スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

肩に降る雨&ある命題

2013-08-31 18:55:21 | 歌・小説
 中島みゆきの楽曲の中で,僕が最も数多く聴いたのは,たぶん「肩に降る雨」だと思います。
                         

     肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
     肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた


 多くの詩あるいは詞において,雨というのが,たとえば人の冷たさといわれる場合のような冷たさのアナロジーを形成することは,とくに説明する必要がないでしょう。ましてこの曲の場合には,わざわざ雨の冷たさと表現されているのですから,この雨がそうしたことを象徴するということは,明らかだといえます。
 この曲の主人公は,そうした冷たささえ気付かないまま生きていたわけです。そしてある瞬間,その冷たさに気付き,そのことによって自分が生きていたということにも気付きます。要するに自分が生きているということさえ気付かずに生きていたのだということになります。そういう人間にとって,確かに冷たさではあったとしても,それが自分が生きているということの強い証となるのでしょう。

     肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
     肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声


 冷たさは自分を奮い立たせ得る何かです。そして冷たさを感受するということは,生への執着の証明なのです。
 僕は精神状態の回復のために中島みゆきを聴くのですが,この曲はどんな原因で精神的に落ち込んだとしても,僕には効力を発揮します。僕にとっては普遍的な名曲だといえるでしょう。

 ある観念を,現実的に存在する人間の精神とだけ関連させます。その上で,その観念に関して,次のような命題を立ててみます。ある観念をその内的特徴からみた場合,それが混乱した観念でないならば,十全な観念である。こうして立てられた命題が,真の命題であるということは,これ以上の説明は不要でしょう。
 そしてこれを単にこの命題だけで考えようとするならば,まず,XはAでないならばYであるという命題のひとつの具体例になっていることは明らかです。念のために説明しておけば,Xに該当するのが観念,あるいは内的特徴からみられた観念であり,Aに該当するのは混乱した観念であり,Yに該当するのが十全な観念です。そしてこの命題は,明らかに内的特徴からみられた観念に関して,それが混乱した観念ではないということを意味として含んでいます。いい換えれば,混乱した観念によって限定されているのです。そして限定と否定の関係からして,すべての限定は否定であると解さなければならないのですから,それは混乱した観念によって否定されているということになります。したがってこの命題は,内的特徴からみられた観念に関して,積極的であるといえるような要素を構成することはないと結論しなければなりません。なお,同じことは,AとYを入れ替えた命題,すなわちある観念が内的特徴からみられる限り,十全な観念でないなら混乱した観念であるという命題の場合にも妥当します。
 今は,実際にこの命題が積極的であるといえるのかどうかという点に関しては考慮しません。これはつまり,現時点ではこの命題に関しては,内的特徴からみられる観念について,積極的であるかもしれないし,積極的ではないかもしれないという立場から考えるという意味です。そしてこの立場から考えたときに,僕がまず思うことは,確かにこの命題が,観念について積極的であるとはいえないかもしれないけれども,少なくともそのことの根拠は,ある観念が混乱した観念によって限定されているということのうちにはあり得ないのではないかということなのです。
 僕がそのように思う最大の根拠は,十全な観念と混乱した観念の関係です。
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ディオニュソス&命題の結論

2013-08-30 18:55:58 | 哲学
 『悲劇の誕生』でニーチェはディオニュソス的なものを詳しく説明し,それを称賛しました。そしてニーチェがほかの著書でディオニュソスを引き合いに出す場面でも,それは必ず肯定的な文脈のうちに登場します。それだけでニーチェがどれほどディオニュソスを好んだかは明らかだといえます。しかし,そのことを明瞭に示すエピソードは,もっと別のところにあると僕は考えています。
                         
 ニーチェは1888年10月に『この人を見よ』を書き始め,11月には書き上げて出版社に送りました。その校正中の翌年の1月,梅毒が直接の原因といわれていますが,ニーチェは発狂。これ以降は精神病院で生活することになりました。
                         
 発狂後,ニーチェは本を書くようなことはできなくなりました。ただ,何通かの手紙は書いています。そしてそのうちのいくつかには,ディオニュソスという署名がされているのです。非常に有名なのは作曲家のワーグナーの夫人であるコジマに宛てたもので,アリアドネよ,私はお前を愛する,ディオニュソスより,というもの。アリアドネもニーチェの著書に頻出するギリシア神話の女神です。ニーチェは多くの場面で,その耳の小ささを強調します。
 ニーチェとワーグナーは,初期には良好な関係にありました。そもそもニーチェはワーグナーの音楽のうちに,ディオニュソス的なものを見出しているくらいです。ただ,後にはニーチェはワーグナーを否定するようになりました。夫人であるコジマに対する横恋慕もあったと思いますが,それだけが原因ではなかった筈だと思います。
 発狂してなお,ニーチェは自身をディオニュソスになぞらえたのです。これ以上にニーチェのディオニュソスへの親近感を説明する事柄はないのではないでしょうか。

 限定と否定の関係については,ここでは限定は常に否定に含まれ,否定は限定よりも多岐にわたるとしています。したがって,XがAであればという仮定が,XがBではないという限定を示すのだとすれば,限定は常に否定に含まれるのですから,XがAであるという仮定を,否定であるとみなさなければなりません。よって,XはAであるならYであるという言明が,この条件を満たす限りにおいて,この言明は,Xに関するある否定を含んでいると解さなければならないということです。そして,この条件が満たされないとするなら,事実上はこの命題が何の意味も有することができないということがすでに確認されています。なので,このように単純に考えてみた場合には,XはAであるならYであるという種のすべての命題は,積極的であるといい得るような要素を構成できないと結論するべきです。
 ところが,僕の考えでは,必ずしもこのことが,この種のすべての命題に関して成立するとはいえないのです。なぜそうなるのかといえば,これに関する考察が,命題を中心に行われているからです。いい換えれば,ことばを対象objectumとしてなされているからです。ことばだけをそのobjectumに据える場合には,文法の規制に十分な注意を払わなければなりません。そしてことばと観念とは別のものであるということに目を向けるならば,すべての命題に関して,ここまでとは違った結論が出てくる場合というのがあると僕には思えます。
 今度は一般的にではなく,もう少し具体的に考えてみます。ここではある人間の知性のうちに現実的に存在するある観念,たとえばXの観念について考えることにします。
 まず,スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念との関係からして,このXの観念というのは,十全な観念であるか,そうでなければ混乱した観念であるかのどちらかです。ただし,このことには前提条件が必要になります。僕はここではこのXの観念が,現実的に存在するある人間の知性とだけ関連する,いい換えればそういう知性のうちにあるという仕方だけで考えます。つまり第二部定理一一系の具体的な意味の第一の意味において,Xの観念があるといわれる場合だけを念頭に置くこととします。
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スポニチ盃アフター5スター賞&付帯条件

2013-08-29 18:59:15 | 地方競馬
 昨晩の第20回アフター5スター賞。有年騎手が負傷でラインジュエルは佐藤博紀騎手に変更。
 クリスタルボーイの陣営から逃げ宣言が出されていましたが,ほかに速い馬がいてそれは叶わず。オーセロワとマグニフィカが並ぶように後続を引っ張る展開。ハードデイズナイトが3番手に続き,クリスタルボーイはその後ろに。エーブダッチマン,サイオン,コウギョウダグラス,ミヤサンキューティと一団。スターボードとフジノウェーブが中団で,アイディンパワーはその直後に。前半の600mは34秒7で,ミドルペースに近いくらいのハイペース。
 前を併走した2頭のうち,先頭で直線に向ったのはマグニフィカ。しかし直後にいたハードデイズナイトはすぐにこれを捕え,抜け出すとあとは後ろからもさほど詰め寄られることなく,2馬身の差をつけて優勝。大外から追い込んだアイディンパワーが2着。その内を伸びたサイオンが半馬身差で3着。
 優勝したハードデイズナイトは6月の優駿スプリントからの連勝で南関東重賞2勝目。ここは古馬との初対戦で,試金石ではありましたが,50キロという斤量に恵まれそれを相殺した形。5キロも軽くなっていましたので一概にはいえませんが,時計は詰めているように,成長は見込めます。中央馬と伍して戦える南関東勢は皆無に近い状況なので,そういう存在になっていってほしいというのが個人的な希望です。父はサウスヴィグラス。祖母のはとこに1993年のニュージーランドトロフィー4歳ステークス,1994年の平安ステークス,1995年のマーチステークスを勝ったトーヨーリファール
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は優駿スプリント以来の南関東重賞制覇でアフター5スター賞初勝利。管理している川崎の佐々木仁調教師もアフター5スター賞は初勝利。

 XがAでないならばYであるという命題の中に,Xに関するある否定が含まれているということは,そうも問題とはならないでしょう。これはXはYであるためにはAであることはできないという意味であって,それがXに関する否定であることは明白だといえるからです。では,XはAであるならばYであるという言明のうちに,Xに関する否定が含まれているといえるのかということは,実はそう簡単には結論を出すことができないのです。
 最初に,ごく単純に考えます。この命題に与えられているXに対する付帯条件から論理的に帰結するのは,XがYであるためには,XがAでなければならないということ,いい換えればAという条件を満たしていることです。するとこの場合,Aではないような付帯条件が確実に存在すると理解しなければなりません。なぜならもしもそうした条件が存在しないなら,Xは必然的にAという条件を満たし,よって必然的にYでもあるということになるからです。つまりこの場合は単にXはYであるといっているのと,少なくとも事実上は同一であるということになります。この,XはYであるという言明は,この言明自体に注視する限りで,Xに関する否定を見出すことはできません。
 そこでA以外の付帯条件をBであるとします。すると,XはAであるならばYであるというのは,XはBであるならばYではないといっているのと同様です。もちろん後者の命題はXについての否定命題ですが,条件としては最初のもののバリエーションであるというのはすでに説明した通りです。一方,ある命題から論理的に別の命題が帰結したとしても,そのことだけをもってそれらを同様には解釈しないということもすでに説明した通りです。ですから単にこのことをもって,前者の命題もXに関する否定を含んでいるとは考えません。
 ただし,次のことはいえます。たとえば,XがAであるかBであるかの必ずどちらかであると仮定します。この場合はAであるということはBではないということを意味します。したがって,XはAであるというのは,Xの否定ではないのですが,それはBではないという意味において,限定ではあるのです。
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王位戦&第二の例

2013-08-28 19:23:19 | 将棋
 徳島市で指された第54期王位戦七番勝負第五局。
 羽生善治王位の先手で行方尚史八段の一手損角換り1-Ⅱ。ただし9筋を突き合っていて,これが得になると後手は判断していると推測できます。先手は早繰り銀からの棒銀。後手は腰掛銀で6筋の位を取りました。
                         
 先手から仕掛けた局面。後手は△6四角と飛車取りに打ちました。角には角で先手は▲4六角と受け,△同角▲同歩。後手は再び△6四角
 ここが封じ手で,▲4八飛も予想されていたようですが,きっと実戦のように▲3四歩と取り込むだろうと思っていました。△同銀に▲3八飛と寄り,△3五歩と上から受けたのに対し,▲2八角と自陣角で応戦しました。
                         
 仕掛けた後とはいえ,まだ本格的な戦いになる以前の段階であることは間違いありません。ただ,この局面では後手から手を作っていくのが難しく,それなら玉型にも差がありますので,先手がわりと大きめのリードを奪っているように思えます。実際,今日はあまり後手にいいところがなかったように感じられました。
                         
 4勝1敗で羽生王位が防衛52期に奪取して53期に続く3連覇。通算では15期目となります。

 もうひとつ,ある命題のうちに否定的要素が含まれていると僕が理解する例があります。こちらの方は少し複雑です。きわめて概略化していうならば,XはYであるという命題があるとき,Xがある条件を付帯されているという場合があり得ます。この場合に,その付帯条件がXについて否定的であるならば,僕はこの命題のうちには否定的要素が含まれていると解します。つまり命題文がたとえばXはAでないならばYであると示されるような場合には,Xについての否定的要素が入っていると判断するのです。もちろんこの場合にも,命題自体は真の命題であるということを前提しています。
 この例の場合には数多くの注意が必要とされます。そのうち最初に僕が指摘しておきたいのは次のことです。
 もしもXはAでないならばYであるという命題が真であるならば,XはAである場合にはYではないという命題も真の命題でなければなりません。これは論理的にいってそうなる筈です。そしてこの命題も否定的要素を含んでいます。ただし,こちらの命題というのは,XはYではないという命題のバリエーションのひとつであると僕は理解します。よってこれは第一の条件によって否定的要素を含みます。つまり積極的な言明ではあり得ません。そしてこれが第一の場合の条件のバリエーションであるということは,Xの付帯条件がXに関して否定的であるか否かとは無関係なのです。つまりXはAであるならばYではないが積極的ではあり得ないのと同じ理由によって,XはAでないならばYではないという言明も,積極的とはみなせないと僕は考えるのです。
 XはAでないならばYではないという命題が今度は真の命題だと仮定します。すると論理的には,XはAであるならばYであるという命題が真の命題であるという可能性が生じます。そしてこの種の命題に関しては,僕はそこにXに関する否定的要素が含まれているとは考えません。というか,正確にいうならば,この命題自体を注視する限りでは,それがXについての否定を含んではいない可能性が残るというように考えます。つまりある命題からは論理的に別のパターンの命題が生じ得ますが,それを同一には解釈しないということです。
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北条早雲杯争奪戦&所以

2013-08-27 18:49:39 | 競輪
 今月最後の記念競輪となる小田原記念の決勝。かなり変則的な並びで,まず矢口ー長塚-稲村で関東,浅井に諸橋,稲川-村上の近畿,吉本に桐山。
 スタートを決めて浅井が前受け。3番手に稲川,5番手に矢口,8番手から吉本で周回。残り3周のバックでまず吉本が上昇し先頭に。続いた矢口が3番手。ホームから稲川が反撃し,吉本を叩いて前に。バックで矢口が発進して打鐘。稲川と矢口の先行争いを制したのは矢口。長塚は離れましたがホームで追い上げて番手を確保。稲村は続けず,3番手に稲川。バックで吉本,浅井と続けて発進。先に前に届いたのは吉本ですが長塚の牽制で失速。そのまま踏み込んだ長塚が優勝。コーナーで長塚に続いた稲川と,逃げた内の矢口の中を割った村上が1車身半差で2着。4分の1車輪差で稲川が3着。
 優勝した茨城の長塚智広選手は前回出走の富山記念から連続優勝で記念競輪級9勝目。小田原記念は初優勝。本来ならば矢口ー稲村ー諸橋と並ぶのが自然だと思うのですが,S班の格上ということもあり稲村に譲ってもらった形。それなのに離れてしまったのは正直なところいただけないと思いました。ただ,うまく追い上げて番手を確保したのはさすがであったといえるでしょう。結果的に浅井が不発になるような展開になったのも幸いしたと思います。好調のようですから,この後のGⅠでの活躍も期待できそうです。

 XはYではないという命題が,たとえ真の命題であったとしても,それが積極的な命題であるとはみなせないこと,あるいはいい換えれば,この種の命題がXに関して積極的な内容を示しているとはいえないということを理解するのは,そうも難しいことではないように思えます。というのも,たとえば人間は馬ではないという命題が真の命題であるということは疑い得ません。しかしこのことが人間に関して積極的な説明であるとは,ほとんどの人が判断しないであろうと思うからです。ただ,一応はなぜこの命題を,積極的なものとみなさないのかということ,つまりこの命題が人間に関する積極的な説明であるとはいえないのかということについて,考えておく必要はあるでしょう。
 僕が思うに,この命題が積極的であるとはいえないことの根拠は,この命題が人間の本性に関する事柄を何も示唆していないからです。確かに人間は馬ではありません。このことは真理であるといってもいいでしょう。したがってもしもこの命題の内容が観念対象ideatumとなった観念がある知性のうちにあると仮定するなら,それは真の観念であり,十全な観念であるとみなされなければならないということについては,僕も認めざるを得ません。しかし,はなはだ明らかなことは,人間が人間たる所以というのは,人間が馬ではないということのうちには決して存しないということです。これは人間は馬ではないことによって人間であるというわけではないと主張しているのと同様ですから,さすがに反論は出ないでしょう。
 このことから,人間はAではないという一切の言明が,人間の人間たる所以を示さないということは明らかです。そしてこの範囲をさらに拡大していくならば,XはYではないという言明が,常にXのXである所以については何も示すことができないということもまた明らかになっているといえます。
 もしもそれがXに関するある積極的な言明であるなら,それはXに関する否定的な言明であるということはできません。そのことはいい換えれば,ある命題がXに関して積極的であるなら,それはどのような形式であれ,XがXである所以を説明しなければならないということなのです。
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奥さんの拒絶&使用条件

2013-08-26 18:57:48 | 歌・小説
 次男の悲劇によって実家から勘当されたKに同居を勧めたとき,Kに対する先生の優越感があったのは間違いないと思います。ただ,このときに先生が説得しなければならなかったのは,Kだけではありませんでした。先生が下宿していた家の奥さんが,先生がKと同居することに難色を示したからです。つまり先生はこの奥さんのことも説得しなければなりませんでした。
                         
 奥さんといっていますが,実質的な家主です。夫は軍人で,日清戦争のときに戦死。妻と一人娘が遺族として残されました。ほかに下女がひとりいたのですが,無人で寂しいからと,先生を下宿させることになったという経緯がありました。
 下宿屋ならば下宿人が増えて困ることはありません。しかし商売ではないので,よした方がいいというのが,この奥さんが最初に先生に示した拒絶の理由でした。しかし先生は,Kは世話の焼ける人間ではないからと取り合いません。すると奥さんは,気心の知れない人と同居するのが嫌だと言い出します。ただ,元々は先生だって同様ですから,これはおかしな理屈です。先生がそれを口に出すと,今度は先生のためにならないと言います。先生がそれはなぜかと問うと,苦笑するだけで答えません。理屈の上では先生の方が筋が通っていますから,先生はこの反対を押し切って,Kと同居します。
 奥さんの拒絶の理由は,先生には理解できなかっただけで,はっきりしていたといえるでしょう。理由は一人娘。この娘は後に先生と結婚することになりますが,かなり美人に描かれています。そういう美人が住んでいるところに,若い男がふたりで同居すればおかしなことになると,奥さんには手に取るように分かっていたのです。
 もちろん奥さんは,最終的にKが自殺してしまうなどとはつゆほども考えていなかったでしょう。ただ,何らかの悪い結果がもたらされることになることをよく理解していたのです。少なくともこのとき,人の心がどういうものであるのかということについて,奥さんの方が先生よりもよく心得ていたのだといわなければなりません。

 限定ではない否定というのがどういうものであるのかが明らかになったのであれば,すでにそのことのうちに,積極的といわれ得る要素を構成するような否定negatioは存在しないということが含まれているといえます。これは,スピノザが何に関して積極的といっているのかということから明白であると僕は考えます。
 第一部定理二六証明でスピノザが積極的といっているのは,神の決定に関してです。一方,神Deusが絶対に無限absolute infinitumと定義されなければならず,自己の類において無限であると定義されたならば不十分であるとされる理由というのは,後者の場合には神の本性essentiaのうちに限定determinatioは含まれないけれども否定は含まれる,あるいは含まれると考えるconcipereことが不可能ではなくなるからなのです。つまり神の本性のうちには,単に限定が含まれていないというだけでは十分とはいえず,一切の否定が含まれていないのでなければならないのです。これが第一部定義六説明の意味であるといえます。つまり,一切の否定がその本性のうちには含まれ得ないものの決定determinatioに関して,それが積極的であるといわれているのだと理解しなければなりません。これでみれば,どんな否定のうちにも,それを積極的であるとみなすことができるような要素が含まれることはあり得ないということが明らかであると思います。
 したがって,神の決定から離れて,一般的な意味において積極的という語句を用いるためのひとつの条件がここにはっきりとしたといえます。すなわちある命題があったときに,その命題が否定的要素を伴うならば,それは積極的な言明であるとみなすことはできません。なお,ここで積極的ということばが用いられる場合の命題文との関係について説明したときに触れたように,この命題が真の命題であるということを僕が前提しているということには留意しておいてください。
 ある命題が真の命題であり,かつそれが否定的要素を伴っているというのは,僕の理解では大きくふたつの場合に分けられます。ひとつはその命題文自体が否定形であるという場合です。単純にいえば,XはYではないという命題が真の命題であるという場合がこれに該当するといえます。
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印象的な将棋⑥-4&限定ではない否定

2013-08-25 18:52:31 | ポカと妙手etc
 ⑥-3の第1図で先手は18分考え,▲2七銀と棒銀に出ました。△7七角成▲同銀△2二銀では良いところがないというのが後手の感想。よって△5五歩と止め,▲3六銀に△3三桂と受けました。
                         
 ここでは△8四飛も有力だったという後手の感想があります。▲6六角△5四飛▲4五銀△7四飛が進行の一例。
 第1図で▲5五角は可能ですが,△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△7六飛で,後手は歩損を解消できます。飛車先の交換も許しますので,先手がそう進めないのは自然でしょう。様子見の▲1六歩に△5三銀と上がりました。
                         
 ここからまた両者の読み筋が異なった展開に進んでいくこととなります。

 限定は必ず否定のうちに含まれなければなりません。次に,決定と限定対義語的関係を構築します。そして最後に,第一部定理二六証明でスピノザが積極的という語句を用いるとき,それは神の決定と関連しています。したがって,限定に関してそれを積極的と表現することは不可能です。このことから,少なくとも否定のうちに含まれているある事柄に関しては,それを積極的ということができないということが明らかになっています。それでは否定のうち,限定ではない事柄に関してなら,積極的といい得るような要素があるのでしょうか。
 先に結論を示しますと,僕はそうしたものは存在しないと考えます。つまり何らかの否定である限り,それは積極的であるといえるような要素を構成することはないと考えます。なぜ僕がそのように結論するのかをここからは説明していきます。
 限定というのは,第一部定義二から明らかなように,同じ属性に属するものの間でのみ成立する関係です。いい換えるなら,もしもAがBを限定するといわれるのであれば,AとBには共通点があるということが前提されます。そしてこのことが必然的に否定のうちに含まれるのならば,否定のうちにある限定ではないような事柄というのは,互いに共通点を有さないものの間でのみ成立するということになります。つまり,AがBを否定するということが,AがBを限定するということを意味しないのであるとするならば,AとBとの間には共通点がないということが前提されているのです。要するにそれは,AとBが異なった属性に属しているということです。
 第一部定義六説明において,自己の類において無限であるものに対しては,無限に多くの属性を否定することが可能であるという意味のことをスピノザがいうとき,それはこうした事態を指し示しているといえるでしょう。第二部公理五にあるように,人間が認識する属性は思惟の属性と延長の属性だけですから,このことは思惟は延長によって否定され,延長は思惟によって否定されるということを,人間にとっては意味しているといえるでしょう。そしてこれ以外には,限定ではないような否定というのはあり得ないということになります。
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経済的自由&善と否定

2013-08-24 19:25:32 | 哲学
 スピノザにとって哲学する自由が重大であったことは間違いないと思います。しかし,スピノザの精神のうちに自由の概念が芽生えたとき,それは経済的自由という観点であったのではないかと僕が類推するのにも理由があります。
 スピノザの父は,ポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れてオランダに渡ってきました。これが遅くとも1625年。スピノザの誕生は1632年でした。父の名はミカエルといい,商人として生計を立てていました。貿易商です。この当時のオランダのユダヤ人共同体には,あちらこちらからユダヤ人が集まっていたため,貧富の差が激しかったようなのですが,ミカエルのようにポルトガルやスペイン,フランスなどから渡ってきたユダヤ人は商人が多く,富裕層が多かったようです。これらに関して詳しくは『スピノザ ある哲学者の人生』をお読みください。
                         
 ミカエルは1654年,スピノザが21歳のときに死にました。それでスピノザは,弟と共に父の会社を継ぐことになりました。その2年後にスピノザはユダヤ教会から破門を宣告されています。この破門は宗教的な意味を有するだけではありません。ユダヤ人共同体からの追放を意味します。したがってわずか2年あまりのことになるのですが,スピノザは確かに商売,貿易に携わっていました。商人にとって経済的な自由が保持されているか否かは死活問題です。このゆえに僕は,スピノザにとって自由の概念は,まず経済的自由として発生した可能性があると思うのです。実際,スピノザと日本を並びたてたプロパガンダからも窺えるように,当時は必ずしも経済的自由が十分に確保されていたともいい難いように思われるからです。スピノザの日本への言及が肯定的に書かれていることと,それは好対照をなしているといえないでしょうか。
 スピノザが会社経営に携わったことと,破門とは,無関係とはいえないかもしれません。商売仲間はユダヤ人だけではなかったからです。

 ここでいう変化の意味に注意した上で,変化と限定を同じ意味に解します。つまりそれが受動である限り,たとえその活動能力を増大させるような変化が現実的に存在するある個物res singularisに生じるとき,それはそのres singularisが限定を受けているということだと解するということです。すると限定は常に否定のうちに含まれているのですから,この場合にもそのres singularisは否定されていると解さなければなりません。
 たとえば,あるres singularisであるXによって,同じ属性の別のres singularisであるYの活動能力が増大したとしましょう。僕はこの場合にも,YはXによって限定されていると理解しています。したがってそれはXがYを否定しているという意味でもなければならないのです。
 Yの活動能力の増大は,Yが小なる完全性から大なる完全性に移行することと同義であるというのが僕の解釈です。つまり第三部諸感情の定義二によりそれはYの喜びです。その喜びがYによって意識されるならば,第四部定理八によって善といわれます。そして第四部定義一により,YがYにとって有益であると認識するものを,Yは善であると判断するでしょう。つまりこの例でいえば,YはXのことを,Y自身にとって善であると認識することになります。つまりYにとっての善が,Yを否定しているという結論が導かれるのです。
 この点に関しては不可解な思いを抱かれる方がいるだろうと思います。ただここではそれに対して弁明はしません。現在の考察にとってはそれは不要であるからです。ただ,僕がひとつだけ注意をしておいてほしいと願うのは,スピノザの哲学において善悪というのが,普遍的な概念を意味するのではなくて,ある認識内容を意味するという点です。少なくとも受動によってあるものが善と判断される場合に関しては,同一の人間にとっても普遍性を少しももちません。これは第三部定理五一から明らかです。つまりこの例の場合には,YはXを善なるものと認識しますが,別のときには悪と認識するかもしれません。Yは別のときには,Xによって活動能力を減少させられる可能性が確実にあるからです。
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力道山の後継者&限定と否定

2013-08-23 18:59:01 | NOAH
 馬場の右手は力道山の直々の特訓で強力な武器となりました。これは馬場が最初のアメリカ武者修行に出る前のこと。力道山はアメリカでは空手チョップを使えというアドバイスをして,特訓に移行したと馬場は述べています。
                         
 空手チョップは力道山自身がフィニッシュホールドとして用いていた技。いかに渡米後のためとはいえ,それを馬場に伝授したということは,力道山は馬場を自分の後継者にと考えていたのではないかと僕には思えます。
 馬場は慎重な人間です。また,おそらく自分の信念といったものに強固な自信をもっている人間だとも思えます。これが相俟って,馬場は他者の気持ちを断定的に述べることはしません。というよりも,他者の気持ちを忖度すること自体を好まないように僕には感じられます。ですからこのときの力道山の考え方に関しても,馬場は何の説明も与えていません。
 一方,馬場はその特訓の辛さについては書いていますが,力道山の後継者としての自分ということについても,何も書いてはいません。ただ,少なくとも馬場自身のうちには,チョップを直々に伝授されるということは,自分が力道山の後継として指名されたという意味なのだという自負が,間違いなくあったのではないかと僕には思えるのです。
 馬場は直接的にそれを手にしていたわけではありませんでしたが,アメリカでは破格のファイトマネーを獲得していました。力道山の死後,それを上回る条件の提示があったものの,帰国の決断をしています。その決断の背景は,渡米が修行のためであったからということも確かにあったと思うのですが,力道山の後継者として日本のプロレスの灯を絶やすわけにはいかないという馬場の思いもあったからではないかと僕は考えています。

 存在の限定と存在の否定を同様の意味に解釈することを許容する根拠は,『エチカ』の中にはほかにもあります。それは第一部定義六説明です。ここでスピノザは,神が絶対に無限であると定義されたならば,そこには一切の否定は含まれ得ないという主旨のことを述べています。
 絶対に無限であるものが,概念できるようなどんな限定も受けないということは明らかです。限定を受けた途端に,そのものは無限であるということができなくなってしまうからです。同じことは,自己の類において無限であるものについても妥当します。しかし自己の類において無限であるものは,自己の類に属さないものによって否定することが不可能であるとはいえません。たとえば延長は思惟によっては否定されると考えることは可能ですし,逆に思惟は延長によって否定されると考えることも不可能とはいえないでしょう。ただ,第一部定義二にあるように,自己の類に属するほかのものによって限定されるものが有限であるといわれるので,そのことによって延長も思惟も有限であるとはいわれません。いい換えれば,延長が思惟によって,思惟が延長によって否定され得るとしても,だから延長は思惟によって,思惟は延長によって限定されるということにはならないわけです。
 これでみれば,スピノザが否定というものを,限定よりもさらに幅広く把握していると理解するべきだと僕は思います。つまり限定は常に否定のうちに含まれているということになるでしょう。逆に否定は常に限定を含み,かつさらにほかのものも含んでいるということになります。
 よって,限定と否定を同一の意味で解することはできないということが帰結しているのは確かです。つまり存在の限定と存在の否定は,必ずしも同一の意味ではないでしょう。しかし,限定が常に否定のうちに含まれるのだとすれば,少なくとも存在の限定というのは,必然的に存在の否定であるということにはなります。よって,XがYの存在を限定するのだとすれば,それはXがYの存在を否定しているということだと理解することは,誤りではないことになります。そして今は,このことさえ成立すれば,考察の条件としては十分なのです。
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亀山郁夫&力の否定

2013-08-22 19:04:52 | 歌・小説
 『共苦する力』をはじめとして,亀山郁夫には数多くのドストエフスキーに関する文芸評論があります。ドストエフスキー以外にもあるのかもしれませんが,僕はそうしたものは読んでいません。したがって僕が知っているのは,ドストエフスキーを評論する亀山郁夫だけです。そして亀山のドストエフスキー評論には,際立った特徴があると僕は感じています。簡単にいえば,亀山の評論には,亀山自身の人間性というものが,著しく露出しているように思えるのです。
                         
 これは亀山のドストエフスキー評論に限ったことではなく,文芸評論家による文芸評論というのは,その評論家自身の自己表現です。というか,それは職業として文芸評論をする人間に限ったことでもなく,だれであるにせよ,評論というのは評論する人間の自己表現であるといえるでしょう。ですから,多かれ少なかれ,そこに評論家自身の個性が表出してくること自体は,当然といえば当然のことです。ただ,亀山の場合,それが極度であるように僕には感じられます。少なくとも,僕はこんなに自己表出していると感じられるような文芸評論を書く人を,亀山以外には知りません。
 表出するその個性を一言で表すなら,亀山はロマンティストであると僕はいいます。その亀山のロマンティシズムが激しく文章に表れるとき,正直なところ僕は辟易としてしまうこともあります。ただ,これは諸個人の感受性の差異に還元される筈。僕が辟易とする場面を,むしろ好ましく感じる読者がいたとしても,まったく驚くには値しません。
 このような理由から,亀山のドストエフスキー論に接するとき,ドストエフスキーの小説を知っているというだけでは不十分なのではないかと,僕はあるときから思うようになりました。亀山の評論を理解するために必要なのは,むしろ亀山がどんな人なのかを知ることなのかもしれません。

 現実的に存在する個物res singularisであるXが原因causaとなって,同じ属性attributumの別の個物であるYの存在existentiaが消滅する。このとき,XがYを限定し,YはXによって限定されているということ,もっと具体的にいえばそこで存在の限定が行われているということについては,異論は出ないと想定し,先に進めます。このとき,僕はこのことを,XがYの存在を否定し,YはXによって存在を否定されていると理解します。いい換えれば,少なくともこの場合においては,存在の限定determinatioと存在の否定negatioとを,同一の意味として解するということです。
 このことは,おそらく力potentiaという観点から考えれば,その妥当性をよりよく理解できるものと思います。Yの現実的存在が消滅するというのは,Yの現実的本性actualis essentiaが消滅するというのと同じことです。スピノザの哲学において実在性realitasというのは,力という観点から把握される限りでの本性です。したがって本性があるならば実在性もあります。逆に本性が消滅するならば実在性も消失すると考えなければなりません。もっともこの例でいえば,Yの存在が消滅するという前提なのですから,存在が消滅したものに実在性が備わっていると主張すること自体が不条理です。
 よって,一般的にいって,ある事物が実在する,あるいは実在し得るということは,その事物の力を示します。これに反して,ある個物に関してそれが現実的に存在しないとか,存在し得ないという場合には,それはその個物の無力impotentia,これは必ずしも全面的な無力とはいえず,部分的な無力というべきかもしれませんが,少なくとも一定の意味における無力を示すのは間違いありません。このこと自体は,第一部定理一一第三の証明でスピノザが前提している事柄を,現実的に存在する場合の個物に該当させたといえますから,スピノザの哲学のうちで妥当性を有すると僕は考えます。
 無力というのが力の否定であることはとくに説明するまでもなく明らかです。よって力あるものを無力なものにするということは,そのものを否定するnegareという意味になると僕は考えるのです。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&消滅

2013-08-21 20:40:47 | 地方競馬
 笠松から1頭が遠征してきた第10回スパーキングサマーカップ。トーセンピングスは出走取消,ジュウクリュウオウは競走除外で12頭。
                         
 先手を奪ったのはピエールタイガー。2番手にトーセンアドミラル。出鞭を入れていたナターレが3番手で4番手にガンマーバースト。この4頭はほぼ一団。このうちナターレは向正面に入ると後退。プレファシオとジョーメテオの2頭が追い上げていきました。前半の800mは49秒2でミドルペース。馬場状態も加味すれば前に行った組に有利だった筈です。
 ピエールタイガーは3コーナーを回って後退。ガンマーバーストと追い上げてきたジョーメテオの3頭が直線では叩き合い。粘ったトーセンアドミラルの優勝。外のジョーメテオが半馬身差まで詰めて2着。中のガンマーバーストは力尽きてさらに半馬身差の3着。
 優勝したトーセンアドミラルは昨年までJRAで走り,準オープンは勝ってオープンでも3着が2回。これくらいの実績があれば,南関東重賞では通用する能力があるのは間違いありません。あとは地方競馬の馬場に適応できるかどうかですが,この馬の場合は何の問題もありませんでした。たぶん気難しい面がある馬で,スムーズな競馬でないと力を存分に発揮できないのではないかと思われます。そういう意味では大外枠はむしろ好条件だったでしょう。安定感は欠くかもしれませんが,今後の活躍も間違いないものと思います。父はキングカメハメハ。半兄に2007年のアーリントンカップと2008年の函館記念を勝ったトーセンキャプテン。Admiralは提督。
 騎乗した船橋の川島正太郎騎手は1月の船橋記念以来の南関東重賞制覇。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している船橋の川島正行調教師第9回に続きスパーキングサマーカップ2年連続となる2勝目。

 ある個物res singularisの活動能力がゼロになる。これがどういう意味であるのかは,詳しい説明は不要であると思います。たとえば人間でいうならば,それはその人間が死ぬということだからです。
 この,res singularisの活動能力がゼロになるということは,個物res singularisの存在のうち,res singularisが現実的に存在するといわれる場合にのみ適用することが可能です。いい換えれば,その活動能力がゼロになるということは,現実的に存在するres singularisにだけ生じる現象です。もしもres singularisについて考えようとするのであれば,この場合にのみ適用可能な事柄を例材に採用するのは不適当だと僕は考えます。これは『エチカ』において第二種の認識,すなわち理性による認識の基礎は共通概念notiones communesであるということと関係します。もっといえばnotiones communesは第二部定理三七により,res singularisの本性を構成しないということと関係します。ただし今はこのことに関しては言及しません。というのは現在の考察との関連では,これは不安視する必要がないからです。なぜなら今はres singularisについて考えているのではなく,限定について考えているのだからです。
 第三部定理四は,res singularisの消滅が外部の原因によってのみ生じることを示しています。要するにあるres singularisの活動能力がゼロになるということは,そのres singularisの本性によって生じることは絶対になく,外部の原因によって生じるということです。そこでたとえばXが原因となってYが消滅するということを仮定したなら,これはXによってYが限定されているのだということについて,さすがに反論の余地はなかろうと判断します。
 なお,この例ではYが現実的に存在するres singularisであることが前提されています。したがってXもまたres singularisであり,とくにYと同じ属性のres singularisであるということも,第一部定理二八第二部定理六から前提されていると考えてください。
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ある哲学者の人生&減少

2013-08-20 18:57:34 | 哲学
 スピノザと演劇に関しての情報を僕に与えてくれたのはスティーヴン・ナドラーSteven Nadlerの『スピノザ ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でした。
                         
 原本の発刊は1999年。スピノザの伝記としては最も新しいものと考えて差し支えないでしょう。ただ,伝記といいましても,この本は部分的にスピノザの思想についてのナドラーによる解説も含まれています。また,単にスピノザ自身の伝記であるというよりも,スピノザが生きた時代のオランダ,とりわけ当時のユダヤ人社会についての言及が多く含まれています。なので,単にスピノザに関心があるという場合には,退屈に思えるような部分があるかもしれません。それは逆にいえば,スピノザには一切の関心などなくても,興味深く読むことができる部分があるという意味でもあります。
 日本語版の訳者は有木宏二。僕はこの方を存じ上げませんでしたが,ある意味では当然。この方の専門は美学と美術史だからです。『レンブラントのユダヤ人』という,やはりナドラーによる本の翻訳にあたる際,編集者にこちらの本の翻訳も勧められたとのことです。
 有木が訳者解題で述べているように,意訳は避け,逐語訳が心がけられています。ナドラーは英語で書いていますので,いわば英文の直訳です。このために,日本語としてはかなり読みづらいです。とくに「彼」とか「それ」といった再帰代名詞が何を指示しているのかが,一読しただけでは不分明な文章が僕には頻出しました。この本を読むにあたってまず僕が指摘しておきたいのは,そうした文章に挑む覚悟が必要とされるということです。もしも英語に堪能であれば,原著を読むことをお勧めします。
 原本には索引があり,これは日本語版では省略されています。注釈は訳されているのですが,個人的にいえば注釈よりも索引の方が有用です。なので僕としてはこれは残念に思える選択でした。

 ここからは現実的に存在するある個物res singularisの活動能力agendi potentiaが減少するという場合のみを考察の対象に据えることにします。そしておそらく,これがその個物にとっての限定determinatioであるということは,異論はないでしょう。第三部定理五九はその根拠になり得ます。なぜなら,ある個物が大なる完全性perfectioから小なる完全性に移行することは,その個物の能動actioには属さないということがこの定理Propositioから出てきます。能動に属さないならばそうしたことは受動passioによって生じます。そしてここではこうした移行transitioを,個物の活動能力の減少と解しています。よって個物の活動能力の低下は,その個物が部分的原因causa partialisである場合にのみ生じるのです。つまりこのことはその個物の本性essentiaだけでは説明できません。むしろその個物の外部にある別の原因によって,あるいはそういう原因と共に説明されなければならないのです。そしてこの場合に,その外部の原因が,活動能力を減少させる個物を限定しているということは,明らかだといえるでしょう。
 実際にこのことは,第一部定義二第四部公理からしてそのように理解できる筈だと僕は考えます。しかし,それが限定であるということがはっきりとしている例をひとつだけ提出できるならばそれで十分であるというのが現在の条件です。そうであるならばさらに適切と思える事象がありますから,それを選択するのがベストでしょう。
 そもそも活動能力が減少するということは,『エチカ』においては必ずしも量的な概念notioである,あるいは量的な意味だけを有するような概念であるとはいえません。しかしある場合には,これを単に量的に把握することが可能です。量としていくらであるかは示せないとしても,いくらかではある活動能力が,ゼロになるという場合がそれに該当します。そしてこれが活動能力の減少であるという点についても,異論はないでしょう。プラスがゼロになれば,それは減少だからです。
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竜王戦&変化と限定

2013-08-19 18:55:27 | 将棋
 15日に対局があった第26期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は森内俊之名人が24勝,郷田真隆九段が21勝。
 振駒で郷田九段の先手。相掛りで引き飛車から斜め棒銀。森内名人は9筋の位を取った上でひねり飛車。やや無理をしているという印象が僕にはありますが,先手の陣形の組み方が風変わりだったので,それに対抗したという面があったようです。
 手将棋ということもあり,中盤は難解すぎて僕の力ではさっぱり分かりませんでした。差がついたのではないかと思えたのは以下のあたり。
                         
 桂馬を支えるために歩を突いた局面。ここで先手はかねてからの狙いのひとつ,▲2五銀の進出。後手は2筋は受けようがなく,後の角の転換のために△5四歩。ただ,これでは少し遅れをとっているように思えました。▲1四銀△3一角▲2三銀成で先手は突破。△同金▲同飛成△7五角は,双方の主張が通ったといえなくもありませんが,▲2一龍が王手で入りました。
                         
 守備駒は後手の方が多く,玉は後手の方が堅いといえるでしょうが,これはさすがに駒得も約束された先手がよいのではないでしょうか。後手の感想にもはっきり悪いとありました。この後,先手は危ない橋を渡ったようですが,逆転には至らず,勝利を収めています。
 郷田九段が先勝。第二局は来月の2日です。

 では,活動能力が増大する個物res singularisの能動は,どのような様式でそのres singularisに生じるのでしょうか。これを示すのが第三部定義二です。すなわちそれは,そのres singularisが十全な原因を構成しているということなのです。いい換えればそれは,現実的に存在するあるres singularisが,他からの影響を受けずに,ただそのres singularis自身だけを原因として,その活動能力を増大させているということです。するとこの場合,そのres singularisが限定を受けていないということは明白です。なぜなら,res singularisを限定するのは,そのres singularisと同じ属性の別のres singularisです。いい換えるならres singularisが限定される原因というのは,そのres singularis自身のうちに存在するのではなく,外に存在するのです。ところがあるres singularisが他からの影響を受けずにその活動能力を増大させるということは,そのres singularisを限定する別のres singularisなしに生じていることです。よってこの場合は,このres singularisが限定されていると主張すること自体が不条理であることになります。
 よって,この場合の活動能力の増大をそのres singularisの変化のひとつであるとみなす場合には,変化と限定は重なり合わない,つまりあるres singularisが変化しているからといって,直ちにそのres singularisが限定を受けていると把握してはならないということになります。僕はそうした考え方を採用することもできました。しかしそうした立場は採らずに,変化の意味から,変化するものが十全な原因である場合を除外したのです。ただ,どちらの立場に立つのかということは,この際はまるで重要ではありません。活動能力が増大する場合というのを例材にすると,現在の考察には上述のような理由により,困難が生じてしまうということが分かればそれでいいのです。
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燦燦ダイヤモンドカップ争奪戦&反論の根拠

2013-08-18 18:56:38 | 競輪
 初日に一発勝負のワールドステージも行われた松戸記念の決勝。並びは芦沢ー稲村の関東,小埜ー海老根ー福田の南関東,浅井-園田の西日本で稲川に成田。
 かなりの牽制になりましたが,まず誘導を追うことになったのは成田。稲川の前受けかと思いましたが,浅井が追い上げてくると入れて浅井の前受け。稲川が3番手,小埜が5番手,芦沢が8番手の周回に。小埜は残り2周のホーム手前から上昇。ホームで浅井を叩くとほとんど緩めずそのまま先行。4番手を内の稲川と外の芦沢で争いましたが,打鐘のあたりで稲川が引き,4番手が芦沢,6番手が稲川,8番手に浅井の一列に。浅井はホームから捲り発進。スピードよくぐんぐんと上がっていくと,バックでは小埜を捕えて先頭に。園田も続いてあとはマッチレース。凌ぎきった浅井が優勝。マークの園田が4分の3車輪差で続いて西日本のワンツー。うまく立ち回った芦沢がこの両者の中を割りにいきましたが届かず4分の3車輪差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は先月の前橋記念に続いて記念競輪9勝目。松戸記念は初優勝。自力型では明らかに力量上位。ですから優勝候補の筆頭と考えていました。8番手になったのは最悪の展開。そこから捲っていったというのはほとんど1周の先行をしたのと同じこと。それで園田に差させなかったのですから,強かったのは間違いありません。ビッグでも優勝候補になる選手だと思いますが,レース運びにはまだ工夫の余地があるように思います。

 この場合の反論の根拠となりそうなのは,第三部定理五九であると僕は考えています。ただしこの定理のうち,欲望に関する感情について考えだすと大変なことになるので,喜びに関する感情のみに焦点を絞って解説します。
 まず,スピノザの哲学における基本感情は,喜び,悲しみ,そして欲望の三種類です。いい換えれば,ありとあらゆる感情は,これらの感情のうちのいずれかに該当します。感情というのは単にその数だけに注目するならば,第三部定理五六で示されているように,無限に多く,あるいは少なくとも無際限にあると考えられなければなりません。でもそれら無際限にあるありとあらゆる感情は,これら三種類のうちのいずれかなのです。ただここでは欲望については考えないことにしていますから,喜びと悲しみに注目するだけで構いません。
 この観点から第三部定理五九を読解するならば,喜びは精神の能動と関連し得るけれども,悲しみはそれとは関連し得ないということになります。なお,スピノザはここでは精神の能動といっていますが,精神の観念対象ideatumが身体であることに注意を払うなら,これは身体の能動といっても差し支えないことになります。実際に感情というのは,第三部定義三にあるように,精神にも身体にも適用可能な術語です。
 次に,喜びというのは第三部諸感情の定義二にあるように,小なる完全性から大なる完全性への移行です。つまりこの移行は,能動と関連付けることが可能であるということになります。そこでこの種の移行を,第三部要請一でいわれている活動能力を増大するような変化と関連付けてみましょう。そしてこの関連付けは,妥当なものなのです。なぜならこの移行が喜びといわれることはすでに明らかですし,またその喜びの認識が善と把握されるということもすでに明らかにされているからです。
 このことから次のことが明らかになります。第三部要請一で示されている事柄のうち,活動能力が増大する場合に関しては,増大する個物res singularisの能動と関連付けることが可能なのです。逆に活動能力が減少する場合に関しては,そのres singularisの受動とだけ関連するのです。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&問いの本質

2013-08-17 18:53:58 | 地方競馬
 笠松,兵庫,高知から1頭ずつが遠征してきた14日の第47回黒潮盃。残念ながら笠松のエイシンルンディーはゲート入り後に暴れて負傷したため競走除外。事前にベルフェスタの風邪による出走取消もあったので14頭。
 リアライズリンクスの逃げは予想通りだったのですが,思いのほか先頭に立つまでに力を要しました。トーセンギネスオーが2番手でがっちりとマーク。ブラックワードが3番手。その後ろは並走で,オグリタイム,トラバージョ,ハブアストロール。最初の800mは50秒4のミドルペース。
 テンの無理が祟ったためでしょう,リアライズリンクスは直線の入口までは先頭をキープできましたがもはや一杯。トーセンギネスオーはそれよりは手応えがよさそうに見えたのですが,伸びはなく,その外に出たオグリタイムが交わしました。しかしさらにその外に出したトラバージョは絶好の手応えで,その見た目通りに先頭に出ると,楽々と抜け出していき4馬身の差をつける完勝。オグリタイムが2着。後方から大外を鋭く伸びたキタサンオーゴンが半馬身差まで迫っての3着。
 優勝したトラバージョは大井でデビュー。新馬を勝ったのですがその後は尻すぼみ。管理していた調教師の逝去もあり,5月に船橋に転厩すると連勝。前走は大レースに挑戦しまずまずの結果。南関東重賞はこれが初挑戦で初制覇となりました。2着,3着,4着の3頭は,このメンバーでは実績上位。そうした馬たちに楽々と大きな差をつけましたから,トップクラスに近いだけの力があるとみてよいのではないでしょうか。母の従弟に2007年のスプリングステークスを勝ったフライングアップルと昨年のシリウスステークスを勝っている現役のナイスミーチューの兄弟。Trabajoはスペイン語で仕事。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は3月の京浜盃以来の南関東重賞制覇。黒潮盃は初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師第42回以来5年ぶりとなる黒潮盃2勝目。

 これにより,問われていることがどのようなことであるのかということが,より明らかになったといえます。すなわち,ある個物res singularisが部分的原因となって,そのres singularisの中に何かが生じる場合,いい換えればres singularisに何らかの変化が生じる場合,それをそのままそのres singularisが限定されていると理解してよいのかどうかということが,この問いの本質的部分を構成しているのです。
 ただ,現実的にいうならば,この問いというのは,現状の考察にとっては,必ずしも解答を要求されるような問いではありません。なぜなら,もしもそうした変化のうち,だれしもがそれはres singularisが限定されているということだと納得することができるようなものを発見できたならば,それで事足りているからです。そこで実際の考察はそちらの方面から進めていくことにします。なので問い自体に対する解答については,僕自身の解釈のみを簡潔に示しておきましょう。
 僕は,上述のような変化がres singularisの中に生じるならば,それはそのres singularisが限定されているということなのだと解します。あるres singularisが部分的原因となって何事かが生じるということは,第三部定義二により,そのres singularisの受動と『エチカ』ではいわれます。したがって僕がここで主張しているのは,res singularisの受動によってそのres singularisに変化が生じた場合,そのすべてをそのres singularisの限定,そのres singularisが限定を受けているということだと解するということです。
 すでに示しましたように,この変化のうちには,そのres singularisの活動能力を増大させるような変化というのも含まれます。いい換えればそのres singularisにとってよいといわれなければならない変化も含まれます。僕はそれも限定とみなすわけですが,この点については反論があり得るだろうと想定します。
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