スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
香港から1頭が遠征してきた第52回スプリンターズステークス。
逃げる意欲をみせたのはワンスインナムーン,ラブカンプー,ナックビーナスの3頭。まずワンスインナムーンとラブカンプーが出てナックビーナスは控えました。さらにワンスインナムーンが飛ばして控えた2番手のラブカンプーとの差を広げていく形に。4番手にラインスピリット,5番手にセイウンコウセイでここまでが先行グループ。3馬身離れてアレスバローズ,ファインニードル,ヒルノデイバローと続き,その後ろはスノードラゴン,キャンベルジュニア,ラッキーバブルズの3頭。ダイメイプリンセスがその後ろでさらにレッツゴードンキとレッドファルクス。後方2番手にティーハーフで最後尾がムーンクエイクという隊列。前半の600mは33秒0で,最近のスプリント戦としては超ハイペース。
逃げたワンスインナムーンと2番手のラブカンプーの差はコーナーで詰まっていき,外のナックビーナス,内のラインスピリットも射程圏内に。直線はワンスインナムーンが一杯になりラブカンプーとナックビーナスの競り合い。これはラブカンプーが振り切りましたが,馬場の外目をファインニードルが楽々と伸び,差し切って優勝。ラブカンプーがクビ差で2着。最内からラブカンプーの外へ進路を変更したラインスピリットが半馬身差で3着。
優勝したファインニードルは前哨戦のセントウルステークスから連勝。高松宮記念以来の大レース2勝目。着差は大きくありませんでしたが,楽勝といっていいくらいの内容で,文句なしに現時点でスプリント路線では日本のトップでしょう。このレースは馬場が悪くなると前の馬が残る傾向が高く,稍重までしか悪化しなかったのは幸いだったかもしれません。父はアドマイヤムーン。Fine Needleは細い針。
騎乗した川田将雅騎手は高松宮記念以来の大レース16勝目。スプリンターズステークスは初勝利。管理している高橋義忠調教師は高松宮記念以来の大レース2勝目。
母の場合で考えましょう。
母は家にいるときはかつて入院していたときのことを想起します。そこに喜びlaetitiaを発見すれば,それを実現しようというコナトゥスconatusが働きます。ですから喜びを見出す限り,家にいるときに病院の方がいいと感じることになります。さらにここには単なる想起memoriaだけでなく,表象の種類でいう想像が加わるケースがあります。すなわち,家で痛みを抱えて生活している場合,入院すればその痛みから解放されると想像する,他面からいえば痛みから解放されている自分を想像するなら,入院したいという思いはさらに強くなるでしょう。このことは論理的には第三部定理二五から明らかですが,むしろ経験的に僕たちがよく知っているところでしょう。
入院すると,家にいたときの喜びが想起される限りで,同様のことが生じます。なので病院にいる場合には,家の方がよいと思うようになるのです。第三部定理三六は,かつて享楽したものを同様の条件で希求すると述べられていますが,このことはそもそも僕たちには失われた喜びを取り戻そうとするコナトゥスがあると理解できるわけで,家にいるときは入院しているときの喜びが,逆に病院にいる場合には家にいたときに感じることができた喜びが,少なくとも部分的には失われているわけですから,こうしたことがなお生じやすいのは当然といえるでしょう。すなわちこれはごく自然な人間の現実的本性actualis essentiaの発露であり,我儘というのとは異なるのです。
こうした傾向conatusは,自分が悲しみtristitiaを感じている場合になお発現しやすいといえます。なぜなら僕たちは悲しみを忌避し喜びを希求しようとするので,現にある悲しみよりかつて感じた喜びの方を追い求めるからです。したがって,僕たちは,現に悲しみを感じているという場合には,現に起こっていない事柄についてわりと楽観的に表象するimaginariという傾向をもっていることになります。なぜなら現に起きていることが悲しみであれば,現に起こっていない事柄は希求されるべき喜びであると表象されやすくなるからです。
たぶんこのことは,他人のことばかりでなく,自分自身について考える場合にも,よく覚えておいた方がいいでしょう。
昨日の第26期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は中村真梨花女流三段が1勝,谷口由紀女流二段が10勝。谷口二段の10勝のうちひとつは不戦勝です。
振駒で中村三段の先手。後手となった谷口二段の三間飛車に先手の向飛車という相振飛車になりました。
この将棋はたぶん先手が早くに形を決めてしまったため6筋方面で後手に動かれ,手損をしてしまったのが響いたのだと思います。
互いに端歩を突き合った局面。先手の3九の銀は,2八に上がったのを,盤面の左側での動きに対応するために引いたものです。
先手はここでまた☗2八銀と上がりました。このときに☖2四歩と突いたのがよい牽制の一手。先手は銀を上がった目的を達成するために☗2六歩と突いて銀冠を目指したのですが☖2五歩☗同歩☖2六歩と垂らされました。
この垂れ歩が強力で,これ以降は終局までずっと後手がリードしていたのではないかと思います。先手は第1図から銀冠を目指そうとするのは無理で,銀冠を目指すのであれば銀は2八のままで引かずに対応するほかなかったのではないでしょうか。
谷口二段が挑戦者に。一昨年以来の三番勝負出場。第一局は11月6日です。
退院決定は病院から強要されたわけでなく,少なからず母の意向も介在しています。これはフェンタニルパッチの効果で疼痛に襲われる頻度も強度も低下したため,家で生活することができると母が判断できたためでしょう。
母はつい先日は家で生活するのは辛いので入院したいという希望を有し,入院して少し楽になったら家で生活したいという希望を有するようになったわけです。人によってはこう短期間に希望が変わるのを我儘であると感じるかもしれません。ですが僕の考えでいえば,これは人間の現実的本性actualis essentiaに実に適合した変化なのです。単純にいえば,人は家にいるときには病院の方がいいと思い,逆に病院にいる場合には家の方がよいと思うようにできているのです。
『エチカ』にはこのことをそのまま示したような定理Propositioは残念ながらありません。しかし似たようなニュアンスのことをいっている定理はあります。それは第三部定理三六です。
「かつて享楽したものを想起する人は,最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する」。
僕たちがかつて何らかの喜びlaetitiaを感じていたとします。そのとき,その喜びと同時に表象されたものは,第三部定理一五によって喜びの原因であるとみなされるようになります。これはそのものが本当に喜びの原因であるのかないのかということとは関係ありません。第三部定理二八は,僕たちに喜びを齎すと表象するimaginariものについては,そのすべてを実現しようとするコナトゥスconatusが働くという主旨のことをいっています。このために,かつて何かによって喜びを感じた人間は,その喜びを想起する場合には,その喜びと共に表象されたすべてのものを実現しようとするコナトゥスが働くことになるのです。第三部定理七は,このコナトゥスこそ現実的本性であるといっていますから,第三部定理三六でいわれていることは,僕たちの現実的本性によって僕たちに生じるということになります。
僕たちが何かを想起するとき,その想起されたものは,表象の種類でいえば知覚の対象,すなわち現にあると表象される場合もあれば,そうでない場合もあります。ここではそうでない場合が重要です。
一昨日,昨日と千代田区で指された第59期王位戦七番勝負第七局。
振駒で豊島将之棋聖の先手。菅井竜也王位の角道オープン四間飛車から相穴熊に。先手は序盤にかなり手損をしたのですが,中盤は後手がひとり千日手のような指し回しになり,先手だけが銀冠穴熊に組むことに成功。序盤の手損は周到な作戦で,うまくいったのではないでしょうか。
後手が6三にいた銀を引いた局面。ここは☗6六歩と打っておくのが穏当な指し方ですが,先手は☗6六銀と出ました。
これは思い切った手です。なぜなら後手は☖6二飛と回るのが狙いでそれには☗6五歩と打つほかありません。このときにやや働きの悪い金を☖5四金と使う手があり,次の☖6五金を防ぐには☗7七桂と跳ねるほかないからです。
穴熊の桂馬を跳ねるのは玉を弱くするのでとても指しにくいところ。それでもこう進めたのは,歩を打つのではなく銀を使うという不退転の決意のようなものが感じられます。この将棋は後手が途中から悲観的になってしまったようですが,実際には終盤で先手が飛車を取るところまで難しかったと思われます。穴熊の桂馬を跳ねた先手の気迫に後手が押されてしまったような将棋という印象が残りました。
4勝3敗で豊島棋聖が王位を奪取。7月に棋聖を初タイトルとして獲得したばかりで早くも通算で2期目のタイトルとなりました。
6月4日,月曜日。妹を通所の作業所に送って行きました。この日は妹のグループホームの責任者,すなわち3月まで妹の担当者であったSさんがいました。僕はSさんから,母に1度だけでも会っておきたいという希望を伝えられました。母は見学のために通所施設とグループホームに行っていますが,そのときはSさんはいなかったのです。現状は入院していて,退院してくる可能性の方が高くなりつつありましたが,元々はそのまま緩和病棟に入る可能性もあったわけで,そうならないとも限りません。ですから会うとなれば病院に来てもらうのがよいように思えました。ただ,Sさんと母は会ったことがないですから,Sさんがひとりで行くというわけにはいかず,僕が仲介するような形でなければなりません。なのでSさんは僕に打診をしてきたのです。この日は都合を合わせることができませんでしたので,水曜の夜に電話で具体的な日程を決定することになりました。
伯母はこの日に帰国しました。僕が妹を送っている間に家を出ています。午後は母の見舞いに行きました。
6月5日,火曜日。この日も午後に見舞いに行きましたが,12日に退院するということが決定したと母に伝えられました。退院後の家での生活のための準備が必要となったわけですが,相談員はまだ来ていないとのことでした。
6月6日,水曜日。母がフェンタニルパッチを使用し始めたのは3日の日曜でしたから,この日が最初の貼り換えの日でした。母はワンデュロパッチは家でひとりで貼り換えていましたが,現状は入院しているので,看護師が貼り換えてくれます。ただ,母は入浴前に剥がし入浴後に貼るというパターンでしたが,病院では作業の都合があり,午後2時に貼り換えるということになっていました。母はこのパッチを使用し続けることになるのですが,この時間は家でも変わることはありませんでした。また,これはワンデュロパッチより大きく薄いものでしたから,とても貼りにくくはあったのですが,基本的に母は自分でやり続けました。僕は手伝うことはありましたが,きちんと貼れているかどうかを最後に確認するだけというケースがほとんどでした。
25日に放映された第26回銀河戦の決勝。対局日は8月18日。対戦成績は佐藤天彦名人が5勝,行方尚史八段が2勝。
振駒で行方八段が先手。相掛かりの引き飛車から縦歩棒銀でしたので,後手の佐藤名人は浮き飛車に。先手の速攻,後手の斬新な受け方,さらに中盤の大きな振り替りと,見どころが多い将棋。最後も有利不利が何度か入れ替わりました。
後手が☖5五桂と王手して,先手玉が6七から逃げた局面。ここは後手有利だったと思いますが,次の☖7四銀はあまりよくありませんでした。
これで詰めろで受けがなければ後手が勝ちですが先手は☗7二馬。後手は☖7七金と王手して☗6六玉☖8七金☗5六玉と追いましたがそこで続かなくなって☖8一歩と受けました。これは変調で,それなら第1図は銀を温存したまま☖7七金と打った方がよかったでしょう。
第2図から先手は☗4六王と寄って☖7七馬に☗5五龍☖同馬☗同玉と進めました。これは第2図で☗5五龍なら同じ局面になったと思われますので,時間を稼いだか,誤算があったかのどちらかです。第2図は先手が有利になっていると思いますが,先手には迷いがあったことを証拠立てる手順でした。
後手は☖2五飛と打って☗4五桂に☖2七飛成と銀を取りました。先手は飛車を渡しても自玉は大丈夫とみていたのでしょうが,龍は後手玉が2筋方面に逃げたときの受けによく効いています。つまりそれだけ後手玉が寄せにくくなったので,トータルでは後手が得をしていたのではないでしょうか。なので第2図ではすぐに☗6二馬なり☗7三馬なりで攻めてしまうのが有力だったと思われます。
実戦はこの後で☗6二馬。後手は☖5四銀☗6六玉と追ってから☖5二金と寄りました。先手は☗4二歩と叩いて☖同王。
第3図から☗5三桂成☖同金と進めたのが最終的な敗着だったと思います。これは4五に桂馬を合駒したときからの狙いだったかもしれませんが,第3図はたぶん☗9二飛成とするほかなく,それで先手が有望だったのではないでしょうか。実戦は☗7六玉と早逃げしたときに渡した桂馬で☖7五桂と縛られました。
第4図は受けるなら☗5六角ですが受けきることはできそうにありません。よって後手玉を詰ますほかなくなりましたが,これは2七の龍が強力で詰まず,後手の勝ちになりました。
佐藤名人が優勝。一昨年の叡王戦以来となる4度目の棋戦優勝。銀河戦は初優勝です。
6月1日,金曜日。妹を迎えに行きました。
2010年の小脳出血,昨年の大腸癌を切除するための手術,そして最初の抗癌剤治療を施すときと,父の死後は母は3度の入院があり,母の入院中は僕は必ず見舞いに行っていましたが,この日は行くことができませんでした。緩和病棟というのは24時間いつでも見舞いに行くことが可能ですが,このときに母が入院していたのは消化器内科の病棟で,見舞いは午後3時から8時までの間と定められていたからです。前の3回の入院のときは妹はまだグループホームに入所していませんでしたから,送迎の必要はありませんでした。だからそれが可能になっていたのですが,迎えに行く場合は作業所に午後3時に行かなければならないので,もし見舞いに行くとすれば妹も一緒でなければなりません。しかしそれは妹に過度の負担をかけてしまうことになります。なので見舞いの方を断念することにしました。ただ,このときは幸いにも伯母の来日中でしたから,伯母が見舞いに行っています。
なお,母が書いていたノートはこの6月1日が最後で,それ以降は簡易的なメモ書きが残されているだけです。
6月2日,土曜日。この日は妹と見舞いに行きました。
6月3日,日曜日。この日は妹は伯母と早い時間に病院に行き,病院の食堂で昼食を済ませてから母を見舞いました。土曜と日曜は午後1時から見舞いが許されているので,こうしたことが可能になっているのです。僕はひとりで午後から見舞いに行きました。
母はこの日から使用する麻薬が変更になりました。入院中に処方される薬剤はおくすり手帳に記録が残らないのではっきりとしたことはいえませんが,たぶんフェンタニルパッチというものであったと思われます。母が使ったのはおそらく8.4㎎というもので,ワンデュロパッチのように効果が24時間すなわち1日ではなく,3日でした。つまり貼ったら3日後にまた貼り換えるというものです。当然ながら大きさは大きくなりましたが,とても薄手のものでしたから,貼りにくさというのは増しました。ただし母にはこの薬剤はかなり効果的で,疼痛の強さも頻度も著しく減少しました。
第三部諸感情の定義一一には説明が付されていて,スピノザは次のようにいっています。
「人がその嘲弄するものを憎んでもいるということを我々は仮定しているのであるから,その帰結として,この喜びは基礎の固いものではないということになる」。
簡単にいえば,嘲弄という喜びlaetitiaは,基礎が固い喜びではないということです。スピノザは憎んでいるものが悲しんでいると表象するimaginari人は喜びを感じるとした第三部定理二三の直後の備考Scholiumで,しかしその喜びは基礎が固くないといっていますが,嘲弄の場合にもこれと同じことが当て嵌まるのです。
その定義Definitioから直ちに理解できるように,嘲弄という喜びは僕たちが何かを憎んでいないのなら発生することがない喜びです。軽蔑していることが憎んでいるものの中にあると表象することによって感じる喜びが嘲弄といわれるのですから,仮にあるものに軽蔑すべき点が含まれていると表象したとしても,その人間を憎んでいるのでなければ嘲弄には至らないからです。
第三部諸感情の定義七から分かるように,憎しみodiumというのは悲しみtristitiaの一種です。これに対して嘲弄は喜びなので,嘲弄を感じている人間は,基本感情affectus primariiのうち喜びと悲しみを同時に感じている人間であるということになります。しかるに喜びと悲しみは反対感情です。まずこのことから,嘲弄が基礎が固くない喜びであることが理解できます。
同時に,嘲弄は憎んでいるものについて軽蔑すべき点をを表象することによって生じる喜びです。つまり単に喜びと悲しみという反対感情を感じているというだけではなく,相反する感情を感じているのだということができます。Aを憎みつつ,Aに軽蔑すべき点を見出して嘲弄するのは,Aによって悲しみと喜びの両方に刺激されていることになるからです。
つまり嘲弄とは,一種の心情の動揺animi fluctuatioであるということができます。そのゆえに,喜びとして固い基礎を有することができないといえることになるのです。
母が戻りましたので僕たちは入院支援センターに向いました。これは必要な書類を受け取るためです。すぐに受け取ることができましたので,7階の病室に向いました。
入院中は食事は提供されますが,この日の昼食は用意することができないとのことでした。母は食欲が湧かなかったこともあり,院内の食堂で食事を摂る気にはなれませんでした。そこで僕はやはり院内のコンビニエンスストアで,母が食べられそうなものを見繕って買い,母にそれを渡した後,ひとりで食堂で食事をしました。僕もコンビニエンスストアの弁当などを買って食べてもよかった,というかそうしたいところではありましたが,この病室ではそれは不可能だったのです。食事をしたのが午後1時半ごろ。また病室に戻り,母の様子を少し見てから僕は帰りました。帰宅したのは午後2時45分でした。
この日はピアノの調律が予定されていました。なので伯母には家で待機してもらっていたのですが,僕が帰ったときには調律はすでに終わっていました。また荷物を持っていかなければならないから帰ってきたのですが,調律が終っていましたから,荷物は伯母が持っていってくれることになりました。
5月31日,木曜日。母の見舞いに行ったところ,現在の状況で緩和病棟に入院することは難しいと伝えられたとのことでした。実際のところ,父が抗癌剤による治療をすることさえできなくなって最後に退院してきたときの状態と比較したら,このときの母はよほど元気であったといえます。ですから,痛みを抑えることができれば退院してくる可能性があるということは,僕も理解しました。実際に退院してくるようなら家で生活するための準備も必要とされるでしょう。そうなる可能性があるという心構えができたというような意味に理解して下さい。
以前に処方された薬剤のうち,鎮痛剤のオプソは残っていたものを病室に持っていってありました。それは飲んでもいいとのことでしたから,この日は母は2回飲んだようです。気持ちの上でいえば,家にいるよりは病院にいる方が,母は安心感は強かったようです。そのためか,痛みも痒みも家より少ないとのことでした。
向日町記念の決勝。並びは金子‐杉森‐斉藤の東日本,三谷‐山田‐藤木‐村上の近畿,清水‐岩津の中国。
村上がスタートを取って三谷の前受け。5番手に清水,7番手に金子で周回。残り3周のバックの出口から金子が上昇していくと清水も合わせて動きました。3つのラインが併走するような形で残り2周のホームに入って誘導が退避。前に出たのは清水。金子はすぐには動いていかず,バックに入ってから発進。引いていた三谷も発進して打鐘から先行争い。ホームの出口の手前で三谷が叩ききりました。後ろになった清水が動いていったもののバックの半ばで山田が番手から発進。マークの藤木が清水をブロックして清水は脱落。藤木が直線から踏み込んで優勝。山田と藤木の中を割った村上が4分の3車輪差の2着で京都のワンツー。清水の番手から大外を伸びた岩津が4分の3車輪差で3着。
優勝した京都の藤木裕選手は5月に取手のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は2013年4月の武雄記念以来となる3勝目。このレースは三谷が勝ちにいく競走をすれば有利なメンバー構成。ただ,後ろが最も実績の薄い山田で,さらに藤木が3番手,実績的に最上位の村上が4番手ということで,後ろを引き出す競走に徹する可能性の方が高そうで,そうなれば山田と藤木の優勝争いになるのではないかとみていました。今年だけでGⅠを2勝もしている選手が死に駆けをするのはどうかと思わないではないですが,この並びを受け入れたということは,三谷も最初からそういう心積もりであったのでしょう。金子がうまく駆けたので展開的には清水が有利になりましたが,藤木はそれを止めての優勝ですから,内容としては相応しいものであったと思います。
5月28日,月曜日。叔父が福江島に帰りました。飛行機の関係で家を出たのは8時20分でした。僕はその後に妹を送りました。
5月30日,水曜日。母の消化器内科の通院の日でした。事前に言われていた通り,母は入院の希望を主治医に伝えるつもりでした。
9時に家を出て,9時半に病院に着きました。通常の通院ですから,検査は必要でまず中央検査室に。4人の患者が待っていました。採血を終えて消化器内科の受付を済ませると,すぐ処置室に入れてもらい,ベッドに横になって待機していました。母は目眩も感じていたようです。
まず看護師が来て問診が行われました。母はこのときに,入院したいという旨を伝達しました。たぶんこのことがあったからだと思うのですが,主治医による診察は正午になりました。入院には手続きが必要ですから時間が掛かるため,ほかの患者を先に診察したのではないかと推測します。
母は主治医に対しても入院を希望する意志を伝えました。母が主治医に強く訴えたことはふたつありました。ひとつは最も辛さを感じているのは疼痛であり,薬によってそれが緩和されると痒みが発生するということでした。もうひとつは下痢の症状が継続しているということで,その際に出血を伴っているということでした。ですからその二点を集中的に治療するため,消化器内科の病棟に入院するということが決定しました。主治医によれば,場合によってはそのまま緩和病棟に移動するという可能性はあるけれど,現時点での状況は,緩和病棟に入るまで悪化しているわけではないということでした。
入院のため検査が必要とのことで,心電図とレントゲン撮影が行われました。これは車椅子で看護師が移動させてくれましたので,僕は付き添っていません。この日はある予定があったために,家で伯母が待っていましたので,この間に僕は入院の決定を電話で伝えました。入院する意志があったので,必要な荷物の一式はバッグに詰めてありました。必ず入院できるわけではないので置いてきたのです。それが必要になったという報告の意味の電話でもありました。母が処置室に戻ってきたのは12時40分でした。
第29回テレ玉杯オーバルスプリント。
枠内での挙動は不安定でしたが発馬を決めたノブワイルドの逃げ。ネロが2番手でマーク。3番手にスアデラとウインムートでこの4頭が先行集団。3馬身差でアンサンブルライフ,2馬身差でサトノタイガー,1馬身差でオウケンビリーヴ,3馬身差でドライヴナイト。ここからは6馬身くらい離れてトーセンハルカゼ。3馬身差でコスモマイギフト。最後尾にメジャーアスリートとかなり縦長の隊列になりました。前半の600mは35秒2のハイペース。
3コーナー手前でウインムートは手が動き出し脱落。コーナーではノブワイルドがネロとの差を広げだし,ネロは押して何とかついていく形。内を回ったスアデラも喰らいつきはしましたが苦しくなりました。外を回って追い上げてきたのがオウケンビリーヴ。直線ではノブワイルドがネロを振り切って抜け出しました。ネロの外から追ってきたオウケンビリーヴと,後方から馬群の中を抜け最後にオウケンビリーヴの外に出てきたトーセンハルカゼの2頭がフィニッシュに向けてワンサイドで差を詰めるも届かず,優勝はノブワイルド。4分の3馬身差の2着にオウケンビリーヴでこれに迫ったトーセンハルカゼがハナ差で3着。
優勝したノブワイルドはJRAでデビュー。1勝して3歳夏に南関東に転入。順調に使い込めない時期もあり,今年の4月にようやくA2戦を勝ちました。その後の3戦は勝てず,前走は再びA2以下のレース。これが浦和の1400mで,2着に2秒5もの差をつける圧巻の逃げ切り。ワンサイドでしたからタイムも詰められそうで,ここでもチャンスはありそうだと考えていました。スピード能力を生かしきってぎりぎりで粘り切ったという内容で,能力の高さは評価する必要がありますが,好走するためには条件が必要とされる馬ではないかと思います。父はヴァーミリアン。祖母は1987年に金杯(東)を勝ったトチノニシキ。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年のクラスターカップ以来となる重賞9勝目。このレースは格付けと名称に変遷がありますが,第10回,第20回に続き9年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント3勝目。管理している小久保智調教師も昨年のクラスターカップ以来の重賞制覇で通算3勝目。第19回以来10年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント2勝目。
5月24日,木曜日。ワンデュロパッチが大きくなり,そのためか眠ってばかりいる状況になったので,週末の様子次第で入院したいという旨が母から告げられました。前日の通院のときにも主治医から入院を打診され,母は断っていたのですが,入院したいと思えば入院することができることは理解しましたので,そちらの方向に心が傾いたようです。週末の様子次第,というのは,翌週にまた通院の予約を入れてもらってありましたので,そのときに入院する意志を主治医に告げるという意味です。母は眠ってばかりいるのでは役に立たたないことを理由に挙げていましたが,実際にはこの日もパッチを貼るだけでなく鎮痛剤のオプソも飲んでいたように,痛みと共に生活し続けることに嫌気がさしてきたのだろうと思います。
僕は延命治療の断念についても,母の意向を尊重することがベストであると考えていたように,もう終末期に入っている母の希望に沿うようにすべてを決定するのがよいと判断していました。ですから母が入院したいという意向を示したことに反対する理由はありませんでした。家がよいと思えば家にいればいいし,病院に入りたいのならそうすればよいと思っていたわけです。家にいたら家にいたで大変なこともあり,入院したら入院したで大変になることもあるわけで,どちらが大変か,他面からいえばどちらが僕にとって楽であるかということは,まったく気になりませんでした。
5月25日,金曜日。妹を迎えに行きました。薬が強くなって母は横になっていることが多くなりましたので,妹も母のことを変に思い出したのではないかと思います。この日は母はオプソを3度飲みました。
5月26日,土曜日。来日中の伯母が妹を昼食に連れ出してくれました。母のオプソの服用はこの日は2度でした。
5月27日,日曜日。同窓会以降は友人宅に宿泊していた叔父が,午後5時ごろに来訪しました。福江島への帰島が翌日でしたので,最後に僕の家で1泊して帰ることにしていたのです。23日に主治医に入院を打診されたときに母が断った理由のひとつに,もう1度だけ叔父と家で会いたい気持ちがあったのかもしれません。
小鹿の雑感⑥で大熊元司が話題になった後,その中心はロッキー・羽田に移ります。
僕のプロレスキャリアが始まったとき,羽田は中堅選手のひとりでした。俳優の津村鷹志さんに似ていたという印象が残っていますが,プロレスラーとしての印象はとくにありませんし,大成することはできませんでした。背が高かったのは馬場の好みであったと思うのですが,体質的なものか肉があまりつかず,ひょろっとした体形で,同じように上背があったジャンボ・鶴田の陰に隠れてしまう形になったといえるでしょう。鶴田は不世出といっていいくらいの名レスラーですから,同じ時代に同じ団体に所属することになった羽田にとっては不運だったと思います。
グレート・小鹿によれば大相撲出身の羽田をプロレスにスカウトしたのは小鹿自身だったそうです。デビューは全日本プロレスではなく日本プロレスで,日本プロレスの崩壊によって全日本に移ってきた選手のひとりでした。天龍源一郎は小鹿は何かにつけて羽田のことを気に留めていて,日本プロレス出身者の絆は固いのだと感じていたそうです。ただ,小鹿のスカウトによって羽田がプロレスデビューをしたということは知らなかったようです。もし知っていたら,小鹿が羽田のことを気にかけるのは当然というように受け止めたかもしれませんので,天龍の日本プロレス出身者に対する見方も少し変わっていた可能性もあるかと思います。
天龍と羽田は1977年9月に60分時間切れ引き分けという試合をしたことがあるそうです。天龍が海外武者修行から帰国して全日本で試合をするようになったのはこの年の5月からでした。僕のキャリア開始時点である1981年秋には天龍は馬場,鶴田に次ぐ三番手という評価がほぼ固まっていました。約4年前にはそういう状況であったわけですから,羽田もそれなりの期待をかけられていた選手だったのは間違いなさそうです。
月曜の通院の帰りに薬局に寄ったとき,処方箋をFAXで送ってもらえれば薬を用意できるといわれていました。処方箋はすでに出ていましたので,院内の受付場所に行き,その処方箋を薬局にFAXで送ってもらいました。その後,院内の食堂で昼食を摂り,2時までは消化器内科の処置室で待機しました。
緩和ケア病棟では医師と看護師による説明が行われました。この説明は病棟の概要で,どういう患者が入院することが可能であるかとか,入院中にどういった治療を施すかといったことなどです。緩和ケア病棟は末期における苦痛を排除するということだけを目的としています。したがって,まず余命が限られていなければ入院はできません。さらに,延命治療を受けている場合も同様になります。施術は苦痛の緩和ですから,それ以外の治療,要するに病気を治すための治療は行わないとのことでした。母は延命治療は断念していますので,入院する資格はありました。なのでゆくゆくは入院したいという希望を示す書類にサインをして,面談は終了となりました。この書類は,サインをしておけば入院したいときに必ず入院することができるというものではありませんが,優先順位は上位になるというものです。
緩和ケア病棟は病院とは別施設という扱いですが,精算は同じでしたので,消化器内科の分と一緒に支払いをして帰りました。帰宅したのは2時55分でした。その後で薬局に行きましたが,事前にFAXをしておいたため,すべての薬剤を入手することができました。
この日は利尿剤は出ていませんので,鎮痛剤だけです。オプソ内服液は5㎎のもので前回と同じでしたが,ワンデュロパッチは前回の0.84㎎というものから1.7㎎というものに変更になりました。これは貼付薬ですから,パッチ自体が少し大きくなったと理解してください。母はパッチを貼るようになってからも痛みを感じることがあったので大きくなったのですが,実際にはこの大きさでも十分ではなかったようです。
前夜に来訪した叔父は,同窓会に出掛けました。母に会うのもありましたが,こちらが主目的ではあったようです。この日は友人宅に宿泊しました。
「それ以上言わないで」や「捨てるほどの愛でいいから」,あるいは「孤独の肖像1st.」といった楽曲は,別れを主題にした歌といっても,強い情念が剥き出しになっているとまではいえません。それは旋律にも表れているように僕には感じられます。ただ,僕は別れを主題とした楽曲として,こうした類のものだけを好むというわけではありません。これらとは明らかに系統が異なるものについてもいくつか紹介していきましょう。
まずは「わかれうた」も収録されている「愛していると云ってくれ」の中の「化粧」です。これはきわめて情念的な歌だといえるでしょう。
歌の場面は,ふられた女がふった男に最後に会いにゆくところです。最後に会う前の女の心情が綴られた作品です。楽曲のタイトルがなぜ「化粧」であるのかは,冒頭で分かります。
化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど
せめて今夜だけでも きれいになりたい
今夜あたしは あんたに逢いにゆくから
最後の最後に 逢いにゆくから
これが2番になるとさらに情念的になります。
化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど
今夜死んでもいいから きれいになりたい
こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと
最後の最後に あんたに思われたい
女が本当に化粧をするのかも分からないですし,そもそも本当に男に会いにいったのかも判然とはしません。あくまでも全曲を通して,女の心情だけが歌われているのだと僕は解しています。
5月23日,水曜日。母の消化器内科への通院の日でした。
家を出たのは9時。病院に着いたのは9時半でした。採血を15人ほどが待っていましたので,消化器内科の受付をすることができたのは9時45分でした。この後,診察を待っている間に母はトイレに行きましたが,下血があったとのことでした。診察室前の長椅子に横になっていますと,看護師が気付き,処置室に入れてもらい,ベッドで横になることができました。診察が始まったのは10時45分で,これもベッドに横になったままでした。
下血に関しては,どうしても生じる事象で,かつ出血を止めることも困難であるので,何らかの治療をするということはないし,治療しないのだから詳しく検査をする必要もないという話でした。ヘモグロビンは10.6㎎/㎗で,下限値である11.3㎎/㎗を下回っていましたし,赤血球数も333万/μℓで,下限値の376万/μℓを下回っていましたが,大幅に不足しているというわけでもないので,輸血をする必要もないとのことでした。
母はワンデュロパッチを使うようになってからはカロナールもオプソも服用していませんでした。ですがもし疼痛を感じるなら,そちらも服用するように強く勧められました。末期癌の患者が痛みを我慢するのはマイナスにしかならず,鎮痛剤を服用する方が少しだけでも長く生きることができるようになるのだそうです。ワンデュロパッチの使用は継続することになりましたが,前回より大きなものへと変更になりました。これについては後でもう少し詳しく説明します。
最後に,主治医から,今日のうちに入院することが可能だけれどもどうするかという質問がありました。母は痛みを抱えて生活していましたから,入院したいという気持ちはあったようですが,この日は断っています。ただ,おそらく病院にいる方が現時点では楽に暮らせそうなので,翌週に再び診察の予約を入れ,気持ちを確かめるということになりました。
この後,緩和ケア病棟での相談の予約が入っていました。これが午後2時からでした。時間がありますが,それまで処置室のベッドで待っていてもいいとのことでした。
京都で指された昨日の第66期王座戦五番勝負第二局。
中村太地王座の先手で角換り。先手から仕掛けた後,また長い駒組となり,後手の斎藤慎太郎七段から攻勢に出ました。
後手が☖6六歩と伸ばして先手が受けた局面。後手は歩を伸ばして希望が見えてきたという感想を残していますが,この大局観自体は正しかったようです。
後手は☖7七歩成と☗同銀と取って☖5六金と寄りました。これは緩手で,☖8九歩成とすれば☗同王は飛車が成られますから先手は何か攻めるほかなく,それから☖5六金と寄るのが優っていました。
先手は☗6四桂☖同銀と犠打を放って☗7四角と一旦は反撃に転じ☖6三桂まで打たせてから☗8八王。角を打っておいた方がよいという判断だったのでしょう。
また手番を得た後手は☖6七歩成☗同歩に☖7六歩と打ちましたがこれも緩手で,シンプルに☖6七同金なら勝ち筋でした。
☗同銀☖8四桂のときに先手は本格的な反撃に。それが☗6五銀打☖同桂☗同銀という手順。そのときに☖6三金と上がって催促する強手があり,後手が残していました。
緩手がふたつあって残っていたということは,第1図は実は後手がかなり優勢な局面だったのかもしれません。
斎藤七段が連勝。第三局は来月2日です。
僕が帰宅したのは午後5時5分でした。母は僕が通院している間,時間でいえば午後2時ごろですが,大量に下血したとのことでした。下血は以前にもあったので驚きはしませんが,それまでになく量が多かったようです。ただ,この下血があって,母は腹が楽になった感じがするとも言っていました。腹のむくみは感じていても,腹水は大量に溜っているわけではないという診断でしたから,むしろ出血した血液がどこかに溜まっていて,それがこの日になって一気に排出されたという可能性もあったのではないかと思います。
夜,といっても深夜の日付も変わった午前0時半過ぎに,福江島に移住していた叔父が来訪しました。こんな時間になってしまったのは航空機が遅れてしまったためです。この来訪はもちろん母に会うためで,ちょうど伯母もロサンゼルスから来日中でしたので,3人のきょうだいが揃ったということになります。3人が揃うのはこれが最後になりました。
5月22日,火曜日。伯母と叔父で日野公園墓地にある僕の家の墓参りに出掛けました。母はこの日は起きて購入した座椅子に腰掛けるよりも,ベッドで横になっている時間の方が長かったです。そっちの方が楽であるとのことでした。実はこれは,単にその状態だけの比較だけではありません。座椅子に座っていれば移動するには立ち上がらなければなりません。もちろんそれはベッドで横になっている場合にも同じです。しかしベッドは高さというものがありますから,足を下ろせばそのまま立ち上がることができます。ところが僕の家はフローリングに掘り炬燵という構造になっているため,座椅子から立ち上がる場合には尻を上げなければならないのです。この分が身体に負担をかけるので,床から立ち上がるよりはベッドから立ち上がる方が楽だったのです。
僕は前に,老後のことを考慮に入れるなら,椅子にテーブルという生活の方を勧めるという主旨のことをいいました。それはこの頃の母の状況をみて,痛切にそう感じたからです。もし僕の家が椅子にテーブルという形式になっていたら,この時期の母はもっと楽に暮らすことができたのではないかと今でも思っています。
自己の有に固執するperseverareということがいかなることであるのかということについて,僕の考え方を哲学的な仕方で詳しく説明しておきます。
現実的に存在する人間が自己の有esseに固執するというとき,原則的にはその現実的存在を維持する,すなわち生き永らえようとするコナトゥスconatusを有するということを意味します。おそらくニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはコナトゥスをこのような仕方で理解しました。そしてそれはスピノザとニーチェの対立のひとつを構成しています。ニーチェにとってこのようなコナトゥスは,反動的であるとしか理解できなかったからです。
しかし僕の考えでは,自己の有というのは単に現実的存在だけを意味するのではありません。第一部定理一一の第三の証明の基礎となっているように,存在するということはそれ自体で力potentiaであり,コナトゥスもまた力であるからです。つまり存在existentiaは力と切り離せないのであり,したがって自己の有を維持するということは,自己の力を維持するという意味も有していなければならないと僕は考えます。
スピノザの哲学における力は可能的なものではなくて現実的なものです。いい換えれば現実的になし得ること,あるいはなしていることが力です。よって,それまでになし得ていた事柄をなすことができなくなるというのは明らかに力の喪失ですから,これは自己の有の維持の喪失であるといえるのです。
ここにおいて,自己の現実的存在に固執するということと,自己の力に固執するということは,対立的であり得るのです。すなわち僕の母がそうであったように,化学療法を受けることによって現実的存在は伸ばせるが,副作用の影響でなし得たことがなし得なくなるとすれば,前者は自己の有に固執していますが,後者はそれと逆になるからです。よって人は,自己の力に固執することによって,現実的存在に固執することを放棄するという選択をすることもあり得るのです。
自己の有とはただ存在existentiaそのものを意味するのではありません。その存在に伴った力のことも意味しているのです。
5月21日,月曜日。妹を通所施設に送りました。午後は内分泌科の通院でした。
4月は予約時間間際に病院に到着したところ,わりと早く診察が開始になりましたので,この日は午後2時に病院に着きました。中央検査室で採血を待っている患者はなく,次が僕の番でしたので,すぐ採血。注射針の処理も済ませてから採尿をしました。
早く行ったのですがこの日は3月と同様に待たされ,診察が始まったのは午後4時でした。
HbA1cは7.2%と改善していました。また,サマリーに示された全体の低血糖の割合は1.3%で,こちらは変化がありませんでした。つまり低血糖を多く発症することなくHbA1cは低下したことになり,これはきわめて良好な状態だといえます。HbA1cが高くなっていたために通院の間隔が短くなっていたのですが,次からは従来通りの間隔に戻すことになりました。前回は平均が193.7㎎/㎗ときわめて高かった朝の血糖値が,151.6㎎/㎗まで下がっていまして,この分がHbA1cにも反映されていたと思われます。何か生活の改善を施したというわけではなく,おそらくこれは陽気の影響でしょう。実際に起きたときにとても寒いと,血糖値が高くなるという傾向が僕にはあったからです。主治医も,そのような影響を受ける患者は存在すると言っていました。
この日もトリグラセライドすなわち中性脂肪は46㎎/㎗で,下限値を下回っていました。ただこの数値は前回とほぼ同じであり,3月のように極端に低かったわけではありません。
帰りに薬局に寄りました。この日はインスリンも注射針も足りていました。同時に,あることを伝えられました。
母のワンデュロパッチはこの薬局で処方されました。もし次に同じように何らかの麻薬が病院で処方された場合,薬局に来る前に処方箋をFAXで送ってもらえれば,先に薬を用意しておくことができるというものでした。みなと赤十字病院には処方箋FAXというサービスがあり,そういう窓口があることは何度も通っていたので知っていたのですが,こういう場合に利用するものなのだということは,このときに初めて知りました。
北海道から1頭,金沢から1頭,名古屋から1頭,笠松から1頭が遠征してきた第55回東京記念。
軽く押してシュテルングランツがハナへ。カツゲキキトキトが2番手で追い上げてきたサブノクロヒョウが3番手。内で差がなくキングニミッツが4番手。5番手にステージインパクトとユーロビート。7番手にダイリュウハヤテとストロングサウザー。9番手がスギノグローアップとチェダー。以下,マイネルリボーン,クラージュドール,エスケイアリュール,ペイシャゴンジセの順で14頭は一団で1周目の正面を通過。後方2番手のウマノジョーと最後尾のカンムルは14頭からやや離れました。
2周目の向正面に入りキングニミッツとユーロビートはサブノクロヒョウと並んで3番手。3コーナー手前からシュテルングランツが差を広げにかかると,カツゲキキトキトは手が動き,サブノクロヒョウとキングニミッツは後退。ユーロビートがコーナーではカツゲキキトキトの外の3番手に。直線に入ったところの前3頭の差は縮まらず,広がらずといった直線の争いになり,そのまま逃げ切ったシュテルングランツが優勝。カツゲキキトキトが3馬身差で2着。ユーロビートが2馬身差で3着。
優勝したシュテルングランツはJRAデビュー。昨年の5月に準オープンを勝ってオープン入り。オープンでは7戦したものの掲示板に載れませんでした。今年の7月に浦和に転入して初戦が3着。2戦目にこのレースのトライアルを優勝。JRA準オープンを勝った実績からは当然の結果なのですが,前走は楽なペースで逃げ切ったという内容でしたので,過大な評価は危険ではないかと考えていました。今日も,前が止まりにくい不良馬場が味方した結果かもしれないので,まだその考えを捨てきることはできません。ただ,JRA時代はほとんどのレースで中距離戦に出走していたのですが,適性が長距離にあるというのは間違いないのではないかと思います。父はステイゴールド。Stern Glanzはドイツ語でスターの輝き。
騎乗した大井の的場文男騎手は昨年の東京シンデレラマイル以来の南関東重賞制覇。第19回,24回,31回,32回,35回,41回,42回に続き13年ぶりの東京記念8勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞は31勝目。東京記念は初勝利。
5月18日,金曜日。妹を迎えに行きました。同時にこの日は三者面談を行いました。グループホームの妹の担当者は4月から変更になりましたので,相手方は前回と変化がありました。
妹は夜,ベッドに入ると人名を連呼するという癖がありました。癖というか,これは本人なりの遊びだと思います。あたかも出席を取るように,次々と人の名前を口に出していきます。親戚だったり友人や職員あるいは先生,また芸能人など,様ざまな名前が出てきます。担当者の話ですと,妹はこれをグループホームでもやっているとのことでした。これは家でするのと同じようにグループホームの自分の部屋でも振舞っているということであり,そこでの生活に対する慣れが出てきたのではないかと僕には思えました。なので,あまりうるさくて他の利用者に迷惑をかけるようであれば注意してもいいが,そうでないのなら好きなようにやらせてやってほしいということを伝えました。妹はこのほかに,ベッドの中で歌うということもあるのですが,それはホームでは見受けられないとのことでした。もっとも,こうしたことを毎日するというわけではないですし,グループホームの宿直の担当者は日替わりですから,妹の担当者が宿直のときには,たまたま歌うことがなかったという巡り合わせだったかもしれません。この面談があったためにいつもより遅くなり,帰宅は午後5時15分になりました。
5月19日,土曜日。母は美容院に行くことができなくなって久しく,髪がだいぶ伸びていました。この日に伯母がカットしました。
5月20日,日曜日。ピアノのレッスンがありました。これは午後2時から。開始時刻の変更の連絡があったのは18日の金曜日でした。
母はワンデュロパッチを使うようになってから,それでもときおり痛みを感じることはあったようですが,カロナールやオプソといった鎮痛剤は服用していませんでした。この日はその痛みがだいぶ強く感じられたようです。とくに痛かったのは上腹部ということでした。これはおそらく,使用していたワンデュロパッチがごく小さいもので,もうこの時点では量として少なすぎたからだと思われます。
高知競輪場で争われた昨日の第34回共同通信社杯の決勝。並びは平原‐和田の東日本,太田‐清水の四国中国,山崎‐山田の九州で郡司と浅井と村上は単騎。
山崎がスタートを取って前受け。3番手に平原,5番手に浅井,6番手に村上,7番手に太田,最後尾に郡司で周回。残り2周のホームで村上が上昇。山崎は引いて村上が誘導の後ろに。太田は村上に続いてそのまま村上の後ろ。郡司が上昇すると村上が迎え入れるような形で誘導の後ろは郡司に。バックから打鐘にかけ,太田がペースを落としたために,2番手の村上と3番手の太田の差が大きく開いていきました。残り1周のホームで誘導が退避。太田はここから仕掛けていきましたが郡司も踏んだため,太田は内に斬り込み,村上と接触。村上は落車し,太田も車体故障を起こして脱落。ホームを回ると山崎が仕掛け,バックで郡司の前に。離れそうだった山田も何とか続きました。太田が脱落していたため郡司の後ろになっていた清水が山田にスイッチ。直線の手前で山田を弾いて山崎を捕えました。そこに後方で前の動きをすべて見ていた平原が外から強襲。フィニッシュ前で清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。平原の外から伸びた浅井が1車輪差で3着。
優勝した埼玉の平原康多選手は5月の京王閣記念以来の優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜競輪以来の9勝目。共同通信社杯は初優勝。このレースは単騎の選手が3人いて,その3人がそれぞれ有力視できるような脚力も備えていたので,予想は困難でした。太田が打鐘前のバックでペースを落としたところをみると,よほど先行するのは嫌だったのでしょう。郡司が山田をどかせれば有利になりましたが,山田が番手を死守。このために自力がある清水に展開は向きました。あれでさらに後ろだった平原に差されてしまったのは,現状の実力の差というほかありません。あまり動かずに最も落ち着いてレースをしたのは平原だったとはいえ,そこが勝因になったと思います。
5月10日,木曜日。妹を迎えに行きました。翌日に妹の通院があったためです。
5月11日,金曜日。妹の歯科検診でした。予約は午後3時。この日もクリーニングだけでしたが,歯がよく磨けていると担当の歯科助手から褒められました。妹に聞いてみますと,グループホームでも通所施設でも,自身で歯を磨いた後に職員にみてもらい,磨き残したところがあれば落としてもらっているとのことでした。このためによく磨けていたのだと思います。グループホームの職員とは連絡帳でやり取りをしていますので,このことについてはお礼をしておきました。診察はさほど時間を要さなかったのですが,精算は90人ほどが待っている状態で,かなり待たされました。このために帰宅したのは午後5時15分になりました。
母はこの日からワンデュロパッチの使用を開始しました。これは処方された飲む鎮痛剤の残量が少なくなってきたからです。水で濡らすことは好ましくないという使用上の注意がありましたので,貼ったのはこの日の夜に風呂を出てからでした。効果は24時間ですから,毎日,ほぼ同じ時間に貼り換える必要があります。入浴する時間はほぼ一定なので,入浴前に剥がして入浴後に貼るというのが,この日以降の母の日課となりました。この貼付薬については,基本的に母自身が貼ったり剥がしたりしていました。なお,母はこの後で下痢をするようになったとのことですし,13日の日曜から15日の火曜までは体調不良という状態を自覚していました。実際に母が残したノートも,13日から15日までの分は15日にまとめて書かれています。ただこの体調不良がワンデュロパッチの副作用であったのかどうかは分かりません。痛みを感じたら鎮痛剤を飲むという状態に比べたら,楽であるというようには感じていたようです。
5月14日,月曜日。妹を送りました。午後2時ごろにKさんが来訪し,しばし母と話をして帰りました。
5月15日,火曜日。ロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に到着したのは午後7時40分でした。これは母の依頼による来日で,翌日から帰国前日までは伯母が家事のほとんどを担当しました。
日本時間の昨晩から今日の未明にかけて行われたパリロンシャン競馬場の開催の2レースに日本馬が参戦しました。
フォワ賞GⅡ芝2400mに出走したクリンチャーは好発から一旦は押さえて外の2番手。そこから内の馬の前に出て逃げる競馬にシフト。顔を左に向けながら走っているように見えました。折り合いを欠いていたか,あるいは初めてのコースで物見をしていたのではないかと思われます。道中は1馬身半から2馬身くらいのリード。直線に入るところも先頭でリードは1馬身。残り300m付近まで粘りましたが,そこで内と外から抜かれるとあとは下がる一方。勝ち馬から約8馬身差の最下位入線でした。逃げるのは事前の作戦通りだったそうですが,レース前半の走りで力を消耗しすぎてしまったように思えます。
パン賞GⅢ芝1400mに出走したジェニアルは互角の発馬から内の2,3番手を進む形。直線に入って騎手の手が動き出しましたがまるで反応がなく,最後は騎手も追うのをやめたため,1頭だけ大きく離される形での最下位入線。この馬は長期滞在していますが,前走後に一頓挫あり,体調が万全ではなかったかもしれません。ただ,60キロを背負って勝ち時計が1分18秒93ととても早くなりましたから,惨敗という結果も止むを得ないでしょう。走りにくそうなところも見受けられましたので,左回りの方がいいのかもしれません。
午後3時40分に処方を依頼した薬局から電話がありました。ワンデュロパッチが届いたという報告です。電話を受けて僕が取りに行き,この日のうちに入手することができました。ただし,母はすぐにこの貼り薬を使うことはしませんでした。麻薬ですから使い始めると中止することができなくなる可能性が高いので,この時点では使用する気になれなかったようです。ただし鎮痛剤は服用しました。ただ,このときに服用したのはこの日に処方されたオプソではなく,前に処方されて残りがあったカロナールです。カロナールが効果的ということは母はすでに経験的に知っていましたから,飲みにくい錠剤でしたが,こちらの方を服用したのだと思います。
4月27日,金曜日。妹を迎えに行きました。この日も母は鎮痛剤を服用しました。これはオプソです。こちらはゼリー状になっていますから,母にもとても飲みやすかったようです。これ以降,1日に1度は飲むようになりました。
5月1日,火曜日。妹を送りました。30日が休日でしたから,この週は火曜の送りになりました。4月27日から母は鎮痛剤を1日に1度という頻度で飲んでいたのですが,この日は2度の服用になりました。これ以降は日に2度の服用が通常の状態になりました。
5月2日,水曜日。前日に送って行ったばかりですが,ゴールデンウィークに入るため,また妹を迎えに行きました。
5月4日,金曜日。Kさんが妹を外出させてくれました。これは港南台でFさんと待ち合わせ,3人で昼食を摂るというものでした。午後3時35分に帰ってきました。
5月5日,土曜日。母はほぼ一日中,痛みを感じるようになりました。なのでこの日は鎮痛剤を4度服用しています。こういう状況に至りましたので,ワンデュロパッチを用いることを考え始めました。
5月6日,日曜日。この日は鎮痛剤は一昨日以前と同様に2度の服用でした。
5月7日,月曜日。妹を送りました。母はこの日も鎮痛剤を2度しか服用しませんでした。食欲はほとんど湧かないとのことでしたが,何かを食べると少し身体の状態が楽に感じることができるようになるとのことでした。
『外国人レスラー最強列伝』の第5章は鉄の爪といわれたフリッツ・フォン・エリックです。
エリックは握力が強く,クロー技をフィニッシュホールドとしていました。鉄の爪はそこからついた異名ですが,爪を使って攻撃するというわけではありません。馬場によれば,リンゴを潰すくらいの握力を有するレスラーは珍しくなかったそうですが,エリックはリンゴを空中に放り投げてキャッチし,その刹那に握り潰すくらいの力があったそうで,これはレスラーの中でも稀有だったそうです。
エリックと馬場の試合は過去映像として観たことがあります。これは日本で行われたもので,エリックはヒールに徹していました。試合の大半を殴る蹴るで構成し,最後にクロー技で仕留めようとする内容でした。それがエリックの本来のプロレスのスタイルであったのかどうかは分かりませんが,テクニックに長けたレスラーではなかったのだろうと思います。
全日本プロレスに対してはレスラーとしてよりもブッカーとしての貢献の方がずっと大きかった筈です。テキサスでプロモーターを務めていました。超獣や人間魚雷はエリックの下で仕事をしていましたし,ザ・グレート・カブキがアメリカでブレイクしたのもエリックの下ででした。ブロディはプロモーターとしての馬場のことを信頼していた,少なくとも全日本復帰後は全面的に信頼していましたが,エリックのことも同様だったとカブキは語っています。ブロディの扱い方を弁えていた数少ない人物のひとりだったといえるでしょう。
レスラー時代はテキサスのトップスターで,引退後はその座は息子たちが引き継ぎました。ですがエリック一家は呪われた一家という異名があり,次々と不幸に襲われました。そのうち次男のデヴィッドは,全日本プロレス参戦中に都内のホテルで急死しています。息子たちの中でプロレスラーとしての資質が最も高かったのがおそらくデヴィッドで,デヴィッドの死はプロレス界全体にとっても大きな損失であったと僕は思っています。
僕がインスリン等を処方してもらっているのは個人営業の薬局です。ですから薬剤師はふたりだけで,そのふたりが交互に店舗に滞在しています。僕の家はそのうちのひとりの家と薬局の中間にあるので,薬剤を配達してもらうことが可能になっています。一方,母や妹の薬を処方してもらっているのはチェーン店ですから,常に何人かの薬剤師が店舗に滞在しています。ですから多くの薬剤師が担当者になります。
僕は以前に,将来的には麻薬が処方される可能性があり,それをここで処方してもらうことが可能であるかを質問したことがありました。そのときには処方はできるがすぐには無理という返事でした。この返答をした薬剤師はどういうわけかこの店舗で担当になるケースが多く,相手方は分かりませんが僕は知っている人でした。だからそのような質問をしたのだと理解してください。
この日はそれとは別の薬剤師が担当になり,処方箋を確認すると,ワンデュロパッチは麻薬であるからすぐに処方することはできないということを伝えてきました。ところがそれ以上のことになるとはっきりとせず,どれくらいの時間があれば処方できるのかが僕にはまるで分かりませんでした。どんな薬品でもそうでしょうが,とくに麻薬のようなものはできる限り早い段階で用意できるのがいいのは当然です。店舗の薬剤師ですから,その店で薬品を購入してほしいという気持ちは僕も理解しますが,たとえばその日のうちに用意することができないのであれば,すぐに処方できるような別の薬局を紹介するというのが,僕の考え方が間違っているのかもしれませんが,薬剤師の仕事であるように思います。押し問答のような形で時間ばかりが経過してしまいましたので,僕の方から渡した処方箋を返してもらうように伝え,それを受け取って店を出ました。
僕が利用している薬局がすぐ近くですのでそちらに向いました。処方箋を渡して,処方が可能であるかを尋ねますと,午後には用意できるとのことでしたので,ここで依頼することにしました。これ以降,母はずっと麻薬の処方が続きましたので,母の薬もすべてこちらの薬局で処方してもらうことになりました。