スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&午後

2009-09-30 19:20:26 | 将棋
 木村一基八段が3連勝した後,深浦康市王位が3連勝して最終局にもつれこんだ第50期王位戦七番勝負第七局
 振駒で先手は深浦王位。木村八段は横歩取り△8五飛を選択。お互いに飛車が中段に浮いて狭い状況から戦いとなり,後手が角を切って銀を取り,その銀を打って飛車を取って先手陣に打ち込みました。
           
 ▲7五歩と打ったのに対して△3九飛と打ち込んだところ。▲7四歩△2七歩に構わず▲7三歩成。後手も当然△2八歩成。昼にこの進行だけ見たとき,これは先手が倒れているのではないかと思ったのですが,以下▲6六歩△6一金▲6七玉(第2図)となった形は先手玉が意外に耐久力があり難しかったようです。
           
 実戦はここで△4二玉と逃げましたが,今度は2~3筋方面から攻められる格好となり,▲6七玉ほどは一手の価値がなかった模様。コメントを見ると後手にもチャンスがあったようですが,先手がはっきり悪くなった局面は並べている限りでは僕には見つけられませんでした。最後は入玉した先手が後手玉を寄せきって勝っています。
 3連敗後の4連勝で深浦王位の防衛。これで3期連続となりますが,将棋に限らず競技において3年間同じものを維持するというのは困難なことであり,これは称えられていいのではないかと思います。
 シリーズを通していえば,第五局まではやや一方的な展開でしたが,最後の二局は大熱戦で,戦い続けているうちに両者の波長が合ってきたのではないかと感じました。

 昼食は12時。11時半頃に看護士が来て,昼食前の血糖値を測定します。それから食事と一緒にインスリン注射器が運ばれ,インスリン注射を打ってから食事となります。
 午後5時頃になると昼勤の看護士と夜勤の看護士が一緒に来て,各部屋を見て回ります。引継ぎのための業務でしょうが,僕にはひどく形式的なものと感じられました。なお,この時間は部屋にいなくても大丈夫で,僕の知らないうちに終っていたということも何度かありました。
 これが終ると今度は夜勤の看護士がひとりでやって来て,血圧を測定しました。この時間は検温はすることもありましたししないこともありました。僕は平熱は高い方でしたが,やはり午前中に高いとこの時間にもまた測るというケースが多かったように思います。一方,血圧に関しては僕の場合は特別に1日に2度測定されていたという可能性はあります。この事情については別に説明します。それから,この血圧の測定というのは脈拍の測定を兼ねていて,これは午前も同様でした。その後で,夕食前の血糖値を計測します。
 夕食は午後6時。食事と同時にインスリン注射器が持ってこられ,食前に注射を打つのは朝食や昼食と同じ。もちろん注射器は僕個人用のものですが,管理は病院でしていたということです。
 日によって異なりましたが,9時から9時半の間くらいにまた看護士が来て,眠る前の血糖値の測定というのがありました。そして午後10時に消灯となりますので,もしもカーテンがまだ開いていればそれが閉められ,病室全体の照明も落ちます。この後は個室を灯すための照明も点けられません。ただし,この時間帯も処置が必要な患者はいますし,僕などはトイレに行くということがありますから,非常灯のようなごく薄い明りが病室全体を点していて,真暗になるというわけではありませんでした。
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妙手⑦&午前

2009-09-29 18:48:16 | ポカと妙手etc
 第49期B級2組順位戦2回戦より,千日手指し直し局。
 横歩取り△8四飛戦法からの進展。直前に先手にやや疑問とされる手があり,後手が2四にいた飛車を引いたところ。
           
 このまま△7一飛と回られるのは厳しいとみて▲7二歩と打ちました。対して△7三桂と跳ね,▲7九角と引いたところで△9八歩(第2図)と打ったのですが,これが妙手でした。
           
 ここはさすがに▲同香の一手。こうしておいてから△7五歩と打てば,▲9六飛と逃げたのに対し△8四金(第3図)と寄っておき,▲9七飛なら△9五金で結局は飛車の引き場所がありません。
           
 実戦はここで▲2八玉と入りましたが△1五歩▲同歩と突き捨てておいてから9筋で飛車を奪った後手が勝っています。
 実は僕はこの順を指した吉田七段というのをまったく知りませんし,棋譜もこの将棋以外は1局も知らないのです。対羽生名人戦だったから僕の知るところになった将棋です。実際には妙手とまではいえない手順かもしれませんが,こういう棋士の将棋も紹介してみたいと思ったのです。

 それでは入院中の病院においての1日の流れというものをごく簡単に説明しておくことにします。
 午前6時になると看護士が病室のカーテンを開けるというのはすでにお話した通り。ただ,一般病棟の病室の窓にあるカーテンというのは,一部が個室にかかっています。僕の自室は窓側でしたから,そこにもまたがっていました。この部分は開けられません。ただ,僕はほとんどの日はこの時間には目覚めていましたので,自分で開けていました。ただし,部屋と部屋を区切るカーテンは,通路側まで閉じたままです。また,この時間には部屋全体を明るくするための照明も点灯しました。
 朝食は午前8時。僕の場合は7時半過ぎ頃に看護士が来て,朝食前の血糖値を測りました。食事は看護士が運んできますが,僕の場合はそれと同時にインスリンの注射器が持ってこられ,食事の直前に注射を打ちます。
 9時ごろになりますと,ナースステーションで夜勤の看護士から昼勤の看護士への引継ぎを兼ねているのであろう朝礼のようなものが始まります。すでに説明しましたように,僕の病室はナースステーションのすぐ近くでしたので,内容までは聞こえませんでしたが,始まったということは分かりました。これが終ると,担当になる看護士が回ってきて,検温と血圧の測定をします。もちろん看護士は複数の患者を担当します。何部屋かにまたがっているのが普通。ただし同じ病室でも,同じ看護士が全員を担当する日もあれば,そうではない日もありました。僕は一般病棟には述べ18日間いたことになりますが,その間に担当になった看護士は7.8人ではなかったかと思います。昼夜で1日に2人の看護士が担当になりますので,同じ看護士が何度も担当になったということになりますし,逆に1度も担当にならなかった看護士もいました。こうした担当などもおそらく朝礼のときに発表されていたのではないかと思います。
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分裂病&患者④

2009-09-27 18:59:59 | 哲学
 分裂病と躁鬱病という類型に分類した場合,分裂病を修飾するときに「永遠の相」ということばを用いることによって,『漱石,もう一つの宇宙』の著者である塚本嘉壽さんは,スピノザは分裂病圏の哲学者であるという考えを明らかにしています。分裂病圏の科学者にどのような傾向がみられるのかということについてはすでに簡単に説明しました。ただ,これはあくまでも科学者に対する分析ですから,それがそのまま哲学者であるスピノザにも妥当するのかどうかは分かりません。
               
 ただし,僕は次の点には注目します。一般に躁鬱病圏の科学者の仕事は,先人の仕事を発展させたものが多く,その仕事の成果自体が開かれたものである,つまり次世代に継承されていくものであるという特徴があるそうです。そしてこの特徴について,それは「分裂病圏の科学者が世界を一つの式に還元しようとするのとは対照的である」と評されているのです。
 この文章自体がいわんとすることは,分裂病圏の科学者の仕事というものが,どちらかといえばひとりの天才の成果というような仕方で解釈され,そのゆえに次世代の研究へとは継続されにくいということだと思います。僕はこの点についても,同じことが哲学者としてのスピノザにも妥当するのかどうかははっきりとは分かりません。しかし,そういう継続性の有無とは別に,分裂病圏の科学者が,世界を一つの,こういってよければ単純な公式に還元しようとするという点は,哲学者としてのスピノザにも妥当するように思えるのです。

 自室の向いの患者が退院していくと,その日の午後には別の患者が入ってきました。この人は40代後半から50代前半くらいに思われる白髪混じりの患者で,歩くことも食べることも普通にできる人でした。とはいえ,腎臓の病気で入院していたため,飲むことに関しては制限があり,1日に2リットル以上の飲料を摂取することは禁じられていました。もっとも,本人は1日にそれだけの水分を摂取すること自体が無理だと思っていたようで,よってこの制限については意に介していませんでした。
 僕はこの人とは少し話をする機会があったのですが,どうやら中部地方の大都市出身であったようです。1日も早く退院して家に帰りたかったようで,そのことを医師にも看護士にもよく話していました。また,週末には外出届を出して出かけたいという旨のことも言っていました。すでに説明したように,同じベッドをこの患者の前に使っていた患者が退院した,つまりこの患者がこの病室に入院することになったのが13日で,これは月曜ですので,この週末というのはこの週の終りということになります。
 実際には外出の許可が下りず,少しごねたのをおそらくこの患者の兄と思われる人が病院から頼まれてやって来てなだめ,本人も納得したようです。しかしその週末にあたる17日の昼過ぎに行方不明になってしまったようで,少し騒ぎになっていました。5時半過ぎには病室に戻ってきたのですが,どうやらうまいこと病院を抜け出して外に出て,コンビにかどこかで買い物をしてきたようでした。ただ,このことがあってから監視が強められ,お金なども病院に預かられてしまったようです。
 この一件はありましたが基本的にはおとなしい患者でした。斜向いの患者や左の患者には,同室の患者としてはできれば避けたかったという思いが多少はありますが,ふたりの向いの患者に対してはそのような思いはいっかなありません。
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王座戦&患者③

2009-09-25 21:15:31 | 将棋
 羽生善治王座が早々にタイトル防衛に王手をかけて迎えた第57期王座戦五番勝負第三局。
 山崎隆之七段の先手で羽生王座の横歩取り△8五飛。後手が早めに△8六歩(第1図)と合わせて戦いになりました。
           
 先手の右側が壁で,攻撃態勢も万全ではありませんから,ここで仕掛けるのは理にかなっている反面,後手も8一の桂馬は使えないので一長一短。ここから▲同歩△同飛▲3五歩△8五飛▲7七桂△3五飛▲2五飛△同飛▲同桂(第2図)と,考えられる最も激しい変化で飛車交換となりました。
           
 第2図からは△1五角▲2三歩△3三銀以下攻め合いになったのですが,瞬く間に後手の勝勢に。そのまま後手の快勝となりました。この戦法が見直される契機となるかもしれない一局であったと思います。
 羽生王座が3連勝で防衛。王座戦は実に18連覇。第51期の第三局に負けて以降16連勝も含め,おそらく絶後の記録となるのではないでしょうか。
 山崎七段は3連敗という結果もそうですが,自分が開発した指し方を粉砕された第三局の内容もショックだったと思います。しかしこれを今後の発奮材料としてほしいところです。

 残る患者は病室に入って左側の奥,僕の自室の向い側の患者です。この方は顔立ちが騎手時代にはハイセイコーにも乗っていた大井の高橋三郎調教師にどことなく似ていて,それが僕の印象に今でも残っています。また,年齢の方も1944年産まれの高橋調教師と同じくらいに見えました。
 この患者は,おそらく体内の酸素濃度を適正な状態に保つためと思われる管を鼻から差し込んでいました。歩くことができましたが,その場合もその管が繋がっている装置,キャリーバッグのようなものを自分で引っ張っていました。そういう事情があるためだったと思いますが,部屋のトイレには行きましたが,検査などの必要な場合を除いては部屋の外へ出て行くことはほとんどありませんでした。また,これは危険を防止するために病院側から通達されていたからだと思いますが,消灯時間中はトイレにも行かず,尿瓶を使っていたようです。
 食事は病院食を摂ることができました。そして食後に看護士が持ってくる薬を飲んでいましたが,食前のインスリン注射は打っていませんでした。また,この方は病院食だけでは足りなかったようで,お菓子やレモンティーなどをおやつとしていましたが,そのことに関してとくに看護士から注意も与えられませんでしたので,入院する原因となった病気は糖尿病ではなかったものと思われます。
 奥さんが毎日欠かさず見舞いに来ていました。それも,まだ面会時間の前と思われる時間から来ることもあり,遅くまで残っていました。おそらくお菓子類などはこの奥さんが買ってきていたのではないかと思います。
 なお,この患者は僕よりも前,1月13日に退院していきました。
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オールスター競輪&患者②

2009-09-24 19:24:37 | 競輪
 シルバーウィークは各公営競技でビッグレースが行われていましたが,競輪は5日制のGⅠオールスターで,昨日が決勝でした。ラインは平原-武田-神山の関東,海老根に稲村,永井-村上の中部近畿,石丸-合志の西国。
 スタートを取ったのは稲村で海老根が前受け。3番手に石丸,5番手に永井,7番手から平原で周回。残り2周のホームで平原の上昇に先んじて永井が動き海老根を叩くと,バックではさらにその上を平原が叩きました。外を上がった石丸が上手く4番手に入り打鐘。平原の抑え先行に。車間が開いた6番手が永井で海老根は圏外の8番手。バックにかけて永井が動いていきましたが,3コーナーでは武田に番手発進され万事休す。そのまま後ろをほとんど寄せつけずに武田が優勝。マークの神山が2着に残り,きわどく迫った石丸が3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は7月のサマーナイトフェスティバルに続くビッグ4勝目。GⅠは3月の日本選手権以来の2勝目。自力を出せる選手が無風で残り半周まで連れて行ってもらいましたので,ここは楽だったでしょう。今回はすべて番手戦で,決勝は願ってもない展開となりましたが,今後は競られてどうかというのがあるいは最大の課題となってくるのかもしれません。
 
 病室に入ってすぐ右側,つまり僕の自室の隣の患者は,見た目には70台に見えるおじいさんでした。病気のためだと思われますが,ひどくやせこけていました。
 この患者は完全に寝たきりでした。手だけは自分で動かせたようですが,寝返りを打つこともできませんでしたので,看護士に身体を動かしてもらっていました。そういうわけですから排泄はおむつ着用。食事は点滴でした。インスリンの注射をしている気配がありましたので,糖尿病であったと思われますが,おそらくほかの病気を併発していたものと想像します。
 寝返りを打てなかったのですが,痰を排出することもできませんでしたので,吸引してもらっていました。ところがこの患者はどんなことをされても「痛いよー,勘弁してくれよー」と大きな声で叫びました。本当に痛かったのか,本人が痛いものと思い込んでいたのかは定かではありませんが,ただ看護士がやって来ただけで騒ぐこともありましたので,後者の理由も間違いなくあったと思います。
 寝返りとか痰の吸引というのは,3時間に1度くらいは必要だったようで,消灯時間中にも構わず元気な大声を上げました。よってこの部屋に移ってすぐの頃は,そのたびに僕は目を覚ましていました。夜中の方が静かですから,余計に元気に感じられたというのはあるかもしれません。しかしそのうちにはこの患者が騒いでも眠っているようになったのですから人間の適応力というのもすごいものです。
 たぶん,僕がこの病室に来る少し前,1日か2日前に来た患者であったと思われます。僕が退院するときにも,まだ入院していました。
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日本テレビ盃&患者①

2009-09-23 18:54:23 | 地方競馬
 シルバーウイークというのは,僕は初めて耳にしたのですが,ことば自体はかなり前からあったそうです。その連休の最終日となった今日,船橋競馬場では日本テレビ盃が行われました。
 先手を奪ったのはフサイチギガダイヤ。これを抑えきれない感じでフェラーリピサが追走。マコトスパルビエロ,クレイアートビュン,トップサバトンといったあたりが追走していきました。最初の800mは47秒4。最初の直線が長いこともあり,ハイペースです。
 このペースでも抑えきれなかったフェラーリピサが向正面で先頭に。フサイチギガダイヤとクレイアートビュンはここで苦しくなり,2番手にマコトスパルビエロ,3番手にトップサバトンが上がって直線に。一旦はフェラーリピサが後ろを引き離し,セーフティーリードとも思えましたが,ゴール前になって急に脚色が鈍り,諦めずに追ってきたマコトスパルビエロが交わして逆転優勝。フェラーリピサが2着で,外を追い込んだボンネビルレコードが直線半ばではトップサバトンを捕えて3着。
 優勝したマコトスパルビエロは前走のマーキュリーカップに続いて重賞連勝。早くから頭角を現し,期待されていた馬で,そのわりにはやや伸び悩んでいるという印象をもっていましたが,ここにきて本格化してきたのかもしれません。月曜のエルムステークスにも登録がありましたが,こちらに回ってきた選択も正解でした。母系祖先はダイシング
 鞍上の安藤勝己騎手,管理している鮫島一歩調教師とも,日本テレビ盃初制覇です。

 一般病棟の病室は4人部屋でしたから,僕のほかに3人の患者がいたわけです。どんな人たちであったかをひとりずつ説明しておきます。ただし,同室の患者たちとはほとんど会話はありませんでしたから,これはあくまでも僕が見た印象のみに基づいています。
 まず病室に入ってすぐ左側の患者。僕の自室は右側の奥でしたから,僕からみれば斜向いの患者ということになります。この人は50代後半から60代前半と思われる,恰幅のよい人でした。なお,病室は当然のことながら男女別に分けられていますから,男ということになります。
 この人は午後になりますとリハビリということで部屋を出て行くこともありましたが,その場合にもベッドから車椅子へと移動させてもらっていて,自ら動くことがほとんどできませんでした。排泄の方はおむつ着用で,食事は鼻から管を通して液状のものを摂取していました。何の病気であったかは分かりません。
 この人は身体を自由に動かせませんでしたので,ナースコールを押すことができず,看護士を大声で呼ぶのですが,その声が大きいのには閉口しました。まあそれでもこれはこの患者にとってはそうするほかないのですから仕方がないのですが,何というか,ことば遣いや態度そのものにかなり横柄なところがあって,それは気になりました。これはこの患者に接するすべての人,つまり医師や看護士のほか,見舞い客に対しても同様でした。そのせいなのかどうかは分かりませんけれども,だれかが見舞いに来る頻度というのは,この患者は極端に少なかったです。
 僕が退院した1月20日だったか前日の19日であったか失念しましたが,この患者は退院しました。といっても,これはリハビリ専用の病院への転院でした。
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銀河戦&自室

2009-09-21 19:06:26 | 将棋
 第17回銀河戦は一昨日の土曜日に決勝の模様が放映されました。対戦成績は深浦康市王位が3勝,阿久津主税七段が2勝。
 阿久津七段が先手で深浦王位の変則的な四間飛車。先手が銀冠を目指して玉が壁形になったところで後手から第1図のように仕掛けました。
           
 将棋はここから不思議な応酬となり,その部分で差がつきます。▲4六同歩△同飛▲4七銀△4一飛まではごく自然。そこで▲4六歩なら穏やかですが先手は▲4八飛と回りました。対して後手は△4五飛(第2図)。
           
 次に△2五飛と回られてはかないませんから▲2八飛ですが,これは△4一飛のときに△4五飛と引いてなお後手番という局面なので先手が一手損。そこで後手は手得を生かそうと△4六歩(第3図)と打ちました。
           
 ここでは▲5六銀と上がる方が普通ですが▲3六銀と右に。以下,△4二飛▲4八飛△4三金▲4六飛△5四金▲4三歩△2二飛▲4五銀△同金▲同飛(第4図)と進んでみると,後手はせっかく打った4六の歩が取られ,懸案となりそうだった先手の銀も捌け,先手が大きくリードすることになりました。
           
 この後,先手が遊んでいる後手の3一の銀に働きかける攻め方を選択したため少しもつれそうになったのですが,最後は時間を残していた先手が後手玉の即詰みを読みきり,一手違いの攻め合いを制しています。
 阿久津七段は2月の朝日杯将棋オープンに続く全棋士参加棋戦優勝。もとより才気迸る棋士で,今後のさらなる活躍が見込めるでしょうし,個人的にも期待しています。

 すでに説明しましたように,病室全体は,中央の通路部分を別にすれば,4つの個室,本来的な意味で個室ということばが妥当であるとは思いませんが,便宜的に個室に分割されていました。このとき,ベッドというのは通路に対しては垂直に置かれていて,壁側が頭,通路側が足という向きになっていました。つまり向いの患者とは,横になれば足と足とが向き合うようになっていたということです。
 次に,横の患者とは都合2枚のカーテンによって隔てられていたわけですが,病室の構造から,入口のドアに近い側と,奥の窓に近い側とがあったことになります。僕の自室となっていたのは,入口から入った場合には右側の奥,すなわち窓に近い方でした。この窓というのは方角でいえば南西から西向きといった感じ。よって午後にはかなりの日差しが差し込みましたので,僕は昼でもその部分だけカーテンを閉めておくということもしばしばでした。
 僕がベッドで仰向けに横になると右側,すなわち窓とベッドの間にパソコンとその下に冷蔵庫がありました。パソコンはHCUにあったのと同じで,治療のために医師や看護士が使いましたし,テレビもこれで見ました。ちなみにテレビはアナログ放送でした。
 左側には椅子が1個ありましたが,この椅子の先がすぐにカーテン。頭の上に自室用のライトがあり,このライトは自室全体を明るくするものと,頭の先だけを照らすもののふたつ。消灯時間に点すことは禁止でしたが,それ以外の時間はスイッチで点けたり消したりできました。そのライトの左側,つまり横の患者側に何段かの戸棚があって,ここに着替えなど必要な荷物のすべてを置いていました。あとは左手にナースコールのためのボタンがあったくらい。HCUに比べますと,かなり狭い部屋だったということになります。
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抗争&病室

2009-09-19 18:55:00 | NOAH
 僕のプロレスキャリア以前のプロレスで,僕が見て最も面白いと感じたのは,ドリー・ファンク・ジュニア,テリー・ファンクのザ・ファンクスと,アブドーラ・ザ・ブッチャー,ザ・シークの凶悪コンビとの間に繰り広げられた一連の抗争でした。
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,ブッチャーは新日本で戦っていましたし,シークの方は,年末の世界最強タッグ決定リーグにはマーク・ルーインと組んで出場していましたが,おそらくそれが最後の全日本参戦であったと思われ,全日本で戦っている記憶は僕の記憶にはありません。
 もちろん僕は,この両チームの間に抗争が繰り広げられていたということは,早い段階で知っていましたし,試合の中でブッチャーがテリーの腕にフォークを刺したという凄惨なシーンがあったことも知っていました。ただ,試合の結果としては反則とかリングアウトの消化不良の決着ばかりですから,そう面白いものではないだろうとずっと思ってきたのです。
 ところが実際に見てみるとこれが面白い。今になって見てもかなり面白いのです。どこがどうと問われれば答えに窮するのですが,両チームが本当に憎み合い,いがみ合っているという感じが画面を通してもよく伝わってきて,それが試合の迫力といったものを大きく増していました。もちろん本気で憎み合っていたわけではないと思うのですが,見ている側がそういう印象を抱けるプロレスとしては,この抗争は断然のものがあったと思います。
 こういうプロレスも十分に面白いものであるということが分かったということは,僕にとって新しい発見でした。
 
 一般病棟の病室というのは個室と大部屋とに分かれています。これは大抵の病院がそうかもしれません。僕が入ったのは大部屋の方。個室は料金が割高ですし,そもそも僕は個室を必要とするほど神経が細やかな人間ではありません。
 この病室は,入口から入りますとまず右側にトイレ,左側に洗面台がありました。このトイレというのは一人用ではあったのですが,かなり広かったです。なぜあんなに広くなければならなかったのかということについては今でも理由は分からず,単に位置の関係で広くなっていただけなのかもしれません。また洗面台の方には鏡が備え付けられていましたが,移動してきた日にこの鏡に映った自分の顔を見て,あまりにやせこけてしまっているので驚きました。
 この先に入口とは別にひとつ扉があったようですが,これが閉められているのを僕は見たことがありません。扉の先は中央が最奥の窓まで続く通路で,左右にベッドが2台ずつ備えてありました。つまり4人部屋ということです。なお,備えてあるというのはこの部屋に備え付けてあるという意味ではありません。ベッド自体は移動可能なものです。
 向いのベッドは通路を隔てていますが,隣同士はそうでもありません。各々の部屋はカーテンでぐるりと囲むことができるようになっていました。つまり隣との仕切りは各々のカーテン,つまり2枚のカーテンであったということになります。HCUでも同様だったのですが,この仕切りに用いられるカーテンは,ここでは水色をしていました。
 当り前ですが僕が知っているのは僕が入院した病室だけです。ただ,常識的に考えれば,大部屋の構造というのはどこも一緒であったろうと思います。
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トゥインクルレディー賞&8階

2009-09-17 19:02:40 | 地方競馬
 6日に行われた川崎競馬で,競走馬から禁止薬物が検出されるという一件がありました。その馬と同一厩舎のマダムルコントが除外され,昨晩のトゥインクルレディー賞は13頭で争われました。
 先手を奪ったのはキープザチェンジ。ツクシヒメが続いて,マルヨシロワイン,デザートレジーナ,ベルモントプロテア,ジェットコマチといったあたりが先行集団を形成。前半の800メートルは48秒9のハイペースになりました。
 キープザチェンジの逃げ足は快調で,先行した馬の中ではベルモントプロテア以外は壊滅。後方につけていた馬からはフサイチミライが上がってきて,直線は外を鋭く伸びて前の馬を交わして優勝。少し不利があり,最後は内から伸びる形になったベルモントプロテアが2着で,逃げ粘ったキープザチェンジが3着。
 優勝したフサイチミライはJRAデビュー。その後,名古屋,JRA,兵庫と移籍を繰り返し,昨年暮れに南関東に転入。水が合ったかあるいは本格化を迎えたか,10戦して5勝を上げていました。南関東重賞初挑戦で初制覇。JRA時代での実績では2着のベルモントプロテアにまったく及びませんが,3キロの斤量差で相殺されたようです。末脚が生きる展開となったのもプラスだったのでしょう。伯父にフジキセキ
 主戦の御神本騎手が規則違反で騎乗停止となったためお鉢が回ってきた川崎の今野忠成騎手は2月のユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。この日の3レースで地方競馬通算1500勝を達成していて,さらに花を添えました。管理しているのは大井の荒山勝徳調教師で,トゥインクルレディー賞は共に初制覇です。

 まずはみなと赤十字病院の建物の構造を説明しておきましょう。
 この病院は途中の階からはHという字のような形になっていました。つまり中央の渡り廊下によって左右に分断されていたわけです。ただし8階の一方だけは屋上になっていたようです。ただそこには出ることができませんでしたので,そこが具体的にどのようになっているのかということは分かりませんでした。というわけで僕が移動してきた総合内科の病棟がある8階はIの字型になっている一方と,エレベーターなどがある渡り廊下部分だけですべてでした。
 病室はIの字型の部分の左右にありました。よって建物の構造上,向いの建物が見える病室と,見えない病室がありました。見えない病室の側が横浜港側で,こちらからはベイブリッジなどが見えた筈です。筈というのは僕の病室は反対の,向いの建物が見える側であったからです。この左右の病室を挟み,中央にナースステーションがあり,さらにいくつかの,会議室のような病室以外の部屋,シャワールームなどがありました。Iの字型は一方の端がマリンタワーや山下公園の方向,もう一方が本牧ふ頭の方向になっていて,その両端に談話室のような部屋がありました。ちなみに冷蔵庫を動かしたりテレビを視聴したりするためのカードというのはこの談話室に備え付けてある自動販売機で買うことになっていました。
 売店などは8階にはなく,5階と1階にありました。ただし1階には入院患者用の病室はなく主に通院患者が利用します。ただ,入院中も検査の際などには僕も利用しました。僕は入院中には利用しなかったのですが,おそらく2階も同様であったと思います。また5階には売店以外にも理容室やミニ図書館がありました。
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王座戦&移動

2009-09-16 21:59:18 | 将棋
 羽生善治王座の先勝で始まった第57期王座戦の第二局。
 羽生王座の先手で山崎隆之七段は一手損角換り1-Ⅱ。先手は棒銀を選択。しかしその銀では攻めずに引いて第1図。
           
 銀を引いて飛車筋を通した先手が歩交換したところ。ここで後手は△2三歩と打つのではなく,△2三金と上がりました。この後,この金が珍しい動きをします。
           
 第2図は2八にいた飛車が逃げたところ。ここで△2四金と上がりました。▲4八銀に△1五金と出て,▲3九銀△2六金で飛車と馬の交換。▲4九角と逃げたのに対して△3七桂不成▲同桂△同金(第3図)。
           
 取ってから打つのではなく,自陣にいた金がここまで進出するというのは相当に珍しいケースなのではないかと思います。
 将棋は第3図から,先手の反撃を上回る攻めが後手に続くかという展開となったのですが,後手玉の薄さが祟ってしまったようです。3七の金が龍の自陣への利きを妨げたのも多少は影響したように思われます。
 王座戦では無類の強さを発揮する羽生王座が連勝で防衛に王手。第三局は25日です。

 3日の朝の食事を済ませた後,僕はHCUから一般病棟へと移動することになりました。これは当日の朝に言われたものか,それとも前日の夜に言われたものであったか失念してしまったのですが,いずれにしても急に決定されたものでした。おそらくこの決定は医師がするものと思われますので,前日に僕の状態を見に来たG先生が,もう一般病棟に移動しても大丈夫と判断したものだと思います。どちらにしても急なことでしたので,僕は移動する部屋がどこになるのかを,家族に連絡しておいてくださいということだけお願いしました。そうしておかないとまたHCUに見舞いに来てしまうだろうからです。この日は午後に両親と妹が来たのですが,すんなりと新しい病室に来ましたので,スムーズに連絡が取れていたのでしょう。
 この病院の建物は8階までありました。ただし,病院のことですので4階というのはありませんから,実際には7階建てであったと考えていいと思います。一般病棟というのは科ごとに階数が分かれていて,総合内科の病室は最上階に当たる8階にありました。もっとも,このときの移動というのは,HCUの僕の部屋まで総合内科の入院用のベッドが運ばれてきて,僕はただHCUのベッドからそちらのベッドに移り,そのまま看護士に押されて運ばれていっただけですので,歩いてはいません。僕の荷物なども看護士が運んでくれました。また,この移動の時点ではインスリンと思われる点滴がまだ終了していませんでしたので,それも一緒に一般病棟へと移動したということになります。
 ここの8階にはかなりの数の病室がありまして,僕は確か805という部屋だったように思うのですが,これはこの階の中央を占めるナースステーションから最も近い部屋でした。ただ,そういう部屋が選ばれましたのは,とくに注意が必要であったからというわけではなく,たまたまこのベッドが空いたからということ以上の理由はなかったものと思います。
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明暗&利点

2009-09-15 19:12:19 | 歌・小説
 夏目漱石とドストエフスキーの関係を最も明瞭に表している小説といえば,夏目漱石の遺作にして未完の書となった『明暗』をおいてほかにはないと思います。少なくともドストエフスキーを読んでいなければ,漱石はきっとこの小説を書かなかっただろうと思います。
             
 『明暗』におけるドストエフスキーの影響というのは,ただひとつというのではなくて,いくつかの点が上げられますが,その最たるものといえば,小説の長さではないでしょうか。漱石は小説家としての後半を,朝日新聞の社員として過ごしました。このことは,漱石の小説が新聞小説として書かれたということを意味します。そのこともあって,漱石の小説というのは,ドストエフスキーの『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』のような大作に比べれば,そうも長いものではありません。ところが『明暗』は,未完で終っているにも関わらず,漱石のあらゆる小説の中で,おそらく最も長くなっています。実は処女作の『我輩は猫である』も漱石の小説の中では長い方なのですが,これは付け足されて長くなったという側面がありますので,それを考慮すれば『明暗』は漱石の小説としては異例なほどに長いということができるかと思います。
 小説の長さというのは,単に形式的なものであるかもしれません。僕もこのことを,漱石が受けたドストエフスキーの影響の最大のものと思っているわけではありません。しかしこの小説そのものの長さというのは,思われているよりは重要なことなのではないかと考えているのです。

 主食がお粥にされたことには難点もあったのですが,別にはっきりとした利点もありました。
 お粥というのは,どれくらいの水分を使って作るのかという差異によって,半粥とか七分粥,全粥などの種類があります。僕が食していたのは全粥で,これはお粥の中でも最も水分が多いものでした。
 もしも食品を同じ質量のみで計算するならば,普通に炊いたご飯と全粥ではカロリーが異なってきます。これは,水分の量がそれぞれ違うのですから当然のことでしょう。ところで,水というのはカロリーがゼロですので,同じ質量だけ食するなら,普通のご飯よりもお粥で摂取するカロリーは減ってくるわけです。いい換えれば,単に質量だけに注目するならば,全粥でご飯と同じだけのカロリーを摂取しようとする場合,ご飯よりも多くの全粥を食べなければならないということになります。おおよその比率でいいますと,ご飯50gで摂取するだけのカロリー,約80kcalを全粥で摂取しようとすれば,110gの全粥が必要になります。
 摂取カロリーというのは,増えてはいけませんが減ってもいけません。僕のようにインスリン注射をしている糖尿病患者の場合はとくにそうで,注射するインスリンの量は摂取する筈のエネルギー量に応じて決められますから,カロリーが減じてしまうとインスリンの効果が出すぎて,逆に血糖値が低くなりすぎてしまう危険があるからです。
 したがって全粥を食べていた僕は,それで摂取する栄養素,これは炭水化物ですが,それを十分な量とするために,全粥のほかに芋類やカボチャなどを食していました。つまりもしも僕と同じカロリーを普通のご飯で摂取している場合に比べると,おかずが少し多くなっていたのです。これが全粥最大の利点であったと思います。
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花月園記念&お粥

2009-09-13 19:17:20 | 競輪
 例年だと11月に行われていた花月園記念がこの時期に移り,今日が決勝(動画)でした。矢口-神山の北関東に高木,浅井-山口-田中の中部,坂本-友定の西国で佐藤が単騎の並び。
 友定がSを取って坂本の前受け。矢口が3番手,佐藤が入って7番手に浅井の周回。浅井が残り2周のホームから上昇すると佐藤が4番手にスイッチ。バックから矢口が発進して前を叩いて打鐘。一旦は山口と競る構えをみせた佐藤が再びこのラインの4番手に追い上げ,空いていたインを坂本が上昇して残り1周。坂本はそのままインを上昇し,バックでは矢口を抜いて先頭に。友定はつけきれなかったもののそのまま矢口との差を広げていって優勝。直線で矢口の番手から出た神山が2着で矢口が3着。
 優勝した福岡の坂本亮馬選手は記念競輪初優勝。競輪学校90期,24歳の若い選手です。本来なら3番手の高木か逃げた矢口がインを閉めておくべきで,展開的にかなり恵まれた印象は残りますが,うまく隙をついた瞬間的な判断力は誉められるべきものと思います。まだ本当にトップクラスで戦う力がついているとはいえないかもしれませんが,年齢の面から考えても,記念競輪はまだまだ勝てるでしょうし,将来的にはビッグの優勝も可能な選手ではないかと思います。

 僕の主食が普通に炊いた白米ではなく,お粥になったことに関しては,僕自身が医師に希望を尋ねられたという記憶がありませんから,おそらく医師ないしは管理栄養士の配慮であったと思います。つまり僕はまともに食事を摂取するということが,普通に日常生活を送っているという場合と比べたら,かなり久しぶりということになるので,胃に優しい,つまり普通のご飯に比べたらずっと消化のよいお粥になったということでしょう。しかし,この消化がよいということが,実は病院での生活においては,思わぬ難点を生じさせてしまったのです。
 といいますのも,消化がよいということは,それだけ胃の中に残っている時間が短くなるということを意味します。俗に腹持ちがよいとか逆に腹持ちが悪いというようなことがいわれますが,これでいえばお粥というのは典型的な腹持ちが悪い食品になるわけです。もちろん食事そのものの量の影響もあったでしょうが,この腹持ちの悪さのゆえに,僕は病院ではかなり空腹感というのを覚えることがありました。
 入院患者のすべてがカロリー制限をされているわけではありませんので,中には間食をしたりしている患者もいたわけです。しかし僕はカロリー制限がありましたから,水やお茶などは自由に飲むことができたとはいえ,カロリーのあるものを食べるということはできませんでした。それに,僕は量と質という関係でいえば,インスリンの排出量に問題があるⅠ型糖尿病でしたので,そもそも間食というのをしてしまいますと,そのカロリーの分だけ血糖値も上昇してしまいます。そういう観点からも間食は絶対にできませんでした。もちろんこれは今も同様ですが,それについては対処法を後で説明します。
 このために,僕は病院ではそれまでの生活からすれば考えられないくらい空腹の時間が長くなりました。これが食事がお粥になったことの最大の難点だったのです。
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竜王戦&病院食

2009-09-11 21:44:33 | 将棋
 勝った方が渡辺明竜王への挑戦権を手に入れる戦いとなった第22期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で森内俊之九段の先手。角換り相腰掛銀先後同型。定跡にある仕掛けから,深浦康市王位の方が早い段階で変化したのが第1図。
           
 将棋の定跡というのはしかと確立したものからそれほどではないものまであるのですが,この戦型は典型的な前者。したがってこの段階で変化できるというのは僕には驚きでした。研究範囲であったと思いますが,この手の成否如何がこの将棋の行方を左右する手であるといえるでしょう。
 取れないならば第1図で▲3四歩と取り込むのは自然。△4四銀に▲7四歩△同金と形を乱されたので後手も攻め合いに活路を求めるほかなくなりました。そうして第2図に。
           
 7一に打った角を成り返ったところ。一見するとぼんやりした手にも感じるのですが,この手が厳しく,先手に傾いたようです。後手はこの直前に△6五桂とただのところに跳ねているのですが,それがどうだったのかともいえるのですが,全体を通してみるなら,この将棋に限っては新手がうまくいかなかったということではないかと思います。第2図以下,後手も最後まで粘ったので全駒のような将棋となってしまい,先手が勝っています。
 展望では対抗に挙げた森内九段が挑戦者に。戦略家同士ですので面白い七番勝負となることと思います。

 ここで病院食がどんなものであったかということについて少しお話しておきましょう。
 メニューは基本的には全員が同じです。ただし,たとえば腎症の患者などでは,たんぱく質を控えなければならにというような場合もありますから,そういう場合の配慮はなされていた筈です。塩分に関しては元から控えられていました。つまり食事を自分で食べるすべての患者が,塩分控えめの食事をしていたということになります。
 メニューは同じなのですが,量は異なります。とくに僕のような糖尿病の患者に関しては,摂取カロリーが管理栄養士によって決められていて,これは体型などによって異なってきます。僕の場合は1日の摂取カロリーは1760kcal。これはもちろん退院した現在も同じで,僕は今でもそのように食べているわけですが,これについては後でお話しします。人によっては2000kcalであったり,1200kcalであったりするわけで,必然的に量は変わってきます。なお,これは必要摂取カロリーですので,これ以上食べてはいけませんが,これだけは食べなくてはいけないという量でもあります。インスリン注射をしている糖尿病患者の場合には,摂取カロリーが減少すると低血糖症状を起こす可能性があるからです。
 さらにこれとは別の配慮があります。主食というのは,朝にはパン,昼にはうどんないしはそばが出ることもありましたが,これは3日に1回程度。基本はご飯です。このとき,僕はおそらくまともに食事をすることが久しぶりであるということが考慮されたのだろうと思いますが,お粥になっていました。これは結局,退院することになる20日の朝の食事までずっと続きました。どの程度の患者がお粥であったのかは僕には分かりませんが,普通のご飯ではなくお粥であるということによって,僕にはひとつの利点とひとつの難点があったのです。
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戸塚記念&食事

2009-09-10 19:15:48 | 地方競馬
 川崎競馬場の前身が戸塚競馬場。一昨日の晩に戸塚記念が行われました。
            
 予想された通りでメジャーピースの逃げ。マスターハンド,ブルーラッドあたりが前につけましたが,1周目の正面では最後尾のアンビシャスガイまで団子状態。それだけゆったりした流れであったということでしょう。
 2周目の向正面に入るとブルーラッドが先頭に踊り出ました。メジャーピースが2番手で頑張り,ブルーヒーローとカネゼンホープはその後ろ。残り800メートルからペースアップして,ブルーヒーローが2番手まで上がったのですが,ブルーラッドは余裕があり,直線の半ばからは独走状態。4馬身の差をつける圧勝になりました。2着が断然人気のブルーヒーローで,さらに5馬身離れた3着に,メジャーピースを交わしたカネゼンホープ。
 優勝したブルーラッドは5月の東京湾カップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。僕が考える最大の勝因は,早めに先頭に立った強気な騎乗ですが,今回は初めてチークピーシズを着用してきたとのことで,それも効果的であったかもしれません。成績からも分かるように,右回りよりは左回りの方がすっとよさそうです。
 鞍上は2日の船橋競馬で地方競馬通算1000勝を達成した大井の御神本訓史騎手。東京湾カップ以来の南関東重賞制覇で,戸塚記念は初制覇。管理しているのは川崎の足立勝久調教師で,2005年以来となる4度目の戸塚記念優勝となりました。

 1月2日の夕食には間に合わなかった食事ですが,翌3日の朝からは食べられるということになりました。看護士は6時に部屋のカーテンを開けにくるのですが,朝食は8時です。これはHCUでも一般病棟でも同様。したがいまして,8時にカーテンが開けられたからといって,すぐに起床しなければならないというものではありません。別に8時まで眠っていてもそれはそれで構わないわけです。なお,病院のタイムスケジュールや,僕が実際にどのように過ごしていたのかということについては,別に詳しく説明することにします。
 食事はベッドの上で摂ります。これはベッド上安静だからというわけでなく,一般病棟でも同様。ベッドには食器が置けるようなテーブルがセットで設置してありました。3日の朝もここに食事が載せられたのですが,その前に,看護士は僕の腹に注射をしました。これは間違いなくインスリンであったと思います。
 僕はこの時点ではまだ点滴をしていまして,それで血糖値を下げる処置をしていました。それなのになぜ別に注射をするのかということを疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれません。ただ,点滴の方はインスリンではなかったかもしれませんし,また,一口にインスリンといいましても,薬物として処方されるインスリンというのは,効能の差異によって4種類ほどに分けられます。この分類についてはまた後で説明することにしますが,仮に点滴がインスリンであったとしても,このときに腹に注射したインスリンはまたそれとは別の効能を持つインスリンであったということも考えられます。すでに説明してありますように,人間というのは食事をすれば血糖値が上昇するという身体の仕組になっていますので,この食前の注射は,まさに今から摂ろうとする食事による血糖値上昇に対処するための注射であったということになります。
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王位戦&番組

2009-09-09 19:56:37 | 将棋
 木村一基八段が3連勝して王手を掛けた後,深浦康市王位が2つ踏みとどまって迎えた第50期王位戦七番勝負第六局
 木村八段が先手で相矢倉森下システム。先手の3筋交換で1歩を手に入れた後手が,玉を囲わずに端から先攻する将棋。端の突破は初日から確定的で,後手は馬を作って攻め合いを目指しました。
           
 ▲6二馬と銀を取ったのに対し,玉の逃げ道を作りつつ3一の角を9七に成ったところ。ここで先手は▲9八香と打ちました。△同馬なら▲5三歩成としようということでしょう。
 後手はここで2時間22分という大長考。△8五桂▲6八玉△7九馬▲同金△9八飛成▲5七玉△5五香▲5六桂△同香▲同金△8七龍▲4八玉まで王手を続け,△7九成香(第2図)と金を取りました。
           
 第1図から第2図まで,先手には変化の余地がなさそう。それならこの局面で反撃しなければ,第1図からの▲9八香の意味がありません。そこで▲5二銀△3一玉▲4三銀成△同金▲5三歩成(第3図)と進めました。
           
 後手は第2図から第3図の過程で銀を入手したので△4九銀という手が発生。しかしこれには▲5九歩。実は並べていて,これが受けの決め手で先手が勝つのではないかと思っていました。状況は後手玉はほぼ受けのない2手すきなので,少なくとも詰めろをかけ続けなければいけないのですが,難しいように思えたのです。しかし次の△3八歩(第4図)は詰めろ。
           
 ここで3七の銀を上がって逃げ道を作るのかと考えていたら,▲2五角と4七の地点を受けました。しかしこれには△7八龍と入られ,▲5八香△同銀成▲同歩で△3九銀。▲5七玉△8七龍▲6七銀と駒を使わされたところで詰めろで△2八銀不成(第5図)と飛車を取られてしまいました。
           
 この局面は後手がいいと思います。つまり,第3図から第4図周辺の僕の判断が間違っていたのでしょう。この後,感動的な白熱の終盤戦が続きましたが,その部分は僕にはどうこういう棋力も筆力もありません。しかし必ず並べてみてください。最後は華麗な長手順の即詰みに討ち取った後手が勝っています。
 とうとう深浦王位がタイに追いつきました。第七局は29日と30日です。 

 前にも説明しましたが,病院は朝の6時になると看護士が部屋のカーテンを開けました。一方,消灯は夜の10時でした。したがってこの10時から6時の間はテレビを見ることができません。僕の少ないテレビ視聴時間は,その大半が午後11時以降の深夜というか夜遅くでしたので,普段見ていたような番組に関しては,入院中は見られなかったということになります。また,このパソコンで見られたのは,地上波とNHKのBS,カラオケ番組とお天気番組,放送大学と通販番組が2つだけでしたから,視聴時間の多かった囲碁将棋チャンネルも見られませんでした。僕は銀河戦に関しては極力見るようにしていますが,この間は一切見られなかったことになります。
 母にテレビ視聴用のカードを買ってもらったのが2日。見舞い時間は普段は午後3時からでしたが,この年始の時期は,土日のように午後1時からの見舞いが許されていました。母が何時に来たのかは覚えていませんが,いずれにしても僕がテレビを見られるようになったのはこの日の午後ということになります。正月ですから,どんなのがあったのかはまるで覚えていないのですが,特別番組が多かった筈です。
 で,僕が見た番組はその大半がニュースか歌番組でした。僕は普段からテレビをかけているときはチャンネルをくるくる変えることが多く,それは病院でも同様でしたが,あまり面白いと思えるような番組がありませんでしたので,どうしてもこのふたつに落ち着いてしまったのです。テレビを見始めた2日の夜は,NHKBSで,僕が産まれた頃の歌の特集番組をやっていまして,岡林信康さんが出演されていました。まさか山谷ブルースやチューリップのアップリケを病院で聴くことになるとは思いもよりませんでした。一方,ニュースに関していえば,この頃の僕が最も気にかけていたのは,イスラエル軍によるガザ地区への侵略と空爆でした。
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