歌集「小さな抵抗」(渡部良三)を読んで
巻 和泉
この夏戦争を扱った小説、歌集、原爆被災者の句集などをまとめて読んだ。若い頃の僕は、戦前のことや原爆のことはもう過ぎたことで、研究に値するあたらしいものはあまりないと思っていた。こんな時代になってみると、それがどれほど愚かしい間違いだったかがよくわかる。
「世界」9月号の「個人の尊厳と九条」(蟻川恒正)という論文があって、そこで紹介されている歌集「小さな抵抗」に衝撃を受けた。作者は渡部良三というクリスチャンで、学徒動員により一九四三年に招集されて中国戦線に配属された人である。
演習に殺人あるとは知らざりき 聞きし噂はまことなるらし
彼ら新兵四九人を待っていたのは、「肝試し」と称する「殺人演習」で、八路軍の「捕虜」五人を生きたまま順番に突き殺すというものである。縛りつけて抵抗できない「捕虜」を、一人頭十人くらいの新兵が気合いもろとも突き刺す「訓練」である。最初の犠牲者は一六、七歳の目隠しをされた少年で、二人目の犠牲者は目隠しを拒否して、笑みを浮かべて死んでいったという。やがて自分が五人目の捕虜の最初の刺突者になることに気づく。
鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」
銃剣を抱えて「捕虜」の前に立った瞬間を歌ったものである。「信仰のゆえに殺しません」というのが、そのとき彼の口から出た言葉である。このとき彼は八路軍の捕虜と一緒に死んでもいいと思ったと後に語っている。異様な雰囲気の中で、びりびりするような痛みを身体に感じたとも語っているが、こんな人物が日本の軍隊にいたとは思いも寄らなかった。歌集は捕虜虐殺の場面を百首で表現していて、きわめて臨場感に充ちている。
縛らる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる
新兵らみな殺人に馴れてきたるらし徐ろなれど気合い強まる
歌集にはこの後に、彼の受けた凄絶なリンチや実際の戦闘の場面なども歌われており、学徒動員や応召前夜のこと、さらには復員後の故郷でのことも収録されていて、全部で七二五首。これほどの歌集を一気に読み終えたのは、僕の人生ではじめてのことだった。
「戦争小説短編名作選」(講談社文芸文庫)が七月に出たが、その中の「青春の記憶」(佐藤泰志)は、密偵に仕立てられた中国の少年たち三人を、新兵の肝試しとして殺させられる話である。命令とはいえ一六歳の罪のない少年を殺してしまった「私」は、その夜彼らの死体の傍にひざまづいて、自らのこめかみを拳銃で撃ち抜いて死ぬ場面で終わる。一九四九年生まれの作者佐藤泰志がこの小説を書いたのは一七歳の時だったという。おそらく身近なだれかに聞いた話に基づいているのだろう。中国戦線の全体でこうした新兵教育が行われていたということだ。しかし戦後になってこのことを痛切に振り返った証言はどれくらいあるのだろう。虐殺を命令した側も手を染めた四八人の新兵たちも、その体験は口にしてはならないものとして、それぞれが記憶の底に塗り込めてしまったか。渡部良三でさえ、「小さな抵抗」を世に出したのは戦後五〇年になろうとする一九九二年のことである。彼はその理由を、自分が英雄と祭り上げられる懼れと、戦友と上官に止めろと説得できなかった悔いがあって、今でも捕虜の姿が夢に出てくるせいだと述べている。彼は周囲のみんなを説得できなかった自分を責めていたのである。
垂る涙のごわず母は息子に語る物資配給に受けし八分を
渡部が出征した後に、クリスチャンだった父は治安維持法で逮捕されている。信仰の故である。残された家族は、町村長とその親族を先頭にしたすさまじい差別にさらされたという。配給の列に並んでも、「スパイの家にはこれだ!」といって、空き箱を足蹴にされて示されたとある。育ち盛りの三人の娘たちを抱えていた母親の切なさは、想像に余りある。復員してきた息子(渡部良三)に涙ながらに訴える母親の姿が目に浮かぶようである。戦前の社会で、官憲だけが異常だったのではないのである。ごく普通の人たち、懸命に働いて生きている人たちもそうだったのである。善人が善人としての一生を全うするためには、善人であるだけでは足りない。無知と無関心を拒否して、お上と社会に対して自分の頭で考えていうべきことをいう自分を作らなければならないのだろう。ある集会で真宗大谷派の僧侶は、「安倍真相はファシストではありません。これから安倍晋三がファシストになっていくかどうかはみなさんにかかっているのです」といっていた。
安保法案は成立したが、この間の闘いの盛り上がりは安保法制の発動に大きな縛りをかけたともいえる。簡単に自衛隊を派遣することはできないだろう。そのたびに大きな抵抗運動を覚悟しなければならなくなった。先日の共産党の「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の呼びかけは、実現に紆余曲折はあるだろうが、大きな希望である。
「昭和二十年夏、女たちの戦争」(梯久美子)の中で、近藤富江(作家)は「戦争ってね、いっぺんにがらっと全部変わってひどい時代になるんじゃないのよ。じわじわ、じわじわ来るんです」といっている。渡部良三に与えられなかった周囲を説得する機会は、今を生きる私たちにはまだ与えられている。今を「戦前」にしないために、これからが正念場なのだと思う。
あまりにも重く、大切な内容で、心にズサリと来ているのですが、どう書いて良いのか、心の整理に手間取っていましたが、巻君はさすが。ポイントをえぐり出すエッセイにしてくれました。
『世界』の蟻川論文「『個人の尊厳』と九条」を読んでから、自分の判断の根元に、「個人の尊厳」というものが座りました。
一人の「個人の尊厳」を奪って顧みないようなものは、何主義でも、積極的平和主義でも、新自由主義でも、要らないという思いです。
まだ言える時代。「小さな抵抗」が、一人でも多くの人の手に届けば、そのために、声を上げることの重要性を思います。
ほめてくれて、とてもうれしいです。最近ほめられることがとんとなかったものですから。
個人の尊厳を土台に据えていない思想とは、やっぱり闘わなきゃならないということでしょうか。
最後にもう一度、ほめてくれてありがとう。
そして、語り合うことが、読むことを支えてくれると。
さらに、書くことは、それを根を張ったものにする力になると思います。
どれも、市民が努力して出来ることですね。