スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第三部定理二まとめ①

2008-10-31 20:59:05 | 将棋
 竜王戦七番勝負第二局。
 渡辺明竜王封じ手は△9八歩。△1二香なども予想されていたようですが,攻めてから穴熊にするというのは,本来的には変調といえますから,攻め続けようとするのは本筋の指し方といえるような気はします。ということで,2日目もほぼ後手の攻め,先手の受けという展開になりましたが,後手の攻めは細く,先手の羽生善治名人は受けているうちに自然にと金を作ることができました。
           
 ここから△6五香と逃げたのに対し,▲6三とと寄り△7四歩。ここで▲8四銀と逃げてと金は後で5二に活用すれば先手の完封だったようですが,実戦は▲5三と。これも銀得で悪い筈はありませんが,後手の攻めもまだ続くことになりました。ただそうなるとまた力を出してくるのは羽生名人の将棋の特徴のひとつで,結局,カウンターの反撃も織り交ぜながら応接。最後はどうにも先手玉が捕まらなくなったところで後手が形作りで詰めろをかけたところ,後手玉を即詰みに仕留めて勝利を掴んでいます。
 これで羽生名人の2連勝。第三局は11月13日と14日に指されます。

 明日はふるさとダービー広島2日目でメーンはピースカップ。並びは山崎-伏見の福島に渡辺,北津留-西田-室井で西国ですが,ここで神山-飯嶋の栃木が競るそうです。山口は単騎。普通は隊列が短くなるので山崎選手ですが,北津留選手からというのも面白そうではあります。

 今回のテーマは第三部定理二で,このテーマを設定した意図は,この定理の内容,とくに,人間の精神が意志によって自分の身体を何らかの運動ないしは静止に決定するということはできないということを,経験論的な観点から証明するということでした。
 ただし,いかに経験論的に証明するとはいっても,スピノザの哲学,とくに『エチカ』というのはきわめて論理的に構成されているものですから,ひとまずはこの定理が論理的に正しいということを示しておく必要はあります。このために,第二部定理六に訴えることによって,前もって第三部定理二を証明しました。またこの定理は,人間の精神と人間の身体の秩序,とくに能動状態と受動状態は一致するという観点からの別の証明も可能であると僕は考えています。
 スピノザ自身,この定理,なかんずく人間の精神が自分の身体を運動および静止に決定できないということは,僕たちの経験論には合致していないと考えていたようです。そのために,この定理の備考において,このことを経験論的に示すひとつの実例を挙げました。それが夢遊病者の例です。しかしこの例には,ある難点が含まれているように僕には思えました。なぜなら,一口に人間の精神が自分の身体を運動あるいは静止に決定することができると,この定理とは正反対の主張をするとしても,そこには強い意味と弱い意味のふたつがあるのであって,このことが強い意味で主張される場合には,確かにこの例によってそれに反駁することが可能ですが,もしも弱い意味でこれを主張される場合には,逆にその立場から反論される可能性が残っているように僕には思えたからです。
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北海道2歳優駿&他者との関係

2008-10-30 19:34:45 | 地方競馬
 ここ2年は札幌競馬場の1700メートルで行われていましたが,今年からまた門別競馬場の1800メートルに戻された第35回北海道2歳優駿
 北海道のウルトラシーとJRAのスマートスパイダーが取り消して12頭での争い。発馬直後にスーパーマークンが躓き後方からのレースに。モエレビクトリーが先手を奪いメトロノースが2番手。1000メートル通過が64秒2。押していくところもなかったように極度のスローペースでのレースになりました。
 1番人気のワンダフルクエストは後方2番手。向正面中間から外を追い上げていきましたが,さすがにペースも上がってきて,なかなか前には追いつけません。2番手にいたメトロノースが直線の入口で先頭に立つとあとは後ろを離す一方。5馬身の差をつけて圧勝。2着は外を回ったワンダフルクエストと内から伸びたモエレエキスパートの争いになりましたが,モエレエキスパートが制して2着,ワンダフルクエストが3着でした。
 優勝したメトロノースは新馬を芝で負けた後,2戦目に阪神でダートの未勝利をレコード勝ちしここに挑んでいました。楽な展開になったのは恵まれましたが,上がり36秒7というのは秀逸で,やはり評価しなければならないでしょう。父はアドマイヤコジーン
 鞍上は武豊騎手でこのレースは2003年以来となる3勝目。管理するのは安田隆行調教師で,こちらは北海道2歳優駿は初制覇です。

 竜王戦は羽生善治名人の先手で相矢倉▲3七銀。後手の渡辺明竜王から先に端から攻めかかりましたが,これはもちろん決め手にはならず。桂馬を手持ちにした先手が,明日はいよいよ反撃に転じるものと思います。

 明日から競輪はふるさとダービー広島が開催されます。ここは北日本勢が強そうです。

 そうはいっても,次のようなことはいえます。
 ある人間が人前で排尿するということに喜びlaetitiaを感じるならば,この人間にとってはそれは善bonumです。しかも排尿という運動motusは,それ自体でみるならば,第一義的にはどんな人間にとっても善ですから,この場合には二重の意味で善であるといっていいのかもしれません。ただし,他人の排尿を知覚するということ,僕が表象の種類として分類した意味において他人の排尿を知覚することを,不快に感じるような人間は,普通に考えれば大勢いるといえるでしょう。この不快感というのは一種の悲しみtristitia,『エチカ』でいうなら第三部定理一一の備考に示されている憂鬱という感情affectusであると考えられますから,この人間にとっては,そのような人前,あるいは自分自身の目前での排尿という行為,あるいはこの行為をなす人間というのは,自分の本性naturaの完全性perfectioを低下させるから悪malumであるということになります。もちろん,こうしたことを悪であると認識するという人間が多いというだけでは,それが一般的な意味では悪であるということにはならないでしょうし,また,こうしたことを悪であると認識しないということが,ある人間が不完全であるとか異常であるとかいうことを示すというものでもありません。ただ,ある人間が善であると認識することをなすことによって,他人に悪をもたらすということは,別にこのような例に限らず往々にしてあるということはいえます。
 ただし,このような他者との関係については,本来はスピノザの哲学においては,現在の考察の補足としての善悪論そのものとしてというのではなく,かつて考察した,責任論という範疇で考察されるべきことなのだろうと僕は考えています。
 これでこのテーマは終了し,明日からはまとめに入ることにします。
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女流王位戦&排尿が善である場合

2008-10-29 19:57:19 | 将棋
 女流王位戦五番勝負第四局は清水市代女流二冠の先手で,石橋幸緒女流王位一手損角換り4。後手は試四間飛車から穴熊に囲い向飛車,先手は銀冠+8筋位取りという戦型に。
           
 第1図から△7三角。持ち角を手放す手ですから均衡が崩れます。成算があったから打ったものと思うのですが,先手はこの角を目標にするような指し方をして,銀交換に持ち込み先に馬を作って自陣に引き付けました。
          
 第2図から端攻めの緩和と思いますが△8三銀と打つのでは辛く,先手がリードしていると思います。ここから先手は玉頭に厚みを築くような指し回しでリードを広げていきました。
           
 第3図となっては盤上の馬1枚分先手が得をしている勘定ですから相当のリードといえるでしょう。実戦はここから後手が攻撃。先手も最善に受けたわけではないかもしれませんが,逆転したような局面もなかったように思います。最後はあっと驚くような鮮やかな詰み手順で仕留め,先手が勝ちました。おそらく第1図からの応酬が勝敗を分けたのではないかと思います。
 これで2勝2敗となり,五番勝負は最終局で決着がつくということになりました。その一局は11月12日に指されます。

 明日は門別で北海道2歳優駿。ここは北海道勢による争いになるでしょう。力はナサニエル◎,安定感ならワンダフルクエスト○。あとはモエレエキスパート▲とマサノウイズキッド△。

 また明日から竜王戦七番勝負第二局が始まります。渡辺明竜王が1勝1敗のタイに盛り返すか,羽生善治名人が連勝で奪取に前進するかという一局で,このシリーズ前半の山といえる一戦です。

 排尿が悪である場合があり得るということはこれで理解できましたし,またこの説明は,経験的な観点からも多くの方々に納得してもらえるような内容であったのではないかと思います。ただ,ここでもうひとつだけ注意しておいてほしいと僕が思うことは,たとえば,人前で排尿するということと排尿を我慢するということを比較する場合に,前者がより大きな悪であって,後者がそのより大きな悪を回避するから善であるということは,必ずそうでなければならぬというものではないですし,そのように本性の完全性が移行することが,一般的な人間の本性に妥当するというわけではないということです。
 したがってもしも,こうした排尿によって喜びを感じるということがあるとするならば,それはこの人間にとっては善であるということになります。これは別に性的な嗜好と関係しているのかしていないのかということは問いませんが,ある人間がいて,この人間が人前で排尿するという場合にはそうでない状況で排尿する場合よりもより多くの喜びを感じるということがあるならば,この人間にとっては人前で排尿することの方がむしろ善であるということになるでしょう。もちろんここでいう人前でというのはひとつの例であり,ある特定の条件下での排尿がこうした喜びをもたらすなら,その人間にとってはそうした条件下での排尿こそが,それ以外の状況での排尿よりも善であるということになるのです。
 一般的に排尿という運動は人前に晒すよりはむしろ隠すものであり,僕たちはそのようにしつけられているということ自体は事実であり,否定することはできません。ただそれは,少なくともスピノザの哲学という観点からは,一般的な,あるいは普遍的な善悪,すなわち倫理とか道徳といったものを含んでいるとはいえないということになるでしょう。
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千葉記念&排尿が悪である場合

2008-10-28 19:47:57 | 競輪
 今年から滝沢正光杯という名称で争われることになった千葉記念。今日が決勝(動画)でした。
 Sは新田選手が取って海老根選手の前受け。3番手が吉田選手,6番手に矢口選手,8番手から三宅選手という周回に。周回には車番もいくらかは影響するのですが,これはやや意外な周回でした。
 500バンクということもあってレースが動いたのは残り2周に入ってから。三宅選手の上昇に矢口選手が続き,打鐘前に三宅選手が前に。新田選手の牽制で外に浮いた矢口選手がホームで上昇し三宅選手を叩くと,吉田選手が発進。3番手にも入れそうでしたが,そのまま矢口選手を叩いてかまし先行になりました。内から上昇した海老根選手が矢口選手に接触し落車。乗り上げた新田選手も落車。矢口選手は4番手に引き,落車の影響で大きく外を回らされた三宅選手は6番手。しかしこうなれば前に有利。大きく車間を開けた金子選手が直線手前から踏み込み,吉田選手を交わして優勝。吉田選手が2着に逃げ残り,3着も富永選手で愛知の上位独占が決まりました。
 優勝した愛知の金子貴志選手は一昨年6月の豊橋記念以来となる記念競輪2勝目。力からすればもっと勝っていておかしくない選手ではありますし,これからもまだ勝つでしょう。ビッグでも活躍が期待できる選手です。基本的にはダッシュを武器とする自力型で,今日のような展開になることは稀ですが,うまくチャンスを生かしたと思います。

 明日は女流王位戦五番勝負第四局石橋幸緒女流王位が防衛を決めるか清水市代女流二冠がタイに持ち込むかという一戦で,大きな一番であると思います。

 大井ではTCKディスタフ。斤量が有利になるベルモントノーヴァ◎と昨年の覇者であるパフィオペディラム○,笠松のシールビーバック▲,ミスジョーカー△の4頭で。このレースの回顧はかなり後になりそうです。

 これらのことから,第一義的にはどんな人間にとっても善であるとしかいいようのない排尿という運動が,場合によってはある人間によって悪であるとみなされるということを,具体的に,あるいは経験的に示すことができる条件が揃ったといえると思います。
 たとえばある人間が自分がそこで排尿をなすということを表象した場合に,この表象像が原因となってある悲しみという感情が生じるなら,いい換えれば,排尿という運動をしている自分自身の観念が原因となって,むしろそれ以上に自分自身の本性の完全性を減少させるような観念が生じてくるなら,この人間は排尿という運動をむしろ悪であるとみなすということになります。経験的に考えればよく分かると思いますが,僕たちはいかに排尿という運動がそれ自体では自分自身にとっての善であるとしても,ところ構わずにこの運動をなすというわけではありません。街中で尿意を感じたときに,すぐに排尿せずにトイレを探そうとするのは,その場で排尿という運動をすることが,自分自身の悲しみの原因になるからであるということができるでしょう。したがってこのような場合には,まさに排尿が悪であると認識されているということになるのです。
 これは認識の連結からの説明ですが,同じことは相対性からも説明できます。すなわち,排尿は第一義的には善であり,我慢することは第一義的に悪なのですが,人前で排尿するというような場合には,むしろ排尿するということが我慢することよりも大きな本性の完全性の低下を招くということ,つまり大きな悲しみになるということもあり得るわけです。よってこの場合には,排尿は悪であり,そのより大きな悪を回避するという観点から,我慢するということがむしろ善であるということになります。
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ブリーダーズカップクラシック&認識の連結

2008-10-27 19:37:22 | 海外競馬
 再渡米した後,試走のアローワンス競走を勝ったカジノドライヴが出走したブリーダーズカップクラシック。発走は日本時間で昨日の朝8時前でした。
 あまり発走がよくない馬という印象があったので多頭数での2番枠というのを不安に感じていたくらいなのですが,むしろ好発。内の馬も行きませんでしたので逃げるという形になりました。おそらく前半の1000メートルを59秒台で通過しているものと思われますので,そんなに速いペースではなかったように思います。ただ,4コーナーで外の馬に捕まえられるともう余力がなかったようで,あとは追われることなく,最下位での入線になりました。tomo-kaiさんも書かれているように,このレベルのレースで日本の馬が逃げたというのはひとつ特記しておくべきことであり,レースには参加できましたが,結果は完敗で,はっきり能力が足りなかったとみていいでしょう。2番手で続いたFairbanksが10着,やはり前にいて,この中では上位の力があったと思われるDuke of Marmaladeも9着でしたので,ペースうんぬんではなく,前の組には辛いレースであったかもしれません。
 Curlinはコーナーの中間で仕掛け,直線では一旦は先頭に立ちましたが,内からHenrythenavigator,外からはRaven's Passに交わされ,ヨーロッパ勢では3番手と見られていたRaven's Passが優勝。2着もHenrythenavigatorでヨーロッパ勢のワンツー。Curlinは最後でアメリカのTiagoにも抜かれて4着。動くのが少し早すぎたということもできますが,プロライド馬場の影響もあったかもしれません。どうもこの馬場は,アメリカのダート馬よりもヨーロッパの芝馬の方が高い適性を示すように思われ,今後の世界の競馬の趨勢が変化していくことを予感させるような結果でした。

 明日は千葉記念の決勝です。並びは矢口-兵藤の群馬,海老根-新田の南関東,吉田-金子-富永の愛知,三宅-藤野の西国。優秀では失敗していますが,金子選手から。

 人間はある事物を認識すると,多くの場合にはその認識を原因として別の認識へと移行します。これは経験的に疑い得ないところでしょう。そして第三部定理九が示すように,善悪の認識はそれが十全な観念であるか混乱した観念であるかということを問いませんので,ここではこの認識の連結を,ある人間の精神のうちにおける十全な観念から十全な観念への連結と理解しても,また混乱した観念から混乱した観念への連結と理解しても構いません。いずれの場合にしても,この認識の連結というものが,第一義的には善であるところのものを悪であるとみなしたり,逆に第一義的には悪であるところのものを善とみなすようなことを生じさせる場合があるのです。
 今,ある人間がいて,この人間の精神のうちにAという観念が生じることによって,このAを原因としてBという観念が発生すると仮定します。そこでたとえば,この人間はAという観念によって大なる完全性に移行するが,Bという観念によっては小なる完全性に移行するとしましょう。そして分かりやすくするために,小なる完全性への移行の方がより大きな移行であるとします。つまりAの認識によって喜びを感じるが,Bの認識によってより大きな悲しみを感じると仮定するわけです。するとこの人間にとって,Aは第一義的には善ですけれども,必然的にBというより大きな悲しみをもたらす原因なのですから,むしろこの人間はAのことを悪と認識するようになるでしょう。このような仕方によっても,人間は第一義的には善であるようなものを悪であると認識するケースが生じ得るのです。そしてもちろん逆に,同じような認識の連結によって,第一義的には悪であるところのものを,むしろ善であると認識する場合も生じ得ます。
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菊花賞&第三部定理九

2008-10-26 19:23:21 | 中央競馬
 クラシックラストの菊花賞。今年は皐月賞馬もダービー馬も不在で争われました。
 逃げ宣言をしていたアグネススターチが先手を奪ったのですが,ノットアローンが折り合いを欠きながら前に。1周目の4コーナーなど大きく外を回していましたが,直線に入ってこちらの逃げに。一旦は3番手以降がかなり離れました。最初の1000メートルは58秒8。これはハイペース。
 ノットアローンは2周目の向正面では後退。アグネススターチが先頭に立ちましたが,やはり折り合いを欠き気味であったスマイルジャックやナムラクレセントなどが続きました。オウケンブルースリはこの辺りで外をぐんぐんと進出。4コーナーでは早くも先頭に立とうかという勢い。
 直線に入り,まずはスマイルジャックの内に進路を取ったマイネルチャールズが先頭に出たように見えましたが,それ以後の伸びを欠き,オウケンブルースリが先頭に。すぐ内からフローテーションが伸びてきましたが,迫られるとまた突き放すという感じでオウケンブルースリが優勝。フローテーションが2着で3着はナムラクレセント。
 優勝したオウケンブルースリはこれが重賞初制覇となる大レース優勝。デビューが今年の4月と遅く,ダービーの翌週に3戦目で初勝利を上げたことを思えば驚異的な成長力。確かな末脚が最大の武器で,無事ならトップクラスの馬として今後も活躍してくれるのではないかと思います。父はジャングルポケット
 騎乗した内田博幸騎手は6月の宝塚記念以来の大レース優勝で,菊花賞はここが初騎乗での制覇。管理する音無秀孝調教師は昨年4月の皐月賞以来の大レース優勝。こちらも菊花賞は初制覇です。
 日本の馬名はカタカナで9文字以内という規制があるので仕方ない面もありますが,明らかにことば足らずと感じられる名前である点は残念です。
 2着のフローテーションは母の父がリアルシャダイというのが気になっていました。渡辺明竜王先月の段階からこの馬の名前をあげていました。

 善と悪が認識されるものであるということは,さらに第一義的な意味と異なる複雑な意味をもたらすことになります。ただ現実的には,人間の精神による事物の認識というのは,十全な観念である場合と混乱した観念である場合の両方を含みます。そこで善悪の認識に関しては,人間の精神が事物を十全に認識しようと混乱して認識しようと,認識されるものとしての結論は同じことになるということをひとまず先に示しておきたいので,ここで第三部定理九を援用しておくことにします。
 「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても,混乱した観念を有する限りにおいても,ある無限定な持続の間,自己の有に固執しようと努め,かつこの自己の努力を意識している」。
 多くの意味を含む定理ですが,現在の考察との関連では,第三部定理七で示されていることを人間の精神に適用する場合には,この人間の精神が十全な観念を有していようと混乱した観念を有していようと同様に妥当すると理解しておくだけで十分です。
 このことから理解できることは,人間がある混乱した観念を認識することによって,その本性の完全性が移行する,つまり喜びを感じたり悲しみを感じたりすることというのはあり得るわけですので,その際には,もしも大なる完全性に移行するなら,この混乱した観念の対象を善とみなすでしょうし,逆に小なる完全性に移行するなら,この観念の対象を悪とみなすであろうということです。すなわち,ある人間の精神による事物の善悪の認識に関しては,その認識が十全であるか混乱しているか,いい換えればそれが真であるのか偽であるのかということは,実は関係がないということになるのです。善悪の第一義的な意味というのは,あくまでも十全な観念という観点から把握されるものですので,この場合にも,第一義的な善悪の認識が,覆される可能性が含まれているということが理解できると思います。
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ゴールドアリュール&相対性の発生

2008-10-25 19:13:06 | 名馬
 7日の白山大賞典スマートファルコンが勝ちましたが,この馬の父はゴールドアリュールで,近年の日本のダート競馬における名馬の1頭です。
 2戦目を芝で勝ち上がるとその後も芝のレースに出走し続けましたが入着まで。3歳の4月,通算7戦目にして初めてダートに使われるとこれを圧勝。続くダートのオープン特別も楽勝し,賞金を加算できたのでダービーに挑戦。これはタニノギムレットの5着に敗れたのですが,2着のシンボリクリスエスとはアタマ,アタマ,クビと差は僅かでした。休養せずに7月のジャパンダートダービーに出走,2着に7馬身の差をつけるという圧倒的なパフォーマンスで大レース初制覇。
 秋は9月,盛岡で行われていたダービーグランプリから始動。ここも10馬身という圧勝で大レース2勝目。東京競馬場の改修で中山で行われたジャパンカップダートは5着に沈みましたが,続く東京大賞典で大レース3勝目を上げ,この年のJRA賞最優秀ダート馬,NARグランプリの特別表彰馬に選出されました。
 4歳になり,やはり中山での施行となったフェブラリーステークスで大レース4勝目。ドバイを目指したのですが,ちょうどアメリカによるイラク侵略戦争の開始時期と重なり,ドバイへのカーゴ便が飛ばなかったために断念。アンタレスステークスを圧勝した後,帝王賞に向いましたが,これを11着と謎の大敗。検査の結果,喉の疾患が発見され,このまま引退となってしまいました。
 ダートでの活躍馬ではありますが,芝でも高い能力を見せた馬。喉の疾患がどの程度まで産駒に遺伝するのか分かりませんが,種牡馬としてもある程度の成功は収められるのではないでしょうか。

 日本時間で明日の朝,再渡米したカジノドライヴが出走予定のブリーダーズカップクラシックの発走となります。弱い相手のアローワンスを使って,差はつけられなかったものの勝ちましたので,プロライドのオールウェザーコースは不安にはならないでしょう。最有力は今年のドバイワールドカップを勝っているアメリカのCurlin。こちらはこの馬場でのレースは初めてになりますが,ほかのアメリカ勢に負けるシーンは考えにくいのではないでしょうか。アイルランドから参戦してくるDuke of MarmaladeやHenrythenavigatorの方がライバル視されているようです。

 日本では菊花賞。ここはベンチャーナイン◎を狙ってみたいです。オウケンブルースリ○とマイネルチャールズ▲。あとスマイルジャック△とフローテーション△。

 この相対性において善bonumについて妥当なことは,もちろん悪malumにとっても妥当です。すなわち,もしもある人間にとってその本性natura,essentiaの完全性perfectioを低下させるXとYがあるならば,第一義的にはXもYもこの人間にとって悪であるということになります。しかし,もしもこの人間がどうしてもXかYのどちらかと関係せざるを得ないような状況にある場合に,もしもXと関係する場合にはYと関係する場合よりも大きくその完全性が低下するということであれば,この限りにおいて,この人間にとってXは悪であるが,Yはむしろより大きな悪であるXとの関係を妨げるという意味で善であるということになるでしょう。このような仕方で物事を選択するということは,僕たちの経験上もよくあることなのではないかと思います。
 これらの考察から,善悪の相対性というのが,どのようなところから生じてくるかが理解できます。すなわちある人間にとってそれが善であるとか悪であるということは,たとえばAとB,あるいはXとYなど,ふたつのもの,あるいはもっと多くても構わないのですが,少なくともふたつ以上のものを比較することによって生じてくるのです。よって,小さな善と大きな善とを比べるならば小さな善は悪であるということになりますし,小さな悪と大きな悪とを比べるなら,小さな悪はむしろ善であるといえるのです。第一義的に善であるか悪であるかは,それが認識cognitioの問題である以上,この比較の前では無効であるといえるでしょう。
 スピノザは第四部定理六八で,人間は十全な観念idea adaequataを有する限りでは善も悪も認識しないという主旨のことを示していますが,この証明Demonstratioの過程において,まさに善と悪が相対的なものであるということに依拠しています。このことからも,この考察のスピノザの哲学における妥当性が明らかになるものと思います。
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ケイティーズファーストとホワットケイティーディド&相対性

2008-10-24 19:07:07 | 血統
 スプリンターズステークスを勝ったスリープレスナイトと昨年のJRA賞年度代表馬のアドマイヤムーンは近親関係にあります。これを詳しく紹介しておきましょう。
           
 2頭の最も近い共通の母系祖先は1981年アイルランド産のKatiesという馬。ファミリーナンバー7-f。アメリカで繁殖入りし,後に日本人が購入。産駒は輸入され,日本で走るようになりました。とくに1991年産まれのヒシアマゾンは阪神3歳牝馬ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ)とエリザベス女王杯で大レース2勝。有馬記念やジャパンカップでも2着するなどし,2,3,4歳時にそれぞれ最優秀牝馬に選出されるなど活躍。ほかの輸入産駒からも重賞の勝ち馬が出るなどしたため,牝系としても注目されました。
 1987年産まれの初年度産駒がケイティーズファースト。アメリカで3頭の産駒を産んだ後に輸入。この馬がアドマイヤムーンの日本での母系祖先にあたり,アドマイヤムーンの祖母になります。
 そして1989年産まれの3頭目の産駒がホワットケイティーディド。こちらはスリープレスナイトの日本での母系祖先で,スリープレスナイトの母です。
 アドマイヤムーンとスリープレスナイトの日本での母系祖先は異なるということになりますが,Katiesから始まる一族という意味では,ヒシアマゾンも含め,3頭の大レース勝ち馬が日本で出ている,きわめて優秀な牝系であるといえるでしょう。

 競輪は明日から千葉記念です。この開催も2日目に一発勝負のワールドグランプリがあります。

 この善悪の性質から,おおよそ次のようなことを導くことができます。
 ある人間がいて,この人間がAという外部の物体corpusと関係することによって,喜びlaetitiaを感じるとします。この限りでこの人間はAを善bonumと認識するでしょう。いい換えれば,この人間にとってAは善です。また,この同じ人間が,外部の物体Bと関係することによっても喜びを感じるとしてみます。するとやはり同様にこの人間はBも善と認識します。つまりBもまたこの人間にとって善であるでしょう。しかしこれらのことは,排尿という運動motusが第一義的にはすべての人間にとって善であるということと同様に,やはり第一義的な意味しかもっていないと僕には思えます。
 なぜなら,この人間はAと関係してもBと関係しても喜びを感じるわけですが,どちらの場合にも同じだけの喜びを感じるというものではありません。そこで,この人間は,Aと関係する場合よりはBと関係する場合の方が,より多くの喜びを感じるとしてみます。するとこの人間にとって,確かにAもBも善ですが,AよりもBの方がより善であるということになります。なお,感情の比較はこのような量的な観点からのみ可能であるということは,スピノザの哲学の感情論のひとつの大きな特徴であると僕は考えています。いい換えれば,喜びの対象がAであるかBであるかによって比較されるのではありません。
 そこで,もしもAがこの人間とBとが関係することを阻害するような外部の物体であるならば,たとえこの人間がAと関係することによって喜びを感じるとしても,それはより大きな喜びを阻害するようなものですから,むしろ悪malumであるということになるでしょう。いい換えれば,小さな善と大きな善がある場合には,小さな善はむしろ悪なのです。これが善悪の相対性の最も基本的な考え方であるということになると思います。
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平和賞&善悪の性質

2008-10-23 18:47:44 | 地方競馬
 南関東2歳重賞の第二弾の平和賞は,昨日の船橋競馬場で争われました。
 エロージュが枠入りを極度に嫌がり,何とか入ったところでゲートが開きましたが,マルハチゲティのフライングがあり発走のやり直しとなるアクシデント。各馬を落ち着かせ,10分以上遅れての再発走となりましたがテイケイドラゴンが落馬してしまいました。
 イケノナインが逃げ,チョットゴメンナ,サプライズゲストと北海道勢が前を占めました。前半の800メートルは50秒3。途中からラップが落ち,ミドルペースの競馬に。
 4コーナー手前で前の2頭が少し後ろを離す構え。必死に喰らいついたサプライズゲストは後退し,中団にいたシュバレスクが外から追い上げ3頭の接戦に。真中のチョットゴメンナがゴール前で逃げたイケノナインを捕えて優勝。クビ差の2着にイケノナインが粘って北海道勢のワンツー。ハナ差の3着がシュバレスク。
 優勝したチョットゴメンナは前走,旭川の北海道重賞でかなり強い相手に逃げ切って勝っていました。今日は2番手からのレースになりましたが,これを克服できたのは収穫といえるでしょう。これで6戦3勝。
 北海道の宮崎光行騎手が騎乗予定でしたが,急病のため川崎の今野忠成騎手に乗り換わりました。代打の役目を果した今野騎手は3月の京浜盃以来の南関東重賞制覇で平和賞初制覇。管理するのは北海道の名調教師のひとり,堂山芳則調教師で,こちらも平和賞は初制覇です。
 道営馬は南関東に転入するケースも多く,1,2着馬とも,今後の動向に注目です。

 スピノザが示す価値観において,完全性と善悪の最大の相違というのは,完全性というのが形相的にも考えられ得るある絶対的なものであるのに対して,善悪というのはむしろ認識論的にしか考えられない相対的なものであるという点にあるのではないかと僕は考えています。このゆえに,同じような事柄に依拠しながらも,人間の身体がなす排尿という運動は,それが力であるということについては一般的にいうことが可能だけれども,それが善であるということについては,第一義的にはそういうことができるとしても,一般的にはそうであるということはできないという相違も生じてくるのではないかと思っています。
 そこで,この善悪の性質のひとつでもある,相対性ということを少し考えておきたいと思います。これは善の場合で考えても悪の場合で考えても同じことになりますので,ここでは善の方を考察の対象にしてみましょう。
 もしもあるものがある人間の実在性の維持に有益であるなら,第四部定義一により,このものはこの人間にとっての善であるということになります。そこで今,AとBのふたつがあって,AもBもある人間の実在性を促進すると仮定します。するとこの人間にとって,AもBも善であるということになるでしょう。しかし,実際にはこれは,排尿という運動が人間にとっては第一義的には善であるというのと同じような意味で,第一義的な意味でしかないと思うのです。なぜなら,AもBもある人間の実在性を促進するという点では同じですが,このことのうちには,AもBも同じようにこの人間の実在性すなわち完全性を促進するということは含まれていないからです。むしろ普通に考えるなら,AとBはそれぞれがそれぞれの仕方で,この人間の実在性を促進するのではないでしょうか。
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女流王位戦&善悪の特徴

2008-10-22 20:40:05 | 将棋
 女流王位戦五番勝負第三局
 第一局と同様,石橋女流王位の3手目▲6六歩に清水市代女流二冠の右四間飛車。先手が第一局とは違った対応をして第1図。
           
 ここは右銀が進出。後手は保留していた8筋の歩を突いて飛車も8筋に戻すというのは,最初の作戦選択から考えれば不本意な筈で,これは先手の作戦勝ちといえそうです。この後,先手の攻めはやや変調にも感じられましたが,この将棋は観戦し始めてからの最終盤が面白かったのでそこは割愛。
           
 △6八金と取るのでは遅いので3九の飛車を3八に成ったところ。ここで▲5八銀と打ち,△同銀成で後手の攻めを遅らせて▲5四桂も有力だったようですが,▲7二銀と一気に決めにいきました。△同飛なら▲5四桂が詰めろなのでこれもいい感じはする手。実戦もそう進み,第3図に。
           
 この△7五歩では△5二銀も有力だったようです。▲6三金打から飛車を取る手はどうかと検討していたら▲同歩。このあたり,もう1分将棋なので結論を出す間もなく手が進んでいってしまいます。△8四角に▲7六金と縛りました。△7五飛で次が分からないと考えていたら,今度は△5四銀で第4図。
           
 ここから▲7四金で詰ましにいきましたが,これは詰まずに後手の勝ちに。ここで▲8五金と出ると先手玉は詰まないと思われるのでこう勝負する手はあったかもしれません。
 かなり白熱した戦いで,検討しがいのある将棋だったと思います。僕の力では最終的な敗着が分かりませんが,少なくとも先手に勝ちがあったと思われ,石橋王位には残念な一局だったでしょうか。第二局とは逆に,時間の切迫が響いてしまったかもしれません。
 清水二冠がひとつ凌いで1勝2敗に。第四局は29日に指されます。

 排尿の完全性については,それが失禁であろうと放尿であろうと,排尿という運動は人間の身体一般の本性に依拠するような力であるとみなされなければならず,逆に排尿を我慢するような完全性あるいはその力は,諸個人の身体の本性に依拠するような力なので,Aという人間が多くの人間よりもこの我慢する力をもっていないとしても,それはAという人間の不完全性を意味しないという結論を得ました。ところが排尿の善悪の特徴は,これとは少し違っていると僕は考えています。それはいうまでもなく,事物の完全性というものが,その事物の本性の力という観点から,それを形相的なものと考えても客観的なものと考えても同一であるのに対して,善悪というのは,諸個人の認識の問題であるので,いくらそれがスピノザの哲学の基本的な考え方になるであろうからといって,本当はそれを形相的に考えることは許されず,一人ひとりの人間の精神のうちにあるような,客観的なものとしてのみ考えなければならないからです。
 ただし,経験論的な観点から示したように,確かに僕たちは排尿という運動によって喜びを感じるということはあるわけで,またそれが意識されない場合は,おそらく意識と無意識の差異という観点,また移行の大きさという観点の両者によって説明できると僕は思いますから,やはり基本的には排尿という運動は,どんな人間にとっても第一義的には善であると思います。しかし,だから排尿という運動は普遍的に善である,どんな人間も必然的に排尿という運動を善であると認識するということはできないだろうと僕は思います。いい換えれば,排尿という運動が,ある人間にとって,ある場合には悪であるということ,つまり排尿という運動が悪と認識される場合もあり得ると思うのです。
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京王閣記念&移行の大きさ

2008-10-21 19:12:23 | 競輪
 直前に山崎選手と伏見選手が欠場となったため,北日本勢より関東勢が手厚くなったかなという印象を抱いていた京王閣記念。今日が決勝動画)でした。
 埼京勢が飛び出しSは後閑選手で平原選手の前受け。佐藤選手が4番手,動向が注目された武井選手が6番手で,7番手から北津留選手という周回。
 北津留選手の上昇は残り2周のホームから。武井選手が4番手にスイッチし,バックで平原選手を叩き,抑え先行になりました。5番手は佐藤選手で,平原選手は下げなかったので神山選手に封じ込まれ苦しい態勢。バックから佐藤選手が捲っていきましたが,無風の番手となった石丸選手が合わせて発進。加藤選手が外,武井選手が内から追い上げをみせましたが,凌ぎきった石丸選手が優勝。武井選手が2着で,武井選手をマークするような形になった後閑選手が3着に食い込んでいます。
 優勝した岡山の石丸寛之選手は2006年3月の玉野記念以来となる記念競輪優勝。捲り脚には鋭いものがあり,ビッグでもある程度は活躍できる選手。ただ中国勢は有力選手の絶対数が少ないので,苦労する面があります。今日は武井選手に狙われるおそれがありましたが,無風でしたので,いかに佐藤選手や平原選手が強くても,わりと楽だったのではないでしょうか。また,武井選手も僅差の2着まで来ていますから,番手戦を挑まなかったのは正解だったかもしれません。

 明日は女流王位戦五番勝負第三局石橋幸緒女流王位が一気に防衛するか,清水市代女流二冠がひとつ巻き返すかという勝負です。

 船橋では平和賞。距離は心配ですが一応は北海道のイケノナイン◎が中心。地元勢ではシュバレスク○とマルハチゲティ▲を上位とみて,あとエロージュ△とチョットゴメンナ△。

 もうひとつ考えられる理由は,排尿という運動を人間の身体がなすことによって,確かにその運動の前よりもこの運動の後では,その人間の身体が小なる完全性から大なる完全性へと移行しているとしても,その移行の大きさがそれほど大きくないために,人間が喜びを感じるほどではないということです。もっとも僕は,この移行と完全性の関係については,それを量的なものとしてではなく,質的なものとして考えていますから,このような説明は分かりやすくするために用いているだけで,正確を期せば次のようになります。すなわち,排尿という運動をすることによって,人間の身体の本性は,その実在性が小さな本性を有する身体から実在性の大きな本性を有する身体へと移行するわけですが,この前者の本性と後者の本性の差異というものがきわめて少ないために,人間がはっきりと移行したということに気付かないほどであるということです。
 僕たちは,かなり我慢をした後に排尿という運動をなす場合,そうでない場合の排尿とは異なって,確かにある種の喜びを感じるということがあるのではないかと思います。もちろんこれは単に身体的な,あるいは肉体的な快感というように考えてもらっても構いません。人間の身体とこの人間の精神は同一個体なので,身体がこのような喜びを感じている場合には,精神も喜んでいるといえるからです。
 体内から排出される尿の量と,人間の身体の本性の完全性の移行の程度は,比例するとはいいませんが,少なくとも,より多くの尿が溜まっている状態は,それだけ小なる完全性にあると考えられるので,逆に,より多くの尿が排出されるほどに,移行の程度が大きくなるということは間違いないと思います。そしてこの経験的事実は,この理由の説明を強化するでしょう。少なくとも僕たちの身体にある程度以上の移行が生じるならば,僕たちは排尿という運動自体によって,喜びを感じるということを裏打ちしているからです。
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竜王戦&意識と無意識

2008-10-20 20:25:47 | 将棋
 パリ対局となった竜王戦七番勝負第一局。第1図が封じ手の局面。
           
 ここから羽生善治名人の△2四同歩,渡辺明竜王の▲同飛までは必然。そこから△6五歩に▲2三角と打ち,△同金▲同飛成△6六歩▲3三龍。二枚換えの駒得で龍もでき,普通は先手が戦果を上げたと考えられるところ。しかし戦い早々にできたこの龍が,本局ではあまり働くことなく終ってしまうことになります。以下,後手は馬を作って第2図。
           
 △4七角成と馬を作った後手に対し,▲4三金と食いついたところ。重いですけど確実で,先手の穴熊の陣形には相性がよさそうな手に思えます。しかしここで△6四角と打たれ,渡辺竜王は早くも苦戦と感じられたそうです。以下,20手ほど戦って第3図。
           
 ここで△6七銀と打ったのが最終的な決め手になりました。この周辺,局面は複雑なのですが,どうしても後手がうまいこと勝つようにできていたようです。これ以下の先手の指し手はほぼ形作り。即詰みに討ち取った後手が勝っています。
 はっきりとした敗因や勝因の分からない不思議な将棋。ことによると相居飛車戦で相手が右玉の場合,居飛車穴熊に組むというのはあまり有効な作戦ではないのかもしれません。
 羽生名人が先勝。第二局は30日と31日です。

 明日は京王閣記念の決勝です。並びは佐藤-神山で東日本,平原-後閑-高橋の埼京,北津留-石丸-加藤の西日本で武井は単騎。結束する西日本がちょっと不気味です。

 僕たちがこの運動によって喜びを感じることがないことについて考えられる理由はいくつかあるのですが,ひとつは,人間が喜ぶということと,その喜びを意識するということは別のことであるということです。喜びは感情であり,これは第三部定義三にあるように,延長の属性の下でも思惟の属性の下でも考えられるのですが,これを仮に思惟の属性の下で考えます。するとこれは,ある人間の精神のうちにある思惟の様態であるということになるでしょう。そしてこのことを,この人間が喜んでいるということにします。しかしだからといって,このことのうちには,この人間が自分の喜びを意識するということが含まれているわけではありません。なぜならこの人間が自分の喜びを意識するためにはこれだけで十分ではなく,この喜びという感情の観念が存在する必要があるからです。
 僕は観念に関連して,人間の精神のうちにある観念があるということは,人間の精神の無意識に関連するのであって,人間の意識に関係するのは観念の観念であるという意味のことをこれまでの考察の中で何度か述べてきました。この理由の説明はこのこととちょうど同じ関係にあるのであって,単に感情というならば,それが思惟の様態である限りにおいてはこれは無意識に関係するのであって,その喜びを自覚するためには,喜びの観念,あるいは喜んでいる自分自身の観念が必要であるということです。確かに人間の身体がなす排尿という運動は,それだけでみれば人間を小なる完全性から大なる完全性へと移行させる運動であるとしか考えられませんから,これはひとつ,有力な説明ではないかと思います。
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秋華賞&認識の問題

2008-10-19 19:25:23 | 中央競馬
 3歳牝馬三冠のラストレースとなる秋華賞
 逃げたのはエアパスカル。これをプロヴィナージュ,ブライティアパルス,カレイジャスミン,ユキチャンなど,伏兵が追っていくという展開に。前半の1000メートルは58秒6で,これはハイペースでしょう。
 このペースをプロヴィナージュは3コーナー入口直前でエアパスカルを交わして先頭に立ち,そのまま後続との差をむしろ開き加減に直線へ。わりと前にいたエフティマイア,後ろから外を追ってきたトールポピーやレジネッタはあまり伸びず,見せ場も作れませんでした。伸びてきたのは2頭で,好位のインにいたブラックエンブレムと後方のインにいて,外に出てきたムードインディゴ。この2頭がプロヴィナージュを交わしての争いになりましたが,先に抜けていたブラックエンブレムが凌いで優勝。ムードインディゴが2着,プロヴィナージュが3着で,大波乱の結末になりました。
 優勝したブラックエンブレムは3月のフラワーカップ以来の勝利で大レース初制覇。桜花賞は直前に調教ができずに大敗,また前哨戦のローズステークスも大敗しましたが,これは重馬場の影響。オークスは4着でしたから,勝っても不思議のない力はありました。ただ今日は,ほかが動き出したときにもじっと内で控えていた岩田康誠騎手の好プレーが最大の勝因という気がします。
 その岩田康誠騎手は6月の安田記念以来の大レース制覇で,秋華賞は初優勝。管理するのは小島茂之調教師で,こちらはこれが大レース初制覇となりました。

 竜王戦は先手の渡辺明竜王が棒銀に出ると後手の羽生善治名人は右玉に。先手は銀を繰り替えてから穴熊に。封じ手から本格的な戦いに入りました。詳細は明日。

 しかしこのような仕方で排尿が善であり,また排尿を我慢することは悪であるということには,いくらかの問題が残ります。というのは,善と悪を定義している第四部定義一と第四部定義二にしろ,また,こうした善悪が諸個人の喜びないしは悲しみという感情と関係していることを示している第四部定理八にしろ,善悪というのは人間の精神の外に形相的にあるようなものではなく,人間の精神のうちにある,認識されるものであるとスピノザは示しているからです。したがって,たとえば人間の身体による排尿という運動が善であるというならば,それは人間が排尿という運動を善であると認識するということでなければならないわけです。しかもそれは,この考察において示したように,それが人間の身体の完全性を促進するような運動であるから善であると,いわば理性的にみなすのではなくて,むしろスピノザが示していることに従う限り,人間が排尿という運動をなすことによって,喜びを感じるのでなければならないのです。しかるにこれを経験論的に考えてみるならば,僕たちが排尿という運動をなすことによって喜びを感じるか,あるいは別のいい方をするならば喜びを意識するかといったら,必ずしもそうではないように僕には思えます。少なくとも僕自身のことについていえば,僕が排尿という運動をするたびごとに喜びを意識しているかと問われるならば,それを否定します。
 しかし一方で,このことについては,なぜそうであるのかという理由もいくつか考えられます。実際,排尿というのが善であり,それを我慢することが悪であるということは,放尿であるか失禁であるかということには関係なく,スピノザの哲学の考え方からしてその基本的なベースとならなくてはならない考え方であると僕は思いますので,その理由というのをいくつか考えてみることにします。
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銀河戦&具体的認識

2008-10-18 19:01:30 | 将棋
 第16期銀河戦は,9月25日に決勝が放映されました。一月近く経ってしまいましたが,振り返ってみます。
 決勝に進出したのは佐藤康光棋王と三浦弘行八段。共に長くA級に在籍していますが,いわゆるカモと苦手の関係にあり,ここまでは佐藤棋王が15勝,三浦八段が2勝でした。
 後手になった三浦八段は阪田流向飛車を思わせる出だしから,▲3三角成を△同桂。結果的に4手目△3三角戦法のような変化になりました。後手が4筋の位を取る工夫をみせたのに対して棒銀にしたのが先手のうまい構想で,後手は△5一銀と引かされ作戦負けに。先手もすぐには攻めずに第1図まで組み合いました。
           
 ここでいよいよ▲1五歩。以下△同歩▲同銀△同香▲同香△1三歩。ここで▲1二歩が手筋の攻めですが▲1九香と打ち,△1二銀を強制しました。もう少し早く仕掛けることもできたのですが,佐藤棋王の基本方針は,一気にいくのではなく,細かくリードを広げていくということだったそうです。
 大きなポイントになったのは第2図。
           
 ここから△4六歩▲同歩に△4七角と打ち,馬を作りにいきましたが,▲5七金が力強い受けの好手。対して△2五角成▲3六角△同馬▲同歩なら,つまらないながらも決定的な差にはならなかったと思いますが実戦は△6九角成。これには▲3六角でなく,今度は▲5八金と引かれ,結果的にこの馬が取られることになってしまいました。
           
 第3図以下,後手も5四の金を進出させて最後の攻撃をかけましたが,先手が一貫して徐々にリードを広げる作戦に出たために差は少しずつ広がり,戦意を喪失した後手の投了となっています。
 三浦八段は考慮時間を1分残しての投了。本局は力をまったく発揮できない不出来な将棋。本人も不本意だったようで,髪を切ったそうです。佐藤棋王は5年ぶり2度目の銀河戦優勝となりました。

 竜王戦は振駒で渡辺明竜王が先手となり,羽生善治名人の作戦は一手損角換り3。現時点で22手まで進んでいるところ。先手の作戦が注目されます。

 明日は秋華賞。上位拮抗。順番はレジネッタ◎,エフティマイア○,トールポピー▲,オディール△,ムードインディゴ△で。

 この排尿の善悪から,逆に人間が排尿という運動をしないようにすること,すなわち排尿を我慢することは,それ自体を人間の身体と関連付けて考えるならば悪であるということが出てきます。実際,排尿という運動をしなければ人間の身体は破壊され,ついには死に至るでしょうから,人間の体内に,より多くの尿が溜まるにしたがって,人間はより小なる実在性,あるいは完全性に移行していくと考えることが可能です。しかしこのことはむしろ,僕たちが,排尿という運動を過剰に我慢しないように教えられるという経験に合致しているといえそうです。この教えは端的に,排尿を我慢することが悪であるということを教えているということができると思われるからです。
 次に,人間の精神はその人間の身体と合一しているわけですから,ある事柄が人間の身体にとって善であるならば,それは人間の精神にとっても善であり,逆にある運動ないしは静止が人間の身体にとって悪であるならば,それは人間の精神にとっても悪であることになります。したがって,一般に排尿という運動が,放尿であろうと失禁であろうと,身体と精神が合一したものとしての人間にとっては善であり,排尿を我慢することは人間にとって悪であるということができます。完全性の場合は,力という観点が,排尿という運動の場合は人間の身体一般の本性に帰せられるのに対し,我慢の方は個々の身体の本性の力に帰せられるという相違があったのですが,善悪の価値観の場合はこうした相違はなく,どちらも一般的な観点から,第一義的には排尿は善であり,我慢することは悪であるということになります。
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エーデルワイス賞&排尿の善悪

2008-10-17 18:53:36 | 地方競馬
 旭川競馬場ではおそらく最後になるであろう重賞,第11回エーデルワイス賞は,旭川競馬場のラストレースとして昨晩争われました。
 大外からタッチブライトが押していってハナ。モエレオンリーワンが2番手につけ,キミニムチュウ,ラヴリードリームとJRAの2頭が追走。前半の800メートルは50秒9で,ミドルペースに近いハイペースとなりました。
 中団に構えていたアンペアが外を進出すると,タッチブライトとキミニムチュウは後退。内からモエレオンリーワン,ラヴリードリーム,アンペアとなり,直線入口手前では3頭の雁行状態になりましたが,手応えの差は歴然。その通りにアンペアが直線では一気に抜け出し,6馬身もの差をつける圧勝となりました。大外を伸びたモエレピンクレディが詰め寄ったもののモエレオンリーワンが2着を確保。ハナ差の3着にモエレピンクレディ。
 優勝したアンペアは3勝目。リリーカップを勝った後,ブリーダーズゴールドジュニアで牡馬のワンダフルクエストの2着。フローラルカップは3着に敗れましたが,ここはそこを勝ったネフェルメモリーが回避したこともあり,巻き返しに成功。この着差ですから,あるいはネフェルメモリー相手でも勝てていたかもしれません。もちろん重賞は初制覇。
 鞍上は北海道の山口竜一騎手で,昨年も勝っていてエーデルワイス賞連覇で2勝目。管理するのは北海道の角川秀樹調教師で,こちらはこのレース初制覇です。

 今期の竜王戦七番勝負第一局の舞台はパリ。現地時間の明日から始まります。対戦成績は渡辺明竜王が4勝,羽生善治名人が6勝。終局はおそらく日本時間の20日未明ではないかと思いますので,20日付の記事で紹介します。

 また,明日から京王閣記念が開催されます。2日目には別にワールドグランプリも行われます。

 排尿の完全性というのを考察したときに得た結論のひとつに,排尿という運動motusは,諸個人の本性natura,essentiaに属するような力potentiaではなく,むしろ人間の本性一般に属するような力なのであるということがありました。そしてその根拠というのは,どんな人間の身体corpusにとっても排尿という運動は,その身体の完全性perfectioすなわち実在性realitasを維持するのに有益であるという点にありました。
 そこでこれを今度は完全性の移行transitioという観点から考えてみましょう。すなわち,排尿という運動をなす前の人間の身体の状態は,排尿という運動をなした後に,どのような状態に移行しているといえるのかを考えてみるわけです。すると,排尿という運動自体は,どんな人間にとってもその完全性を維持するのに有益であるといえる運動であるわけですから,人間の身体の状態というものは,排尿という運動の前に比較するならば,この運動の後では,その完全性がより大なる状態に,たとえそれがどんなにわずかであったとしても,より大なる状態に移行したと考えるよりないのではないかと僕は思うのです。
 すると,この移行はまさに排尿という運動を原因とするような移行であるといえますから,少なくとも人間の身体にとって,排尿という運動は善bonumであるといわなければならないと思います。しかし,人間の精神mens humanaの秩序ordoはその人間の身体の秩序と同一ですから,人間の身体にとって排尿という運動が善であるならば,やはり人間の精神にとってもそれは善であるでしょう。したがって,放尿であろうと失禁であろうと,それは人間の身体の力であると考えられるように,放尿であろうと失禁であろうと,排尿という運動は善であるということが,まずスピノザの哲学における基本的なベースになるのではないかと僕は思います。
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