『世界』を読む会

寅さんの博も読んでいる『世界』を読んで、話し合おう。

「定常経済」は可能だ!

2015-01-05 19:09:47 | 日記

1月号を読んでいたら、この「ブックレット」の広告が出ていた。
欲しくなって、手に入れて、読んだ。
わかりにくい「経済」を、見えるようにしてくれる。
この内容は、少し分かると思って、『世界』のバックナンバーを見てみると、14年の8月号で、インタビュー記事があり、自分はノートにまとめていた。
著者は、世界銀行の上級エコノミストという経歴の持ち主。
色々言って私の頭を混乱させる、日本の新古典派経済学者の先生方のご意見は、如何に。
お薦めです。

そして、今月の会が迫ってきました。
1月号も、内容満載で素晴らしいですよ。

 

今年は、『世界』を読む年にしましょう。

◎ 『世界』を読む会  1月例会 の 予定

● 日 時 1月9日(金) 午後7時
● 場 所 喫茶アンデス 練馬区豊玉北5-17-9 井上ビル 2F
      電話 03-5999-8291
      練馬駅[A2]から徒歩約0分  
● 持ち物 雑誌『世界』1月号
● 連絡先 須山
      suyaman51@mail.goo.ne.jp

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安倍政権の一五教育法と教育現場(池田賢市・大森直樹・平山瑠子)を読んで

2015-01-03 12:02:37 | 日記

巻さんからの投稿です。

 

安倍政権の一五教育法と教育現場(池田賢市・大森直樹・平山瑠子)を読んで

     『世界』11月号                         巻  和泉

 

 第一次安倍政権が教育基本法を改定して、戦後教育を根底から覆す動きを始めたという認識を当時から僕は持っていた。しかし教員がほとんどその意味が感じられない「研修」に追いまくられている実態があるが、その根拠たる「教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律」が、第一次安部内閣によって作られたものだったことは知らなかった。第一次安部内閣が六本の教育関係法を成立させて、第二次安部内閣がすでに九本もの教育関係法を成立させていることは、この論文を読むまで知らなかった。

 冒頭に超格差社会米国で暮らす人々の不満を戦争と愛国心に「解消」する仕組みが紹介されている。幼稚園と小学校では星条旗が掲げられ、子どもたちは(そこに通っていた日本人の子も)出征する米国兵士に手紙を書き、戦地の兵士から返事が届」くのだという。子どものうちに国への忠誠と、戦地で闘う兵士への親愛の情を培うシステムである。

 元新日鉄社長三村明夫(元中央教育審議会会長)の発言(『群雍』2013年11月)が生々しい。「…成長の可能性のあるところは海外しかない。…企業は海外に出て行かざるを得ない。…海外に人材を投入し、海外の企業を買収し、国内のものを海外に移している。そうしたグローバリゼーションが進行している。それは急速で、これに対応できる人材を集めているのですが、基本的な学力に問題があったり、技術系でも物理を学んでいない学生がいたりして、学生が身につける学力・能力がバラバラなんですね。…環境は大きく変化しています。それに対して大学は、きちっとした対応が出来ていない」と不満を述べている。こうした発想の基づいて、小学校から大学までの日本の教育が「改革」されている。しかしこんなおかしなことはない。企業が海外に出て行くのは、何も日本の社会や国民のためを思ってのことではない。もっと安い労働力を求めて、さらには購買力の落ちた日本に見切りをつけて、もっと売れる市場を求めてのことだろう。日本を見捨てて海外に出る見返りとして高い税金を払うというのなら、その言い分の何割かは認めてもいい。しかし彼らはさまざまな抜け道を使って税金を払おうとしないどころか、すでに十分安い法人税をさらに低くせよと要求している。タックスヘイブンを利用して、税逃れをしているその上にである。「盗人猛々しい」とはこのことだ。グローバルな人材が必要なら自分の金で養成するというのが筋だろう。著者がいうように、「現実の小・中・高・大における学生と子どもたちの圧倒的多数は、グローバルな人材となるために日々の生活を生きているのでない」のである。

 どうも我々は数字を交えた「グローバル」な議論にごまかされがちである。しかしグローバルな展開をしているのは、強欲で倫理性のかけらもない多国籍企業であり、ハゲタカにもたとえられる金融ファンドなどである。これらが政治を金で買い、私利私欲をあたかも公正な装いで社会に押しつけている様子は、曇りのない目で見ればどこにでも見てとれる。「私たちはだれのために、何のために生きるのか」ということを、今ほど日々の生活の隅々で考えるべき時代はないのではないか。あらためてこんなことを考えさせられた。

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原 寿雄 「ジャーナリズムの覚悟」 を読んで

2015-01-01 19:01:06 | 日記

●  原 寿雄 「ジャーナリズムの覚悟」 を読んで
    『世界』12月号
                                    須山敦行
                                                

◎ ジャーナリスト希望の学生たちに、ジャーナリストたる者の使命とその為の覚悟を伝えるような内容の文章となっている。

◎ 現代の若者の、《職探し活動の核心は、実は「生きがいのある仕事探しだ」と悟った》とあるが、とかく追いつめられている感の深い就活の現状ではあるが、深い所に真に求められているものは、「生きがいのある仕事探し」であり、そのように若者を扱うべきでないかと、思わされた。

◎ そう思って、この文章を読めば、ジャーナリストに限らず、「生きがいのある仕事探し」をする若者全体への、先輩からの「覚悟」を伝えるような、仕事探しの導きの書の働きを持っている文章だと思った。
  「ジャーナリズムの覚悟」であり、「教師の覚悟」であり、「学者研究者の覚悟」であり、「表現者の覚悟」であり、「公共団体職員の覚悟」であり、「生産者の覚悟」である……と。


◎ 「いま」は、安倍政権が戦争のできる日本を復活させ、覇権大国の仲間として発言権を得たいと急ぐ「いま」である。
  その「いま」の危機の本質を国民に知らせるべきジャーナリストは、「覚悟」を決めて言うべきことを言わなくてはならない。
  上司の指示のままに戦争推進記事を書きながら、BC級戦犯にも問われずにきた先輩たちの過ちを繰り返してはなるまい
  というように、あの戦争時のジャーナリストの無残な状況への反省から話は始められている。


 《非国民》
  与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」と、松本彩子『戦争の教室』からの沢地久枝の文を引用し、
  ジャーナリストを自任する者が、〝非国民〟呼ばわりにひるむようなことがあってはなるまい、と説く。


◎ 《国益論に惑わされずオブザーバーに徹する》
  戦前の新聞が転向していったとき、「日本の国益のため」という言葉が使われた。
  私自身は、
  「わが国」という表現を使わない原則を立てた。と言う。


 私は日本人として生まれたわけではない。人間として生まれた。特定の国を愛するのではなく、国境を越えて人間を愛するのが一番自然だと信じている。
  ジャーナリストは意識の上で、国籍を常に超える努力が必要と思う。
  いま、国際ジャーナリズム最大の問題は、エスノセントリズム=自民族中心主義ではないか。
  主観的な「わが国」という用語は、自国を客観的にみる「日本」に変わるべきだろう。


◎ 《99%のプアーの立場に徹する》
  米主導の新自由主義が横行する現在の世界では、弱肉強食のジャングルの法則が格差社会を増幅している。
  ジャーナリストがその現状を肯定していては、グローバル・ジャスティス(国境を越えた世界の正義)は実現しない。
  99%のプアーの立場に立って報道するのは、客観的報道原則に反しないのか。
  現代の欧米のジャーナリズムがほとんどすべて、オピニオン欄では支持政党を明らかにし政治的立場を明示しながら、事実報道の分野では客観報道原則を守ってニュースの公正を期している。
  プアーの立場に立ってニューステーマを選択しながら、個々の報道内容では客観的な事実報道原則に従わなければ、読者に説得力を持つことができない。

  ここには、「立場」と「客観」の関係が述べられている。坂本義和の「現実主義」に通じる。「被害者への共感」が出発の土台であるが、「現実」から遊離しないで、「現実」に食いつこうとするのである。


◎ 《最高に厳しいジャーナリスト倫理を遵守する》
  他を批判、常に正義を追求するジャーナリストは、厳しい倫理で自律する
  新聞倫理綱領
  「国民の『知る権利』は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。」
  そのために、「自由と責任」、「正確と公正」、「独立と寛容」、「人権の尊重」、「品格と節度」の五項目を挙げている。

  安倍政権が、この民主主義の砦にいかに乱暴な攻撃を仕掛けてきていることか。と改めて思う。


◎ 《富も出世も望まず正義の実現を生き甲斐とする覚悟》
  筆者は、ここで、自ら係わった、「菅生事件」の報道体験を語る。共産党関係の事件で真実を追おうとするば、「富や出世」から最も遠い所を歩く覚悟が必要であろう。
  こういう覚悟が、あらゆる仕事で、人の進む道を分ける所にあると思う。


◎ 《マッカーシズムに抗したマローに学ぶ》
  米国CBSのエド・マロー
  娯楽番組を担当させられての述懐。
  「やりたいことをやるために引き受けた」
  「やりたい番組をするためには、やりたくない番組もしなければならない」
  「危ない橋が渡れるのはこの番組のお陰だ」
  ジャーナリストにとって、現実的で教訓的な言葉だと思う。
  自分も、やりたくない仕事を指示された時、「やりたいことをやる日のために」と自分に言いきかせ引き受けてきたように思う、と言う。

  現実には、そういう日があるだろう。
  そして、本領が試される日があるだろう。
  地位を得てからの、「レイトワーク」なども、そのような例だろう。菅原文太の最期など。


◎ 《秘密保護法の有識者会議の責任》
  野田民主党政権時代の2011年、長谷部恭男東大教授ら五人の有識者会議が答申した秘密保全の強化を求める報告が起点だった。
  基本的人権にかかわる重要法なのに、理由不明のまま議事録もなく、担当者のメモも「消えて」という。ジャーナリズムについての十分な配慮もなしに言論表現の自由規制法を提言したこの「有識者」五人には、大きな責任があることを強調したい。

  具体的な名指しの鋭い批判だ。すごい。
  責任とは、そういうものだ。


◎ 《既成事実主義に負けない》
  元来ジャーナリズムは既成事実に弱く、いったん決まったことは、そこから再出発する原則に従うことで歴史的変化に対応してきた。
  既成事実主義は日本軍の戦争哲学だった。
  しかし、
  特定秘密保護法の制定後も反対キャンペーンを続けるのは、日本に新しいジャーナリズムが始まったことを意味するように思う。
  NHKは会長を安倍政権に支配されたが、その下で地味な良心的活動が続いている。
  「NHKジャーナリズムは生きている」

  これは、ジャーナリズムだけでなく、民主主義運動が、負けても負けない、既成事実主義や敗北主義に陥らない粘り強い性格を持ってきている変化として感じるものだ。

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