普通に考えれば,フラーフは自分が語ったような態度をスピノザがとったから,スピノザに敬服していると言ったのです。つまりそれは自分が敬服する理由を話したのであって,その理由の内容についてはファン・ローンJoanis van Loonも知っていると思っていたと解せます。しかし可能性としていえば,フラーフはローンは知らないだろうけれども破門のときにスピノザはそのような態度をとったのであり,そのゆえに自分はスピノザに敬服するのだと言ったと解することもできます。この話を受けたローンはそのことに大して驚きもせずに,そこまで敬服しているのなら,フラーフはスピノザを保護してくれるだろうと応じているのですから,全体の流れとして可能性は薄いと僕には思えますが,記述しているのがローンである以上,それも完全には排除できないといえます。
ただし,この場合には条件があります。フラーフが話したのは,破門前後のスピノザのことです。そしてその内容は,スピノザが破門されたということを抜きにしては何を意味するのか判然としない筈です。ですから最低でもフラーフは,スピノザが破門されたということをローンは知っているという前提で話していることになります。そして少なくともローンがそのことを知っていたのは間違いありません。というのは前夜に暗殺未遂の後でスピノザを治療した後,スピノザが身震いした直後のスピノザとローンとの会話の内容から,それが確かめられるからです。
したがって,ローンは仮にスピノザが破門の前後にどういう行動をしたかは具体的には知らなかったとしても,スピノザが破門されたということは間違いなく知っていました。そしてそれをローンが知っているということは,フラーフだけの前提であったわけではなく,スピノザにとっての前提でもあったと解せます。なぜならその身震いの直後の会話ではスピノザは,自分が襲撃されたことと破門されたことを関連付けて話しているからです。それはローンが自分の破門を知っているから,関連付けて話すことができたとしか考えられません。そしてそれは,ローンの記述によれば,治療後に蒼ざめて身震いしたことへのスピノザ自身の弁明でした。
フラーフとスピノザが友人であったのなら,ファン・ローンJoanis van Loonがスピノザを我々の友人と言っていることから,フラーフが知っていたことのすべてをローンも知っていただろうと僕は解します。一方,そうではなかった場合には,フラーフは自分が知っていることに関してはローンも知っているだろうという想定にの下に話したと僕は考えます。もしも職責として知り得たことがあったとしたら,それをローンに対しては秘匿しておいただろうと想定できるからです。一方,それに対するローンの応答からして,フラーフの想定は正しかった,つまりスピノザが年金という和解案を拒否して破門されたということをローンも知っていたと僕は読解します。
ただし,どちらの場合も次のことは想定できます。ローンはスピノザに対する保護を求めにフラーフを訪ねたのであって,それに対してはすでに警護が行われているという答えが与えられたことから,確かにフラーフが語ったことの中には,ローンが知らなかったことも含まれてはいました。したがって,たとえ市長という職を務めていたから知り得たことだとしても,ローンに対してなら話してもよいだろうとフラーフが考えたこと,いい換えればローンは知らないだろうと思っていたこともフラーフは話したのかもしれません。念のためにこの場合についても考察しておきます。
年金の話が出てくる場面では,それ以外の実例もフラーフは語っています。最初にスピノザがユダヤ教会とユダヤ人を見捨てたということです。これは破門されたという意味ですが,フラーフの観点からは,むしろスピノザの方が望んで破門を受け入れたというように見えていたのでしょう。次に,スピノザはユダヤ教の律法学者に,あなたたちは盲人の手を引こうとしている盲人だと言い放ったということです。その後で,年金を贈るという申し出を断ったことが出てきます。そして最後に,破門を宣告されたときにスピノザはきわめて威厳のある態度をとり,一切の自己弁護をせず,また市の当局者に訴えることもしなかったということです。これらすべてについて,フラーフはスピノザの考えに同調し,またその行動を高く評価してるのです。
「シナゴーグ離脱の弁明書」との関連でもうひとつ補足すれば,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,この弁明書に関連するスチュアートMatthew Stewartに独自の,いささか奇妙とも思えなくもない論述が展開されています。
スチュアートがいうには,このタイトルがその読者,おそらくここでいう読者とはその弁明書を読んだラビたちのことを意味しているのだと思いますが,読者に何を連想させたかといえば,プラトンによる『ソクラテスの弁明』でした。単純にいえばソクラテスは裁判にかけられたとき,自分には罪がないという弁明を行いました。プラトンは師といえるソクラテスのその弁明の内容を書いたのです。ですが周知のようにこの弁明は不成功に終り,ソクラテスは死刑になります。つまりそれと同じように,スピノザによる弁明書も,最初から不成功に終ることを読者に連想させるものだったとスチュアートはいいたいのです。
スピノザは弁明書をスペイン語で書いたのですが,「ソクラテスの弁明」を意識して,自身が提出した文書に「シナゴーグ離脱の弁明書」と命名した可能性が皆無であるとは僕はいいません。しかしスチュアートはそういう主張はまったくしていません。ただ読者がそのタイトルから何を連想するのかということについて触れているだけです。ですからこのことは,スピノザが書いたものの内容がどういったものであったかということの根拠にはなり得ないだろうと僕には思えます。なぜスチュアートがこのような主張を論述のうちに挿入したのか,僕には意図が不明です。
ただ,スチュアートは,この連想の主張からも分かるように,弁明書がラビたちを説得するのに有効でなかったということ,つまり単に弁明書というタイトルから連想されるような謝罪を含むものではなかったということ,それどころかむしろ,スピノザがラビたちに異端とみなされた思想,すなわち破門されるに至った思想の総まとめのような内容であったと推測していて,その推測は僕の考え方と一致します。したがってスチュアートは論拠のような論拠でない事柄を同時に示していますが,弁明書がどういうものであったのかということの推論については,僕は同意します。
スピノザだけがシナゴーグ離脱の防止のために特別な配慮がなされたわけでなく,防止のための力の入れ具合はプラドJuan de Pradoの場合にも同等であったと僕は解します。そしてそれは一般に,この時代のアムステルダムAmsterdamのシナゴーグでは,成員の離脱を全力で阻止しようとしていたということだと思います。では指導者たちがそうした動機は何であったのでしょうか。僕はそれをふたつの方面から推測します。
ひとつはユダヤ教徒の宗教的確信です。つまりユダヤ人はユダヤ教を信仰すること,律法学者の教えに従うことが道であり,その道から外れようとしている者をユダヤ教への道に回帰させることが宗教的責務であると信じられていたのだろうと僕は思うのです。そして道を踏み外そうとしている者をユダヤ教に回帰させることは,その当人にとっての幸福にも繋がる,他面からいえば道を踏み外してしまえば不幸な状態に陥るという宗教的確信もあったのだろうと思います。
ユダヤ教の破門状というのは,破門される者に対する呪詛に満ち溢れたものになっています。そしてそれは,ユダヤ教徒のユダヤ教に対する確信ないしは愛着の裏返しであると僕は考えます。書簡六十七においてアルベルトAlbert Burghは口汚くスピノザのことを罵っていますが,それはアルベルトのローマカトリックに対する宗教的確信の裏返しであったとみることができます。それと同じように,破門状の内容が呪詛に満ちているのは,ユダヤ教に対する確信の証明であったとみることができるのではないでしょうか。
もうひとつが体面上の問題です。かつてウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaを破門し,彼にとって屈辱的な行為と共に破門を解き,しかし1640年に彼が自殺してしまった出来事は,アムステルダムの一大スキャンダルとなり,ユダヤ教の評判を落とすことになってしまいました。1656年にはまだそのことを体験上の記憶として残しているラビたちが多く存在していただろうと思われます。そうした人は,もうそういうスキャンダルをアムステルダムでは起こしたくないと思っていたことでしょう。ですから成員のひとりでもシナゴーグから離脱することを,全力で阻止しようとしたのだと思います。
プラドJuan de PradoはアムステルダムAmsterdamのシナゴーグから慈善金を受け取っていました。これはプラドが経済的に困窮していたことの証といえます。一方,スピノザは,年によって金額の上下がありますが,税金を納めています。正確にいえばある時点まではスピノザの父親が納めていて,父親の死後は貿易商を継いだスピノザが支払うようになったというべきかもしれません。裕福であったとまでは確定できないまでも,暮らしていくために余裕がなかったということはあり得ないとみることができます。
プラドは1655年にアムステルダムのシナゴーグの一員となりました。最初の破門宣告が1656年だったとすれば,ユダヤ人以外のオランダ人の知り合いはあまりいなかったであろうと推測できます。プラドは医師であったようなのですが,それまでの経歴からオランダ語が達者だったとは思えないので,オランダ語しか話せないであろうアムステルダム在住のオランダ人を治療することはままならなかったように思います。それはプラドの困窮の一因になっていたかもしれません。
一方,スピノザはまだ父親が生きていた頃から貿易業に携わっていました。そのために非ユダヤ人とも知り合う契機が多かったろうと思えます。実際に,イエレスJarig Jellesとかシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesとは,スピノザが破門される以前から友人であったと思われます。また,これはオランダ人とはいえませんが,ファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenとも同様です。そしてファン・ローンJoanis van Loonもまた,親しく交際していたとはいえないまでも,間違いなく知り合いでした。
これらの事情を総合するなら,プラドはシナゴーグを離脱すればそれだけで生きていくのが難しいと考えられるのに対し,スピノザはたとえシナゴーグを離脱したとしても,生きていくことが可能であったと考えられるのです。よってシナゴーグの指導者たちが,プラドに対しては破門を宣告すること自体がシナゴーグからの離脱の防止に有益であっても,スピノザに対してはそうではないと判断する合理的な理由があったことになります。だからスピノザには別の手段,年金という賄賂が用いられても,プラドにはそういう配慮がなされなかったのだと僕は解します。
『宮廷人と異端者』では,スピノザとプラドが同時期に破門を宣告されたとき,スピノザに対しては年金を贈るという提案がなされたけれども,プラドにはそうした配慮がなされた形跡がないとされています。それは事実かもしれません。ですがスチュアートはそのことを,ユダヤ人共同体はプラドよりもスピノザをシナゴーグから失いたくなかったからだという主旨の説明と結び付けています。僕はその解釈については疑念を抱いています。
破門の宣告があったとき,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelはイギリスに滞在中でした。つまりそこで行われたことには関与していなかったと考えられます。ですがメナセが渡英前にファン・ローンJoanis van Loonに語ったところによれば,その時点ですでにメナセはスピノザが破門宣告を受けないように努力していたことを窺わせます。そして同時に,もしスピノザに破門を宣告した場合には,スピノザはその宣告を受け入れて,シナゴーグから退去してしまうのではないかということを憂慮しています。つまり破門宣告それ自体が,スピノザがシナゴーグを離脱しないことに効力を発揮しないのではないかとメナセは考えていたことになります。
メナセはそのことを,それ以前にあったウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaに対する破門と比較して語っています。そしてスピノザは破門の宣告を受け入れるのではないかとメナセが考える理由として,ふたつの点を挙げています。ひとつは,スピノザはダ・コスタとは異なり,多少なりとも金銭的な余裕があるということです。そしてもうひとつは,スピノザはダ・コスタとは異なり,ユダヤ人以外のオランダ人の中に少なからず知り合いが存在するということです。ローンの記述だと,自由主義的なオランダの学者と親交を結んでいる,と読解する必要がありますが,具体的にどういう人物が想定されているのかが不明なので,ここでは広くユダヤ人ではないオランダ人だとしておきましょう。
ここでメナセが示しているスピノザとダ・コスタとの比較は,そのままスピノザとプラドとの間に適用できると僕は思います。そしてそれは,破門時のシナゴーグの指導者たちにも共有されていたのではないかと思います。
アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体では,スピノザとほぼ同じ時期に,ファン・デ・プラドJuan de Pradoも破門を宣告されています。ただしプラドはそのときには悔悛の意志を表明する文面を読み上げ,破門を解かれています。しかしその後のプラドの行いが以前と変わらないものであるとみなされたために,1658年2月4日に再び破門を宣告されます。プラドはアムステルダムに留まりたかったのですが,結果的にそれはかなわず,翌年にはアムステルダムを去り,アントワープに移りました。
当時のユダヤ人指導者たちには,スピノザとプラドの間には思想的な繋がりがあるとみなされていたようです。いい換えればふたりが共に破門を宣告されたことについて,何の関係もなかったと理解するのは困難なようです。そしてスピノザとプラドが知り合いであったことも間違いないといえます。ただし,スピノザとプラドの間には,立場的に大きな違いがあったようです。
プラドは1612年にスペインで産まれました。ユダヤ教を実践する改宗ユダヤ人の家庭であったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。この当時のスペインではユダヤ教は禁止されていた筈なので,いわゆる隠れユダヤ教徒であったと考えてよいでしょう。プラド自身もユダヤ教の律法を遵守し,またそういう生活を他人に勧めていたようです。
それがあからさまになって罪に問われることはなかったのですが,スペインのような異端審問所の勢力が強い地域で生活することは危険と思い,ローマの大司教の侍医に任命されたのを機にスペインを脱出。しかしローマもまたプラドのような隠れユダヤ教徒にとって危険な場所であるのは同じで,それからハンブルクに移り,さらに1655年にアムステルダムに移住してユダヤ人共同体の一員となりました。つまりスピノザはマラーノの子孫だったわけですが,プラドは自身がマラーノであったことになります。
この当時のアムステルダムのシナゴーグでは,富の再分配が積極的に行われていました。基本的にスピノザは税を納める方の立場だったのですが,新参者のプラドは慈善金を受け取る立場でした。つまり経済的地位も異なっていたのです。
『宮廷人と異端者』では,まず暗殺未遂があって,その後で破門の宣告がなされたという順序になっています。ベールの『批判的歴史辞典』がそういう時系列で書かれていますので,スチュアートはそれを参考資料に用いたためであると思われます。ですが,ファン・ローンJoanis van Loonはスピノザが襲撃された後の治療を実際に行った医師であり,それは破門宣告より後だとされています。スピノザが2度も襲撃されたのならどちらも誤っていないことになりますが,そうしたことは考えにくいといわなければならないでしょう。スチュアートの論述はその襲撃事件の後,スピノザは裂かれた上着の穴を繕わずに生涯とっておいたという,スピノザがローンに語ったとされる事柄の内容が実行されたというエピソードに接続しています。おそらく史実を語っているのはローンで,先に破門の宣告があり,その後で暗殺未遂という事件が起こったのだと僕は考えます。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺義雄も,ベールの当該部分の記述に対する訳注として,スピノザが襲われたのは破門の後のことだと記しています。
スチュアートはユダヤ教の指導者たちがスピノザに年金を贈ることを提案したという点については史実であると解しています。それは異端的な見解を公衆の前で放棄したら金銭的な褒賞を与えるという提案であったという主旨の記述になっています。僕はその点ではスチュアートは事柄の真相をうまく把握しているのではないかと思います。要するに年金というのは,スピノザがそれまでの見解を否定し,かつ将来にわたってユダヤ教の伝統に則して生活するということの対価という意味が強かったと僕には思えるからです。とても俗なことばでいえば,それは年金ということばで表現されていても,実際には賄賂であったと思うのです。
スピノザは実際には破門されたのですから,その提案をスピノザが拒絶したとスチュアートがみなしているのは間違いありません。スチュアートはそれを受け取れば自分は偽善者になるとスピノザが語ったと書いていますが,本当にそう言ったかは別に,これも年金が事実上の賄賂であったことをうまく描写していると思います。