできないようなものを意味するということになるわけです。
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千葉記念&第一部定義五

2007-10-30 19:14:46 | 競輪
 開催初日が台風の影響で激しい雨とはなったものの,無事に日程を消化し,今日の決勝(動画)を迎えた千葉記念。
 西川選手がSを取って井上選手の前受け。4番手に谷津田選手が入り,佐々木選手が6番手。兵藤選手は宣言通りに最初からこのラインの番手の渡部選手と競りました。
 残り2周のバックを迎えても隊列に動きはなく,打鐘を過ぎホームに入ろうかというところで佐々木選手が上昇,井上選手を抑え,引いた井上選手は5番手。佐々木選手の番手はバックに入るあたりで内の兵藤選手が取りきりましたが,渡部選手は3番手に入り直してほぼ一列棒状。このまま前で決まるのかと思ったのですが,直線は佐々木選手の外に兵藤選手,渡部選手がその外,大外を捲り追込む形になった井上選手で,井上選手の番手から西川選手が渡部選手と井上選手の中に入り,このライン3番手の諸橋選手は内に切り込んで渡部選手のすぐ外,さらに岩津選手も諸橋選手と兵藤選手の中を割って7人による大激戦。1着争いは井上選手と岩津選手でしたが,大外の井上選手が僅かに先着していました。岩津選手が2着で,3着は渡部選手。
 優勝した長崎の井上昌己選手は6月の別府記念以来の記念競輪優勝。今日はおそらく展開を読みきれていたのではないかと思います。慌てずにじっくりと構え,自分のいけるところから発進してのもので,差は僅かですが,会心の勝利といえそうです。前受けして,道中も無駄に脚を使わなかったのもよかったのではないかと思います。

 明日はJBCデー。今年は大井。まずJBCクラシックは,ヴァーミリアン◎を中心に推しますが,順調さではブルーコンコルド○が上。どちらかが勝つと思います。あとは2着以下の候補で,フリオーソ△,シーキングザダイヤ△,サンライズバッカス△。
 続いてJBCスプリントはメイショウバトラー◎が中心で,リミットレスビッド○,ベルモントサンダー▲までが連対候補。3着にはアグネスジェダイ△とプリサイスマシーン△。
 地方交流のTCKディスタフはベルモントノーヴァ◎,パフィオペディラム○,スターオブジェンヌ▲が連対候補で3着にはマルヨスーパーラブ△とオリビアフォンテン△を。

 そして明日から竜王戦七番勝負第二局が始まります。まずは後手の佐藤二冠の作戦に注目です。

 問題は,精神が思惟の様態であるということによって,なぜその精神のうちにある観念が発生するといえるのかという点にあるわけですから,これを考察していこうとするならば,まずそもそも思惟の様態とはどういうものであるのかということをきちんと理解しておかなくてはならないだろうと思います。ただ,『エチカ』においては,思惟の様態というのは,それ自体でははっきりとした説明がされていませんので,まず,思惟の様態というときの,様態というものをどのように考えればいいのかということから始めることにします。様態については,第一部定義五ではっきりと定義されています。
 「様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と解する」。
 まず,基本的に僕はこの定義に関しては,名目的な定義であると考えていますが,ここでのテーマの中においては,この点については争うことはありません。したがって,ここでは,この定義を実在的な定義であると考えても構わないです。どちらに考えても,この考察には影響しないと考えるからです。
 それから,これは様態の定義ですから,当然のことですがすべての様態について妥当な定義です。様態というのは無限様態と有限様態,もう少し正確にいえば,直接無限様態と間接無限様態,そして無限ではない有限様態すなわち個物に分類することが可能ですが,この定義はこれらいずれの様態についても妥当するということになります。
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地下室の手記&観念の本性と発生

2007-10-29 20:24:07 | 歌・小説
 お笑いタレントの光浦靖子さんはかつて,あるテレビ番組の中で,ドストエフスキーの作品の中では『地下室の手記』が面白いという発言をされていました。僕はドストエフスキーの作品では『罪と罰』が最も面白いと思っているわけですが,だからといってこの光浦さんの発言を否定するつもりは毛頭ありません。『地下室の手記』もまた十分に面白い作品だと思います。
                       
 実は『地下室の手記』と『罪と罰』には,ひとつ似ているところがあります。『地下室の手記』の主人公は文字通りに地下室をその住処としているのですが,『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは屋根裏部屋に住んでいます。地下室と屋根裏とは異なりますが,その閉鎖性は完全に一致するといえるでしょう。そして居住空間にある一致性をみるこのふたりは,またかなり似たメンタリティーを有しています。これは『謎とき罪と罰』において,江川卓さんも指摘しています。
 『地下室の手記』は二部構成。前半は手記という通りに完全に主人公の独白で,後半はこの主人公の行動が描かれます。似ている作品という意味で,僕は『罪と罰』の方を高く評価しますが,分量は『地下室の手記』の方が短いですし,前半だけ,あるいは後半だけ,というような読み方もできますから,長い小説はちょっと,と思われている方がいらっしゃれば,僕はこの『地下室の手記』の方をお勧めします。

 明日は千葉記念の決勝です。並びは谷津田-遠沢の東日本,佐々木-渡部-岩津の四国中国で,この番手で兵藤が競り,井上-西川の九州に諸橋。谷津田選手の調子がいいみたいなので狙ってみたいです。

 これでそれが観念の定義であるということに注目した限りで,第二部定義三が抱えている問題というのはすべて片付けることができたと思います。そこでいよいよ,今回のテーマの本題あるいは主題ともいえる,この定義に含まれると僕が考えている,一般的な意味での観念の本性と発生の問題へと目を転じることにしますが,まず最初に,僕がこの第二部定義三の,どの部分が観念の本性を示し,またどの部分が観念の発生を意味していると考えているのかということを,改めて説明しておくことにします。
 この定義は,簡単に,観念とは精神が思惟の様態であるがゆえにそのうちに形成する,その精神自体の概念であるといえるわけですが,このうち,精神が形成するその精神自身の概念であるという部分は,観念一般の本性に属すると僕は考えています。これは,ここで精神の概念といわれていることをより積極的に考えてみた場合に,観念の本性とは観念の観念にほかならないものであって,精神の概念というのはまさにそのように,観念の観念と理解することができるということからもやはり明らかであるといえると僕は思います。そこで,この部分が観念の本性を示すということについては,ここまでの考察によってすでに問題がないものとすることにします。
 したがって,残る部分が観念の発生を示すということになり,それが精神が思惟の様態であるといわれている部分に相当します。よってこれから考えなければならないことは,精神が思惟の様態であるならば,なぜその精神のうちにその精神自身の概念が発生するのか,いい換えれば,なぜ単に精神が思惟の様態であるというだけのことからして,その精神のうちに観念が発生するといい得るのかということになります。
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天皇賞&積極的意味

2007-10-28 19:38:54 | 中央競馬
 今年は3歳馬の参戦こそありませんでしたが,古馬だけで考えれば春の芝路線の大レースを制したすべての馬が出走し,豪華メンバーでのレースとなった第136回天皇賞(秋)
 僕が予想していた通りにコスモバルクが逃げ,前半の1000メートルが58秒6.スローに近いミドルペースといったところでしょうか。有力3頭ではメイショウサムソンが最も前で,内の4・5番手。ダイワメジャーがこれを見るような外に位置し,アドマイヤムーンはダイワメジャーをマークするようにその後ろ。
 直線に入り,コスモバルクが少し外によれて馬場の4分どころを通ったのでメイショウサムソンはその内へ。そのまま追い出されると後ろを離しました。コスモバルクを追っていたエイシンデピュティが早めの仕掛けでコスモバルクの外へ出てきましたが,これも直線で外によれたので(降着処分),その外へ持ち出したダイワメジャーとアドマイヤムーンは不利を受け,結果的に大きく開くことになった馬場の中央からカンパニーとアグネスアークの伏兵2頭が追い上げ,カンパニーが一旦はメイショウサムソンに迫りましたがそこで一杯。最終的にはメイショウサムソンが2馬身半の差をつけて快勝。一杯になったカンパニーをゴール寸前で捕えたアグネスアークが2着に入り,カンパニーが3着でした。
 優勝したメイショウサムソンは春の天皇賞に続く春秋連覇で大レース4勝目。母系はフロリースカップの一族。管理する高橋成忠調教師も春の天皇賞以来の大レース優勝。今回から手綱を取った武豊騎手ドバイデューティフリー以来の大レース優勝。本当は凱旋門賞に挑戦する予定だったのですが馬インフルエンザの影響で断念し,ここに備えました。ほかの馬に不利があったのも事実ですが,今日は意外なほどの楽勝で,春よりさらに強くなっているかもしれません。
 ダイワメジャーはもう少し前で競馬がしたかったかもしれません。アドマイヤムーンともども不利を受けましたが,今日は走ったコースの差が,レースの結果に大きく影響してしまった感があり,これは少しばかり残念です。

 僕たちがAの観念の本性を知るということは,Aの観念ideaが僕たちの精神mensのうちで十全な観念idea adaequataであるということを前提として,僕たちの精神のうちにAの観念の観念idea ideaeがある,あるいはもっと正確にいえば,僕たちが自分自身の精神のうちにあるAの観念の観念について,それを意識するということにほかなりません。そこでこのことから一般的に,観念の本性naturaとは観念の観念にほかならないということが出てくるわけです。そこで,スピノザの哲学の定義Definitioに関する原則である,事物の定義は定義されるその事物の本性を示さなければならないという点に注意するなら,実は観念の定義というのは,観念の観念に関するある説明であるということになります。
 そこで,この観念の定義において,観念が,精神が形成する精神の概念Mentis conceptumであるといわれていることに注目するなら,実はこれがまさに,観念の本性とは観念の観念にほかならないということと,構造を同一にしているといえるように僕は思うのです。なぜなら,精神がある観念そのもの,あるいは観念の集合体であるということと,概念というのがある観念,能動的な観念であるということはすでに明らかになっていますが,これでみれば,精神の概念というのは,観念の観念であると考えることができるからです。
 したがって,観念が精神の概念であるといわれるとき,この問題は致し方ないことであると消極的に解決するのも十分に一理あると僕は思いますが,ここには,観念の本性とは観念の観念であるということが,積極的な意味として含まれているのであると考えることも,僕はできるのではないかと思います。
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スメルジャコフ&観念の本性

2007-10-27 19:32:55 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』の兄弟は,一般に4人ということになっています。すなわち,ドミートリイ,イワン,アリョーシャ,そしてスメルジャコフです。しかしこのうちスメルジャコフは,ほかの3人とは別のいわゆる私生児であって,リザヴェータ・スメルジャーシチャヤの子とされています。
 しかし,僕が『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき,実はスメルジャコフの本当の父親はカラマーゾフ家の召使であるグリゴーリイではないかと思っていました。グリゴーリイのスメルジャコフに対する愛情に,並々ならぬものを感じたからです。これは文学的な意味ではあまりに大胆な解釈だと思いますが,三兄弟の父であるヒョードルは,自分がスメルジャコフの父であるということについて,まったく否定はしていませんが,必ずしも肯定しているというわけではありませんから,自分なりの解釈として,まあいいだろうと思っています。
 一方,スメルジャコフは性的な事柄に対して激しい嫌悪感をもっています。これはいささか異常なほどで,僕はこの点について,スメルジャコフは性的な事柄に関して何らかの肉体的欠陥があるのではないかと疑ったほどでした。単に精神的な清廉さだけでは説明できないほどのものを感じたからです。
 これについて,『謎ときカラマーゾフの兄弟』で江川卓さんは,スメルジャコフは宗教的な理由によって去勢しているのではないかという説を展開しています。肉体的欠陥と宗教的理由による去勢ではまったく意味合いが異なりはしますが,これを読んで,スメルジャコフの性的なものに対する嫌悪感を,単に彼の精神面だけには還元できないと思った僕の感じ方も,そうもおかしくはなかったのだと思い直したのです。

 明日は天皇賞です。アドマイヤムーン◎とダイワメジャー○の争いと思います。あとはメイショウサムソン△,マツリダゴッホ△,ポップロック△。

 しかしこの疑問について僕は,このような消極的解決だけでなく,観念が精神が形成する精神の概念といわれることについて,そこにもう少し積極的な意味合いを探し出すこともできるのではないかと考えています。それは,スピノザの哲学において,事物の定義というものが定義される事物の本性を表現しなければならないという点に訴える方法です。
 観念を定義するわけですから,そこには観念の本性が示されなければなりません。この場合,観念一般ではなくある観念,たとえばAの観念について考えれば分かりやすいと思うのですが,僕たちがAの観念をの本性を知るというのは,僕たちの精神のうちにAの観念の観念があるとか,僕たちがAの観念の観念を意識するということにほかなりません。したがって,観念の本性というのは,その観念の観念に変わるところがないものです。
 これは,ある観念を考察の対象にする際には,観念というのは客観的なものですが,それをある形相的なものであるかのように考え,それに関して客観的有をもたなければ,そうした考察が不可能であるということからも明らかで,観念の客観的有というのはその観念の観念ですから,ある観念の本性を考察の対象にする場合,その観念の観念を形成することによって,僕たちはそれを知ることができるようになるのです。よって,やはりこうした考え方によっても,観念の本性とは観念の観念であるということが出てくるように思います。
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GHCタッグ&消極的解決

2007-10-26 20:28:29 | NOAH
 先シリーズのリーグ戦を負傷のために途中欠場した力皇選手は,その後の回復も思わしくなく,長期の戦線離脱を余儀なくされるようです。このため秋山選手と共に保持していたGHCタッグ王座は,ハードコア王者チームの黒への挑戦を一蹴した試合を最後に返上,今シリーズで新王者決定リーグ戦が行われました。
 4チームが参加したリーグ戦ですが,有力なチームのひとつ,斉藤彰俊選手とバイソン・スミス選手は,リーグ初戦で田上明選手と潮崎豪選手のチームに勝ったものの,スミス選手が胸の骨を折るアクシデントがありその後のリーグ戦を欠場。実質的に前王者にタイトルを奪われた森嶋選手とヨネ選手のチームと,前王者に挑戦して敗れたRO&Dのブラウン選手とブキャナン選手のチームの争いに絞られました。
 注目の両チームは16日に岡山大会で激突。RO&Dの奇襲で始まった試合は,中盤は打ち合いで展開。RO&Dは大型の外国人チームですが,森嶋組も大きさではそうひけを取らず,このあたりは互角の進展。しかし終盤に入り,ブキャナン選手のアイアンクローボムが本部席で森嶋選手に炸裂。これで森嶋選手の動きが止まった間にヨネ選手に集中攻撃をかけ,最後はブラウン選手がローダウン(ダイビングボディープレス)でヨネ選手を仕留めました。
 RO&Dはまだ田上組との試合を残していましたが,20日の久留米大会でこれも破り,新王者となっています。なお,斉藤組の欠場によりリーグ戦参戦を訴えた丸藤選手と杉浦選手は,リーグ戦への参加は見送られましたが,新王者に挑戦する権利が与えられ,明日の日本武道館大会では早速,新王者組の防衛戦が組まれています。

 明日から千葉記念です。

 一般に,Xの定義についてXに依拠するならば,そのXとは何かということになりますからこれは堂々巡りになるわけです。したがってこのような疑問というのはまことに真っ当なものであるといえるわけですが,一方で僕は,観念に関するこのような定義の仕方には,酌量の余地があるといえば何だかいい方がおかしいですが,致し方のないような面もあるといえるのではないかとも考えています。
 というのは,観念というのは思惟の様態ですから,それが定義される,すなわちその本性が説明される場合には,思惟の属性に属するような何らかのものによって定義されなければなりません。これは,実在的に区別される,この場合には異なった属性に属するものの間には,一方の概念がもう一方の概念を含むことがないということを示した第一部公理五から明らかであるといえると思います。
 ところが,観念というのは思惟の様態であるといっても,それはとくに第二部公理三により,思惟の様態としては第一のものであるのです。よって観念というのは,観念以外の思惟の様態によっては定義されることができないようなあるものであるといえると思います。したがって,観念を精神が形成する精神の概念であると定義することは,ある意味では精一杯の定義の仕方なのであって,観念を観念に依拠しないで定義せよというのは,不可能であることを求めているのだといえなくもありません。まったく消極的な理由ではありますが,これは確かにこの疑問を解消するひとつの方法として,一理あるのではないかと思います。
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北海道2歳優駿&呈せられる疑問

2007-10-25 19:29:46 | 地方競馬
 今年は地方競馬の他地区からの馬の参戦がありませんでしたので,地元の北海道勢対JRA勢という図式となった北海道2歳優駿(動画)。JRAの1頭,ステディーラブは出走取消となりました。
 正面で先手を奪ったのはディアヤマトでしたが,向正面に入るところでホウザンが外から交わして先頭に。さらにジェイドファストが2番手に上がり,ディアヤマトは3番手。以下,ビービーダークライ,ビービーナエトル,ディアディアーまで続き,その後ろが少し離れました。ここで外からディラクエとバイタリティーが並んで一気に進出。逃げていたホウザンだけがこれに応戦し,3頭が横並び。後ろを少し引き離しました。
 直線に入ると一番外のバイタリティーは脱落し2頭による叩き合いに。苦しいレースとなったホウザンもかなり頑張ったのですが,ゴール前で力尽き,ディラクエが優勝。ホウザンが2着で,内で一旦は後退したものの,直線で大外に持ち出すと再び伸びたディアヤマトが3着になっています。
 ディラクエは重賞初挑戦ですので当然ながら初制覇。父はフサイチコンコルド。鞍上は山口竜一騎手で,エーデルワイス賞に続いて,今年の北海道2歳重賞連覇となります。もともと評価の高かった馬で,北海道の2歳馬チャンピオン決定戦ともいえるブリーダーズゴールドジュニアカップを大敗してみそをつけた格好になっていましたが,あれは早めに動きすぎたようです。今日はその反省を踏まえたといえるような好騎乗でした。この時期の2歳馬が1700メートルを1分47秒0(レコードタイム)で走るというのはなかなかのもので,例年のこのレースの勝ち馬以上の力をもっていると考えてよさそうです。

 第二部定理一一が証明されることにより,現在のテーマとの関連でいえば,どんな精神であっても,それは第一に観念という思惟の様態によって構成されるということが分かりました。したがって,一般に精神とは,ある観念,あるいはいくつかの観念の集合体というように理解してよいのではないかと思います。
 一方,精神の概念という場合に,この概念というのは,少なくともここでは能動的な認識というように理解するべきなのですが,ある精神あるいは知性が何らかの事物,たとえばXを認識するというのは,とりもなおさずその精神のうちにXの観念が形成されるということにほかなりません。したがって概念というのはある観念,それも能動的な観念であると考えられるわけです。
 そこでこれらのことを参考にして,精神が形成する精神の概念というのを理解すれば,ある観念の集合体が形成するような,その観念の集合体自身の能動的な観念ということになります。もちろんこういった解釈自体の中には,別に何の問題もないと僕は考えますが,これが観念の定義であると考えた場合には,ちょっとした疑問を呈示することができるのではないかとも思います。なぜなら,このように解釈する限りでは,第二部定義三というのは,観念を定義するために,まさに観念自身に依拠しているといえるように思うからです。しかし,観念を観念によって定義することは,矛盾,あるいは堂々巡りをもたらすのではないでしょうか。
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京王閣記念&第二部定理一一証明

2007-10-24 19:15:02 | 競輪
 長年,群馬の選手として活躍してきた後閑信一選手は今回から東京に移籍。いきなり地元での記念競輪となった京王閣記念ですが,見事に昨日の決勝(動画)に進出してきました。
 松岡選手がSを取ってそのまま前受け。平原選手が4番手で長塚選手が7番手,斉藤選手は最後尾で周回。残り2周のホームから長塚選手が上昇していきましたが,バックでは松岡選手が突っ張って前に出させませんでした。打鐘を迎えて平原選手が発進すると,松岡選手を叩いて先行。4番手は長塚選手が取ったのですが,立ち遅れた松岡選手のラインから追い上げてきた吉永選手が外で競る形。この結果,だれも前に出て行けなくなったので,先行した埼京ラインでの上位争いに。後閑選手が平原選手を交わして優勝。平原選手が2着で,高橋選手が3着でした。
 優勝した地元・東京の後閑信一選手は5月の宇都宮記念以来の記念競輪優勝。ここは有力と思われた佐藤選手と武田選手が揃って脱落し,メンバーに恵まれた上に,ほぼ先行1車といえる平原選手の番手を無風で回りましたので,絶好調とはいえないとしても後閑選の力からすれば当然の優勝でしょう。移籍してすぐの記念競輪制覇ですので,後閑選手自身にとっても思い出に残る1勝となったのではないかと思います。

 明日は札幌で北海道2歳優駿が行われます。比較の難しい組合せですが,地元勢が上位とみて,ネイチャーグロウ◎とジェイドファスト○に期待し,JRA勢ではディアヤマト▲が最も有力に思います。あとはディラクエ△とホウザン△。

 それでは第二部定理一一を証明してみます。
 まず第一に,人間の精神というのは思惟の様態であるわけです。したがって第二部公理三から,思惟の様態のうち第一のものは観念であるわけですから,人間の精神を構成する最初のものは観念であることになります。これはどんなものの精神についても絶対的な真理であるといえます。
 次に,人間の精神がある実在的なものであるということを踏まえれば,平行論によって,人間の精神を第一に構成する観念の対象もまた,それと同一の実在性を有していなければならないことになります。したがって今,そうした人間の精神がその実在性のゆえに現実的にある人間の精神として実在すると仮定するなら,この人間の精神を構成する観念の対象も,現実的に存在していると考えなければなりません。このことは,ある精神が実在的である限り,すべての精神に妥当します。
 最後に,人間の精神は無限ではありませんから,やはり平行論の帰結からして,この人間の精神を第一に構成する観念の対象も無限ではありません。したがってこの対象は個物であるということになり,人間の精神を構成する第一の観念は,個物の観念であることになります。これは有限である精神のすべてにとって同様です。また,仮に精神が無限である場合には,同様に平行論からの帰結で,その精神を構成する最初のものとしての観念の対象が,無限であるということが導かれますので,この場合には,その精神は,無限であるものの観念によって構成されるということになると思います。
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女流王位戦&第二部定理一一

2007-10-23 19:17:01 | 将棋
 挑戦者・石橋幸緒女流四段の2勝1敗で迎えた今日の女流王位戦五番勝負第四局
 その石橋四段の先手で相矢倉模様に。15手目に先手が早くも▲2六歩と突いたのは,後手の清水市代女流王位が,この形から右四間飛車にして急戦を目指す指し方を得意としているので,それを牽制する狙いがあったのではないかと思われます。先手がここで飛車先の歩を突いたので後手も急戦にはせず囲い,昔の24手組になりました。そして38手目の△9四歩で先後同型に。
 先手から仕掛けるのは当然で,41手目に▲3五歩でしたが,44手目にすぐ△3六歩と打たれてみると,この開戦の仕方はまずかったように思われます。先に▲5五歩だったのかもしれません(渡辺竜王の解説ですと,この後,55手目の▲5四銀が疑問手で,▲4六角△3七歩成▲同角と進めなければならなかったそうです。これは桂損ですが後手が歩切れなので勝負になるということなのでしょう。すぐに△3七歩成とせずに△3四銀と立つのは,さすがに無理なのでしょうか)。実戦は60手目の△3七歩成で後手が桂得。さらにここから▲4六角に,△6四桂とおそらく好手で取ったばかりの桂馬を打ち,▲同角△同角で後手の角得になりました。さらに3七にはと金がいるわけですから,普通に考えてここは後手が優勢でしょう(ただし石橋四段自身ははっきり悪いとは感じていなかったようで,67手目の△5四歩を反省しています。74手目の△3六との局面では劣勢と思われたようです)。
 こうなれば先手としては攻めるよりないのですが,攻めは細くあまり続く形ではありません。75手目の▲4六歩はもしも△同となら▲2三歩成~▲3五桂とする狙いだったと思われますが,後手はあっさり△5六角▲同金と飛車角交換して△2八飛。この局面は後手の勝勢と思われます。以下,88手目の△7七角成からは長手順ですが即詰み。後手の勝ちに終っています。
 第三局まで,清水王位はらしくない将棋でしたが,ここはその流れからすれば考えられないような快勝でした。これですべて後手が勝っての2勝2敗。決戦となる第五局は11月5日に指されます。
 

 第二部定義三で,観念が,精神が形成する精神の概念といわれていることが,なぜひとつの疑問を呈するといい得るのかを詳しく説明するために,ここで第二部定理一一を検討しておくことにします。
 「人間精神の現実的有を構成する最初のものは,現実に存在するある個物の観念にほかならない」。
 この定理を証明する前に,現在のテーマと関連して,この定理をどのように理解するのかということを先に説明しておきます。
 一見して分かるように,この定理の趣旨というのは,人間の精神を構成する第一のものが,ある個物の観念であるという点にあります。そしてこのブログではすでに何度も紹介しているこの定理の系,すなわち第二部定理一一系から考えて,この定理でスピノザが本当に意図したかったことは,人間の精神の本性を構成するところのものが,無限なものではなく,個物つまり有限なものであるということであるだろうと思います。
 しかしここでは,この趣旨から離れ,人間の精神の本性を構成する最初のものが,ある観念であるという点に注目することにします。そしてこれをいうことにより,すべて人間と同じ性質を有するもの,すなわち,あらゆる個物について,その個物の精神の本性を構成する最初のものが,ある観念であるということがいえるということになります。
 さらに,もしも無限な精神というものが考えられると仮定した場合には,個物の精神の本性を構成する第一のものがある個物の観念であるということから,無限である精神の本性を構成する最初のものが,ある無限なもの,すなわち無限様態の観念であるということも明らかであるというように理解します。
 これは本来の第二部定理一一からはいささか外れた理解になるとは思いますが,少なくともこうしたことが,この定理から生じてくるということに関しては,僕は問題がないものと考えます。
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謎ときシリーズ&精神の概念

2007-10-22 20:35:02 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』など,ドストエフスキーの長編小説を読んだら,それに合わせてそれぞれの謎ときシリーズ(画像は『謎とき罪と罰』)も読むことを僕はお勧めします。これは新潮選書から出版されているもの。僕が所有しているのはすべて新書版ですが,購入したのももう10年近く前にはなっていると思いますので,あるいは現在では文庫本になっているものもあるかもしれません。
                         
 著者は江川卓さん。日本ではいわずとしれたロシア文学の第一人者といえる方で,このあたりについてはとくに僕が説明するまでもないでしょう。もちろんドストエフスキー作品に関しても多くの訳があります。僕はドストエフスキーの作品についてはそのほとんどを新潮文庫版で読んでいますので,『悪霊』と『地下室の手記』(この作品については後に取り上げる予定です)が江川さんの訳になります。
 とにかくロシア語だけでなく,ロシア事情といったものにも造詣が深い方ですので,内容はとても面白い。おそらく,小説の方を読んでいない人が読んでもこれは面白いと思うのではないかと思います(そしてきっと小説の方を読みたくなる筈です)から,小説を読んだ人ならさらに楽しめることは間違いありません。もちろんその読解のすべてを正しいと断定することはできないのだろうと思いますが,少なくとも,読んで自分自身が感じたのとは異なった視点,あるいはさらに深い視点というのが多く散見されるのではないかと思います。ドストエフスキーの長編は読んだけれどもこのシリーズはまだ読んでいないという方がもしもいらっしゃれば,僕からもぜひお読みになるようにお勧めしたいと思います。また,ドストエフスキーの長編に比べれば短いもので,多くの部分から構成されていますので,ドストエフスキーには興味があるが手が出ないという方は,先にこちらから読んでみるのもいいのではないかと思います。

 明日は女流王位戦第四局が指されます。石橋幸緒女流四段が勝てばタイトル奪取。清水市代女流王位がそこを凌げるでしょうか。

 京王閣記念は決勝を迎えます。並びは長塚-坂本の茨城栃木,平原-後閑-高橋の埼京,松岡-山口-吉永の西日本で斉藤が単騎。ここは後閑選手がチャンスと思います。

 その妥当性の根拠としてもうひとつ,定義の実在性ということを考えることにより,第二部定義三定義の妥当性は,この観点からは確保できたのではないかと思います。しかしもうひとつ,もしもこの定義Definitioにある疑問を呈することができるとすれば,それはここで,観念ideamが精神が形成するMens format精神の概念Mentis conceptumであるといわれていることそれ自体のうちにあるといえるのではないかと思います。
 精神が思惟の様態cogitandi modiであるということはそれ自体で明らかです。ここではスピノザは,精神として有限様態すなわち個物res singularisを念頭に置いていると僕は思いますが,仮に無限様態modus infinitusとしての精神というものが実在すると考えたとしても,このこと,またこれから説明していくことは同じことです。
 さて,第二部公理三により,思惟の様態のうち第一のものは観念です。したがって,精神というのは実はある観念,あるいは個々の観念の集合体によって構成されていると考えられます。実際にスピノザは,第二部定理一一において,人間の精神を構成する第一のものはその人間の身体corpusの観念であるといっているわけですから,おそらくこのことには同意するのではないかと思います。
 もちろんその第二部定理一一というのは,単に人間の精神についてそれを証明しているだけではあるのですが,ここでは,すべてのものが精神を有するということを前提に,人間の精神について,それが人間のということに関してではなく,もしも精神一般についていわれているある事柄があるのであれば,それはすべての精神に妥当であるというように考えています。したがって,もしもこの定理Propositioが正しいのであるとすれば,たとえば人間の精神がその人間の身体,すなわちその人間の形相的有esse formaleの観念であるように,三角形の精神とは,その三角形の形相的有の観念であるということがいえると仮定することにします。
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菊花賞&定義の実在性

2007-10-21 19:23:35 | 中央競馬
 クラシック三冠最後のレースにあたる今日の第68回菊花賞
 まずマンハッタンスカイが好発から逃げましたが,1周目の正面に入るところではホクトスルタンが先頭を奪ってこちらが先導。ヴィクトリーは心配通りにまともに引っ掛かり,何とか抑えて内の2番手。道中の消耗が激しくレースになりませんでした。サンツェッペリンとマンハッタンスカイの4頭はほぼ一団で,5番手の外にアサクサキングス。最初の1000メートルは60秒7,ミドルペースといっていいでしょう。
 2周目の3コーナー過ぎにホクトスルタンは一旦後ろを引き離しましたが,これを5番手からアサクサキングスが追ってきて,直線に入ったところで少し外によれるような仕種をみせたものの,ホクトスルタンを交わして先頭に。道中はこれをマークするような位置から,少し遅れて直線はアサクサキングスの外に出てきたアルナスラインがこれを追ってきて,1着争いはこの2頭の叩き合い。アサクサキングスが僅かに凌いで優勝,アルナスラインが2着で,道中は中団の内から直線でも内目を追い上げたロックドゥカンブが3着という結果でした。
 優勝したアサクサキングスは2月のきさらぎ賞以来の勝利で重賞は2勝目,大レースは初制覇。鞍上の四位洋文騎手は日本ダービー以来の大レース優勝。管理する大久保龍志調教師はこれが初の大レース制覇(これは間違いで,2006年のダービーグランプリを制していますので,2勝目になります。)になりますが,まだ厩舎開業4年目で,ここ最近の活躍ぶりからすればまだまだ増やしていきそうです。今日は有力馬に距離を疑問視される馬が多かった中では,この馬はその不安が少なかったのですが,やはりこの距離が最大の勝因といえそうです。もちろん2000メートル前後でも走れますが,相対的には長い距離の方が活躍できるのではないかと思います。
 2着のアルナスラインは春にオープン特別を勝った後に故障,前走の京都大賞典で復帰すると古馬の一流どころを相手に3着となっていました。僕は軽視していたのですが,僕が考えていた以上に高い素質の持ち主であったようです。
 3着のロックドゥカンブは南半球産。馬は春に産まれますからほかの馬たちより半年ほど後の産まれ。その分2キロの減量はありましたが,それでもこの時期で,半年の先輩を相手に戦うということは楽ではありませんから,よく走っていると思います。今後という意味では最も高い期待をかけられる存在かもしれません。
 期待したヴィクトリーはレースにならず。2000メートル程度のレースに出てくれば巻き返せるのではないかと思います。

 第二部定義三の定義としての妥当性の根拠としては,このようにここで定義されている観念に焦点をあてて考察することも有効だと思いますが,逆に,ここでは観念が定義されているのだということ,すなわち定義それ自体に着目するのもよい方法なのではないかと僕は考えています。
 スピノザの哲学,とくに『エチカ』において,十全な観念と混乱した観念の関係は,それがある有限な精神に関連付けられる限りではありますが,単に十全な観念が真理であるのに対して混乱した観念は虚偽であるということだけでなく,それぞれが有と無,すなわち,十全な観念が実在的であるのに対して,混乱した観念は非実在的であるという関係にあります。これは第二部定理四三備考でスピノザが言及していますので,間違いのないところでしょう。そしてこのとき,第二部定義二によって,事物の本性はその事物の存在を定立するのであって,排除することはないというのが重要になります。このことから,無であるものの本性がある積極的なものによって構成されるなら,それはその事物の存在を定立しますから,これをいうことは矛盾である,すなわち,無の本性は積極的な内容をもつものではなく,むしろ,本性が本来はそうあるところのものに対するある矛盾から構成されるということが理解できます。
 ところで,スピノザの哲学においては,定義への疑問で説明したように,定義というのは定義された事物の本性を示すのです。よって無であるものについては,それを積極的に定義することが不可能であるといえるのではないでしょうか。そして混乱した観念というのはまさにその無を意味するわけですから,観念の定義からそれが排除されていたとしても,これはむしろ当然であるといえるのではないかと思うのです。
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サッカーボーイ&妥当性の根拠

2007-10-20 18:56:30 | 名馬
 4日の東京記念で初の南関東重賞制覇を達成したウエノマルクン。この馬の父サッカーボーイも日本で走った名馬の1頭です。
 デビューは2歳の夏。新馬を勝ち,3戦目のオープンを勝つと暮れの阪神3歳ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズにあたるレースで,当時は牡馬も出走できました)で大レース制覇。この年の最優秀2歳牡馬に選出されました。
 3歳は弥生賞3着も,皐月賞は出走せず,トライアルを挟んでダービーに向かうも15着と大敗。中距離に路線を定め,中日スポーツ賞4歳ステークス(紆余曲折ありますが,現在のファルコンステークスにあたるレース。ただし当時は1800メートル)を勝つと,古馬相手の函館記念に出走し,1分57秒8という当時としては驚異的なレコードタイムで古馬を一蹴しました。続いてマイルチャンピオンシップに出走すると4馬身差で圧勝。これで大レース2勝目。さらに距離が長いと思われた有馬記念にも出ましたが,ここも繰り上がっての3着に健闘。しかしこのレースを最後に引退となってしまいました。なお,この年も最優秀スプリンターに選出されています。
 競走馬としては典型的な1600メートル~2000メートルに高い適性を誇るスピードタイプの馬でしたが,種牡馬として輩出して活躍した産駒のほとんどは,このウエノマルクンのようなステイヤー。ナリタトップロードヒシミラクルで菊花賞2勝,ほかに秋華賞を勝ったティコティコタックも出しています。

 明日は菊花賞です。距離が向くとは思いませんが,能力を信頼して中心はヴィクトリー◎。アサクサキングス○とドリームジャーニー▲が強敵と思います。あと,ホクトスルタン△とロックドゥカンブ△。

 観念ideaの定義Definitioである第二部定義三は,このように検討してみると,そこから混乱した観念idea inadaequataが抜け落ちているように思われ,確かに定義の妥当性に疑問符がつくといえます。しかし一方で僕は,もしも観念というものを定義しようとするならば,それはここでスピノザが示したような形でしか示すことができないのではないか,したがって,この第二部定義三は,観念の定義としてはきわめて妥当なものなのではないかとも考えています。確かにこの定義は,たとえば人間の精神mens humanaのうちの混乱した観念についてはそれ自体では含んでいないと思うのですが,それでもこれが観念の定義としてある妥当性を有しているのではないかと考えるふたつの根拠が僕にはありますので,それを順を追って説明していくことにします。
 最初の根拠は,単純に第二部定理七系の意味に訴えるものです。僕はすでに別のテーマで,たとえばこりん星とかペガサスのような,観念を離れてその対象ideatumだけでみれば無の観念といえるようなものについても,その十全な観念idea adaequataが神Deusのうちにはあるという考えを示しました。これを一般的にいうなら,ある有限なfinitum知性intellectusのうちにXの観念があり,このXの観念がその有限な知性に関連付けられる限りでは混乱した観念であると考えられても,そのどんなXの観念の十全な観念も神のうちにはあるということになります。したがって,この第二部定義三によって,ある混乱した観念がこの定義から抜け落ちていたとしても,もしもその観念が神に関係付けられさえすれば,それは抜け落ちていないことになります。よって,実際には,自然Naturaのうちにあると考えられるどんな観念も,この観念の定義のうちには含まれているといえるのではないかと思います。自然の外に観念があることはありませんから,自然のうちにあるすべての観念を含む定義であると考えられるのであれば,これが観念の定義として妥当であるといってよいのではないかと思うのです。
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埼玉新聞杯&定義の妥当性

2007-10-19 18:50:24 | 地方競馬
 南関東では大井と川崎で夜に競馬が行われる関係で,夏はこの2場での開催日数が多くなり,必然的に浦和と船橋は少なくなります。毎月1度は開催されますが,今月の浦和は久々の5日間開催。その真中,17日に埼玉新聞杯が行われました。
 先手を奪ったのはサンキューウィン。トーセンジョウオーが2番手で,掛かり気味の3番手にフォースキック。サウンドサンデーは6番手,コアレスデジタルは8番手。
 3コーナーではトーセンジョウオーが先頭に立ち,フォースキックにサウンドサンデーも並んできましたが,サウンドサンデーが懸命に押しているのに対してトーセンジョウオーは楽で勝負あり。サウンドサンデーの外をさらにコアレスデジタルが追い掛けてきましたが,トーセンジョウオーが4馬身の差をつけて楽勝。コアレスデジタルが2着,サウンドサンデーが3着と,きわめて順当な結果になりました。
 優勝したトーセンジョウオーは4月のマリーンカップ以来の勝利。母系はスカーレットインクの一族。牝馬同士とはいえ重賞の勝ち馬ですので,牡馬相手とはいえこのメンバーでは実力上位で,この楽勝も当然といえるでしょう。大井の内田博幸騎手は先々週の東京盃も制しています。
 コアレスデジタルは本質的には距離が長いと思いますが,うまく抑えて末脚が引き出されました。逆にサウンドサンデーは前走は無欲に近い追込みで2着でしたが,今回はは早めに前を負かしにいった分,3着。現状はこのあたりが能力の上限のようです。

 明日から競輪は京王閣記念となります。ここは佐藤友和選手vs武田選手でしょうか。

 たとえば人間の精神のうちにある観念があるというとき,これはある十全な観念があるということを直ちに意味するというものではありません。むしろ人間の精神のうちには,もしもそれがあるということができるならという前提を厳密な意味ではつけなければならないかもしれませんが,十全な観念よりも多くの混乱した観念があるといえると思います。いい換えれば,人間の精神の総体というのは,いくつかの十全な観念と,多くの混乱した観念によって構成されているということになると思います。このことは,第二部定理一七備考の一文についてテーマとしたときに,人間の精神について考察した際の結論のひとつですし,また,十全な観念と混乱した観念のどちらが多いのかということを別にすれば,たとえば第三部定理一そのものからしても,少なくとも人間の精神,あるいは人間の精神の一部は,混乱した観念によって構成されていると,スピノザ自身も認めていると考えていいだろうと思います。
 そうであるにも関わらず,この第三部定理一の結果の観念の方に注目する限り,第二部定義三で定義されている観念の中から混乱した観念が除外されているなら,そもそもこの定義の妥当性に疑問符がつくという面があるといえるかもしれません。
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女流王位戦&結果への注目

2007-10-18 19:05:15 | 将棋
 昨日指された女流王位戦五番勝負第三局を回顧してみます。
 やや変則的な出だしから相居飛車戦に。先手の清水市代女流王位が手得で角交換し,その角を打って銀冠に組み,後手の石橋幸緒女流四段は角を手持ちにしたまま矢倉にし,一旦浮き飛車で構えたのを引いて,棒銀。
 あくまでも結果論ですが,この将棋は先手が59手目に▲6五歩とここの位を取ったのが悪く,▲3七角のような手でまったく別の将棋にした方がよかったようです。
 ここから後手が△9五歩と仕掛け,▲同歩に△6九角と打ち込みました。ここから後手が9筋の香車を走った後,先手は69手目にこの角を消しに▲7九玉としました。仕方がないのかもしれませんが,この手もあまりいい手ではなかったように思います。
 先手は77手目に▲2七香と反撃に転じましたが,ここでは苦しそうです。とくに80手目に△6五桂と跳ねられ,問題の▲6五歩を逆用される形となってしまいました。ここではもう後手の勝勢なのだそうです。
 この後の先手の攻めはおそらく形作り。最後は即詰みに討ち取って後手の快勝になりました。仕掛けてからはほぼ一方的に攻めきって,気持ちのよい勝ち方ではないかと思います。
 これで石橋四段の2勝1敗。第四局は23日に指されます。

 第三部定理一証明は,ただこれだけでみるならば,観念が概念であるといわれていることに対して,そう大きな意味をもたらすものではないかもしれません。しかし,結果として生じる観念,すなわちこの証明でいうBの観念に注目するなら,事情が少し異なるのではないかと思います。
 もしもXの精神のうちにあるAの観念からBの観念が生じるとき,Aの観念がXの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるとみられるなら,Bの観念も同様にXの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるということになりますが,Aの観念が,Xの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるなら,Bの観念もXの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにあることになります。いい換えれば,前者のBすなわち結果の観念は,Xの精神のうちで十全な観念ですが,後者のBの観念の場合は,Xの精神のうちでは混乱した観念であることになります。なお,こうしたことは,第二部定理四〇に含まれていると考えられる4つの意味がすべて正しいということからも明らかだと思います。
 よってある精神が十全な原因として,つまり能動的に形成するような観念については,すべて十全な観念であるということになります。したがって,観念が精神が形成する概念であるなら,概念は能動的な認識を指すのですから,第二部定義三で定義されている観念は,十全な観念であるということが前提されているといえるのではないかと思います。
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竜王戦&第三部定理一証明

2007-10-17 19:16:54 | 将棋
 竜王戦七番勝負第一局。封じ手は△2五同桂渡辺竜王は矢倉で△1三銀の形になると勝ちづらいと発言されていましたので,当然といえる一手であったと思います。
 その後,佐藤二冠は73手目に▲9六歩ととんでもないところの歩を突きました。後手の攻め駒を攻めに行く手で,ここからは,後手が攻めきるか先手が受けきるかという将棋と思います。
 中継のサイトが重く,繋げるのに苦労しましたが,ようやく繋がった局面は112手目の△5八角の局面。詰めろではないようですが,後手玉が手付かずですので,後手がかなり優勢なのではないかと思いました。実際,ここから▲7九桂△8八金で先手の投了となってしまいました。なんだか消化不良です。
 やはり▲9六歩とこんなところからいくのはさすがに無理だったのではないかと思います。以後,86手目から△8七歩▲同金△8五歩と攻め,▲9四香と桂馬を取らせて△9五桂と打っていくのが好手順で,次の▲9六銀はいかにも辛い感じがしますので,ここでは後手が勝ちに近いくらいの優勢なのではないかと思います。
 渡辺竜王が防衛に向けて幸先よく先勝。第二局は31日と1日に指されますが,もう少しよい将棋をみせてもらいたいので佐藤二冠の奮起に期待するとともに,サイトの重さを改善してほしいところです。
 

 スピノザの哲学,とくに『エチカ』においては,ある精神のうちにあるとされる十全な観念と混乱した観念については,第二部定理七系の意味により,神のうちにある観念についてはすべて十全な観念ですので,これを神と関係付けて考えるのが本来的な方法です。そこで,この第三部定理一についても,そうした方法で証明することにします。
 僕が思うに,この定理は第二部定理一一系の意味に注意すれば,それだけで証明することが可能です。というのは,もしもXの精神のうちにAの十全な観念がある場合,これはXの精神の本性を構成する限りで神のうちにAの観念があるという意味であり,これに反して,Xの精神のうちにAの混乱した観念があるならば,これはXの精神の本性を構成するとともに,さらにほかのものの観念を有する限りで,神のうちにAの観念があるという意味になります。そこでそれら各々のAの観念から別の観念,たとえばBの観念が生じるならば,このBの観念の原因は,前者の場合にはXの精神の本性を構成する限りでの神,すなわちXの精神そのものであり,後者の場合にはXの精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでの神,つまり,Xの精神と,ほかのものの観念ということになるからです。このとき,前者はXの精神がBの観念に対して十全な原因であるのに対して,後者の場合にはXの精神はBの観念に対して部分的原因であるということが分かります。
 したがって,このことを第三部定義二に訴えれば,精神の能動というのは十全な観念から生じ,精神の受動というのが混乱した観念から生じるということが導かれていると思います。
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