スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

表彰選手&神の力の制限

2015-01-31 19:29:20 | 競輪
 2014年の表彰選手の発表が29日にありました。
                         
 最優秀選手賞は茨城の武田豊樹選手グランプリオールスターでビッグを2勝。ほかに静岡記念を優勝。賞金,勝率,連対率がトップ,優勝回数のトップは諸事情からFⅠを走る機会が多かったからですが,得点が4位に留まったのもその影響と考えられ,この選手以外に考えられません。だれからみても文句なしでしょう。2012年以来2年ぶり2度目のMVP。2004年に優秀新人選手賞,2005年と2009年に優秀選手賞,2010年2011年が特別敢闘賞。
                         
 優秀選手賞は3人で,まず栃木の神山雄一郎選手。高松記念広島記念を優勝しただけで,ビッグを勝っていないので意外な感がありましたが,決勝で上位に入っていた分が評価の対象になったようです。ただ,ここは同じように記念を2勝,ビッグも勝った平原でもよかったように個人的には思います。同時に特別賞も受賞。最優秀新人選手賞を獲得したのが1989年。1993年,1995年,1997年,1998年,1999年,2000年とMVPを獲得。優秀選手賞は1994年,1996年,2001年,2005年に受賞歴があり,9年ぶり5度目。特別賞は2004年に受賞していて10年ぶり2度目。1997年に特別敢闘賞も受賞していてほかに国際賞を4度獲得しています。
                         
 ふたりめは京都の村上義弘選手日本選手権を優勝し向日町記念岸和田記念を制覇。賞金も2位ですから順当な受賞。2002年と2003年,2010年と2011年と2012年にも受賞していて2年ぶり6度目。
                         
 最後が愛知の深谷知広選手。寛仁親王牌,サマーナイトフェスティバルでビッグ2勝,平塚記念豊橋記念も優勝。武田以外に複数のビッグを勝ったのはこの選手だけなので,これも当然の受賞でしょう。2010年に優秀新人選手賞,2011年は優秀選手賞と特別賞,2012年が特別敢闘選手賞,2013年にも優秀選手賞を受賞していて2年連続3回目。
 優秀新人選手賞は奈良の三谷竜生選手。ヤンググランプリは負けてしまいましたが,該当選手の中では賞金も得点もトップなので順当でしょう。ほかに記念を制した選手もいませんでした。
 特別敢闘選手賞に三重の浅井康太選手四日市記念を勝っただけなのですが,日本選手権以外のすべてのGⅠで決勝進出,グランプリにも乗りました。この結果,得点ではトップになりましたから,この部門では必然的に名前が上がることになります。2011年の優秀選手賞を受賞していて,国際賞に1回。この部門は初受賞。
 これ以外はこのブログでは扱っていませんので,省略します。

 平面上の三角形の内角の和が二直角ではない世界を可能世界としても認めないということを,僕は,神Deusは自由な意志voluntas liberaによって,平面上の三角形の内角の和が二直角でないようにすることはできないという意味に解します。どのモナドの内部においても平面上の三角形の内角の和が二直角であるというなら,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは実質的にそう主張していると理解して間違いないと考えるからです。
 僕はスピノザ主義者です。ですからライプニッツが否定しなければならない第一部定理三三に関しても,それは真理veritasであると考えます。だから平面上の三角形の内角の和に関して,ライプニッツが主張していると僕が解している内容に関しては,同意することができます。たとえば三角形の本性essentiaを有する物体corpusが,四角形の本性を有する物体になるということは,第一部定理二八に合致し得ますから,僕はそうしたことが生じ得ると考えます。だからといって,三角形の本性が四角形の本性になるというわけではなく,そうしたことは起こり得ないと考えるのです。
 ただ,ライプニッツが主張していることを,このようにスピノザの哲学における本性という概念との関係で把握しようとするならば,ライプニッツは一般に,ある事物の本性を現にあるのと異なったように意志することは神にはできなかったと主張しなければならなくなる筈だと僕には思えるのです。考え方としてはスピノザ主義に合致するから僕としてはそれを否定する必要はないのですが,このような主張は,ライプニッツが目指そうとした哲学には著しく反するように僕には思えるのです。だから僕にとってこれが謎なのです。
 神は自由な意志によって三角形も創造できるし四角形も創造できると主張することのうちには,神の力potentia,ライプニッツの場合には神の意志する力に何の制限も課せられません。いい換えれば神の自由は守られているといえます。しかし神は意志することによって,三角形の本性を存在しないようにすることはできないとか,三角形の本性を四角形の本性にすることはできないと主張することのうちには,神の意志する力に対して,ある制限が加えられているといえないでしょうか。
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王将戦&可能世界の選別

2015-01-30 19:38:50 | 将棋
 大田原市で指された第64期王将戦七番勝負第三局。
 渡辺明王将の先手で相矢倉。▲3七銀△6四角の対抗形から先手が▲4六銀と進出したときすぐに△4五歩と反発する形に。この後,郷田真隆九段が矢倉の銀も攻めに使うという新趣向を見せました。
                         
 これは▲7三歩と叩かれたので7二にいた飛車が逃げた局面。▲3四歩と取り込み,△5五角と逃げたのに対し,▲4六歩と打ちました。次に▲5六歩と打たれると角の行き場がない後手は,退路を作るために△3一玉。▲3七桂△2二角▲2五桂の進展。
                         
 僕はこのあたりの先手の指し方がどうだったのだろうかと思います。桂馬は気持ちよく活用することができたのですが,▲4六歩と打った手は,角道と飛車の横利きを自ら遮断するような手で,相対的には負の側面の方が大きかったのではないかと思えるからです。後手も大駒2枚に玉が接近していて,あまりい形ではないかもしれませんが,先手には別の手段があったのかもしれません。
 郷田九段の勝利で1勝2敗。第四局は来月16日と17日です。

 ライプニッツによる可能世界の選別を僕が謎と感じるのは,本当は僕がライプニッツの哲学を正確に把握できていないからかもしれません。もしもそうであったとしても,僕がスピノザ主義者として,ライプニッツの哲学をどう把握するのかという点に関しては参考になると思うので,この謎の正体を明らかにしていきましょう。
 僕が理解しているところでは,たとえば平面上の三角形の内角の和が二直角でないという世界を,ライプニッツは可能世界として認めないのです。各々の可能世界が各々のモナドとして表現されるというのが僕の解釈ですから,無限に多くあるどのモナドの内部でも,平面上の三角形の内角の和は二直角であることになります。これに対して,たとえば1676年にスピノザとライプニッツは会見しましたが,スピノザとライプニッツが会わなかった世界というのは,ライプニッツは可能世界として認めます。したがってふたりが会ったモナドと,会わなかったモナドというように,これだけでふたつのモナドがあることになります。
 スピノザの哲学で考えれば,ライプニッツが認めない可能世界と,認める可能世界の間の相違は,簡単に説明できます。前者が平面上に存在する三角形の本性に関係しているのに対して,後者はスピノザの本性ともライプニッツの本性とも関係していないということです。前者は平面上の三角形の十全な認識が知性のうちにあるなら,必然的に認識される内容です。しかし後者は,仮にスピノザの十全な認識とライプニッツの十全な認識が知性のうちにあっても,そこから流出するような内容ではありません。これは第一部定理二八を,現実的に存在するスピノザと現実的に存在するライプニッツに適用して,知性のうちに十全に認識される内容です。ここで僕がいっているのは論理的にそうであるという意味であり,実際にそれを十全に認識するのは人間には不可能であって,この十全な観念は無限知性のうちにのみあると考えてよいだろうと思います。
 しかし,可能世界の選別をこのような仕方で理解するとなると,それはむしろライプニッツにとって不利になるのではないかと僕には思えるのです。
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第三部定理四三&可能世界

2015-01-29 19:25:17 | 哲学
 『スピノザとわたしたち』の書評で言及したように,こと政治的実践という側面に限定する限り,僕はネグリの解釈には懐疑的です。ただ,ネグリのいっていることが,スピノザの哲学において論理的には正しいとは認めます。論理的に正しいということは非常に重要なことですから,これについて僕の考えを表明しておきましょう。
                         
 ネグリの論調を裏付ける『エチカ』の定理は第三部定理四三です。
 「憎しみは憎み返しによって増大され,また反対に愛によって除去されることができる」。
 他人が自分を憎んでいると表象すると,その人間は自分を憎んでいる人間を憎むようになります。ですから憎しみは憎しみの連鎖を発生させます。要するに憎しみはそれが相手に表象される限り,憎しみだけを再生産することになります。
 これと逆に,他人が自分を愛していると表象すると,その人間は自分を愛している人間を愛するようになります。このとき,元々はその人間がその相手を憎んでいるとしたら,その人間には心情の動揺が発生しますが,もしも愛が憎しみの大きさを上回るならば,憎しみは除去され,愛が残ることになります。ゆえに自分への憎しみを除去するのは,相手への憎しみではなく愛であるということになるのです。
 ただし,僕はこの定理の主旨は以下のような点にあると解します。
 第三部諸感情の定義六第三部諸感情の定義七から,愛は喜びで憎しみは悲しみです。よって第三部定理五九により,愛は能動的であり得ますが,憎しみは必然的に受動的です。ここでいわれているのは,この意味において,他人の受動を除去する要因が自身の能動のうちにあるということではないでしょうか。このこともまた一般的な意味において論理的に正しいのですが,第四部定理四が示すように,だれでも簡単になし得ることではありません。自分を憎んでいる人間を愛するということが困難であるということは,だれしも経験的に理解できるでしょう。
 論理的に正しいからといって,だれもがそれを実践できるわけではありません。それでも論理的な正しさを,過小評価してもいけないと思います。

 ライプニッツが神に意志の自由を認めることと,無限に多くのモナドが存在すると主張することを,僕は同一の意味に解します。意志の自由があるということと,無限に多くの事柄を意志することができるということは同一の意味であり,無限に多くの事柄を意志することができるのならば,無限に多くの世界を創造できるということを帰結させなければなりません。モナドというのは,この場合の世界に該当すると僕は理解しています。つまりあるモナドとは,神の意志によって創造される世界のひとつであり,無限に多くのモナドが実在するというのは,神が無限に多くの世界を創造し得るという意味だと理解するのです。非常に大雑把なのですが,この点は大筋では誤っていないものと僕は思います。
 ここで第一部定理三三が否定されているのは明白でしょう。スピノザは,神が創造し得るのはたったひとつの,他面からいえば「唯一」の世界だと主張しているのです。それはもちろん,僕たちが現にあるこの現実世界のことです。これに対してライプニッツが主張するのは,存在する,あるいは存在し得る世界は現実世界だけではないということです。むしろ現実世界のほかにも,無限に多くの世界があるのです。そこでこれを可能世界とここでは名付けましょう。ライプニッツにとって現実世界とは,無限に多くの可能世界の中から,神が自由な意志によって現実化するように選択した世界であるということになります。
 厳密にいうと,この場合には単に神が自由な意志によって選択したというだけでは十分ではありません。というのは,これだけではなぜ神がそれだけが現実化するように選択したのかということの根拠がまったく充足され得ないからです。そしてライプニッツがそれを説明する仕方というのが,僕がスピノザ主義に傾いていったことと大いに関係します。なのでこの点に関しても詳しく説明しますが,もう少しだけ後回しにします。まだ別に述べておきたいことがあるからです。
 僕の解釈では,ライプニッツは可能世界に関して,ある制限を加えているのです。そしてなぜライプニッツがそのようにしたのか,僕には少しばかり謎なのです。
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農林水産大臣賞典川崎記念&第一部定理三三

2015-01-28 19:24:11 | 地方競馬
 2015年の最初の大レース,第64回川崎記念
 まずサミットストーンが先頭に立ちましたが,1周目の正面に入るまでは入れ替わりが多く,隊列は定まりませんでした。結果的に逃げることになったのはランフォルセ。サミットストーンが2番手に控え,3番手がムスカテール。その後ろにハッピースプリント,トーセンアレス,ホッコータルマエの3頭。さらにカゼノコ,イッシンドウタイの順に。ハイペースでした。
 2周目の向正面に入ると一旦はランフォルセとサミットストーンの差が開きましたが,3コーナーにかけてまた詰まっていき,直線入口ではサミットストーンが先頭,外を捲ったホッコータルマエが2番手で,これを追ったカゼノコが3番手。あとの馬は力尽きて3頭の争い。馬場の中央からホッコータルマエが先頭に出て,その外からカゼノコが迫ろうとしましたが,1馬身ほどの差がなかなか詰まらず,ホッコータルマエの優勝。4分の3馬身差の2着にカゼノコ。1馬身半差でサミットストーンが3着。
                    
 優勝したホッコータルマエは前走の東京大賞典に続いて大レース8勝目。川崎記念は第63回に続いて連覇で2勝目。ここは前走より相手関係が楽になっていて,アクシデントなく走ってこられればまず勝てるだろうと考えていました。大方のファンも同様の見方ではなかったでしょうか。抜かされそうで抜かせないのは彼の強さでしょう。次のフェブラリーステークスでも有力ですが,今日のように大本命というわけにはいかないだろうと思います。父はキングカメハメハ
 騎乗した幸英明騎手と管理している西浦勝一調教師は東京大賞典に続いて大レースを制覇。川崎記念は連覇で2勝目。

 神の自由な意志によって自然は決定されるということを是認するために必要なことは,自然が,現にあるのとは異なった仕方であることができるということを認めることです。神がAを意志したならAという世界が創造され,Bを意志したならBという世界が創造されるということを認めないと,神が意志によって世界を創造するということにはなり得ませんから,これは明白でしょう。
 ライプニッツのこうした観点からターゲットとされなければならない定理が『エチカ』にはあります。第一部定理三三です。
 「物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方,いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった」。
 スピノザの哲学では,これは神の決定が神の本性に依拠するということの帰結事項にすぎません。もしもものが現にあるのと異なった本性,現実的本性を含むような意味での本性で産出されるということがあったとしたら,その原因たる神の本性も異なったものでなければなりません。ところが第一部定理一四系一によれば,神は「唯一」なのですから,神の本性もまた「唯一」でなければなりません。神と神の本性の区別は理性的区別であるからです。よって万物は現にある本性と異なった仕方で産出されるということはあり得なかったのです。
 この意味での神の決定を神の意志と解してしまうと,神は万物が現にある本性で存在するようにしか意志することができなかったということになります。しかしこうした意志は自由な意志とはいえないとライプニッツは考えたのでした。おそらくそれはライプニッツに固有の考え方であるわけでなく,一般的に,スピノザの神の決定が神の意志であるなら,それは自由意志であるとはいえないとほとんどの人が理解する筈です。現にスピノザ自身が第一部定理三二系一では神の本性に意志を帰することを拒んでいるのですから,この点ではスピノザもライプニッツも同じように考えていたと解して間違いないと思います。
 僕の考えでは,ライプニッツのモナド論というのは,上述のようなスピノザの条件を脱するために,ライプニッツによって構築されたのです。
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ラスコーリニコフのソーニャ観&神の自由

2015-01-27 19:13:59 | 歌・小説
 ペレストゥピーチというロシア語に注目すると,ラスコーリニコフとソーニャの関係が,ラスコーリニコフからみてどのようなものであったのかということに関して,ある解釈が成り立つことになります。
                         
 ラスコーリニコフは,まだソーニャと出会う前に,ソーニャの父であるマルメラードフから,ソーニャが娼婦であるということを聞かされていました。そしてそれは,ソーニャの性格に起因するのではなく,マルメラードフの性格から引き起こされた暮らしぶりに起因するということも知っていたわけです。このゆえにラスコーリニコフは,ただのひとりの娼婦としてソーニャを見ることができなかった,あるいは難しかったということは確かだと思うのです。
 しかしそれは,同情という観点からではなかったといえることになります。ラスコーリニコフがペレストゥピーチということばをソーニャに向けるとき,それはソーニャも自分も一線を踏み越えた人間であるという意味で,ある種の仲間意識のような感覚を抱いていたと解釈するべきであろうからです。
 ラスコーリニコフが踏み越えた一線とは,いうまでもなく殺人です。とりわけラスコーリニコフにとって,金貸しの老婆を殺しただけでなく,居合わせたソーニャの友人であるリザヴェータも殺したということが,一線を踏み越えたという強い意識となって現れているように思います。しかしソーニャが踏み越えた一線とは何だったのでしょうか。
 ラスコーリニコフにとって,おそらくそれは,ソーニャが娼婦として,不特定多数の男を相手に春を売ったという点にあったのだと思います。というよりもそうとしか考えられません。これでみれば,自分のように自身の思想から人を殺すことと,ソーニャのように止むを得ないとしか考えられないような状況に置かれて売春行為に及ぶということが,同じ意味で一線を踏み越える行為であったということになります。
 僕にはこのふたつの行為が,同等の否定的価値を有するようには思えません。多くの方がそう感じるのではないでしょうか。そしてもしもその通りなら,ラスコーリニコフの倫理観は特異なものであったことになります。

 スピノザの哲学でいわれる神の決定ということが,僕たちが普通にその語句でイメージするであろう内容と比べれば,ごく軽いものと考えて差し支えないということは,以前に説明した通りです。なぜならこの決定は,神が何らかの意図をもってなすような決定ではなく,単に神から発する法則に適合するという意味での決定であるからです。いい換えればそれは,神がある意志をもってなす決定ではありません。第一部定理三二系一は,神が何らかの意志をもって決定を下すということを,明確に否定しているといえるでしょう。
 ライプニッツからすれば,こうしたことのすべてが,神からの人格の排除に該当するわけです。他面からいえば,こうした考え方に依拠する限り,神を宿命的で必然的なものと規定することになるわけです。そこでライプニッツは,こうした規定というのを脱した哲学を構築しなければなりませんでした。
 このために最初に必要なことは,神の意志を神の本性に帰すことであるということは明白でしょう。そしてそれが,ライプニッツが神が人格的なものでなければならないと考える場合の,第一の意味合いであるということになります。要するにここでは,スピノザが必然性ないしは法則と規定するものに対して,ライプニッツが意志と規定するものとの間での対決が展開されることになります。これは他面からいうなら,自由という概念を巡っての対決であったともいえるでしょう。第一部定理一七系二において,スピノザは神が自由原因であるということを認めています。しかしそれは神が自身の本性の必然性のみによって働くからです。このことはこの系が第一部定理一七の系であるということからも明白です。ライプニッツの考え方からすれば,おそらくそれは自由であるということではありませんでした。ライプニッツにとって人格を排除したような自由,意志と関係を有さないような自由というのはあり得なかった,より正確にいうならあってはならなかったということなのでしょう。
 したがって,自然は神の自由な意志によって決定されるものでなければならないというように,ライプニッツは考えることになる筈です。
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ユニバーサル杯女流名人戦&人格の排除

2015-01-26 19:14:19 | 将棋
 関根名人記念館で指された昨日の第41期女流名人戦五番勝負第二局。
 清水市代女流六段の先手で里見香奈女流名人の振飛車4→3戦法。中盤で先手に重大な見落としがあったようで,おかしな手順が盤上に表現されてしまいました。
                         
 ここで先手が▲3四歩と突いたのが見落としがあったための指し手。△同飛は当然。そこで▲4五歩と打てば△3四銀と引くほかなく,▲3五銀で後手の飛車の行き場がないという読みだったようですが,▲4五歩には△同銀があります。もう一歩あればそこで△3五歩と打って先手の必勝でしょうがありません。▲4五同銀は飛車を素抜かれますから,実際にその局面になれば▲3五銀と出るほかないでしょうが,後手は飛車を引けますから完全に空振り。それでも▲3四歩と突いてしまった以上はどんなに悪くなってもそう進めるべきではないかと僕は思ってしまいます。
 △3四同飛の局面で誤算に気付いたのでしょう。▲7九角△2五歩▲3七飛△2六歩▲3五歩△2四飛という進展になりました。
                         
 ▲3五銀と出るよりはましな局面ですが先手は▲3四歩と突き出したのに▲3五歩と打ち,その間に後手は2筋を伸ばしているのですから先手がやり損ねているのは明白。勝負が決するような局面ではありませんが,この将棋の場合にはこれが致命傷になってしまいました。
 里見女流名人が連勝。第三局は2月8日です。

 ライプニッツによるスピノザとの対決の本質の動機面をどのように考えるかはともかく,ライプニッツが,少なくとも表面上はスピノザ主義に同調するわけにはいかなかったということだけは確かなことだといえましょう。そこでライプニッツはそれに対抗するための哲学を構築することになりました。僕はライプニッツの哲学に興味があるわけではないので,これを深くは探求しません。ただ,ここで必要となる点に関して,僕がそれをどのように理解しているのかということだけ,簡潔に説明しておきます。
 まず,第一部定理一七はライプニッツには受け入れることができません。これは神から人格的なものを排除するに等しいとライプニッツは理解するからです。そこでライプニッツはこれを否定するために,第一部定理二九を否定します。というか,より正しくいうならば,ライプニッツにとって最も否定しなければならなかったのは,第一部定理一七よりも第一部定理二九であったというべきだと思います。第一部定理一七を否定すれば第一部定理二九も必然的に否定されることになりますが,ライプニッツにとってより重要であったのは,神が自身の存在に関して人格的な存在でなければならないということよりは,神が万物の原因であるという意味において人格的な存在でなければならなかったということであったと僕は考えるからです。そしてそのことを明瞭に否定しているのは,第一部定理二九の方であるといえます。第一部定理一七を肯定すれば第一部定理二九も肯定しなければならなくなると僕は考えますから,ライプニッツが第一部定理一七を否定するのは間違いないといっていいと思いますが,ライプニッツの関心の中心は,第一部定理二九の方にあったと考えておくのが妥当ではないでしょうか。
 第一部定理二九のうちには,神が万物の原因であるとか,万物は神の決定を免れ得ないという意味が含まれています。そしてライプニッツもこのこと自体は否定しない筈です。ライプニッツが否定するのは,それが必然性に依拠して説明されているという点です。いい換えればその点にこそ,神から人格性の排除があるとライプニッツは考えるのです。
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いわき金杯争奪戦&ライプニッツの反動性

2015-01-25 18:57:38 | 競輪
 強力な関東勢に地元勢が対抗できるかという図式だったいわき平記念の決勝。並びは小松崎-佐藤和也の北日本,武田-神山-後閑の関東,佐藤龍二-小埜-栗原の南関東で岩津は単騎。
 武田がスタートを取って前受け。4番手に小松崎,6番手に佐藤龍二となり,岩津は南関東を追走。残り2周のホーム手前で佐藤龍二が上昇の構えをみせるとまず小松崎が動き,ホームで武田を叩いて前に。バックで佐藤龍二が小松崎を叩き,岩津まで出きって打鐘。武田は発進するもホームでは小松崎の外。そのまま踏み上げようとしましたが,ホームの出口付近で小埜が早くも番手捲り。バックでまた武田が外から追い上げようとしましたが,さすがにスピードが上がらず関東勢は総崩れ。コーナーでインを突いて栗原をどかした岩津が直線は小埜の外から差して優勝。武田の内から捲り追い込むようなレースになった小松崎が半車身差で2着。早めに発進の小埜が4分の1車輪差で3着。
 優勝した岡山の岩津裕介選手は昨年10月の防府記念以来の記念競輪7勝目。いわき平記念は初優勝。単騎の戦いでしたので,関東を分断に出るか,二段駆けがありそうな南関東を追走するかの選択でしたが,選んだのは後者。武田が後方に置かれてかなり苦しい展開になりましたので,この選択がうまくいきました。栗原をどかして直線で伸びたのは,この選手の真骨頂であったと思います。どうしても展開次第になってしまいますが,こういう展開が想定できるメンバーのレースでは,今後も単騎であっても侮れない選手であるといえるでしょう。

 これらふたつの前提から,ライプニッツのスピノザとの対決の本質が,違った観点から捕え直されます。なぜなら,ライプニッツにとってその本質は,キリスト教神学およびその道徳をスピノザの哲学から守るためであったという点は,もしかしたら表向きのものでしかなかったかもしれず,ただ単に,自分自身の立場と地位を守るための対決であったのかもしれないからです。しかし,だからライプニッツは真剣にその仕事に取り組まなければならなかったとも考えられます。つまり実際の動機という点ではヤコービと同一視することはできないかもしれませんが,生活を賭しての対決であったとすれば,むしろその本気度はライプニッツの方がヤコービを上回っていたかもしれません。
                         
 『哲学者たちのワンダーランド』で,上野修はライプニッツの哲学は,スピノザの哲学と比べた場合にはもちろん,デカルトやホッブズと比べた場合にも反動的であると指摘しています。これ自体は正当な指摘だと僕も思います。ただ,その反動的思想は,ライプニッツの生活を守るという目的から生じたものなのかもしれないということが,僕がいっていることの主旨になります。ですからライプニッツの哲学が反動的な哲学であることには同意しますが,ライプニッツ自身が心底から反動的な人物であったということに関しては,僕は態度を留保しておきます。なお,念のためにいっておけば,上野がライプニッツの哲学を反動的だという場合にも,それは単純にライプニッツを批判するような文脈を有しているわけではありません。ライプニッツは近代哲学の父と称されることになるデカルトから始まる近代哲学が,神学を根底とする道徳的世界観を崩壊させかねないと本気で心配したために,反動的思想家にならざるを得なかったというのが上野の全体的な見解になっていて,むしろライプニッツに対して同情的であるといえるでしょう。そこで上野がいっているライプニッツの心配自体は自然なものであったと思いますが,デカルトやホッブズ,とりわけスピノザにとっては,それは無用の心配であったといえるでしょう。なので僕はこの点では,ライプニッツに同情は寄せません。
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国家論&信仰心の相違

2015-01-24 19:26:51 | 哲学
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を紹介したので,『国家論Tractatus Politicus』も簡単に紹介します。
                         
 『国家論』は単独では岩波文庫版しかありません。第1刷が1940年の発行で,おそらく『神学・政治論』と同様の意味で現代では読みにくいものだったと思われますが,1976年の第12刷で改版が発行され,解消されています。また2012年に第22刷が出ていますから,入手も困難ではないと思われます。
 この本はスピノザの絶筆で,未完です。民主国家についての言及の途中で終了しています。なのでスピノザが民主国家がどうあるべきと考えていたかは,全面的には分からないとするのが妥当だと思います。
 それが第一一章ですが,僕は第五章までと第六章以下の二部構成だと理解します。前半部分は一般的に国家Imperiumについて語られていて,後半は,具体的な制度の下の国家のあるべき姿が語られているからです。具体的な制度とは,民主制のほかには,君主制と貴族制です。この貴族制は,共和制と解してよいと思います。つまり前半部分で,どんな制度にあっても妥当しなければならないことが述べられ,後半部分でそれが個々の制度に適用されるという形式です。
 スピノザは民主主義者であったと解して間違いないと思いますが,この本は,いわゆる国家論として,いくつかの制度を比較するようなものではありません。むしろ,ある国家制度において,具体的にどのような手法が採用されれば,その国家の国民の福祉が最も満たされるかを検討した方法論です。したがって,手法を誤った民主制国家よりも,正しい手法の君主制国家の方が,国民にとって利益が大きくなり得るということを,スピノザは認めるであろうと僕は考えます。
 哲学的にその根拠になるのは第四部定理四です。人間は受動passioを免れ得ません。よって精神の能動actio Mentisによって決定されるのと同じ行動に,受動によって決定されるなら,それで構わないとスピノザは考えたのだと思います。『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』を紹介したとき,ネグリAntonio Negriの理論はスピノザの政治的実践にはそぐわない側面があると僕はいいましたが,このような観点がネグリには欠けていると僕は思うのです。

 もうひとつ,ヤコービとライプニッツは同じように神学的観点からスピノザの哲学に立ち向かおうとしたのですが,同じようにキリスト教への信仰心を有していたと考えるのは危険な意味があることになります。
 僕はヤコービFriedrich Heinrich Jaobiの日々の暮らしについては何も分かりません。ただ,キリスト教を信仰していたことは間違いないでしょうし,その信仰心は篤いものであったと推測できます。ヤコービはスピノザの哲学が論理的に完全であることは認めていたのですから,そのように考えないと,それと対立しなければならない理由が失われてしまうからです。しかしライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合にも同じように考えることはできません。ライプニッツの場合は,宮廷人としての立場を死守するために,神学的立場に立たなければならなかったわけで,この条件は,ライプニッツがキリスト教を信仰していようと信仰していまいと,変わることはないからです。いい換えればライプニッツは立場上はキリスト教を信仰しているように振舞わなければならなかった筈ですが,それは本心からのものである必要は必ずしもなく,周囲の人間にそのように見せかけることができるなら十分であったといえるからです。要するに,またとても極端にいうなら,もしもスピノザ主義を是認することによって宮廷人という立場を守ることができるとしたなら,ライプニッツはむしろ神学的観点よりもスピノザ主義の方を選択したのではないかと推測できるのです。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,ライプニッツはそうも熱心に教会へ通うような人物ではなかったと描かれています。この本は脚色が入っていると思われますから,それを事実として認めることは危険だと思います。しかし,ライプニッツが,スチュアートMatthew Stewartが描いたような人物であったとしても,それは不思議なことではないと僕には思えるのです。
 したがって,ライプニッツにとっては,神学的立場に立脚するということ自体が,ライプニッツ自身の信念から生じたものではないという可能性があるのです。ヤコービは間違いなく自身の信念からそこに立脚した筈で,宗教観に違いがあったかもしれないと考えておくべきでしょう。
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王将戦&哲学観の相違

2015-01-23 19:46:59 | 将棋
 鷺の湯温泉で指された第64期王将戦七番勝負第二局。
 郷田真隆九段の先手で角換り相腰掛銀渡辺明王将が6筋の位を取る形から延々と手待ちが続き,先手が仕掛けたところで封じ手。この後も先手は待つことになり,全般的には後手の攻めを先手が受けるという展開になりました。
                         
 △7六歩▲同銀と吊り上げて飛車を走った局面。先手は一旦▲3三桂成と銀を取りました。△同金寄は玉は堅いのですが,実戦のように▲7七銀△8四飛▲4五歩で角の行き場が消滅しますから,思いきった取り方だったように思います。攻めきる清算があったというわけではなく,このように勝負するほかないという一手であったと推測します。
 緩むことはできないので△6七歩成▲同銀△6六歩▲7六銀右△6七桂。先手は▲同金右と取って△同歩成▲同金。そこで△6六銀と出て,▲同金△同角▲同銀。そして△8八歩と打ちました。
                         
 先手の受け方が最善であったかは不明ですが,後手としては狙われた角を使うことができたので,満足しなければいけない手順だったのではないかと思います。ただ,厳密にいえば無理攻めで,第2図から▲6八玉と早逃げしたところでは,先手の方が指せる局面になっていた気がします。ただし将棋は最後のところで頓死のような形で後手が勝ちました。
 渡辺王将が連勝。第三局は29日と30日です。

 ライプニッツが宮廷人として独自の哲学を構築していったということを前提すると,ふたつの点が浮かび上がってきます。順に僕の考え方を示していきましょう。
 『エチカ』は日本語に訳せば倫理ないしは倫理学です。ではスピノザにとって哲学の目的が倫理にあったかといえば,僕はそうは考えていません。スピノザにとって哲学の役割とは,真理の解明であったと考えています。これは『神学・政治論』で,スピノザが神学と哲学の棲み分けを主張するときに,哲学に与えられている役割です。また,『エチカ』で考えた場合にも,人間の精神の能動と,人間が事物を十全に,あるいは真に認識するということは同じことであると理解できますから,哲学の役割が真理の解明であるとスピノザは考えていたと理解して間違いないだろうと思います。ですから哲学的研究によって,神学とおおよそかけ離れた事柄が導かれることがあったとしても,真理は哲学の側にあって,かつそちらが人間の福祉に適うとスピノザは考えた筈です。いい換えれば,スピノザにとって倫理とは,人間が多くの事柄を真に認識するということ自体にほかならなかったというように僕は考えます。
 でも,ライプニッツにはこれに同意できなかった事情があったと理解できます。むしろ哲学は神学ないしはキリスト教的道徳にマッチするようなものでなければならないという前提が,哲学的研究の前にあったと考えられるからです。この場合,哲学はそれ自体が道徳であるというよりは,道徳に至るための手段のようなものでなければなりません。すごく極端にいってしまうと,もしも哲学的研究の結果として,道徳を崩壊させてしまうような事柄が結論されるとすれば,それはもはや哲学としての役割を果たさないというようにライプニッツだったら考えることになるのかもしれないのです。したがって,少なくともスピノザが目指したように,真理を解明するということは,ライプニッツにとってはそれ自体では有益ではなかったし,場合によったらそんなことは余計なことであったかもしれないのです。
 こうした哲学観の相違が,スピノザとライプニッツにはあったと僕は考えます。
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死の状況&対決の本質

2015-01-22 19:23:36 | 歌・小説
 リーザの死の状況をテクストからまとめてみます。
                         
 第三部で,ドストエフスキーとゲーテの関係で示した火事が発生します。これは放火です。スタヴローギンの妻であるマリヤが殺され,これを隠蔽するための放火であったと考えてよいと思います。この一件についてスタヴローギンは愛人であるリーザに対し,自分が殺したわけではないけれども,主犯であるフェージカがこの犯罪を犯すのを阻止しようとしなかったという主旨のことを言います。実際には阻止しようとしなかったというばかりではなく,フェージカを唆したと理解すべきだと僕は考えますが,これはいいでしょう。火事のときスタヴローギンは現場と川を挟んだ反対側にいました。文字通り対岸の火事として発生した状況だったのです。
 これを聞かされた後で,リーザは婚約者であるマヴリーキーと共に現場に向いました。現場には多くの野次馬が出ていました。そこでは妻であるマリヤを殺すことがスタヴローギンに有利であったという話が上がっていたとあります。スタヴローギンが放火殺人犯として疑われていたといえます。
 そこにリーザが現れました。野次馬からリーザはスタヴローギンの愛人だという声が上がりました。マリヤを殺しただけでは物足りなくて様子を見に来たのだという声も上がりました。そして激昂した野次馬連中によって,リーザは撲殺されてしまうのです。
 『悪霊』の執筆の時期はすべての事件の終了後。書いたのは記者という設定。それにしては不自然な部分も多々ありますが,これはおいておきましょう。記者は,この一件を目撃していて,後に裁判で供述することになったと書いています。それによれば,リーザ殺害の一件は偶発的なものであり,殺した当事者たちも前後不覚の状態だったと申し立てたとしています。そして最後に,文章を書いているその時点でも,同じ見解だと結んでいます。
 目撃者にして筆者が,偶発的に殺されたといっているのです。僕がリーザの死が唐突だったと感じても無理のないところでしょう。でも僕のひらめきは,記者がそういっているという部分を契機としていました。

 なぜライプニッツにとって神が人格的な存在でなければならなかったのか。同じことですが,なぜキリスト教的観点に立つならば,神は人格的存在でなければならないとライプニッツは結論したのか。この答えは,それを逆に考えた場合に明瞭に理解できます。もしも神が意志もせず,考えもせず,行動もしないのであったら,神とは,宿命的なものであり,あるいは自然的なものであり,あるいは必然的なものとなるでしょう。ライプニッツはそのように神を理解することは避けなければならない,あるいはキリスト教的な神がそのような存在であってはならないと考えたのです。そしてこのライプニッツの考えは,神がスピノザ主義的なものであってはならないというのと同じ意味を有していたと僕は考えます。なぜなら,第一部定理一七は神自身が必然的なものであることを示していますし,第一部定理一六は,自然のうちに生じるすべての事柄が,必然的なものであることを意味します。そしてスピノザは,神と自然がそう変わらないものであるということを明言しています。それは『エチカ』でもそうですし,『神学・政治論』も,その観点から書かれています。ライプニッツにとってスピノザとの対決の本質的部分は,ここの部分にあったのだと考えていいでしょう。
 ただし,ライプニッツは宮廷人であったから,そのように考える必要があったともいえます。ライプニッツにとってスピノザ主義に同調することは,その立場を危うくすることであるに違いなかったからです。ライプニッツはドイツ出身で,後に帰国していますが,基本的にパリで宮廷人として振舞いました。ドイツはプロテスタントの勢力が強かったのですが,フランスはカトリックが優勢でしたから,とりわけライプニッツが欲していたのは,カトリック的な神の立場を死守することであったと思います。プロテスタントにもカルヴァン主義のような反動勢力と進歩的勢力が混在していましたが,カトリックはプロテスタントと比較してなお保守的な組織であったといえるでしょうから,ライプニッツの哲学が反動的なものにならざるを得なかったのには,事情があったと理解しておくべきでしょう。
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農林水産大臣賞典TCK女王盃&神学的観点

2015-01-21 19:18:36 | 地方競馬
 思わぬ少頭数でのレースとなった第18回TCK女王盃
 レッドクラウディアは鞭が入りましたがエスメラルディーナが楽々と追い抜いて先手を奪いました。レッドクラウディアが2番手で3番手にアクティビューティ,4番手にトロワボヌールで5番手はサンビスタとソーミラキュラスで併走。とはいえこの6頭はほとんど一団でのレース。最初の800mは51秒0で超スローペース。
 隊列にほとんど変動がないまま直線に。レッドクラウディアはエスメラルディーナの外,トロワボヌールは内へ。しかしレッドクラウディアの外からサンビスタがあっさりと差し,そのまま抜け出して快勝。一旦はレッドクラウディアが2番手でしたが,外から併せて伸びた2頭が差し切り,アクティビューティが2馬身半差で2着。ソーミラキュラスがクビ差で3着。
 優勝したサンビスタは前々走のJBCレディスクラシック以来の勝利で重賞3勝目。牝馬限定では明らかに力量上位ですし,牡馬相手の重賞でも勝てそうな馬。その力量差を明瞭に見せつけました。このペースでこれだけの差をつけたのはよほど力に差があったことの証明だと思います。父はスズカマンボ。母は2002年のフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル。Sambistaはポルトガル語でサンバダンサー。
                         
 騎乗したのはイタリアのクリスチャン・デムーロ騎手で管理しているのは角居勝彦調教師。TCK女王盃は共に初勝利。

 ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが第一部公理一を難敵であると自覚していたかどうかは僕には不明です。それでも結果的に,それを射程に入れたような方法を用いたのは,ヤコービもまたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと同様に,スピノザのよき理解者であったということの証明であるように僕は思います。そしてヤコービとライプニッツの相違のひとつに,第一部公理一が入っているか否かということを,ヤコービの意識を考慮に入れなければ,あげることができるのかもしれません。いずれにせよライプニッツは,論理的にスピノザの体系を崩壊させることが可能だと信じていたのですが,こうした方法に目を向けなかったように僕には思えますから,その意図は達成されなかったと僕は考えます。
 そしてこの当初の意図が達成されなかったという点が,今回の考察の最後の課題になります。これは正確にいうなら第一部定義三という題材とは離れることになってしまうのですが,ライプニッツの疑問が,第一部定義三をターゲットとしたものであったと現在の僕は理解していますので,関連事項として探求します。大前提となるのは,ヤコービもライプニッツも,単にその形而上学的観点ないしは哲学的思想の論理性そのものからスピノザを否定しようとしたわけではなく,むしろ神学的な観点がそのようにさせたのだということです。しかし一方でライプニッツが提出した解答というのが,神学的観点に相応しいものであったかどうか,僕には疑問が残る部分があるのです。いい換えればキリスト教的な神Deusの存在existentiaあるいは観念ideaを死守するという目的で,ライプニッツは独自の哲学を形成するに至ったと僕は考えているのですが,その意図が十分に成就されているようには思えない部分が僕にはあるのです。
                         
 まず,神学的な観点からすれば,神はどのようなものでなければならないのかを前提しておく必要があります。これについては,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』から抜粋しておきましょう。ライプニッツは神が人格的なものであり,知性的な実体substantiaでなければならないと考えていました。いい換えれば,神は考えたり,意志したり,行動したりするものでなければならなかったと理解していいでしょう。
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人間風車&第一部定義三の主張

2015-01-20 19:19:38 | NOAH
 『馬場伝説』のインタビューでは,馬場は多くのレスラーについて語っています。80年代に戦った相手として,インタビュアーが人間風車ことビル・ロビンソンについて尋ねたとき,馬場は「うん,ロビンソン,いたねえ」とだけ答え,インタビュアーも「それぐらいですか」と話を引き取っています。馬場にとってロビンソンは,いただけのレスラーだったようです。
                         
 馬場から最初にPWFのベルトを奪ったのは全日本のブッチャーパートナーだったキラー・トーア・カマタ。ベルトはカマタからロビンソン,黒い呪術師と移り,再び馬場の腰に戻りました。一時的とはいえ全日本でシングルのベルトを巻いているくらいですから、この低評価は僕には意外でした。
 ただ,これは僕のプロレスキャリアよりも前の時代のことなので,僕はロビンソンの全日本での試合ぶりはあまりよく知りません。ですからこの評価の理由は,推測するほかないのです。
 鶴見五郎とかアニマル・浜口がそうであるように,馬場は実力的にはトップとまではいかない選手でも,高く評価することがあります。これは外国人選手でも同様で,ジョー・ディートンはおよそトップに程遠い選手でしたが,馬場は高評価しています。それはプロレススタイルが馬場の目に適ったからでしょう。馬場の言及はありませんが,ジャイアント・キマラも同じでなかったかと僕は推測します。ロビンソンがそういうレスラーでなかった可能性はありますが,しかしこのクラスの選手と比較するのは変にも思います。エゴイズムに満ちていた超獣についても馬場はある程度の評価はしていると考えるべきで,それならロビンソンも同様であっておかしくないからです。もっとも馬場はブロディは強かったと言明していますから,ロビンソンの実力は,実績ほどには買っていなかったのかもしれません。
 プロモーターとしての馬場が,観客動員力からレスラーを評価することはあり得ます。ブッチャーとか不沈艦は,こうした面からの評価も受けているからです。これでみれば馬場は,この面でもロビンソンを評価していなかったということなのでしょう。

 僕の第一部定義三の正当性の論証の方法から,僕がこの定義をどのように把握しているのかも理解してもらえるのではないかと思います。
 一般的に,公理系における定義というのは,その公理系の内部での約束事を示すというように理解できます。スピノザの哲学の場合だと,それは観念対象ideatumの記号化という意味を含みます。これが原則です。しかし公理系を読解しようとする場合には,すでにある事物の定義のうちに,その公理系の作者の主張が含まれていると考えることもできるわけです。
 僕の考えでは,もしも第一部定義三に主張が含まれているとするなら,それは実体はそれ自身によって概念されなければならないということではないのです。むしろあるものがそれ自身のうちにあるとみなされるなら,そのものはそれ自身によって概念されなければならないということなのです。だからたとえばライプニッツが,モナドはそれ自身のうちにあると規定するのなら,モナドはそれ自身によって概念されなければならないということに,スピノザの公理系ではなるのです。
 こうしたことが,第一部公理一から必然的に流出すると僕は考えるのです。ですから,第一部定義三を否定しようとするなら,実体の形而上学的概念を変更するだけでは不十分であり,第一部公理一の真理性を転覆させる必要があると僕は結論付けます。ただ,ライプニッツは実際にはそうした手法を採用しなかったのですから,ここではこのことについての言及は行いません。というか,これをやろうとするなら,たぶん新たに第一部公理一をテーマとして設定する必要があると僕は考えます。というのもこの公理は,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつである,内在の哲学,他面からいうならあらゆる超越論哲学の否定という点に関して,要となる公理であるといえるからです。今回の考察との関連性からひとつだけいい足しておくべきことがあるとしたら,ヤコービは論理的に第一部公理一を否定するには至らなかった,というかそれはできないと考えたといっていいと思いますが,少なくとも方法論的には,この方面からスピノザを否定しようとしたといえると思います。
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ユニバーサル杯女流名人戦&第一部定義三の正当性

2015-01-19 19:08:35 | 将棋
 出雲文化伝承館で指された昨日の第41期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が17勝,清水市代女流六段が11勝。
 島根県議会議員の振駒で里見女流名人の先手。中飛車から角交換。清水六段は玉頭位取りにしましたが,先手に早い段階で巧みに動かれ,結果的に龍を作られる展開に至りましたので,作戦自体はあまりうまくいっていなかったものと思われます。その後,端に手をつけて攻勢に。
                         
 先手が桂馬を打って受けた局面。
 桂馬の交換の後に出現した局面なので,△1七桂成と指せば▲同桂△1六歩▲1八歩△1七歩成▲同歩△2五桂▲2九桂で第1図と同一局面に戻り,千日手にはできたものと思われます。しかし後手は千日手は考えなかったとのことで,△1二香と上がりました。
 △1一飛も指せればかなり厳しいですが,そこまでの余裕はなかったよう。ということは,少なくとも後手は1手のリードは奪っていなかった局面だったことになるのでしょう。先手は▲2六歩で催促。△1七桂成▲同桂△1六歩は後手に選択の余地がなく,先手は▲2五桂と逃げることになりました。△1七歩成も仕方ないところで▲3九王と逃げるのも自然だと思います。そこで△2五銀▲同歩△4四銀は,どちらかといえば受けを重視した指し方で,これはやや苦しくなっているための手順だったのではないでしょうか。▲5六龍△5五桂▲4八王△4七桂成▲同銀△3六歩▲同馬で第2図。
                         
 さすがに先手玉が盤石で差がついた印象。先手が▲4五歩~▲3五桂の攻めを実現させ,押し切りました。
 里見名人の先勝。第二局は25日です。

 これ以上はライプニッツとスピノザの比較はしませんので,約束した通り,第一部定義三がスピノザの公理系において正しいということを論証します。
 僕はこのことの根本は,第一部公理一にあると考えています。自然のうちにはそれ自身のうちにあるものと,ほかのもののうちにあるものだけが実在します。そこでそれ自身のうちにあるものをA,ほかのもののうちにあるものをXとし,XがAのうちにあると仮定します。
 このとき,XがAによって概念されるという論理的可能性は否定されませんが,AがXによって概念されるという論理的可能性は否定されます。これは第一部定理一からもそうでなければなりません。そこでAがほかのものによって考えられるとしたら,X以外のもの,たとえばYになります。
 Yがほかのもののうちにあると仮定します。しかしAのうちにあるならXですから,たとえばBのうちにあるとしなければなりません。次にBがほかのもののうちにあると仮定するのは,論証上は無意味ですから,Bはそれ自身のうちにあると仮定します。
 第一部定義三の前半部分が示すのはAもBも実体であるということです。しかるにAとBが区別されているのは,その区別の方法が知性にあるからです。するとAの本性とBの本性は異ならなければなりません。したがってAとBおよびYは実在的に区別されることになります。いい換えればAとBおよびYには共通点がありません。よって第一部公理五により,Aの認識はBとYの認識を含みませんし,BとYの認識はAの認識を含みません。
 以上の事柄が一般的に示しているのは,それ自身のうちにあるものが,それ以外のそれ自身のうちにあるものによって概念されることはないし,ほかのもののうちにあるものによって概念されるということもあり得ないということです。そしてそれ自身のうちにあるものとほかのもののうちにあるものだけが実在するというのが第一部公理一の主旨なのですから,それ自身のうちにあるものは,それ自身以外のものによって概念され得ないのです。つまり第一部公理二により,それ自身のうちにあるものはそれ自身によって概念されるほかないのです。
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倉茂記念杯&限界の理由

2015-01-18 19:24:43 | 競輪
 早くも2015年の3戦目の記念競輪となる大宮記念の決勝。並びは平原-岩津の87期,鈴木-小埜-中村-荒木の南関東,深谷-吉村の中部で渡部は単騎。
 荒木がスタートを取って鈴木の前受け。平原が5番手で渡部はここを追走。深谷が8番手で周回。残り2周のバックの入口手前から深谷が上昇しようとしましたが,すぐに鈴木が突っ張ると,深谷は8番手に戻って打鐘。レースは一列棒状のまま進んでバックから平原が発進。小埜が併せようとしましたが,タイミングが合わなかったようで岩津のインで粘るような形に。捲りきった平原が最後まで粘って優勝。小埜と競り合った岩津の外を追い込んだ渡部が4分の3車輪差で2着。大外を捲り追い込んだ深谷は写真判定のタイヤ差まで迫るも3着。
                         
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年11月の競輪祭以来の優勝。記念競輪は昨年2月の奈良記念以来となる13勝目。地元の大宮記念は2008年,2010年,2011年,2013年と優勝していて2年ぶりの5勝目。立川記念に斡旋されていましたが,病気で欠場。体調が心配されましたが,完全優勝ということで,立ち直っていたようです。南関東の二段駆けが予想されたので,楽なレースにならないおそれもありましたが,小埜が出るのが少し遅かったかもしれません。ただそれは平原のスピードが卓越していたからだともいえるでしょう。自力で優勝を勝ち取ったところに価値があると思います。

 ライプニッツにとっての実在的区別とはどのような区別であるのか。少なくともそれがスピノザの哲学ないしは形而上学における実在的区別とは異なる区別でなければないという以上,これはライプニッツの哲学ないしは形而上学に特有の区別であることになります。何度か繰り返しているように,僕はそれについては詳しく探求しません。ただ,スピノザの哲学でいうところの共通点をもたないものの間での区別でないということだけ確かめられれば,それが限界点を突破している地点になっていると僕は考えますので,それだけで十分です。ライプニッツが共通点ということをどのように把握するかは僕には分かりませんが,ライプニッツが規定するようなあるモナドと別のモナドとの間に,スピノザの哲学でいうところの共通点がないと主張することは,僕には無理であるとしか考えられません。
 実在的区別に関する両者の見解の相違は,つまるところ実体の形而上学的概念に関する見解の相違に帰着すると僕は考えます。実体Aと実体Bが実在するとき,スピノザは実体Aの本性と実体Bの本性は異ならなければならないと考えています。単一の実体が単一の属性によって本性を構成されるならこれは当然ですが,単一の実体が複数の属性によって本性を構成される場合でもこれは妥当しなければなりません。ゆえにライプニッツの疑問レトリックでしかないという結論になるのです。しかしライプニッツの実体の概念には,こうしたことが妥当しません。むしろスピノザの形而上学で考えるなら,完全に同一の属性によって本性を構成される多数の実体が実在し,それらの実体はその実体がうちに含むものの相違によって区別されると主張していることになると僕は理解しています。
 論争の理由のひとつとして,スピノザは同一の記号を用いて異なった事柄を論じている場合を実例にあげています。スピノザとライプニッツの間で,形而上学的概念としての実体について論争し合うならば,スピノザが示している実例に該当すると僕は考えます。なのでここが限界点で,これ以上の折合いをライプニッツとスピノザの間に保つことは不可能だと判断するのです。
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神学・政治論&実体の形而上学的概念

2015-01-17 19:13:13 | 哲学
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』や『国家論Tractatus Politicus』については,書評の掲載を見送るつもりでした。僕にはその内容を詳しく検討することができないからです。ただ,汎神論の説明で『神学・政治論』に触れましたし,今後の考察でも利用する可能性は残りますので,簡単な紹介だけはしておくことにします。
                         
 岩波文庫からも『神学・政治論』が出ていますが,光文社古典新訳文庫から昨年に出版された画像のものをお勧めします。岩波版は現在は入手が困難だと思われますし,文章も語句も現代の僕たちが使っているものとはかけ離れているところがあり,大変に読みにくいと思われるからです。もっとも悪文にはそれなりのメリットもあるわけですが,光文社版は訳注や解説が懇切丁寧で,たとえばスピノザが書いたとして残されている原著の,ラテン語のいい回しのどの部分に問題とされるべき部分があるかなどといったことまでよく分かります。
 『神学・政治論』とありますが,大部分は神学論と思って間違いありません。全部で20章あるのですが,17章までは神学関連。18章は国家Imperiumについて語られていますが,ヘブライ国家の解説に終始していますので,ここにも神学の匂いが残ります。純粋な政治論は,19章と20章だけといえるでしょう。
 スピノザがどれほど丹念に旧約聖書と新約聖書を研究していたかは,この本を読めば一発で分かります。逆にいえば,スピノザの深い研究に裏打ちされた著書であったから,僕には内容を詳しく検討することができません。僕にはその方面の知識は,スピノザに比較していえば,皆無といっていいからです。
 哲学する自由libertas philosophandiということばは,この著書の最初の部分に出てきます。哲学する自由が認められても,宗教的道徳や国家の安全は損なわれないし,むしろその自由を踏みにじれば,道徳も平和paxも損なわれるとスピノザは考えています。これは現代の法的概念でいえば,思想の自由や良心の自由に該当しますが,その原理的説明は一般的に自由論として語られることとはおおよそかけ離れています。これについてはいずれ別エントリーで僕の考え方を示すことにしましょう。

 実体substantiaの観念ideaが知性intellectusのうちにあるとき,同じ知性のうちに神Deusの観念が必然的にnecessarioあるということ,他面からいえば,神の観念なしに実体の観念は知性のうちに実在し得ないということは,スピノザの形而上学でもライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの形而上学でも,無理をした感はありますが,一致させられると僕は考えます。ところが,スピノザの形而上学でそのように規定する場合と,ライプニッツの形而上学でそのように規定される場合とでは,規定されている実体が,同一の形而上学的概念であるということができないと僕は考えます。そしてこの相違が,限界点を超えていると僕が考える相違です。いい換えればこの点において,僕はライプニッツの形而上学をスピノザの形而上学に置き換えることは不可能であると考えます。
 実体がそれ自身のうちにあるesse in seものであるという点では,スピノザもライプニッツも一致します。スピノザについては第一部定義三がその証明ですし,モナドMonadeはそれ自身によって考えられないけれどもそれ自身のうちにあるというライプニッツの規定があったということは,現在の考察の前提条件のひとつになっているからです。
 一般にAがそれ自身のうちにあり,Bもそれ自身のうちにあるならば,AとBの区別distinguereは実在的区別でなければならないと僕は理解します。スピノザがそれに従っていることの説明はもう不要でしょう。一方,ライプニッツの疑問から考えて,ライプニッツがあるモナドとほかのモナドとは,実在的に区別されると考えていたことも間違いないと思われます。
 僕が両者が規定する実体の形而上学的概念が異なるというのは,この実在的区別のあり方と関連します。スピノザは,Aがそれ自身のうちにあり,Bもそれ自身のうちにあるのなら,AとBの間には共通点はないと考えたのでした。というか,スピノザの哲学においては,この意味においてのみ,共通点という語句がある特別な意味をもっているのだという方が正確かもしれません。ところが,ライプニッツはおそらくこのことを認めないのです。つまり実在的区別が,スピノザの哲学でいう意味においての,共通点をもたないものの間での区別であるということを認めないのです。
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