● 原 寿雄 「ジャーナリズムの覚悟」 を読んで
『世界』12月号
須山敦行
◎ ジャーナリスト希望の学生たちに、ジャーナリストたる者の使命とその為の覚悟を伝えるような内容の文章となっている。
◎ 現代の若者の、《職探し活動の核心は、実は「生きがいのある仕事探しだ」と悟った》とあるが、とかく追いつめられている感の深い就活の現状ではあるが、深い所に真に求められているものは、「生きがいのある仕事探し」であり、そのように若者を扱うべきでないかと、思わされた。
◎ そう思って、この文章を読めば、ジャーナリストに限らず、「生きがいのある仕事探し」をする若者全体への、先輩からの「覚悟」を伝えるような、仕事探しの導きの書の働きを持っている文章だと思った。
「ジャーナリズムの覚悟」であり、「教師の覚悟」であり、「学者研究者の覚悟」であり、「表現者の覚悟」であり、「公共団体職員の覚悟」であり、「生産者の覚悟」である……と。
◎ 「いま」は、安倍政権が戦争のできる日本を復活させ、覇権大国の仲間として発言権を得たいと急ぐ「いま」である。
その「いま」の危機の本質を国民に知らせるべきジャーナリストは、「覚悟」を決めて言うべきことを言わなくてはならない。
上司の指示のままに戦争推進記事を書きながら、BC級戦犯にも問われずにきた先輩たちの過ちを繰り返してはなるまい。
というように、あの戦争時のジャーナリストの無残な状況への反省から話は始められている。
◎ 《非国民》
与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」と、松本彩子『戦争の教室』からの沢地久枝の文を引用し、
ジャーナリストを自任する者が、〝非国民〟呼ばわりにひるむようなことがあってはなるまい、と説く。
◎ 《国益論に惑わされずオブザーバーに徹する》
戦前の新聞が転向していったとき、「日本の国益のため」という言葉が使われた。
私自身は、
「わが国」という表現を使わない原則を立てた。と言う。
◎ 私は日本人として生まれたわけではない。人間として生まれた。特定の国を愛するのではなく、国境を越えて人間を愛するのが一番自然だと信じている。
ジャーナリストは意識の上で、国籍を常に超える努力が必要と思う。
いま、国際ジャーナリズム最大の問題は、エスノセントリズム=自民族中心主義ではないか。
主観的な「わが国」という用語は、自国を客観的にみる「日本」に変わるべきだろう。
◎ 《99%のプアーの立場に徹する》
米主導の新自由主義が横行する現在の世界では、弱肉強食のジャングルの法則が格差社会を増幅している。
ジャーナリストがその現状を肯定していては、グローバル・ジャスティス(国境を越えた世界の正義)は実現しない。
99%のプアーの立場に立って報道するのは、客観的報道原則に反しないのか。
現代の欧米のジャーナリズムがほとんどすべて、オピニオン欄では支持政党を明らかにし政治的立場を明示しながら、事実報道の分野では客観報道原則を守ってニュースの公正を期している。
プアーの立場に立ってニューステーマを選択しながら、個々の報道内容では客観的な事実報道原則に従わなければ、読者に説得力を持つことができない。
ここには、「立場」と「客観」の関係が述べられている。坂本義和の「現実主義」に通じる。「被害者への共感」が出発の土台であるが、「現実」から遊離しないで、「現実」に食いつこうとするのである。
◎ 《最高に厳しいジャーナリスト倫理を遵守する》
他を批判、常に正義を追求するジャーナリストは、厳しい倫理で自律する。
新聞倫理綱領
「国民の『知る権利』は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。」
そのために、「自由と責任」、「正確と公正」、「独立と寛容」、「人権の尊重」、「品格と節度」の五項目を挙げている。
安倍政権が、この民主主義の砦にいかに乱暴な攻撃を仕掛けてきていることか。と改めて思う。
◎ 《富も出世も望まず正義の実現を生き甲斐とする覚悟》
筆者は、ここで、自ら係わった、「菅生事件」の報道体験を語る。共産党関係の事件で真実を追おうとするば、「富や出世」から最も遠い所を歩く覚悟が必要であろう。
こういう覚悟が、あらゆる仕事で、人の進む道を分ける所にあると思う。
◎ 《マッカーシズムに抗したマローに学ぶ》
米国CBSのエド・マロー
娯楽番組を担当させられての述懐。
「やりたいことをやるために引き受けた」
「やりたい番組をするためには、やりたくない番組もしなければならない」
「危ない橋が渡れるのはこの番組のお陰だ」
ジャーナリストにとって、現実的で教訓的な言葉だと思う。
自分も、やりたくない仕事を指示された時、「やりたいことをやる日のために」と自分に言いきかせ引き受けてきたように思う、と言う。
現実には、そういう日があるだろう。
そして、本領が試される日があるだろう。
地位を得てからの、「レイトワーク」なども、そのような例だろう。菅原文太の最期など。
◎ 《秘密保護法の有識者会議の責任》
野田民主党政権時代の2011年、長谷部恭男東大教授ら五人の有識者会議が答申した秘密保全の強化を求める報告が起点だった。
基本的人権にかかわる重要法なのに、理由不明のまま議事録もなく、担当者のメモも「消えて」という。ジャーナリズムについての十分な配慮もなしに言論表現の自由規制法を提言したこの「有識者」五人には、大きな責任があることを強調したい。
具体的な名指しの鋭い批判だ。すごい。
責任とは、そういうものだ。
◎ 《既成事実主義に負けない》
元来ジャーナリズムは既成事実に弱く、いったん決まったことは、そこから再出発する原則に従うことで歴史的変化に対応してきた。
既成事実主義は日本軍の戦争哲学だった。
しかし、
特定秘密保護法の制定後も反対キャンペーンを続けるのは、日本に新しいジャーナリズムが始まったことを意味するように思う。
NHKは会長を安倍政権に支配されたが、その下で地味な良心的活動が続いている。
「NHKジャーナリズムは生きている」
これは、ジャーナリズムだけでなく、民主主義運動が、負けても負けない、既成事実主義や敗北主義に陥らない粘り強い性格を持ってきている変化として感じるものだ。