寛仁親王牌の初日のメーンとして恒例となっている日本競輪選手会理事長杯は,各選手の思惑が絡んであまり例を見ないようなレースになりました。
小嶋選手がSを取ってそのまま前受け。中団に武田選手で後方が大森選手。33バンクということもありますが,レースは早くも残り3周から動き,まず大森選手の上昇。これに合わせて武田選手が上がっていき,ここは大森選手がやや強引に前に出たのですが,武田選手は引かずに分断を画策。そこで狙われた渡辺一成選手が前に出て先行態勢に入ると,今度は武田選手は山崎選手の内で粘りました。下げてこれを見ていた小嶋選手が残り2周のバックから発進。このカマシが物の見事に決まり,小嶋選手と渡辺晴智選手で早くも後続をぶっちぎってしまいました。渡辺一成選手が第二先行の形となり,番手は残り1周のホーム過ぎで外の山崎選手が確保。しかしすでに前を追う勢いはなく,ゴール寸前で小嶋選手を差した渡辺晴智選手が1着,小嶋選手が2着で,離れた3着に山崎選手でした。
何かあっけに取られるようなレースでしたが,それでも小嶋選手の強さが目立ちました。逆に明日から大丈夫かと心配してしまうほど。結果的に打鐘前から先行している形でしたので,無風で番手を回ってきた渡辺晴智選手が差したのも当然でしょう。
武田選手の分断狙い自体は悪くなかったと思いますが,あまりにそれにこだわりすぎてレースになりませんでした。山崎選手は外に浮かされながらもしっかりと競りだけは制し,離されたとはいえある程度は評価できるものと思います。
引き続き明日はローズカップ。並びは山崎-伏見-佐藤-有坂の北日本,金子-小嶋の中部に渡辺,残った北津留に兵藤。ここも小嶋選手◎と渡辺選手○でしょうか。金子選手▲の残り目と山崎選手△。
人間が,個々の物体についてはその十全な観念を有していない場合でも,単に真理一般の性質というのを知っているだけで,個々のどんな混乱した観念についても,それが混乱した観念であるということを認識することによって,誤謬から脱却できることの根拠は,やはり第二部定理四三に求められるのではないかと僕は考えています。
この定理は,人間の精神のうちにXの真の観念がある場合には,その人間は自分がXの真の観念を有しているということを知ることができるという意味ですが,この定理を神との関連で証明したときに示した,Xの観念とXの観念の観念は同一個体であるということは,真の観念に限らず,観念に一般的な事柄です。ですからXの混乱した観念と,この混乱した観念の観念は同一個体であることになるでしょう。したがって,ある人間の精神のうちに,一般にXの観念があるなら,この人間の精神のうちにはこの観念の観念がある,つまりこの人間は,自分がXの観念を有しているyということを認識できることになると思います。
このとき,Xの観念が十全な観念であるなら,人間はそれが十全な観念であることを理解し,それが真理であることを疑い得ず,またそれによって真理の性質を知ることになります。しかしXの観念が混乱した観念であるなら,人間の精神はそれと同じことを知ることができませんので,そのことによってその観念が十全な観念ではないということ,つまり混乱した観念であるということを知ることができるのだと,僕は考えています。
小嶋選手がSを取ってそのまま前受け。中団に武田選手で後方が大森選手。33バンクということもありますが,レースは早くも残り3周から動き,まず大森選手の上昇。これに合わせて武田選手が上がっていき,ここは大森選手がやや強引に前に出たのですが,武田選手は引かずに分断を画策。そこで狙われた渡辺一成選手が前に出て先行態勢に入ると,今度は武田選手は山崎選手の内で粘りました。下げてこれを見ていた小嶋選手が残り2周のバックから発進。このカマシが物の見事に決まり,小嶋選手と渡辺晴智選手で早くも後続をぶっちぎってしまいました。渡辺一成選手が第二先行の形となり,番手は残り1周のホーム過ぎで外の山崎選手が確保。しかしすでに前を追う勢いはなく,ゴール寸前で小嶋選手を差した渡辺晴智選手が1着,小嶋選手が2着で,離れた3着に山崎選手でした。
何かあっけに取られるようなレースでしたが,それでも小嶋選手の強さが目立ちました。逆に明日から大丈夫かと心配してしまうほど。結果的に打鐘前から先行している形でしたので,無風で番手を回ってきた渡辺晴智選手が差したのも当然でしょう。
武田選手の分断狙い自体は悪くなかったと思いますが,あまりにそれにこだわりすぎてレースになりませんでした。山崎選手は外に浮かされながらもしっかりと競りだけは制し,離されたとはいえある程度は評価できるものと思います。
引き続き明日はローズカップ。並びは山崎-伏見-佐藤-有坂の北日本,金子-小嶋の中部に渡辺,残った北津留に兵藤。ここも小嶋選手◎と渡辺選手○でしょうか。金子選手▲の残り目と山崎選手△。
人間が,個々の物体についてはその十全な観念を有していない場合でも,単に真理一般の性質というのを知っているだけで,個々のどんな混乱した観念についても,それが混乱した観念であるということを認識することによって,誤謬から脱却できることの根拠は,やはり第二部定理四三に求められるのではないかと僕は考えています。
この定理は,人間の精神のうちにXの真の観念がある場合には,その人間は自分がXの真の観念を有しているということを知ることができるという意味ですが,この定理を神との関連で証明したときに示した,Xの観念とXの観念の観念は同一個体であるということは,真の観念に限らず,観念に一般的な事柄です。ですからXの混乱した観念と,この混乱した観念の観念は同一個体であることになるでしょう。したがって,ある人間の精神のうちに,一般にXの観念があるなら,この人間の精神のうちにはこの観念の観念がある,つまりこの人間は,自分がXの観念を有しているyということを認識できることになると思います。
このとき,Xの観念が十全な観念であるなら,人間はそれが十全な観念であることを理解し,それが真理であることを疑い得ず,またそれによって真理の性質を知ることになります。しかしXの観念が混乱した観念であるなら,人間の精神はそれと同じことを知ることができませんので,そのことによってその観念が十全な観念ではないということ,つまり混乱した観念であるということを知ることができるのだと,僕は考えています。