スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
2013年の競輪の表彰選手が28日に発表されました。
最優秀選手賞は愛知の金子貴志選手。寛仁親王牌と競輪祭を優勝し,グランプリも制覇。GⅠを2勝してグランプリも優勝した選手がMVPでないとしたらおかしな話で,これは文句なしでしょう。過去に国際賞は受賞していますが,それ以外の部門では初受賞です。豊橋記念と青森記念も優勝。
優秀選手賞には同じ愛知の深谷知広選手。こちらは高松記念を優勝しただけなのですが,深谷なしに金子の活躍はあり得ませんでしたから,納得の受賞です。2010年が優秀新人選手賞,2011年は優秀選手賞と特別賞,2012年が特別敢闘選手賞で,4年連続4度目の受賞。大きな怪我がない限り,この記録も伸びていくでしょう。
競輪界は昨年の暮れにおかしな問題があり,おそらくその関係からでしょうが,この部門はひとりだけ。ただ,表彰は成績だけに準じるべきで,GⅡ1勝,記念競輪5勝の長塚選手は選出されるべきであったと僕は考えます。
優秀新人選手賞は岐阜の竹内雄作選手。目立って活躍したという印象は個人的にはないのですが,対象カテゴリーの選手のうちでは賞金がトップで得点が2位ですから,まずは順当といえる選出でしょう。
オールスターを優勝した東京の後閑信一選手が特別敢闘選手賞。年齢と脚質のことを考えればGⅠ制覇は驚異的で,この部門に相応しい受賞ではないかと思います。この賞を1996年と2005年に獲得していて,8年ぶり3度目の受賞です。
当ブログとの関連上,ほかの部門は割愛します。
方法論的懐疑のうち,第三段階の疑問と最終段階の疑問は解消されました。そして同時に,第二段階の疑問も解消されています。
このことは,第一部定理二五系に注意すれば明白です。それによれば,あらゆる個物res particularisは,少なくとも神の本性natura,essentiaを一定の仕方で表現します。ですからres particularisが原因となって何らかの結果を産出するということは,神の本性の必然性necessitasを一定の仕方で表現するような作用なのです。なぜなら,神が自己原因causa suiであるということと神が万物の原因であるということは同じ意味で,神が自己原因であるということは,神が神自身の本性の必然性によって存在するという意味だからです。ここでは原因と結果の関係を実在的な意味でのみ把握しなければなりませんから,何らかの原因が自然のうちに実在するということだけに注目しますが,その場合にその原因が原因自身とは別の結果を産み出すとき,その作用は必ず神の本性の必然性を一定の仕方で表現します。いい換えれば,自然のうちに実在するどんな原因と結果の関係も,この意味において必然的であるということになります。
これは逆のベクトルで考えればもっと容易に理解されます。第三段階の疑問が解明されたということは,各々の必然性を一般化することは可能であるという意味です。しかしもしも各々の因果関係のうちに何ら必然性が含まれていないと仮定するならば,それらを一般化することができる筈もないからです。つまり第三段階の疑問の解明のうちに,すでに第二段階の疑問の解明も含まれていると理解しなければなりません。というよりも,第三段階の疑問の解明を十全に把握する知性intellectusは,同時に第二段階の疑問の解明も自動的に把握することになるでしょう。
素朴な疑問は,レベルでいえば第二段階と同一です。ですから第二段階が解消されたならばそれも解消されるということについては,さすがに詳しく説明するまでもないでしょう。
では,これでその公理的性格はともかく,第一部公理三の真理性については完全に証明されたのかといえば,僕はまだ不十分なところが残されていると考えます。第一部定理一一がそのために必須であるなら,第一部定理一一がどのように知性に把握され得るかを問題としなければならないからです。
箱根で指された第63期王将戦七番勝負第三局。
渡辺明王将の先手で羽生善治三冠の急戦矢倉。指し手の成り行きから,先手玉だけが矢倉に入城することになり,後手の作戦はあまりうまくいかなかったのではないかと思っていました。
これは今日の午前中で,△5九角を受けるために桂馬が跳ねたところ。後手は△8五歩▲同歩に△8六歩と垂らしました。対して▲7九王と引くのは,せっかく入った玉が出ていくのでつまらない感じがします。この手が仕方ないとすれば,僕が思っていたよりもずっと後手はうまくやっていたということなのでしょう。後手も一旦は△3一玉と寄り,▲4五銀に△8五桂と跳ねていきました。先手は▲2四歩△同歩と突き捨ててから▲8三歩△同飛▲8四歩の連打。そこで考えづらいのですが△3九角と打ちました。
結果的にいうとここで角を打ったのは抜群のタイミングであったようです。先手は▲2四飛でどちらかといえば攻め合う展開に進めましたが,△8七歩成▲同金△8六歩▲8八金としてから△8四飛。
8八に歩が打てないので後手は受けに窮しました。仕方がないので攻め合いに出ることとなりましたが,第3図自体,相手玉に迫っているのは後手の方ですから,先手の攻めは間に合わず,後手の勝ちとなっています。何か一直線で急に終ってしまったような印象で,どこかで先手に大きな誤算があったものと推測されます。
羽生三冠の勝利で1勝2敗。第四局は来月18日と19日です。
『エチカ』における必然ということの意味が解明されました。それではこのことを考慮に置いた上で,まず当座の問題となっている,自己原因が実在するのか否かを検討することにします。
しかしこの問いに解答することは簡単です。まず第一部定理七により,実体の本性にはその存在が属しています。いい換えれば第一部定義一により,実体は自己原因です。第一部定理七というのは,その直前の第一部定理五や第一部定理六との関係からして実在的な意味を有するものとは判断できません。スピノザはこの定理の訴訟過程で第一部定理六系を援用し,第一部定理六系は第一部定理六の帰結事項で,第一部定理六は第一部定理五をその証明に用いているからです。したがってこれだけでは自己原因が実在するということは明らかにはなっていません。ただ,もしも実体が実在するということが証明できれば,自己原因であるものも実在するということにはなります。
そして実体は実在します。それを明らかにしているのが第一部定理一一です。ここでは神すなわち絶対に無限である実体が実在することが示されています。よってまず,自己原因が実在するということが確かめられました。前回の考察でも示したように,実はこの定理の証明には,現状の考察との関連ではやや不備があるのですが,今回はその点は後回しにします。
強い意味の真理としての成立条件は,単に自己原因が存在すればよいというものではありませんでした。ですから現時点では,この真理性が解明されたというところまでは進んでいません。こちらの方を先に検討しておきます。
成立条件からして問われなければならないのは,神が各々の因果関係の必然性を,一般化するに足りるような存在であるのかどうかです。いい換えれば個々の原因と結果のうちにある必然性のうちに,ある共通する要素を提供し得るような存在であるのかどうかです。でもこの答えもまた簡単でしょう。すでに考察してきたことからして,神はそういう存在にほかならないからです。神が自己原因であるということと,万物の原因であるということが同一の意味であるということから,このことは明白だといえます。
2014年の最初の大レース。第63回川崎記念。
トウショウフリークの逃げは予想通り。あまり抑えが利くタイプではないようなので,大逃げも想定の範囲内でしょう。離れた2番手がホッコータルマエ。内にムスカテールで外にこれも必死に抑えられていたような印象のフリートストリート。そしてランフォルセが続きました。超ハイペースといえますが,これは1頭が飛ばしたため。
向正面からホッコータルマエが徐々に差を詰め始め,直線の入口ではトウショウフリークの外に雁行。さすがにトウショウフリークは一杯で,ホッコータルマエが抜け出ましたが,外に切り替えたムスカテールが追い上げ,叩き合いに。底力で凌いだホッコータルマエが優勝。ムスカテールが半馬身差まで迫って2着。逃げたトウショウフリークが5馬身差で3着。
優勝したホッコータルマエは暮れの東京大賞典に続いて大レース5勝目。ここはライバルといえるような馬が不在でしたから,普通に回ってくれば勝つであろうと思っていました。自分で勝ちにいった分,苦しくなった面はあったかと思いますが,マークした相手を凌いでの勝利は,着差以上の力差があることの証明であると思います。ただ,このクラス相手のダート戦が初めてであったムスカテールの今後も楽しみでしょう。父はキングカメハメハ。
騎乗した幸英明騎手,管理している西浦勝一調教師は東京大賞典に続く大レース制覇で川崎記念初勝利。
三種類の必然のうち,第一のタイプおよび第二のタイプと第三のタイプとの間の絶対的な相違の根拠は,ひとつ前の考察の中で論じた事柄を思い返すと,さらに補強されることになります。
第一部定理二六は,ある因果関係に関しての言及です。ですからそこで用いられている必然的ということばは,第二のタイプに分類されます。いうまでもなくこのとき,原因は神で,結果が物です。
このとき,神の決定というのは,神の意志を意味するわけではありません。もしもそれが神の意志ということなら,神はその意志によって物を存在するようにしたりしなかったりするようにしますし,作用するようにしたり作用しなかったりするということになります。そうであるなら確かに神は物を限定し,物は神によって限定されるということになります。しかし実際に神の決定が意味しているのはこのような神の意志ではなく,神の本性の法則,いい換えれば必然性なのです。
したがって第一部定理二六が物について意味しているところは,物は神の本性の必然性に則したありとあらゆることをなし,同じ必然性に反したすべてのことをなさないということです。このあたりの詳しい分析は,当時の考察を参照してください。
ただ,これだけではまだ物は限定されているといえなくもない面が残ることを僕も認めます。物は神の本性の必然性のうちでしか何事もなし得ないというのは,確かに物に関するある限定であると解釈する余地があるからです。しかし重要なのは,その神の本性の必然性とは,神が存在する必然性のことなのだということです。第一部定理二五備考で自己原因と原因が同一の意味であるといわれているのは,この事態のことを指示しているのです。
そうであるならば,もしも物がその必然性に反する何事かをなすとしたら,それがその物の限定あるいは否定を意味することになります。自己原因のうちに限定的要素が含まれる筈がないのですから,それに反するなら,それは肯定ではなく,否定であるとみなされなければならないからです。よってこの点からも,第二のタイプは結果についても限定を含んでいないと解されなければなりません。
Kを同居させる際の奥さんの拒絶は,さすがにKの自殺まで想定していたものではなかったと思います。結果的にいえば,Kの自殺の遠因には,Kがお嬢さんを好きになったということはあるでしょうが,ただ,先生との恋の争いに敗れたこと,つまり失恋が自殺の最大の理由であったかといえば,僕はそうではなかったと考えています。
Kが自殺したのはおそらく2月です。先生の部屋とKの部屋は襖で仕切られていました。先生が夜中に隙間風で目を覚ますと,その襖が少し開いていました。先生は暗示を受けたかのようにKの部屋を覗き,自殺したKを発見しました。
1月に先生はKと散歩をし,ことばの上でKを打ちのめしました。その晩,この襖が開きました。このときは先生は眠っていませんでしたので,Kと取り留めのない会話を交わしています。このシーンはテクスト上は無意味です。ただ,おそらくこのとき,Kはすでに自殺をする覚悟を決めていました。散歩のときにKは覚悟はあるという主旨のことを言ったのですが,それは自殺の覚悟のことだったのではないでしょうか。自殺したとき,開いていた襖はちょうどこのときと同じくらいだったと先生は書いています。つまりもしもこのとき,先生がすでに眠っていたら,Kはその晩に自殺を決行したのだと思うのです。また自殺の晩に襖が開いていたのは,決行の前に先生がすでに眠っているかをKが確かめたためであったと思うのです。
先生がお嬢さんとの結婚を奥さんに申し込み,受諾を得たのはこの間のこと。最初に襖が開いた一週間後です。そしてそのことが奥さんからKに伝えられたのは,もっと後のことです。
これでみれば,Kは自分が先生との恋の争いの敗者になったということをはっきりと知る前に,すでに自殺を決めていたということになります。だから僕はKの自殺の原因に,恋の敗者になったということがあったのだとしても,それは最大の理由ではなかったのだと考えているのです。
第一部定理二五備考でスピノザが主張しているのは,神が自己原因であるということと,神が万物の原因であるということは,同一の意味であるということです。したがって,少なくとも神が原因であるという場合には,神とその結果が対になって,神が自己原因であるということと同一の意味であるのでなければなりません。そして第一部定理一五により,神なしにあることが可能なものは実在しないのですから,結局のところこのことは自然のうちに実在するすべての原因と結果の関係に適用されなければならないことになります。
次に第一部定義一は,必然ということばは用いられていませんが,ここには第二のタイプの必然が含まれています。それはつまり,自己原因はそれ自身の本性の必然性によって存在するということです。そしてこのゆえに自己原因は第一部定義八で示されている永遠性を有します。いい換えればこの点において,第一のタイプの必然と第二のタイプの必然が直結するのです。
そして,第一部定義一に暗示されている必然が,自己原因について肯定的要素だけを含んでいるということ,あるいはそこには何らの否定的要素はもちろん,限定的要素が含まれていないということは明白です。そして自己原因と原因が,実在的な意味においては同一であるのならば,これが自然のうちに実在するありとあらゆる原因と結果の関係に該当することになります。したがってそこには一切の限定的要素が含まれていないと理解しなければなりません。要するに原因にのみ限定的要素が含まれていないと理解するだけでは十分ではなく,結果に関しても限定的要素が含まれていないと理解しなければならないのです。
実在的に考えた場合,自己原因は原因と結果が異なる原因に対して本性の上で「先立つ」存在であるというのがスピノザの哲学の前提です。なのでこういう説明はあまり相応しくないのですが,自己原因とは原因と結果が同一のものにほかなりません。そこに限定が含まれない以上,それと同一の意味の原因と結果が別の場合の結果についても,限定的要素は含まれないと理解しなければならないのです。
これが第一のタイプおよび第二のタイプと,第三のタイプには絶対的な相違があると僕が考えることの最大の根拠です。
2日目と3日目にS級の単発レースがひとつずつ組まれたいわき平記念の決勝。並びは佐藤-紺野の北日本,山崎-成田の福島,芦沢-宗景の茨城栃木,西日本ひとりとなった金子に成清-望月の南関東がマーク。
佐藤がSを取って前受け。3番手に金子,6番手に芦沢,8番手に山崎の周回に。残り2周のホーム手前から山崎が上昇していくと,芦沢が続き,バックでは山崎が佐藤を抑えて前に。芦沢がさらに動いて山崎を叩くと,引いた金子が芦沢を抑えて打鐘。一旦は緩めたものの,徐々にペースを上げていき,金子の抑え先行に。佐藤は車体故障を起こしたかのように後退,紺野が成田の後ろにスイッチして一列棒状のままバックを通過。ホーム手前で芦沢が動き,山崎もようやく発進。大外を追い込んだ山崎が直線だけで前を捕えて優勝。先に動いた芦沢が4分の1車輪差の2着。この両者の中を割った成田の追撃を凌ぎ,逃げた金子が1車輪差で3着。
優勝した福島の山崎芳仁選手は暮れの伊東温泉記念に続いて記念競輪12勝目。今年の初出走だった名古屋のFⅠも優勝しているのでこれで3開催連続優勝。いわき平記念は2007年,2013年と制していて,連覇となる3勝目。当地では2010年のオールスターも優勝しています。近況から調子を上げていることは分かっていたので,最有力ではないかと考えていました。展開的には向いたとはいえず,むしろピンチを感じさせましたが,直線の伸びは強烈なもの。来月の全日本選抜でも優勝候補になりそうです。
ひとつだけ注意しておいてほしいのは,原因と結果に関して,名目的に理解する場合と実在的に理解する場合とでは,異なった側面があるということです。
弱い意味がそれ自体で公理として成立するというとき,実在性は何ら問われていません。結果が原因によって生じる原因とは別のものであるということのうちには,原因と結果が実在するということが前提されているとはいえないからです。同じことは,強い意味の中の弱い意味の場合にも該当します。原因は結果を生じさせる結果とは別のものであるということ自体のうちに,確かに原因なるものと結果なるものが実在するということは,含まれているとはいえないからです。したがってこれらふたつの内容がそれ自体で公理的性格を有すると結論するときには,原因と結果を実在的に把握しているというわけではなく,単に名目的に把握しているだけであるといえます。もちろん,だからこのことは原因と結果が実在するという場合には成立しない事柄であるというわけではありません。名目性というのは,単に実在性を問うてはいないというだけで,ある事柄が名目的に成立するという場合には,もしもそれが実在するならば,実在的にも成立しなければならないからです。
もしもこのように,原因なり結果なりを単に名目的な意味だけで把握したならば,確かに原因は結果を限定し,結果は原因によって限定されるということを帰結させることが可能になります。いい換えれば三種類の必然のうち,第二のパターンにも,ある種の限定的要素が含まれると考えることが可能です。
しかし,もしもそれらを実在的な意味において理解するという場合には,このことが該当しなくなると僕は考えるのです。もちろん名目的に把握されて真である事柄は,それが実在する場合にも真でなければなりません。したがって実在するどんな結果も,原因がなければ発生するということはあり得ません。ですがだからそれが原因による結果の限定であると理解することは,むしろ誤りであると考えるのです。そして僕がそのように考える根拠は,スピノザの哲学における,自己原因と原因のある特殊な関係にあります。
関根名人記念館で指された第40期女流名人位戦五番勝負第二局。
里見香奈女流名人の先手で三間飛車。中村真梨花女流二段も三間に振っての相振飛車。後手が先手に追随して,相浮き飛車の相金無双。第34期女流王将戦三番勝負第二局と第三局に似た将棋。
先手が8筋で歩を入手した局面。後手も△2六歩▲同歩△同飛▲2七歩△2四飛と,同じように構えました。そこで▲1七銀と上がるのは,里見名人が好む手という印象が僕にはあります。△2五歩と受けました。
第1図から第2図まで,先手の銀だけが上がっていますので,後手は純粋に一手の損。銀を1七に上がるのはそれ自体ではプラスとはいえないように思うので,あり得る指し方なのでしょうが,非常に不思議な気がします。△2六歩と突く局面か,△2五歩と打つ局面で,△5三銀と上がっておく方が普通なのではないでしょうか。
手得になったので先手から攻めることに。後手は入玉含みで対抗しましたが,先手の攻めが最後まで続き,先手の勝ちとなりました。中村二段としては得意とする攻める展開にできなかったのがまずかったように思います。
里見名人が連勝。第三局は来月9日です。
僕の考えでは,3パターンの必然のうち,第一のパターンおよび第二のパターンと第三のパターンとの間では,大きな相違点があります。前者が必然といい表されるものに対するある積極性ないしは肯定的要素を表現するのに対して,後者は必然といわれるものについて消極性ないしは否定的要素,あるいはそこまでいわないとしても限定的要素を含んでいるのです。これが僕が第三のパターンについては必然とはいわず,強制ということの最大の理由です。
第一のパターンでは,必然といわれているものの存在の永遠性が説明されます。これがその事物の肯定であるということにとくに説明は不要でしょう。一方,第三のパターンでは,必然といわれる事物は,自由ではないということが含意されます。これがその事物の限定的要素を含んでいるということも,やはりとくに説明するまでもないことだと思います。
第二のパターンは,原因から結果が必然的に生じるといわれているのですから,ここでは原因である事物と結果である事物の双方が説明されています。ただ,このうち原因の方に関しては,それは結果を生じさせるものなのですから,それが肯定されているということ,あるいは少なくともそれに関して何らかの限定的要素が含まれることはないということは,同様に特別の説明は不要でしょう。
問題は,第二のパターンの結果に関してだと思います。原因から必然的に結果が生じるということは,そのうちに弱い意味,すなわち原因が与えられなければ結果が生じるということはないということを含有します。そしてこれだけでみるならば,これを結果についてのある限定であると解する方が自然であるように思えます。一般的に考えても,もしもAが存在しなければBは存在し得ないというならば,BはAによって限定されていると理解することが可能であるように思われるからです。
しかし僕は,第二のパターンにおいては,結果に関しても限定的要素が含まれてはいないというように理解しています。つまり,第一のパターンおよび第二のパターンと第三のパターンとの相違というのは,絶対的な相違であると考えているのです。
スピノザのユトレヒト訪問は,コンデ公爵から招待を受けることによって実現したものでした。ただ,なぜコンデ公がスピノザをわざわざ招待したのかということについては,若干の疑問が残ります。部下に書かせたスピノザと日本を並列したパンフレットは,プロパガンダにすぎなかったとしても,コンデ公は宗教的には保守派で,スピノザの思想を受容するような人物とは思えないからです。
『スピノザの生涯と精神』でも,この理由については多く言及されていません。コレルスはただコンデ公がスピノザに会いたかったと記しているだけです。リュカスはスピノザの名声は上流社会でも噂になるほどだったからだといっていますが,具体的な噂の内容についてはまったく示していません。
スピノザは破門の後は隠遁生活といっていいような暮らしぶりでしたが,有名人であったことは確かです。ライプニッツは1676年にスピノザを訪ねにオランダまで来ています。また,1673年にはスピノザはハイデルベルグ大学の教授職への就任を要請されています。スピノザは一般的には無神論者とみなされていて,このためにライプニッツは後にはスピノザと会見したこと自体を否定するようになるのですが,当時において進歩的であったといえる一部の人びとからは,その思想の内容のゆえに,むしろ注目を集めていたのは事実なのでしょう。
こういった理由から,コンデ公がスピノザに対してもなにがしかの興味を抱いたということは,確かにあり得ないような話ではないと思えます。コンデ公とスピノザの会見は実現しなかったようですが,ユトレヒトでのスピノザは鄭重にもてなされたようですから,コンデ公や部下であるストッパないしはストゥッペが,純粋な意味で反スピノザ主義的な人物であったと理解するのは,どうも困難であると思われます。
これらみっつのパターンのうち,第三のパターンの意味では僕は必然とはいい表わしません。これはこのブログでの約束事のひとつであると理解してください。第一部定義七でスピノザは,このパターンの必然を強制と並列させています。なのでこの意味で必然といわなければならない場合には,僕は強制ということばの方を用います。
これには明確な理由があります。第一部定理二六で神からの必然的な決定といわれるとき,この決定は積極的であるといわれています。このためにこの決定が強制という意味での必然ではあり得ないことをひとつ前の考察で明らかにしました。そしてこれは僕に独自の見解ではなく,「スピノザのマテリアリスム」における桜井直文の主張とも一致します。したがってこれでみるならば,第二のパターンで必然的であるといわれている事柄は,第三のパターンでは必然的ではないということになります。それなのに両方を必然ということは,無用の混乱の契機となりかねません。
同じようなことを,岩波文庫版の『エチカ』の訳者である畠中尚志も指摘しています。畠中は第一部定義七に訳注を付記しています。それによれば,この定義では自由と必然が対義語となっているけれども,必然が内部の法則に依拠するなら自由と必然は一致するということで,これは僕の理解と同様です。そして畠中によれば,この定義でスピノザが必然を強制といい替えたのは,このような含みがあったからだと指摘しています。そして畠中の指摘にあるように,第一部定理三二の証明の最後で,スピノザ自身が第三のパターンで必然といった後で,また強制といい添えています。
以上が僕が第三のパターンに関しては必然ということばを用いず,強制ということの理由です。ただし,単に混乱を招きかねないということだけが,その主たる理由であるのかと問われるならば,僕はそれを否定します。確かにこのことは理由のひとつにはなりますが,もっと別の考え方が僕にはあるのです。
栃木県大田原市で指された第63期王将戦七番勝負第二局。
羽生善治三冠の先手で相掛り。先手が引き飛車から棒銀に出たのに対して渡辺明王将が高飛車で対応。もっともその後の駆け引きで,中盤の本格的な戦いに突入した時点では,そのときの面影がない局面になっていました。
5八から金が上がった局面。一目見て,先手の陣形が異様に感じます。ということは仕掛ける好機の筈で,△9五歩と突きました。対して▲7六銀だったのですが,この仕掛けに取れないというのはすでに先手がおかしくしてしまっていたのではないかと思えます。△9六歩は大きな取り込み。先手は何らかの代償が必要とされますが,▲8五銀△8二飛▲7四歩の進展では大したものは得られていないように思えます。△3八歩▲同飛で先手の飛車の攻撃力を失わせてから△6五銀▲同銀△同歩で銀交換。▲9ニ歩△同香▲9三歩△同香▲9四歩△同香▲同銀で先手は香車を取れましたが,△7六歩と打たれました。
先手は一時的には駒得になったとはいえ,銀が僻地に。後手の攻めは先手玉の急所に近いところまで迫っていますので,これでは先手が勝つのは相当に難しそう。先手にあまりいいところがなかった一局で,羽生三冠にしては凡局の部類に入るのではないでしょうか。
渡辺王将が連勝。第三局は29日と30日です。
順序としては強い意味の成立条件である自己原因が存在するかどうかを調べることになるのですが,その前に確認しておきたいことがあります。この自己原因は,各々の因果的必然性を一般化することを可能にするための存在です。なので,そもそも必然ということがスピノザの哲学,とりわけ『エチカ』の中でどのように用いられるのかを知っておく必要があると思うのです。
岩波文庫版で必然性と訳されているラテン語はnecessitasです。そしてそれがnecessariusというラテン語で表記されるなら,これは必然的と訳されています。字面だけを見てもこのふたつに関連があるということは明白です。そこでここでは,このふたつを統一して,単に必然とだけいい,その必然ということが『エチカ』でどのような意味を有していると僕が理解しているのかを説明します。
僕の理解では,スピノザが必然というとき,主にみっつのパターンがあります。まずそれを順に紹介しておきましょう。
第一のパターンは,第一部定義八で必然といわれるパターンです。この場合の必然は,必然といわれる事物の存在の永遠性と関連します。もう少しこの例を具体的に示すならば,Xは必然的に存在するという場合,Xはある持続のうちに存在するのではなく,Xが永遠から永遠にわたって存在するという意味になります。第一部定理二三の冒頭で必然的といわれているのも,このパターンだと僕は理解します。
第二のパターンが,現テーマである第一部公理三の必然です。この場合の必然は,原因と結果の連結の絶対性ないしは不変性を意味します。たとえば第一部定理二六で必然的ということばをスピノザが用いるとき,それはこのパターンに該当していると僕は理解します。また,これは因果論的法則に関する言及なので,第一部定理一六で神の本性の必然性といわれる場合も,このパターンであると僕は把握します。
第三のパターンは第一部定義七で必然的といわれているものです。この場合の必然は自由の対義語です。したがってこの意味においてXが必然的だといわれるなら,Xは自由ではないという意味になります。
⑥-7の第2図から先手はノータイムで▲6三銀不成と指しました。
指し手は▲6三銀成か▲6三銀不成の二者択一。7の▲5四銀のときの想定局面で,そのときの予定は▲6三銀成だったとのこと。この後,△6七銀不成▲同金△5九角成▲4三歩成と進むのですが,このときに△同金直と取られた場合,銀は不成の方がよいと読み,直前で気が変わっての着手でした。後手も成るより利いていると感じていたそうです。
実戦は△同金左と取って▲5五飛。
後手の自戦記には,これは先手がかねてから狙いにしていた一手であり,実に受けにくい一手だと記されています。しかし,実は第2図は後手の勝ちの局面。第1図の▲6三銀不成が敗着でした。
第四段階を最終段階に設定する積極的理由が明らかにしていることは,強い意味が真理として認められるためには,自己原因が実在しなければならないということです。このとき,すべての因果的必然性を同一の意味に統一し得るP自身が自己原因であるなら,それで十分です。しかしもしもPが自己原因でないのなら,Rという自己原因が実在するとして,このRはPが必然的に存在することと関連しなければなりません。Pが必然的に存在しなければならないということは強い意味の真理性にとっての必要条件ですから,単にRが存在するというだけでは不十分で,RはPの必然的存在を,何らかの仕方で下支えしなければなりません。
ここまで方法論的懐疑を継続してきたことにより,強い意味が公理的性格を有するかどうかは別に,少なくともそれが真理であるための必要条件が完全に明らかになりました。なお,このためには自然のうちにひとつあるいはいくつかの因果的関係が実在することが必要ですが,ここでもこのことは無視します。というのはこのことは,後の条件によって解答されるであろうからです。
第一に,いくつかの原因および結果について,それを一般化することについては問題がないとしても,原因と結果の間にある必然性については,単純にそれを一般化することは許せません。これを許容するためには,各々の因果関係のうちに共通の要素を措定する何らかの存在,これまでPと表記してきたものの存在が必須です。
第二に,この場合のPの存在が必然的であるとみなされなければなりません。
第三に,第二の条件を充足させるためには,その存在がそれ自身のうちにあるもの,すなわち自己原因が存在するのでなければなりません。そしてこのとき,P自身が自己原因であるか,そうでなければPの存在の必然性を決定することが可能なP以外の何らかのもの,たとえばRが自己原因であるかの,どちらかでなければならないのです。
このことから分かるように,実は強い意味の背後,とくにその真理性の背後には,各々の必然性を一般的に統一するような,自己原因である何らかのものの存在が仮定されているということになるのです。
この路線の絶対女王が出走してきた第17回TCK女王盃。
ワイルドフラッパーの逃げは予想通り。メーデイアが2番手でマーク。発走で躓いたオメガインベガスがインから巻き返し,外のレッドクラウディアと3番手は併走。やや追走に苦労した感のあるアクティビューティ,アムールポエジー,カラフルデイズと続きました。最初の800mは49秒3のミドルペース。
3コーナー手前からメーデイアがワイルドフラッパーに並び掛けていくと,3番手以下がやや離れ,直線はこの2頭の追い比べに。ワイルドフラッパーもよく粘りましたが,最後はメーデイアが女王の貫録で抜け出して優勝。ワイルドフラッパーが2馬身半差で2着。焦点の3着争いはインコースをロスなく立ち回ったカラフルデイズが制しましたが,2着とは5馬身の差をつけられました。
優勝したメーデイアはJBCレディスクラシック以来の勝利で重賞6勝目。昨年も制しているのでTCK女王盃は連覇。そのレースから快進撃が始まり,不動の女王に。2着馬は初対戦でしたが,追い比べで制しましたから,やはりこちらの方が能力が上であったということでしょう。57キロという斤量は楽なものではなく,立派といえます。現役引退が迫っているようですが,最後まで女王の座を守り通した形となりました。父はキングヘイロー。半姉に2006年の福島牝馬ステークスを勝ったロフティーエイム。Medeiaはギリシャ神話に登場する王女。
騎乗した浜中俊騎手,管理している笹田和秀調教師は第16回に続く連覇でTCK女王盃2勝目です。
疑問の無限連鎖を回避し,第四段階を最終段階として設定するより積極的な理由は,スピノザの哲学,なかんずく『エチカ』の体系との関係からです。確かに第一部公理三だけを視野に入れたならば,疑問は無際限に連鎖します。しかし第一部公理三は単独で主張されるわけではなく,『エチカ』というひとつの公理系を構成する一要素です。ですからこのような観点から考えるということは,何ら否定されるべきではなく,むしろ必要であるとさえいえます。
すべての因果的必然性をひとつに統一するPが存在すると仮定します。このためにはPが存在する原因が必要です。これを認めないと,強い意味はもちろんのこと,弱い意味まで成立しなくなりますから,これは当然です。そこでそのPが存在する原因がどこにあるのかといえば,それはP自身の内部にあるか,そうでなければPの外部にあるかのどちらかです。これはこの公理より前,第一部公理一に示されている事柄です。第一部公理一が公理あるいは共通概念notiones communesといえるのかということには,また疑問の余地があるでしょうが,これは『エチカ』の全体の中では,現在の考察とは別の問題なので無視します。
もしもPの原因がPの外部にあるなら,疑問はレベルをひとつだけ上げてさらに続きます。そしてこの場合には,無限に連鎖する可能性が残ります。しかしその原因がP自身のうちにあるという場合には別です。疑問はそこで停止することができます。
『エチカ』の公理系において,このように疑問を停止させる存在が否定されているなら,無限連鎖ということになり,強い意味の真理性の成立に関しては解不能ということになります。しかし『エチカ』ではそうした存在は否定されていません。むしろ冒頭の第一部定義一が,そうした存在を許容しています。このゆえに,疑問の無限連鎖は回避可能になるのです。
ひとつ注意しておけば,この論理はPが第一部定義一に示される自己原因でなければならないということを意味しているのではありません。疑問を連鎖させていくうちに,自己原因に到達するなら,それで構わないということです。
決勝進出がすべて東日本勢となった大宮記念の決勝。並びは新田-菅田の北日本,神山-浦川の栃木茨城,平原-藤田の埼玉,松谷-福田の神奈川で石井は単騎。
菅田がスタートを取って新田の前受け。3番手に神山,5番手に石井,6番手に平原,8番手に松谷という周回に。残り2周のホームから松谷が上昇してバックの入口では新田の前に。このラインに続いていた平原がバックでさらに前に出て打鐘。藤田の後ろが石井で,それを追った神山が外を上がって平原を斬ってホーム。ここから新田が発進し,新田の先行に。しかし平原も即座に巻き返していき,両者のもがき合いがバックまで続きました。藤田は一旦は平原から離れた感じでしたが,バックで追い上げると3コーナーから自力発進。これに続こうとした石井をどかして神山が追って直線の争いに。神山が藤田を交わして優勝。4分の1車輪差で藤田が2着。新田マークから直線で外目に持ち出した菅田が半車身差の3着。
優勝した栃木の神山拓弥選手は2011年10月の千葉記念以来の記念競輪2勝目。同じ関東で地元勢との協力も考えられたところですが,別ラインで自力勝負を選択。力量が上位の両者の先行争いになったのは意外だったのですが,それをよく見て上手に立ち回りました。直線手前で石井を弾くことができたのが最大の勝因でしょう。まだ26歳という年齢からしてももっと活躍することが可能な選手ではないかと見立てていますので,その期待に応えてほしいところです。
最終段階の疑問は,第三段階の弱点と同じ性質を含んでいるといえます。
この疑問は,各々の因果的必然性を知性に一般化させる存在としてのPに関して,それが必然的ではないということを示すことには成功していませんし,またPの存在が偶然に由来するということの証明に成功しているというわけでもありません。したがって最終的にはやはりこれまでの疑問が抱えていたのと違わない弱点を含んでいるといわなければなりません。
しかし一方では,この疑問のうちには,この意味におけるPの存在は,ただそれが存在するということだけが明らかであれば強い意味の成立,それが公理として成立するのかどうかはともかく,公理として言明されている内容の真理性も保持されるというわけではなく,Pの存在自体が,必然的でなければならないということを示しています。すなわち強い意味が真理として成立するための必要条件を示唆しているという点において,やはりある積極的な意味を含んでいるということになります。
最終段階といっていますが,厳密に考えるならば,これは最終ではありません。というのはこの仮定におけるPに関して,その存在が必然的であるということを仮定すれば,それで強い意味は十全に真理であるといえるかといえば,絶対にそうだとはいえないからです。なぜなら,Pの必然性が何かほかのもの,たとえばSに由来するとするならば,そのSに関してもやはりPと同様にその存在の必然性が問われなければならないからです。同様にSの必然性が前提されても,そのSの必然性がほかのものに由来するとするならば,といった具合に,実はこの疑問は同じタイプの疑問を,レベルをひとつずつ上昇させていくことにより,無限に,あるいは少なくとも無際限に継続していくことが可能だからです。
しかし僕がこれで最終段階としたことに,理由がないわけではありません。ひとつはここでの疑問は方法論的懐疑という目的から発していますから,このような無限連鎖はまったく意味がないということです。もっともこれは,理由としてはいささか消極的すぎるかもしれません。
夢のカードは三沢が馬場からスリーカウントを奪うという結末でした。このとき,僕はこの結果を予想していました。次のような状況があったからです。
この年の1月,新日本プロレスの東京ドーム大会で猪木と天龍のシングルマッチがありました。そして天龍が猪木からフォール勝ちを収めていたのです。この流れが全日本プロレスにも波及することが必至であると僕は考えていました。そうして組まれたカードでしたから,ここは三沢が馬場から何らかの形で勝利を得るだろうと思ったのです。いい換えれば,馬場が三沢に自身からの勝利を許すであろう,そして名実ともに三沢がトップであるという事実を作るであろうと思ったのです。
結果は予想した通りであったのですが,僕は試合を観戦して,事前にそのような予想をしていたということを恥じました。この試合の内容は,僕がそういう思いを抱かずにはいられないほど素晴らしかったからです。プロレスというのは,単に試合の結果がどうであるかということよりも,その内容が重要なのであるということは,僕自身も知っていたつもりでした。そしてそれは確かに知っていたつもりであっただけであり,本当に知っていたというわけではなかったのです。そしてその本当の意味を僕に教えてくれた試合が,この夢のカードでした。だから僕は,僕が観戦した試合でベストマッチはどれかと問われれば,少しの迷いもなくこの試合だと答えることができるのです。
僕はこの日以来,個別の試合については事前に勝負の結果を予想してプロレスを観戦するということはやめました。この点でも,この一戦は僕にとって特別な試合であり続けているのです。
A→B,C→D,そして自然のうちに実在するこれらすべての個々の因果関係の必然性と同様の→を,一般的な意味で→と知性に妥当に認識させるための条件であるPが確かに存在するのだと仮定します。これで強い意味が成立することになるのかといえば,まだ十分とはいえないのです。第四段階の疑問,そしてこれが最終段階の疑問になるのですが,それはこの場合のPの必要条件に関わる疑問です。
ここでのPは,自然のうちに実在する各々の因果的必然性を,同一の意味にまとめ上げるような条件のことです。ただし,そうしたPが存在するということのうちには,P自身の必然性が含まれているとはいえません。いい換えれば,Pの存在自体が必然ではなくて偶然であるという可能性を排除できていないのです。
もしもPがある何らかの偶然に作用されて存在するようになったのだとすれば,すべての必然性を一般化することが可能なのはその偶然に由来するということになります。つまりそのこと自体が偶然です。一定の原因が与えられればそこから必然的に結果が発生するということ自体が偶然であるとするなら,強い意味はむしろ成立していない,単に公理性を欠いているというより,真理ではなく虚偽であるといわなければなりません。なぜなら,一般にXはYであるということが偶然であるということは,少なくともXはYではないこともあり得たということを認めているのにほかなりません。そしてこれを認めるということは,今はXはYであるけれども,いずれはXがYではなくなることもあり得るという意味なのです。つまりこれは持続という観点とのみ関連するのであって,過去に妥当している事柄を未来にも妥当させているということになります。
つまりPの存在を偶然の産物とみなすならば,過去には因果関係の必然性を一般化することが不可能であったということを認めることであり,また未来には同じようになるかもしれないということも認めていることなのです。しかるに公理というのは永遠と関連し,永遠の真理でなければなりません。つまり単にPなる存在の現在を認めたとしても,まだ強い意味が成立したと同時に認めるというわけにはいかないのです。
出雲文化伝承館で指された第40期女流名人位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が7勝,中村真梨花女流二段が2勝。
出雲市長による振駒で中村二段の先手。四間飛車に対して里見名人は三間飛車に振っての相振飛車。膠着状態から千日手も狙えた後手が,先手に攻めさせるためのような打開をし,受けに回りました。その攻めの継続が困難になり後手が優位に。最後は攻め合いで決めにいきました。
7七で角交換になった局面。ここで△9八角と打ちましたが,この手は思い浮かびません。対して▲8七桂というのも仕方ないにしろ凄い受けだと思います。ぼんやりと△8九角成。そこで▲5四銀は先手が狙っていた手だったのでしょうが,あっさりと△同銀とし,▲3二角の両取りを許しました。△3一飛▲5四角成と進んだところで△6六銀で飛車を捕獲。▲7五飛△同銀▲同桂という取られ方で受けに打った桂馬の顔は立ったものの,△5三歩▲4四馬の交換後に△7九飛と打って,この局面は後手の勝ちになっているようです。
地元での開幕戦を制して里見名人が先勝。第二局は26日です。
第三段階の疑問も弱点を抱えているということは間違いありません。しかしその弱点の質とでもいうべき事柄が,それまでの段階とは大きく異なっています。
一般に,AはBであるという言明に対して,AはBではないかもしれないということを問う場合に生じてくるのが,ここでいっている弱点です。この疑問のうちには,AはBであるかもしれないということを同時に含意させざるを得ません。なのでAがBであるということの真理を完全に否定することができないのです。
確かに第三段階の疑問も,これと同様の要素を含んではいます。具体例として挙げることができるすべての必然的関係は,同一の意味において必然的であるとはいえないかもしれないと主張しているだけで,同一の意味で必然的ではあり得ないということを,十全に証明しているのではないからです。
しかし一方でこの問いは,強い意味が真理性を有するためには,それらすべての必然的関係が,一般的に必然的であるとみなすための条件が必要であるということを指摘している点を見逃すことはできません。つまり,単にAはBであるという言明に対して,ただAはBではないかもしれないということだけを主張しているのではないのです。それに加えて,AはBであるためには,ある条件,たとえばPが必要とされているということを指摘しているのです。ひとつ前の考察ではありませんが,この疑問は疑問としてただ消極的なものではなしに,ある積極的な要素を兼備しているということになるでしょう。
ただし,このPそのものに関していうならば,この疑問はそのPが存在しないということを明らかにはしていません。つまりPは強い意味を真理として成立させるための必要条件ではあるけれども,そのPは存在するかもしれないという立場です。ですからここにはある消極性があるのであって,やはり最終的にはこれまでと同様の弱点を有しているといわなければなりません。しかしPの必要性が明らかになることにより,疑問はさらに新段階へとステップすることになります。
Kを同居させることに対する奥さんの拒絶の理由のひとつに,娘が美貌であるということが間違いなくありました。これはまだKを同居させる以前のことですが,お嬢さんの結婚に関して奥さんと先生の間で話が出たとき,奥さんはお嬢さんの容姿に重きを置いていて,結婚などは決めようと思えばいつでも決められるという主旨のことを言っています。ここからみても,奥さんが愛娘が美人であると思っていたことは間違いないでしょう。
一方,この直前に先生は奥さんとお嬢さんの3人で日本橋に買い物に行っているのですが,それを大学の友人に目撃されています。これは土曜日の出来事で,月曜になって先生はその友人に,いつ妻を娶ったのかとからかわれています。そしてそのとき,その友人は,先生の細君は非常に美人だといって褒めたそうですから,客観的にみても,お嬢さんは美人であったのでしょう。
愛娘が美人であったということが,拒絶の理由になったのは,お嬢さんの美貌をもってすれば,きっとKはお嬢さんに好意を抱くであろうと奥さんが考えていたからです。Kがなぜお嬢さんに好意を抱くに至ったか,はっきりとした理由は分かりませんが,結果だけでいえば奥さんの予感は正しかったのです。
しかし,ここにはある疑問が発生してきます。お嬢さんが美貌であるからKがお嬢さんに好意を抱くであろうと予期するのであれば,同じことが先生にも妥当するからです。でも先生と同居することに,奥さんはほとんど躊躇していませんでした。とすれば,奥さんの中では,先生がお嬢さんを愛するようになっても構わないけれども,Kが愛するのは困るという考えがあったことになります。そして確かに奥さんは,Kの同居を拒絶する理由のひとつとして,それが先生のためにならないということを挙げていたのです。それは要するに,お嬢さんのことを,Kと争わなければならなくなるという意味であったように受け取れるのです。
このような前提の上で,先生とKと奥さんとお嬢さんの同居生活を読み込んでいくと,また別の視点が発生してきます。
強い意味に対して異議を申し立てるという立場からして,実際に因果関係が現実的に存在するということの証明をここでは省略しています。ですからこれは本来であればあまり好ましくないことではあるのですが,第三段階は,実在するとみなし得る具体的な実例を用いる方がよっぽど容易に理解できますから,あえてそうした説明をすることにします。
水が熱を与えられることによって沸騰して気化したとします。立場上,このことの真理性は問いませんが,この言明のうちに,ある因果関係が含まれているということに異論は出ないでしょう。熱が原因で,気化が結果です。
僕が外出から帰宅し,部屋の照明のスイッチをオンにしたので,その照明が点灯したとします。このことも真理性は問いませんが,同様に因果関係を含む言明であるということだけは間違いありません。僕がスイッチをオンにするその行動が原因で,照明の点灯が結果です。
強い意味では,これらの両者が共に必然的であるとされます。これについてもここではその真理性を問うことなしに,必然的であるということを認めることにします。
ここで問題となるのが,熱によって水が気化する必然性と,スイッチをオンにすることによって照明が点灯する必然性が,なぜ同じ意味において必然的であるといい得るのかということです。確かにそれは同じ必然的ということばで表現されていますが,ことばは記号にすぎません。単にそれらが同じ記号によって表現されるという理由だけで同様のものとして一般化するなら,これは悪しき一般化です。水が気化する必然性と,照明が点灯する必然性は,それを正しく説明するなら,つまり知性がそれを十全に認識する場合には,おおよそ異なった内容を有する筈です。つまり実際に必然性が正しく一般化されるためには,その内容のうちに何らかの同一性が存在するのでなければなりません。そしてこのことは,自然のうちに実在するとされる,すべての具体的な因果関係の正しい説明のうちで妥当します。つまりそれらすべての必然性のうちに,何らかの同一性がなければならないのです。
第一部公理三はこのことを少しも保証しているようにみえません。それなのに本当に強い意味は公理として,あるいはそもそも真理として,成立するといえるのでしょうか。
ニーチェの反キリストが,反キリストあるいは反キリスト教なのであり,反イエスではなかったというのは,僕の基本的なニーチェの思想の理解です。ニーチェはキリスト教を広めた人物としてパウロのことを激しく非難している一方で,主に共観福音書に記されている人間としてのイエスの行動そのものに対してはあまり言及していません。言及していないのですから,それを評価しているとはいえないかもしれませんが,パウロのようにはイエスのことを批判することはできなかったとも思えるのです。
僕の理解のように,人間としてのイエスについては評価をし,パウロに対しては批判的な態度をとるというのは,実はスピノザのうちにも存在した考え方だったのではないかと僕は睨んでいます。
スピノザは第二部定理一七系で,Aという人間が存在しなくなっても,要するにAという人間が死んだとしても,Bという人間が生きているなら,BのうちにはAの表象像が出現し得る,すなわちBはAを,現実的に存在すると観想し得るという意味を含む事柄を証明しました。第二部定理一六系二により,Bの表象像は,Aの本性よりもBの身体の状態をより多く示す混乱した観念だからです。
第二部定理一七系の直後の備考で,スピノザはパウロという名前を出しています。パウロの中にあるペテロの観念は,ペテロの本性よりもパウロの身体の状態をより多く含むのだから,パウロの身体のこの状態が持続する限り,ペテロが存在しなくてもパウロはペテロが現実的に存在すると知覚するという仕方で,直前の系を説明しているのです。
スピノザはペテロといって,イエスとはいっていません。しかし本当はイエスといいたかった筈だと僕には思えるのです。そもそも新約聖書の中でパウロがイエスの復活,つまり死後のイエスがパウロの目の前に現れたということを何度も述べていることからして,ここでスピノザがわざわざパウロの名前を出していること自体,その言説をターゲットにしているとしか僕には考えられません。
そうだとすれば,少なくともスピノザは,パウロはイエスの表象像,すなわち混乱した観念を,十全な観念であると思い込んだのだと主張していることになります。あるエピソードからして,スピノザはニーチェのようにはキリスト教自体を否定していなかったのは間違いありません。しかしパウロに対する批判的精神は,スピノザのうちにもあったと僕は思っているのです。
自然のうちに存在するすべての因果関係が,必然的であると仮定してみます。これによって強い意味が成立するかというと,必ずしもそうとはいえないと思います。その点をつくのが第三段階の疑問です。
ここではふたつの因果関係だけを抽出します。原因Aから結果Bが発生する因果関係と,原因Cから結果Dが発生する因果関係です。仮定により,この関係は必然的です。すなわちAからはBだけが発生しますし,BはAからのみ発生します。CとDの間にある関係もこれと同様です。そこでこれをA→B,そしてC→Dという記号で示すことにします。
このとき,AとCを同じような意味で原因と表現すること,またBとDを同じような意味で結果と表現することは問題ありません。確かにそれら二組は,同じような性質を有しているといえるからです。そしてこのことは,ここで記号化したよっつ以外のどんな場合の因果関係をとってみても妥当します。このゆえに,原因なるもの,そして結果なるものは,一般的に知性によって把握され得ることになります。いい換えれば,個々の原因の総体を原因と,またそこから発生する各々の結果の総体を結果と認識することが可能になり,またその認識が妥当であるといい得るのです。
ところが→の部分に関しては,このことがそのまま妥当するとは必ずしもいいきれません。A→BとC→Dは,同じように→によって記号化こそされていますが,だからといってそれが同じように一般化されるとはいえないからです。少なくともA→Bの→と,C→Dの→が,異なった内容を有することは明白です。いい換えればそれらは代替可能な→ではあり得ません。なぜなら,強い意味が示しているのは,一定の原因からは一定の結果のみが生じ,その関係が必然的であるといわれるのですから,Bを発生させる→と,Dを発生させる→とが,入れ替えても成立するのなら,その関係はむしろ必然的ではないといわなければならず,結果的に強い意味は虚偽ないしは誤謬であるということになってしまうからです。
自然のうちに存在する因果関係の数だけ,→で示されるべき記号の数も存在します。その→を一般的な意味で必然性と一括りにするのは,スピノザの哲学における一般性と特殊性の関係からして,悪しき一般化なのではないでしょうか。