スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
旧伊藤伝右衛門邸 で指された昨日の第29期女流王位戦 五番勝負第三局。
里見香奈女流王位の先手で5筋位取り中飛車。渡部愛女流二段は銀冠から穴熊。その間に石田流に組み替えた先手に対し,後手が穴熊の金を使って押さえ込みにいく将棋になりました。後手の着想がよかったかは分かりませんが,不満のない進展にはなっていたように思います。
4二の角が飛び出した王手に対して先手が歩を打って受けたところ。ここで後手は☖4四歩と打って駒得を目指しました。先手は☗7七角と上がって間接的に受けましたがそこで☖6六金 の強手。☗同角は飛車を取られてしまうので☗同歩は仕方がありませんが☖4五歩が実現しました。
ここは先手が駒得ですが,大駒の働きに大きな差がついてしまったのでもう後手が指しやすくなっているかもしれません。先手は☗5五金と防戦しましたが構わず☖4六歩と取り込んで☗同金に☖1五歩。ここから☗5三歩成☖1六歩☗6四金☖1七歩成と一直線の攻め合いに出て☗3九王に☖6四歩と手を戻した局面は,陣形の差が大きすぎてはっきり後手が有利になっていると思われます。
渡部二段が勝って 2勝1敗。第四局は来月13日です。
第三部定理五八 が示すように,確かに喜びlaetitiaすなわち善bonumは,僕たち自身を原因として僕たち自身のうちに生じ得ます。いい換えれば僕たちの内部からやってくる場合があります。とはいえこの定理Propositioは,それが必ず内部から訪れることを意味しているわけではありません。内部からやってくる場合もありますが,外部からやってくる場合もあるのです。そして僕たちの現実的本性actualis essentiaが喜びすなわち善を希求するというとき,それが内部からやってくるか外部からやってくるかということは関係ありません。したがって,僕たちは外部からやってくる喜びも希求します。そしてそのためになし得ることをなす,というか現実的になしているのです。
この,喜びを希求し悲しみtristitiaを忌避することを現実的になす力potentiaのことを,スピノザは人間の自然権jus naturaleとみなします。これは哲学的概念としての自然権であり,自然の権利と自然的権利 を分けて考えれば,自然の権利に該当する自然権です。この考察は後に自然的権利とも関係してくるので,ここではまずこのことを強調しておきます。
したがって,社会的常識に照合させれば一般的とはいえないような事柄に喜びを感じる人間が,実際にその喜びを希求するためにその事柄を実行するときには,その人間はその人間の自然権の下にそれを実行していると解さなくてはなりません。シマウマを食うことがライオンの自然権 に属しているというのと同じ意味において,彼女の行動は彼女の自然権に属しているというように考えなければならないのです。よってそのことを彼女自身に対して否定するということは,少なくともナンセンスであると僕はいいましたが,同時にそれは彼女の自然権に対する侵害であるといいます。ただしここでいっている自然権は,哲学的概念であるという点には留意しておいてください。
スピノザはイエレス Jarig Jellesに宛てた書簡五十 で,ホッブズとの相違 について,自分は自然権をそっくりそのまま国家Imperiumにおいても保持させているといっています。これは自然権というのがその人間のなし得ることと解するなら当然です。そのような自然権を全面的に譲渡することは,論理的にいって不可能であるということになるからです。
第22回さきたま杯 。キングルアウは競走除外で11頭。森泰斗騎手が25日の最終レースで落馬し,大怪我 を負ったためネロは矢野騎手に変更。
激しい先行争いになりましたが絶対に逃げたかったであろうノブワイルドがハナを奪いきり,2馬身ほどのリード。序盤に競り掛けたネロが2番手。1馬身強でグレイスフルリープが3番手。この後ろにサクセスエナジーとナガラオリオン。その後ろにアンサンブルライフ,サクラレグナム,ベストウォーリアの3頭。ここから2馬身ほど開いてキタサンミカヅキでその直後にトロヴァオ。ユッコは大きく離されました。最初の600mは35秒1のハイペース。
3コーナーを回るとネロは一杯になり,グレイスフルリープが2番手。直線に入ってグレイスフルリープがノブワイルドを抜いて先頭に立ちましたが,その外からサクセスエナジーとキタサンミカヅキが並んで伸び,あっという間にグレイスフルリープを捕えると2頭のマッチレース。激しい競り合いがフィニッシュまで続き,見た目ではどちらが勝ったかまったく分かりませんでした。写真判定になり,優勝は内のサクセスエナジー。キタサンミカヅキがハナ差で2着。アンサンブルライフがフィニッシュ前に一旦先頭のグレイスフルリープを差して4馬身差の3着。グレイスフルリープがクビ差で4着。
優勝したサクセスエナジー はかきつばた記念 からの連勝で重賞2勝目。前走で地方競馬の馬場への適性はクリアしていましたので,ここも優勝候補の1頭。2着馬より1キロ軽い斤量でしたので,現時点での能力が上とみるのは早計かもしれませんが,前走とは明らかに違った形のレースでも結果を出せたのは収穫でしょう。4歳馬ですから今後の短距離路線の中心的存在となり得そうです。父はキンシャサノキセキ 。母の父はジャングルポケット 。母の8つ上の半姉が2002年にフィリーズレビューを勝ったサクセスビューティ 。4代母は日曜に日本ダービー を勝ったワグネリアン の5代母です。
騎乗した松山弘平騎手と管理している北出成人調教師はさきたま杯初勝利。
喜びlaetitiaすなわち善bonumが,僕たちの現実的本性actualis essentiaを十全な原因causa adaequataとしても生じ得るということは第三部定理五八 から明らかです。
第三部定理五三 にあるように,僕たちは僕たち自身の働く力を観想するagendi potentiam contemplaturならそのことを原因として喜びを感じますlaetur。そして僕たちは僕たち自身のうちに十全な観念idea adaequataが発生するなら,そのことを原因causaとして自分自身を観想します。というのも第二部定理四三 により,僕たちは僕たち自身のうちに真の観念idea veraすなわち十全な観念を有していれば,自分がそうした観念を有していること,いい換えればその観念を有している自分自身を知ることができるからです。そして第二部定理三八 や第二部定理三九 の様式を通して,僕たちは現実的に存在するなら,第二部定理三七 によりそれは個物res singularisの十全な観念ではありませんが,必ず共通概念notiones communesといわれる十全な観念を有しています。また,第三種の認識 cognitio tertii generisを通して個物の十全な観念を有する場合もあります。したがって僕たちは,十全な観念を原因としても喜びを感じます。いい換えれば僕たちの現実的本性だけを原因として喜びを感じるのです。よって僕たちにとっての善が,僕たち自身を十全な原因として発生する場合もあり得るのです。というか,第二部定理三八系 により僕たちは少なくとも共通概念を有さないことは不可能なので,必然的にnecessarioあるといわなければなりません。
現在の考察とは無関係ですが,欲望cupiditasについても証明しておきましょう。
第三部定理九 により,僕たちは十全な観念を有していようと混乱した観念idea inadaequataを有していようと,自己の有に固執する力すなわちコナトゥス conatusは有しているのであり,かつそれを意識することができます。そしてこのコナトゥスこそはスピノザがいっている欲望にほかなりません。したがって十全な観念を有する限りで僕たちのうちに欲望が生じます。ですから僕たちの現実的本性だけを原因として何らかの欲望が発生し得るのです。というよりも,現実的本性そのものを欲望と解した方が適切といえますから,十全な観念を有する限りでも僕たちは欲望を有しているのであり,よって第三部定理一 により,僕たちは働く限りにおいて,いい換えれば僕たち自身を十全な原因として,何らかの事柄を現に欲望していることになります。
第三部定理四四 は,憎しみodiumが愛amorに征服されたなら,その憎しみは愛に変じ,かつその愛は,その対象objectumを憎んでいなかった場合の愛よりも大きくなるということをいっています。つまり,憎んでいるものを愛するようになることと,愛しても憎んでもいなかったものを愛するようになる場合を比べたら,ほかの条件が一致する限り,憎んでいるものを愛するようになる場合の方が,より大きな愛で愛するようになるといっています。
ただこのうち,憎んでいるものを愛する場合の方がより大きな愛で愛するようになるということは,もっと一般的にいえます。一般的にというのは,愛は第三部諸感情の定義六 により喜びlaetitiaの一種であり,憎しみは第三部諸感情の定義七 によって悲しみtristitiaの一種ですが,このことは基本感情 affectus primariiである喜びと悲しみの場合について妥当するのです。すなわち,悲しんだ後に喜ぶようになるのと,悲しみを感じぬままに喜ぶようになることを比べたら,他の条件が一致する限り,悲しんだ後に喜ぶ方がより大きな喜びを感じられるのです。
このことはこの定理Propositioに附せられた備考Scholiumの冒頭部分から明らかです。
「事情はかくのごとくであるけれども,何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり・悲しみを感じたりするように努めはしないであろう 」、
ここでは明らかに喜びと悲しみが比較されているのであって,愛と憎しみが比較されているのではありません。つまり第三部定理四四でいわれていることの少なくとも後半部分は,喜びと悲しみの場合でも妥当するのです。
病気が回復して得られる健康の喜びは,健康状態でいるときの喜びより大なる喜びです。このことはたぶん僕たちが経験的に理解できるところで,定理でいわれていることが正しいのは明白でしょう。と同時に,その大きな喜びを感じるために病気になろうとは僕たちはしません。ですから備考の冒頭でいわれていることが正しいということも,経験的に明白だといってよいでしょう。
悪malumは必ず外部から訪れます。しかし外部から訪れるものはすべて悪であるわけではありません。悪は外部から訪れますが,善bonumが外部から訪れることもあるからです。
僕がいわゆる「ご主人様」に言及しておいたのはこのためです。もし彼女の行動がその「ご主人様」に命ぜられた上での行動であるなら,彼女がそうした嗜好すなわち欲望cupiditasを有している限りで,というか僕はこのことも前提してよいと解していますが,念のためにそうでない場合のことも踏まえてそういっているにすぎませんが,彼女にとってその「ご主人様」との出会いはよい出会いであった,すなわち善であったということになります。同様に「ご主人様」がそうした嗜好すなわち欲望を有しているのなら,「ご主人様」にとっても彼女との出会いはよい出会いすなわち善であったということになるでしょう。
こうしたことはもっと一般的にいえるのであって,たとえばある特定のサディスティックな願望をもっている人間と,それと同じ特定のマゾヒスティックな願望を有した人間が出会うなら,それは双方にとってよい出会いすなわち両者にとっての善であると解さなければなりません。あるいは「寝盗られ願望 」を有する人間にとって,パートナーを寝盗る人間との出会いは,よい出会いすなわち善である,もっと極端にいえばそのパートナーとの出会いよりもよい出会い,大なる善であると解するべきなのです。
悪に関してそれを「食あたり」という喩えによって説明できるのに対し,善についてはこれと同様の喩えをすることができないのは,僕たちの現実的本性actualis essentiaはそれ自体で喜びlaetitiaいい換えれば認識されるものとしての善を希求するようになっているからです。要するに悪は僕たちの現実的本性のみによっては説明できないので,何らかの出会いによって説明されなければならないのですが,善についてはそうではなく,単に僕たちの現実的本性のみによって,つまり何らの出会いなしに説明され得る場合があるからです。いい換えれば,僕たちの現実的本性は,僕たちにとっての悪の十全な原因causa adaequataではあり得ないのですが,僕たちの善については十全な原因であるという場合があり得るからです。
26日に富岡製糸場 で指された第3期叡王戦 七番勝負第四局。
高見泰地六段の先手で相矢倉模様の出だし。金井恒太六段が2筋での歩の交換を許さなかったので,より相矢倉に近付く進展となりましたが,先手は7八の金を6七に上がって また力将棋になりました。先手から仕掛けた将棋ですが,たぶん攻め過ぎがあり,後手が有利に。終局近くまで後手に勝ち筋があったのではないかと思われる将棋になりました。
先手が金の両取りを掛けた局面。ここは☖5四香と打つ手が詰めろ。おそらく☗5八銀と受けるほかなく,それだと先手が6六の角を容易に動かし難い局面に進むので,後手の有力手であったと思われます。ですが☖4三金打と受けました。金をここに使うのでは間違いなく差は詰まった筈ですし,もしかしたらすでに後手の勝ちとはいい難い局面になっているのかもしれません。
先手は当然☗6二角成と金を取ります。そこで☖6四香と打ちました。対して☗3二歩の王手。これは取れないので☖2一王は仕方ありませんがそうしておいてから☗6三馬と銀を取りました。
第2図は☖6六香と角を取ってしまえばただ攻めるだけでなく自玉への攻めも緩和されるので,そう指すのがよかったのではないでしょうか。☗4一馬と入ってくる手があるのでそれで後手が勝てるとはいえませんが,先手がはっきりと勝ちというほどの局面ではないと思います。しかし☖6三同飛 と馬の方を取ったので,☗3一歩成以下すぐに先手の勝ちになりました。
高見六段が4連勝で初代叡王 に。タイトル初獲得とともに七段昇段も決めました。
あるものが万人にとって毒なら,そのものが万人にとって悪malumであるということは,そのものが普遍的な悪であるということとは異なります。なぜなら,それは人間にとって悪であるというだけで,人間以外のものにとっては悪とは限らないからです。たとえばそのものに寄生することによって生きることが可能になっている生物があるとすれば,人間にとっては悪であるそのものは,その生物にとって善bonumであるでしょう。なので人間にとって必ず悪であるものが,普遍的に悪であるとはいえません。
このことが,人間と人間以外の生物について妥当するのではなく,人間だけの間でも成立するということが,悪を食あたりに喩えることの意義と僕は考えます。というのは,僕たちは前述したこと,すなわち人間にとって悪であるものが人間以外のあるものにとっては善であり得るということはわりと容易に理解するのですが,人間だけをその範疇に据えるとこれと同じことを見失い,自分にとって悪であるものは万人にとって悪であると思い込んでしまう傾向を有するからです。これは単純に,ある人間とその他の人間は,ある人間と人間以外のものより類似しているということから生じる傾向ですが,そのような分かりやすい原因があるがゆえに,僕たちが陥りやすい過ちでもあるのです。
このことは,第四部定理八 により,悪というのが悲しみtristitiaの認識cognitioであるということを知っている人間にとってはきわめて明瞭なことです。第三部定理五九 により悲しみは働きを受けるpatiことによって生じるのですから,第三部定理三 によりこの認識は混乱した認識に依存しているからです。いい換えれば第四部定理六四 により,僕たちが悪を認識するなら,それは必然的にnecessario混乱した認識であるからです。よって自分にとっての悪は万人にとっての悪であるという認識は,混乱した認識を十全な認識と思い込むことによって発生している認識であるといえるでしょう。つまり虚偽と誤謬 の関係でいえば,単にその人間の精神mens humanaのうちに虚偽falsitasがあるというだけでなく,その人間は誤謬errorを犯しているということになるでしょう。
悪は外部から訪れます。そのゆえに普遍性を有し得ないのです。
第85回日本ダービー 。
エポカドーロの逃げになりました。ジェネラーレウーノが2番手でダノンプレミアムが3番手。コズミックフォースが4番手でしたがこの3頭は集団。その後ろもテーオーエナジー,ワグネリアン,ブラストワンピースの順ではありましたが3頭が集団。ゴーフォザサミットとサンリヴァルがその後ろ。タイムフライヤーとステイフーリッシュがその後ろ。この後ろは単独でオウケンムーン。以下,ジャンダルム,グレイル,エタリオウ,と続き,キタノコマンドールとステルヴィオの2頭が一団の最後尾。少し離れてアドマイヤアルバが最後尾を単独で追走という隊列。最初の1000mは60秒8の超スローペース。
直線に入って逃げるエポカドーロに並んでいったのがコズミックフォース。そしてその外にワグネリアン。ダノンプレミアムは内にいたため進路の確保が難しく,最終的にはエポカドーロとコズミックフォースの間へ。コズミックフォースが並ぶとエポカドーロがまた伸びるという感じで,エポカドーロはコズミックフォースの追撃は凌いだものの,コズミックフォースの外のワグネリアンが坂を上り切ってからまた伸び,エポカドーロを差し切って優勝。よく粘ったエポカドーロが半馬身差で2着。コズミックフォースがクビ差の3着。先行馬が上位を独占する中,差し脚を発揮したエタリオウがハナ差で4着。ワグネリアンとエタリオウの間のブラストワンピースがハナ差の5着でダノンプレミアムがアタマ差で6着。
優勝したワグネリアン は昨年11月の東京スポーツ杯2歳ステークス以来の勝利で大レース初制覇。そこまで3連勝してクラシックの有力候補に。そのまま休養して今年の2戦は弥生賞が脚を測るような内容で2着。皐月賞は何らかの理由でまったく力を出せずに敗戦していましたので,巻き返せれば有力候補の1頭。スローペースになることを見越したのか,それともそうしなければダノンプレミアムを負かすことは難しいと判断したのかは不明ですが,今日は今までよりずっと前の位置でのレースになりました。それがこの優勝の大きな要因になったといえるのではないでしょうか。ペースの関係でどうしても着差がつかないレースになってしまいましたが,2着馬は皐月賞馬ですから,少なくともこの2頭は現3歳世代でトップレベルにあるのは間違いなさそうです。父は第72回を制したディープインパクト で父仔制覇。母の父は第71回の覇者であるキングカメハメハ 。祖母は2000年にシルクロードステークスと根岸ステークス,2001年にかきつばた記念とシリウスステークスとプロキオンステークス,2002年にガーネットステークスを勝ったブロードアピール 。Wagnerianはワーグナーのファン。
騎乗した福永祐一騎手は川崎記念 以来の大レース29勝目。日本ダービーは初勝利。管理している友道康夫調教師は昨年のジャパンカップ 以来の大レース10勝目。第83回 以来2年ぶりの日本ダービー2勝目。
人間の現実的本性actualis essentiaは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっています。いい換えれば第四部定理八 により,人間は現実的本性に則す限りでは善bonumを追求し悪malumを忌避するようになっているのです。したがって,ある人間にとっての悪が,その当人の現実的本性だけを原因causaとして生じることはありません。すなわち,ある人間の現実的本性が,その人間にとっての悪の十全な原因causa adaequataであることはないのです。ですから現実的に存在するある人間に悪が訪れることがあるとすれば,それはその人間が何らかの外部の物体corpusと接触する,関係を有する限りでのことです。
ドゥルーズGille Deleuzeは『スピノザ 実践の哲学 Spinoza : philosophie pratique 』の中で,スピノザの哲学において悪とは喩えるなら食あたりのようなものであるという意味のことをいっています。これは喩えとして非常に秀逸であると僕は考えます。これは悪が外部の物体との関係の中でしか生じ得ないということを示すとともに,悪が諸個人によって異なり得るということも示すからです。実際,あるものAを食べたとしても,食あたりを起こす人間もいれば起こさない人間もいます。よってAは,食あたりを起こす人間にとっては悪であるでしょうが,起こさない人間にとっては悪ではあり得ません。むしろその人がAを食べて美味であると感じるなら,その人にとってAは善であるでしょう。このように,同一の物事が異なった人間によって善とみなされたり悪とみなされたりすることがあるのです。したがって,何か普遍的な善とか普遍的な悪というものがあるわけではないのです。ですから彼女の行動をある人は不快と感じ,よってその行為ならびにその行為をなす彼女を悪と判断するでしょうが,彼女自身にとってはそれは善であるということは前提にならなければなりません。その行為を彼女自身に対して否定することが誤りである,少なくともナンセンスであるということは,このことからより明らかであると思います。
もう少し食あたりの例を用いましょう。もしあるものXがあって,そのXを食べれば万人が食あたりを起こすとします。ある種の毒はこの例を成立させる筈です。この場合には万人にとってXが悪であるということは成立し得ます。
南三条は③ で歌われた2番の中盤の部分が,最後の部分で覆されることになります。
ほんとは違うわかっているの私と切れて後のことだと
でも憎まずにはいられなかったの
中盤の部分まで,この楽曲は,② で声を掛けられた方の女が,かつて付き合っていた男を声を掛けた方の女に奪われ,しかし声を掛けた方の女は自分が奪ったということを知らず,そのために声を掛けた女に対して無邪気に振る舞うことができたという内容で一貫性がありました。ですからこの声を掛けられた方の女の告白は,歌い手すなわち声を掛けられた方の女にとってはそうではなくても,楽曲を聞いている聴き手にとってはひどく意外なものに感じられる筈です。
声を掛けられた女がかつてAという男と付き合っていたのですが,何らかの理由によって別れることになりました。おそらく別れ話を切り出したのはAの方で,女の方は何らかの事情があって渋々ながらその別れを受け入れざるを得なかったのでしょう。その後に,Aは声を掛けた方の女と交際を始めました。たぶん声を掛けた女は,かつてAが声を掛けられた方の女と付き合っていたということは知らずに付き合うようになったのでしょう。これが実際に過去に起こった出来事であったのです。
声を掛けられた方の女は,未練がありましたから,自分が別れなければならなかった理由を,真実ではないと自分が知っていたことに対して求めたわけです。ですから声を掛けられた方の女が声を掛けた方の女のことを憎んだのは,俗なことばでいえば八つ当たり以外の何ものでもありません。とはいえ,かつての恋人と新しく付き合うようになった女を憎んでしまうのは,女の現実的な本性からすれば自然なことであるともいえます。
ところが,この楽曲はさらに意外な方向に進みます。声を掛けられた方の女も知らなかったことが露見することになるのです。
彼女がなした行動について,それを彼女自身に対して否定するというのは誤りであるあるいはナンセンスであるというのが,スピノザの哲学の原理的な評価になると僕は考えます。なぜなら,それがどのような内容を伴っているのかということに関わりなく,嗜好とか願望といった類のものは,感情affectusとしていえば欲望cupiditasに分類されなければなりません。したがってそれは,第三部諸感情の定義一 により,そうした嗜好や願望を有する人間にとっての現実的本性actualis essentiaにほかなりません。しかるに人間の現実的本性は喜びlaetitiaを追求し悲しみtristitiaを忌避するようになっているので,欲望が現実化されるならそれは当人にとっての喜びであり,逆に欲望の現実化が阻害されるのであればそれは当人にとっての悲しみであることになります。いい換えれば第四部定理八 により,欲望の現実化は当人にとっての善bonumであり,現実化の阻害は悪malumです。したがってそれがどのような欲望であったとしても,それを現実のものにするのは欲望する人間にとっては善なのですから,それをその当人に対して否定するのは誤りです。少なくともナンセンスです。なぜならそれは善を否定し悪を肯定しているのに等しくなってしまうからです。
いわんとする趣旨は異なりますが,スピノザがこれに類することをいっているのはブレイエンベルフ Willem van Blyenburgに宛てた書簡二十三です。そこでは,もし食卓につくより絞首台に立つ方がよりよく生きると分かっているなら,その人間が絞首台に立たないのは愚かなことであり,徳virtusの追求より犯罪の遂行が完全で善なる生活の享受に有益だと分かっているなら,その人間が犯罪を犯さないのはやはり愚かなことであるといわれているからです。スピノザは人間の本性 を理性的なものと欲望的なもの,いい換えれば能動的なものと受動的なものとに分類し,書簡のこの部分は理性的な現実的本性からは生じ得ないことについてブレイエンベルフに質問されたので,その質問自体がおかしなものであるということを示すためにこのように書いたのですが,これはごく一般論に帰してしまえば,善と分かっている事柄を追求しないならそれは愚かなことであるといっているのに等しいことにはなるでしょう。
書簡七十二 はスピノザがシュラー Georg Hermann Schullerに宛てたもので,シュラーが出した書簡七十 への返答になっています。しかし実際に書簡七十でスピノザに要望を出しているのはチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausで,スピノザもチルンハウスに対して返答していることになります。これと似た関係にある書簡としては,シュラーが出した書簡六十三とスピノザが返答した書簡六十四があり,書簡五十七はチルンハウスからになっていますが,実際はシュラーを介したもので,だからその返答の書簡五十八はシュラー宛になっています。
一方,チルンハウスはシュラーを介さない書簡もスピノザに送っています。チルンハウスはオランダからイギリスに渡り,オルデンブルク Heinrich Ordenburgとスピノザの関係を修復することに成功し,その後にパリに移動してホイヘンス Christiaan Huygensに会い,またライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに会いました。チルンハウスからシュラーを介さずスピノザに宛てられた手紙には,まだオランダにいた頃のもの,ロンドンからのもの,パリに到着してからのもののすべてが含まれています。
『宮廷人と異端者 』では,チルンハウスがパリに着いてからスピノザに宛てた書簡は,その背後にライプニッツがいるという解釈になっています。つまりチルンハウスがシュラーを介して哲学的議論をスピノザと交わしたように,ライプニッツがチルンハウスを介してスピノザと哲学的議論を交わしていると読解できるようになっているのです。
この読解を全面的に信頼してよいかは分かりません。チルンハウスも有能な人物であり,スピノザと議論を交わせることは,それ以前の書簡から明らかだからです。しかし全面的に否定できない要素もあります。ひとつは書簡七十から分かるように,チルンハウスはライプニッツを高く評価していたので,チルンハウス自身がライプニッツから何らかの哲学的影響を受けたことは可能性として高いからです。もうひとつは,ライプニッツは自身がスピノザと直接的にやり取りをしたいと思っていたでしょうが,同時にそれは宮廷人 としての自分の身分を危うくすることも分かっていたので,チルンハウスが仲介者になってくれるならあり難かっただろうからです。
なので,チルンハウスの背後にライプニッツがいることは,可能性として想定しておいた方がいいでしょう。
彼女の行動について推察します。
あの服装で電車に乗るというのは僕にはあまりに危険が伴いすぎるように思えます。なので彼女はホームを1周,というのは僕が座っていた位置からすれば,右側の階段を使ってホームに上がり,左側の階段をそのまま降りていったのではないかと思います。
駅の周辺はかなり栄えていて,ホームよりもよほど多くの人がいた筈です。ですからあの服装で駅までやって来るということは,電車に乗ることよりもさらに危険を冒すことになるだろうと僕には思えます。なので,駅まではとくに目立たぬ服で来て,たとえば駅のトイレで露出用の衣装に着替えた上で,ホームに上がったか,そうでなければ駅までは上にコートのようなものを羽織っていて,それを駅に着いてから脱いだのではないかと思います。彼女がそれをなしたのは,もちろん彼女の嗜好によるものであることは間違いありません。ただそれは彼女が自分で思い立って行動に移したことかもしれませんし,あるいはだれかの,俗なことばでいえば「ご主人様」の命令に従った行動であったかもしれません。これはどちらもあり得ると僕には思えます。
ただしこれは,あくまでも僕が彼女の行動を,一般的な社会常識とも重なり合わせた上で,可能な限り合理性を保たせるように推測したものです。僕はこうした嗜好を持ち合わせていませんし,逆にこうした行動をだれかに強いるような嗜好,すなわち再び俗なことばを用いれば「ご主人様」になるという嗜好を持ち合わせているわけでもありません。ですからそうした嗜好をもっているような人というのが,どの程度まで社会常識に照合させた上での危険性を自身に対して許容するのかということは不明です。もしかしたらそうした人にとって,その服装で電車に乗ったり人通りの多い街中を歩くくらいのことは容易になし得ることなのかもしれません。
わざわざこうしたことを詳しく書いたのは,単に僕がそのような珍しい経験をしたということを報告したかったからというわけではありません。こうした事柄もまた,哲学的考察の対象となり得るからです。スピノザ主義はこれをどのように評価するのでしょうか。
第11期マイナビ女子オープン 五番勝負第四局。
加藤桃子女王の先手で西山朋佳奨励会三段の角道オープン四間飛車。後手がだいぶ手損をする中盤だったのですが,先手がうまく咎めることができなかったため,熾烈な終盤戦に突入しました。
先手が4三にいた銀で5四の銀を取り,それを後手が5二の飛車で取り,先手が6六の桂馬で取った局面。もし先に桂馬で銀を取っていれば☖同飛☗同銀成が王手になり,後手はその順を避けたかもしれず,先手はそう指しておいた方がよかったかもしれません。
第2図はおそらく☖5四同玉と☖8六龍の二択で後者が選択されました。
先手は☗6二桂左成としました。これは☖5四玉で桂馬を取る順が発生するので,☗6二桂右成とする方がよかったのではないかと思います。対して後手は☖5四玉ではなく☖7四玉と逃げましたが,これも☖5四玉の方が優っていたのではないでしょうか。
7四に逃げたので☗7五銀☖同龍☗同角☖同玉まで,必然の手順で先手は龍を消しました。そこで☗6一成桂と金を取りましたが,その後の手順からすると☗4五角と桂馬を取りながら5四の桂馬にヒモをつけておくべき局面であったようです。後手に☖8七角と王手で打たれ☗7八金打☖5四角成とされては先手が勝てる見込みがなくなってしまいました。
3勝1敗で西山三段が新女王に 。タイトルは初獲得。奨励会の実績からは順当な結果ともいえ,西山女王が持ち時間が長い将棋でも本来の力を出せるようになったということだと思います。
6月24日,土曜日。ガイドヘルパー を利用しました。この日はカラオケでした。
6月28日,水曜日。この日はとても珍しいと思われる体験をしたので,その概略を記しておきます。
僕はこの日は川崎 に行くことになっていて,横浜市内のある駅で電車を待っていました。この駅は改札はひとつですが,ホームに向う階段は左右にふたつあります。つまりホームの入口はふたつあるということです。この階段と階段の間にベンチがあり,僕はそこに座っていました。駅は相対式のホームで,僕は横浜市内から川崎に向うのですから,上りホームのベンチに腰掛けていたということになります。
そのときに僕の右側からこちらに向かって,方向でいえば川崎方面にということになりますが,ひとりの女が歩いてきました。横浜市内の駅ですから,客はほかにもいましたが,この女はショッキングピンクの,僕が学生時代にボディコンといわれたいでたちの超ミニのワンピース姿で異彩を放っていたので,この女だけがほかの乗客よりも目立っていたのです。僕は眼鏡で矯正していますが視力 はよくないので,そのときは今どきにしては変わった人がいると思っただけでした。
この女は僕の前を通り過ぎて,もう片方の階段の方へと歩いていきました。20代半ばくらいに僕には見えました。ホームが直線ではなく,やや湾曲している関係で,すぐに僕の視界からは消えたので,最終的にその女がどうしたかは分かりません。ただ驚いたのは,僕は遠目で視てピンクの身体にフィットするワンピースだと思ったのですが,このワンピースは横,といっても僕に見えたのは左側だけですが,その部分はほとんど布地がありませんでした。下は全裸だったわけでなく,下着は着用していましたが,その下着は丸見えになるような服だったのです。
目の前を通り過ぎたのでそのことが分かり,そして僕にもようやく真の意味が分かりました。このような仕方で露出をしてみせることを嗜好する人が存在するということは僕は知っていましたから,その女がそういう人であるということが分かったのです。現にそれを見るというのはおそらく珍しいことではないでしょうか。
第63回大井記念 。
鞭を入れたキングニミッツの逃げ。3馬身差の2番手にサブノクロヒョウ。1馬身差でヒガシウィルウィン。1馬身差でリッカルドとモンドアルジェンテ。1馬身差でペイシャゴンジセとユーロビート。1馬身差でディアドムス。1馬身差でタマモネイヴィー。1馬身差でウマノジョー。6馬身ほど開いてサージェントバッジが後方2番手。さらに4馬身ほど開いてシャドウパーティーが最後尾。前半の1000mは63秒0のミドルペース。
3コーナーの手前ではキングニミッツのリードは縮まり,サブノクロヒョウ,ヒガシウィルウィン,モンドアルジェンテの4頭が雁行でコーナーに入り,リッカルドはこの4頭の後ろを追走。コーナーでキングニミッツは後退し,前は3頭に。リッカルドは直線の手前で前をいく3頭のさらに外に出しました。最も内を回っていたサブノクロヒョウにコーナーワークの利があり,直線に入ったところでは先頭。リッカルドはこれに併せにいき,ヒガシウィルウィンとモンドアルジェンテは少し不利を受けたかもしれません。サブノクロヒョウとの競り合いにはあっさりとリッカルドが決着をつけ,そのまま抜け出して優勝。サブノクロヒョウが3馬身差で2着。ヒガシウィルウィンが1馬身4分の1差の3着。
優勝したリッカルド はブリリアントカップ に続き転入後は南関東重賞4連勝。前走より相手関係の相対的レベルは上がっていましたが,自身の斤量が軽くなっている上に,相対的な斤量差でも有利に転じていましたのでここは優勝候補の筆頭。有力馬を前にみながらよい手応えで追走し,それらの外を回って差し切っているわけですから,着差以上に力量差があったとみてよいのではないでしょうか。さすがに帝王賞では厳しいかと思いますが,重賞で通用するレベルにはあるとみてもいいかもしれません。父はフサイチリシャール 。母の7つ上の半兄が1999年に東京大賞典を勝ったワールドクリーク で3つ下の半弟が2010年 と2011年 にNARグランプリのダートグレード競走特別賞馬に選出されたスマートファルコン。4代母がアリアーン 。Riccardoはイタリア語の人名。
騎乗した大井の矢野貴之騎手はブリリアントカップ以来の南関東重賞14勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞5勝目。大井記念は共に初勝利。
6月2日,金曜日。歯科検診の予約を入れました。
6月3日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。前夜に先生から電話があり,午後5時に開始でした。
6月5日,月曜日。金曜日に入れていた歯科検診の予約の日でしたので,I歯科に行きました。予約時間は午前9時半。この日はクリーニングをしただけです。10時25分頃には帰宅できました。
6月7日,水曜日。この日は母の歯科検診の日でしたので,妹を送ってからI歯科に向いました。これは午前11時から。母もクリーニングだけでした。
6月10日,土曜日。母と妹が美容院に行きました。いつも通りで午後1時から。ふたりが帰宅したのは3時50分でした。
6月14日,水曜日。この日は妹の歯科検診。妹は指定歯科であるみなと赤十字病院です。連れて行った母によれば妹もクリーニングだけであったとのこと。僕はこの日は川崎に行っていて,午後5時20分に帰宅しましたが,そのときには母と妹は家に戻っていました。また,水曜日の夕食にはKさんを招くのが通例となっていましたが,この日はKさんは来ていません。妹の歯科検診は稀に時間が掛かる場合があり,そうなると夕食の支度をするのが大変になってしまうからです。
6月15日,木曜日。この日の夕食にKさんを招きました。もちろん前日の代替です。
6月17日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は通常営業で,午後5時半の開始でした。
6月21日,水曜日。妹の通所している施設での保護者会 がありました。これは妹が5月から通うようになった,小港の新施設で行われたものです。ただ,運営組織に変更があったわけではありませんから,保護者会の内容に大きな変更があったというわけではありません。
6月23日,金曜日。妹の本牧脳神経外科 への通院の日でした。これは午前10時から。この日は採血をしたとのことです。この採血の目的は,妹が服用している3種類の薬 の成分がどれだけ血中に浸透しているかを調べるため,要するに薬が効いているかを確かめるためのもの。本牧脳神経外科では半年に1度これを調べることになっています。
塩田温泉で指された第29期女流王位戦 五番勝負第二局。
渡部愛女流二段の先手で里見香奈女流王位のノーマル向飛車 。互いに美濃囲いに組んだ後,先手から仕掛けました 。ただ2二に歩を打って,その地点に銀が残ったまま2三に飛車を成っていく というのは,好んで指したい攻め方とは思えません。先に龍を作れたので不満ということはないでしょうが,十分に満足がいくという仕掛けにはなっていなかったように思います。
まだ続きそうなところから急に終わってしまう将棋になりました。
5五の地点で金の交換が行われた局面。ここで☗5七歩と受けておけばまだ長い将棋になったと思われます。しかし☗5六歩と打ち☖同飛のときに受けずに☗6二歩と攻めました。
先手の金が6八にいるのは後手が☖6八歩と打って☗同金と取らせたため。これは美濃囲いを攻めるときに手筋ですが,この局面では☗6一歩成と取っても詰めろになるわけではなく,ぬるかったようです。
後手は☖8七歩 と王手で叩いて☗同玉に☖7九銀と打ちました。先手も☗6一歩成と取る余裕はないので☗8八金と受けたのですが☖5九飛成とさらに手抜いて攻められました。
第2図は受けの形は☗6九金ですが☖8八銀成☗同玉☖7七角成で寄せられてしまいます。この受けが利かないのでは先手の勝ち目はなくなっているといってよいでしょう。
里見王位が勝って 1勝1敗。第三局は30日です。
スピノザがいっている虚構の意味をどう把握するにせよ,直線はそれ自体で一端が固定しもう一端が運動するものではありませんし,半円は直線部分を軸として運動するものではありません。ですから直線の観念ideaから必然的にnecessario円の観念が生じるというものではありませんし,半円の観念から必然的に球の観念が生じるというものではないことは確実です。円の十全な観念idea adaequataや球の十全な観念を知性intellectusのうちに発生させるのは,その知性が直線の観念および半円の観念に対してそうした運動motusを能動的に肯定しているからであって,この限りで直線が運動する観念あるいは運動している直線の観念も,また球が運動する観念あるいは運動している球の観念もその知性のうちで十全であるとみなすことができるのです。したがって単に知性のうちの十全な観念からは十全な観念が発生するということだけでなく,知性のうちの十全な観念は同じ知性のうちの十全な観念から発生するということも組み合わさって,知性のうちに発生する十全な観念の十全性は保証されるのだし,僕たちはそのことを知ることができる,いい換えれば単に論理的にだけでなく,現実的に保証が成立していることになると僕は結論しておきます。
これで『ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」 』に関連する論考は終了です。また,この本に関しては『ゲーテとスピノザ主義 』との関連でとりあげたものであり,そちらに関係する論考もすでに終了しています。よってここからはまた日記に戻るのですが,その前にいっておきたいことがあります。
僕が『ゲーテとスピノザ主義』および『スピノザ―ナ15号 』を読了したのは,昨年の5月31日のことでした。ですから日記はそこから再開するのですが,この後で,思いもよらぬことが発生することになりました。それが何であるかは日記の中でいずれ明らかにすることになるでしょう。ただ,こうした事態が発生したため,ここからの日記は非常に長いものになることを予告しておきます。僕は日々の生活でもスピノザ主義者を目指しているので,部分的に哲学的考察が入りますが,哲学に特化した長期的な論考はしばらく行われないと思っていてください。
昨日の名古屋記念の決勝 。並びは鈴木‐諸橋の関東,梁田‐渡辺の静岡,川村‐笠松の近畿中部,佐々木‐渡部の愛媛で中川は単騎。
中川が迷わずスタートを取って前受けしましたが,残る8選手は長い牽制。渡部がようやく中川を追って2番手に佐々木,4番手に梁田,6番手に川村,8番手に鈴木という周回に。残り3周のバックの出口から鈴木が上昇開始。ホームで佐々木が動いて中川を叩くと引いた中川は渡部の後ろに。この3選手の外を鈴木が叩くと諸橋の後ろを梁田が追走。4人の外から川村が叩き,さらに梁田が動いて打鐘で川村を叩いて先行。この1周は目まぐるしく動きましたが,3番手に川村,5番手に鈴木,7番手に鈴木,最後尾に中川という一列棒状になりました。ホームから鈴木が動いていきましたがこれはスピードを欠き,バックの出口では渡辺が番手から発進。川村が続こうとしましたが,番手捲りをされた梁田に余力があったようで牽制を受け,渡辺が抜け出す形に。こうなれば展開有利で渡辺が優勝。鈴木の勢いも借りつつ最後尾からの捲り追い込みとなった中川が3車身差の2着に届き,思わぬ抵抗を受けた川村は4分の1車輪差の3着。
優勝した静岡の渡辺雄太選手はヤンググランプリ2016 以来のグレードレース2勝目で記念競輪初優勝。このレースは先行しそうなのは佐々木か梁田で,それぞれがすんなりとした先行になれば番手の渡部か渡辺が有利。先行争いが激しくなれば捲りに回るほかのラインに有利とみていました。結果的に梁田が争うことなく先行になり,渡辺にとって絶好に。とはいえこのレースのハイライトは番手捲りをされた先行選手が後続の選手を牽制するという,あまり見たことがない走りをした点で,梁田の奮闘を称えたいところです。渡辺も昨年の川崎記念では地元の郡司を引き出す仕事をきちんと果たしていて,このような仕事をしている選手には後にチャンスが回ってくるのが競輪という競技の特質だといえます。
第二部定理四〇 の4つの意味 のうち,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある十全な観念idea adaequataを原因causaとしては十全な観念だけが発生するということだけでなく,現実的に存在する人間のうちに十全な観念が発生するなら,それは同じ人間の精神のうちにある十全な観念を原因としてであるということが組み合わさって,結果effectusの観念の真理性すなわち十全性が保証されるといっても,それは,たとえば円についていうなら,一端が固定されもう一端が運動することを直線について肯定する意志作用 volitioの十全性が,円の十全な観念によって保証されているという意味ではないというように僕が考えていることは十分にお分かりいただけたものと思います。この意味においてなら,そうした意志作用をなしまた観念を形成するその人間の精神の能動actio Mentisが,原因として一律的に両者の十全性を保証するのです。
とはいえ,観念というのは必ず何かの観念であって,何かの観念である限りはたとえばAの観念とBの観念は別の観念であると理解されなければなりません。ですから円の観念と直線の観念は別の観念であると理解されなければならないのです。よってこうした思惟作用がある人間の精神のうちに生じるとき,直線の観念と円の観念とを分離して把握するなら,直線の観念はそのような運動motusによって円を発生させるという限りにおいて十全adaequatumすなわち真verumなのであって,完全に別のものとして把握される場合には十全ではありません。いい換えれば直線の観念は円の十全な観念を発生させる限りにおいて十全なのであって,単に直線の観念としてみなされるのであれば十全ではありません。それがスピノザが虚構 といっていることの真の意味であると把握するべきだろうと思います。しかしながらその運動を直線に対して肯定する意志作用は円の十全な観念と同一のものであるのですから,この場合のように,直線の観念と円の観念とを切断して解することには,大した意味はないともいえるかもしれません。そしてもしそのように解するのであれば,虚構ということの意味は,現実的に存在する円は,必ずしも直線の運動を起成原因causa efficiensとしているわけではないということに留まることになるでしょう。
第79回オークス 。トーセンブレスが左の前脚の蹄の底の内出血で出走取消となり17頭。
1コーナーの手前で先頭に立ったサヤカチャンの逃げ。向正面に入るあたりで4馬身,ここから3コーナーにかけて10馬身近くの差をつける大逃げに。単独の2番手にランドネ。2馬身差の3番手にリリーノーブル。また2馬身差の4番手にカンタービレ。以下は概ね1馬身差でラッキーライラック,アーモンドアイ,レッドサクヤの順で続きまた1馬身差でマウレアとサトノワルキューレ。1馬身差でオールフォーラヴ。1馬身差でパイオニアバイオとウスベニノキミの2頭。また1馬身差でシスターフラッグ,さらに1馬身差でロサグラウカ。ここから2馬身差でトーホウアルテミス。4馬身差でウインラナキラ。2馬身差の最後尾にオハナという隊列。最初の1000mは59秒6のミドルペース。
直線に入るところでサヤカチャンと2番手の差は6馬身。ランドネ,リリーノーブル,カンタービレの3頭が並びながら差を詰め,リリーノーブルが抜け出しました。この外へ出したのがアーモンドアイで,ラッキーライラックは一旦はリーリ―ノーブルの内から追おうとしたものの再び外へ。スムーズに追い上げたアーモンドアイが抜け出したリリーノーブルをあっさりと捕えて優勝。リリーノーブルは2馬身差の2着。伸び脚を欠いたラッキーライラックは1馬身4分の3差で3着。
優勝したアーモンドアイ は桜花賞 に続いて2冠を達成。距離延長がプラスにはならないと思いましたが,1頭だけが離してペースを作るレースになり,それ以外の馬たちにとってはスローペースで総合的なスタミナ争いにはならなかったので,桜花賞の内容からは当然の優勝といえるでしょう。ただ,これまでとは違ってわりと前の方に位置した上で,確たる力量がある2着馬と3着馬を圧倒したというのは,大きな収穫であったと思います。この馬は相当な器で,ブエナビスタとかジェンティルドンナに比するような活躍を期待していいかもしれません。おそらく7着のパイオニアバイオあたりまで,能力に相応した決着となっているレースと思われます。父はロードカナロア 。母がフサイチパンドラ で祖母がロッタレース 。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手はかしわ記念 以来の大レース制覇。第78回 に続く連覇でオークス2勝目。管理している国枝栄調教師は桜花賞以来の大レース13勝目。第71回 以来となる8年ぶりのオークス2勝目。
直線の一端が固定しもう一端が運動することを肯定する意志作用 volitioが円の観念ideaの,また半円が直線部分を軸に一回転することを肯定する意志作用が球の観念の,それぞれ起成原因causa efficiensを構成していると僕たちが思い込んでしまうのには,ふたつの理由をあげられます。ひとつは僕たちが僕たち自身に意志voluntasの自由libertasがあると思い込んでしまうことであり,もうひとつは現実的に直線あるいは半円が存在しているとき,それが所定の運動motusをなすなら,確かに円や球が作図ざれるということを僕たちが表象してしまうことです。
第一の点に関していえば,僕たちには意志の自由があるわけではないということ,なかんずく,一端が固定されもう一端が運動する直線を肯定する意志作用と円の十全な観念とは同じものであり,直線部分を軸に一回転することを半円に対して肯定する意志作用と半円の十全な観念は同一であるということを知れば,容易に避け得るでしょう。いい換えれば意志作用の方が観念の起成原因ではないということを理解し得るでしょう。
第二の点については,第四部定理四 からして,僕たちは受動passioすなわち働きを受けるpatiことを免れることは現実的に不可能なので,その表象imaginatio自体を避けるということは不可能です。ただ,僕たちはそれが表象であるということを知ることはできるわけですから,虚偽と誤謬 の差異によって,それを真理veritasと思い込まないことは可能です。いい換えれが僕たちはそうした虚偽falsitasが僕たちの精神mensないしは知性intellectusのうちに発生するということを避けることは不可能ですが,それを虚偽であると知ることによって,誤謬errorは犯さずにすむでしょう。いい換えればこの仕方で形成される円や球の観念が,混乱した観念idea inadaequataであるということを知ることができるでしょう。さらにいえば,それを虚偽と知り得る限りにおいては,僕たちがこうした表象をなすことは,円や球を十全に認識するにあたっても役立ち得るかもしれません。第二部定理一七備考 では表象は力potentiaであるという意味のことがいわれていますし,第四部定理一 では誤った観念すなわち混乱した観念に積極的なものがあると暗示されていますが,こうした円や球の表象は,それに該当するのかもしれません。
日曜のヴィクトリアマイル を勝ったジュールポレール は祖母が1988年にアメリカで産まれたダイアモンドシティ という馬で,輸入基礎繁殖牝馬に該当します。ニキーヤ と同じでファミリーナンバー は9-h ですが,同一ファミリーでもそれぞれに分枝はあり,ニキーヤとダイアモンドシティは同一牝系とはいい難い間柄になっています。
2頭の産駒をアメリカで産んでから輸入されました。しかし産駒からは重賞の勝ち馬は出ていません。孫の代にあたるサダムパテック がダイアモンドシティの一族から最初の重賞の勝ち馬。そして半妹のジュールポレールが2頭目の重賞の勝ち馬です。血統というのは不思議なもので,一族から重賞の勝ち馬は続々と出るものの大レースにはなかなか手が届かないという牝系もあれば,重賞の勝ち馬は多く出ないけれども出たらその馬が大レースも制覇するという牝系もあります。ダイアモンドシティは典型的な後者に属するといえるでしょう。そしてこの一族が日本で続いていくかどうかは,ジュールポレールが無事に繁殖牝馬となり,活躍する馬を出せるかどうかにかかっているといって過言ではありません。
牝系の基点となっているのはダイアモンドシティの4代母に当たる馬。ここまで辿ると日本での活躍馬も何頭か出ています。そのうち最も活躍した馬ということであれば,マーベラスサンデー になるでしょう。マーベラスサンデーの叔母には1986年にクイーンステークスを勝ったロイヤルシルキー がいます。
今世紀以降ということになると,2008年にアイビスサマーダッシュとセントウルステークス,2009年にアイビスサマーダッシュを勝ったカノヤザクラ がこの牝系を出自としています。
個々の観念ideaと個々の意志作用volitioは同一です。ですから一端が固定しもう一端が運動する直線を肯定する意志作用と円の観念は同じものです。同様に直線部分を軸として一回転する半円を肯定する意志作用と球の観念は同一なのです。同一であるからには,前者が原因で後者が結果であることはありません。結果は原因と異なるものであるがゆえに結果といわれるのですし,原因は結果と異なるものであるがゆえに原因といわれ得るからです。実際の起成原因causa efficiensというのはこれらを肯定し同時に円や球の十全な観念idea adaequataを形成する知性intellectusそれ自身の能動actioなのであって,この能動が円や球の観念の十全性を保証しているのです。この意味では,原因が一律的に結果の十全性を保証していると考えた方がむしろ的確でしょう。
これは分かりにくいかもしれませんが,自由意志の否定 というのは神Deusに対してであれ人間に対してであれ,スピノザの哲学の眼目のひとつです。僕たちはあたかも直線や半円の運動motusを肯定する意志作用が原因となって円や球の十全な観念が結果として発生するというように思い込んでしまいがちですが,スピノザはそのようなことが生じるということ自体を認めません。一般的にいい換えれば,意志voluntasが原因となって観念が発生するということは認めないのです。ただし,第二部定理九 にあるように,個物res singularisの観念の原因はそれとは別の個物の観念でなければなりません。したがって個物Aの観念の原因はたとえば個物Bの観念であることになります。このとき,観念は意志作用がなければあることができないので,個物Aの観念にはそれに特有の意志作用があり,同じように個物Bの観念にもそれだけに特有の意志作用があります。この意味において個物Bに特有の意志作用が個物Aの観念の原因であるということは,それが的確な表現であるかどうかは別に,観念と意志作用が同一であるとみる限りで,成立することを僕は認めます。ただ,ここで述べている例は,円の観念や球の観念に特有の意志作用のことですから,そのような意志作用が円の観念や球の観念の起成原因であり得ないことは明白です。そう思ってしまうのは知性に自由な意志を想定するからだといえるでしょう。
4月30日のかきつばた記念 を制したサクセスエナジー の父はキンシャサノキセキ です。
父はフジキセキ 。ただしシャトル種牡馬としてオーストラリアに渡っていたときの産駒なので,キンシャサノキセキは日本産ではなくオーストラリア産。輸入されて日本で競走馬になりました。5代母がジョリーザザとローラローラ 姉妹の3代母にあたる同一牝系。
2歳12月にデビュー。新馬と翌年1月のオープンを連勝。重賞初挑戦のアーリントンカップは6着。4月のオープンも4着でしたがNHKマイルカップ は3着と善戦しました。
秋まで休養。10月に復帰した1600万は4着でしたが11月に1600万を勝ち,中1週でマイルチャンピオンシップ に挑戦。ダイワメジャー の5着。
4歳になり京都金杯を6着,阪急杯を4着の後,4月にオープンで3勝目。
秋のセントウルステークスで復帰し3着。11月にオープンで4勝目。
5歳になって京都金杯は10着,阪急杯は5着でしたが高松宮記念 で2着に入りました。
7月の函館スプリントステークスで重賞初制覇。キーンランドカップは3着,スプリンターズステークス は2着でした。
6歳の春はオーシャンステークスが10着,高松宮記念 も10着と苦戦。
秋になってスプリンターズステークス は10着とまた大敗でしたがスワンステークスで重賞2勝目。すると阪神カップも勝って重賞3勝目。
7歳春にオーシャンステークスを勝って重賞4勝目。続く高松宮記念 も勝ち,4連勝で大レース制覇を達成しました。
秋の復帰戦に予定していたセントウルステークスは出走取消。ぶっつけとなったスプリンターズステークス は香港馬の2着。マイルチャンピオンシップ は13着でしたが阪神カップは連覇を達成しました。この年はJRA賞 の最優秀短距離馬を受賞。
8歳になり,オーシャンステークスは2着だったものの高松宮記念 は連覇を達成。これで引退となりました。
南半球産なので9月産まれ。若い頃は素質だけで走っていたもの。それにしても6歳秋以降の本格化は遅い感じも受けますが,たぶんこの馬に適した調教方法というものを陣営もようやく理解し始めたということもあったのではないかと思います。とはいえ高齢まで能力の衰えをみせなかったのは長所のひとつで,種牡馬としての魅力のひとつになるかもしれません。
ここでもう一度,スピノザが定義 Definitioの条件として示している事柄を確認しておきましょう。
スピノザは定義の目的として,定義されるものが知性intellectusによって十全に認識されること,いい換えれば能動的に認識されることすなわち概念されることに資することをあげていて,かつそれ以外のいかなることにも資する必要はないといっています。だから定義のうちには,それに資することができるのであれば,虚構が含まれていて構わないと解することができるでしょう。そして,円とは一端が固定しもう一端が運動する直線によって形成される図形であるとか,球とは半円が直線部分を軸として一回転することによって形成される図形であるといった定義は,確かに知性が円や球を十全に認識するcognoscereつまり概念するconcipereために資するのであって,その起成原因causa efficiensの部分は,少なくとも現実的に存在する円や球に対して虚構であって構わないということになるのです。
したがって,もしこの虚構の部分を,直線とか半円の観念ideaとみなすなら,それは混乱した観念idea inadaequataなのです。直線や半円が円や球の定義のうちに示された運動motusをするということは,それらの十全な観念idea adaequataから帰結しているわけではなく,知性の能動的な肯定affirmatioという意志作用 volitioから発生しているのであり,これは円や球の十全な観念との関係なしには十全adaequatumであるとみなすことができないからです。逆にいえばこのように示されている直線や半円の運動の観念というのは,それが円や球の観念と関係しているとみられるなら混乱した観念ではなく十全な観念です。したがってこれでみれば,起成原因の観念の十全性すなわち真理性を保証しているのは,結果effectusとして生じている円や球の十全な観念の方であるという見方をすることも可能でしょう。このために僕は,第四部定理四〇 のうち,この定理Propositioそのものに示されていることだけが観念の十全性を保証しているわけではなく,この定理の4つの意味 のうちにある,十全な観念は十全な観念だけから生じるということとの組み合わせで,全体の十全性が保証されていると解した方がよいと考えているのです。
ただし実際には,結果の十全性が原因の十全性を保証するというのとは違っています。
昨晩の第10回川崎マイラーズ 。
先手を取りにいったウェイトアンドシーが注文通りの逃げに。向正面では2馬身ほどのリード。2番手はタイムズアローとオメガヴェンデッタ。4馬身ほど開いてムサシキングオーが4番手。5番手にはジョーオリオンとオウマタイム。7番手にヨヨギマックとポイントブランク。9番手はキスミープリンス。10番手にインフォーマー,ラインハート,バルダッサーレの3頭。ジャーニーマンとセイスコーピオンは並んで最後尾で縦長の隊列。前半の800mは49秒1のハイペース。
3コーナーを前にタイムズアローは脱落。単独の2番手に上がったオメガヴェンデッタがウェイトアンドシーに並び掛け,雁行でコーナーを回って直線に。ムサシキングオーが3番手まで追い上げていましたが前の2頭とは差があり,直線は2頭のマッチレース。オメガヴェンデッタはアタマ差くらいまでは詰め寄るのですがどうしても前に出ることができず,長い競り合いを制したウェイトアンドシーが優勝。オメガヴェンデッタがクビ差で2着。流れ込むような形でムサシキングオーが2馬身半差で3着。
優勝したウェイトアンドシー は南関東重賞初挑戦での優勝。昨年暮れまではJRAで走り3勝。1000万条件では大敗が目立ちましたが2着と3着が1回ずつありました。南関東転入初戦となった2月のB1のレースを勝つと3月にA2下のレースも勝ち,先月のJRA交流の準重賞も制覇。3連勝でここに向かっていました。1000万条件で入着できる馬は水が合えば南関東重賞なら通用する力があり,この馬の場合は転入が大成功だったというケースでしょう。7歳馬ですから上積みは見込みづらいと思いますが,スピード能力を生かせるようなレース展開になれば,南関東重賞での好走は今後も必至だと思われます。父はオレハマッテルゼ 。母の従兄に2001年にCBC賞を勝ったリキアイタイカン 。
騎乗した川崎の今野忠成騎手は先週の東京プリンセス賞 に続く南関東重賞36勝目。川崎マイラーズは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師 は南関東重賞は29勝目。第6回 ,9回 に続き連覇で川崎マイラーズ3勝目。
ある知性intellectusが,一端が固定しもう一端が運動することを直線について肯定する意志作用 volitioの起成原因causa efficiensは,その知性それ自身であるというのがスピノザの考え方です。そしてこれにより直線の観念ideaによってその知性は円を概念するconcipereことができるのです。
ここではスピノザが第二部定義三説明 でいっていること,すなわち概念と知覚 は異なるということを踏まえておかなければなりません。実際に僕たちは直線のこの運動motusを知覚するpercipereこともあります。いい換えれば表象するimaginariこともあります。それは現実的に直線がそう運動することを知覚する場合もあるでしょうし,またかつてそう運動した直線を想起する場合もあるでしょう。さらに実際に直線を表象することによって,その直線についてその運動を想像するという場合もあり得ます。ただこれらはいずれも表象imaginatioすなわち知覚percipioであって,概念conceptusとは異なります。したがってもしそのようにしてある知性のうちに円の観念が生起することがあるなら,その観念は混乱した観念idea inadaequataです。なぜならそれはどの場合でも,現実的に存在する直線の観念が原因の一部を構成している,いい換えれば部分的原因causa partialisを構成しているのであって,この観念を生起させる知性もその原因ですが,同様に部分的原因であるからです。
これと異なり,スピノザ円の定義Definitioに示している事柄を直線についてある知性が十全な原因causa adaequataとして肯定しているとき,生起する円の観念は知覚とは異なる概念であるのです。したがって第三部定義二 により,僕たちは何事かを知覚する場合には働きを受けているのであり,何事かを概念する場合には働いているのです。よって第三部定理一 また第三部定理三 により,僕たちは何事かを知覚するなら混乱した観念を有しているのであり,何事かを概念するのなら十全な観念を有していることになります。このようにして円の定義もここでは説明しなかった球の定義も,虚構を含んではいるのですが,知性がそれを概念する限りでは虚偽falsitasではないのです。むしろ真理veritasです。いい換えればそうして生起する円の観念も球の観念も,十全な観念にして真の観念idea veraであるのです。
これが原因と結果の組合せということで僕がいわんとすることです。