● 花崎皋平 「戦後の天蓋なき民主主義」を読んで
『世界』7月号
須山敦行
※ 筆者の論点を追ってみると
◎ もっとも良かった時代は、
一九四五年から一九五〇年までである。
日本の政体がもっとも共和制に接近していたと思える時代だった
◎ 共和制 と 相対立するその後の現実
現行の社会秩序は、
企業や官庁の課す指令-服従の秩序に全面的に浸透されて、
協議による合意と、その合意にもとづく実行という行動様式から、
ますます遠ざかりつつある。
◎ 自治によって自由に決定し、行動することを阻む力が強まっている。
◎ その顕著な例が、教育現場である。
教員が学校経営を、会議をつうじて自主的に決定し、執行することが現在では許されていない。
教育とは、自分の頭で判断する人間を育てるところだという理念が踏みにじられている。
◎ 来る年毎に政治状況が悪化する
安倍首相は、
自分たちは敗戦後一貫して平和の構築に努めてきたというが、
事実が語るところは、
保守政権は一貫して、戦争ができる国にもどる、
つまり交戦権を回復してこそ国家として権威を回復できるのだという政治方針を採ってきたのである。
◎ 戦後日本が旧ナショナリズムを清算できなかった原因の中でも大事なのは、
日本帝国がアジア諸地域を植民地として支配した植民地宗主国であったという歴史の事実を直視し、
国民全体に反省をうながす政治教育を行ってこなかったことである。
◎ 高度成長の経済がもたらしたのは、
欲望ナチュラリズム(藤田省三)への惑溺である
※ 筆者は、共和制と言っているが、要するに、民主主義のことである。
自由と民主主義である。
憲法である。
そして教育である。
民主主義の教育である。
共和制を、自由と民主主義を、教育することの重要性である。
そして、
自らは、自由と民主主義を学ぶことである。
そして、その敵は
企業や官庁の課す指令-服従の秩序である。
あるいは、
欲望ナチュラリズムへの惑溺である
長く学校現場で悶え苦しみ、そして、今は市民として、学校に対して何か出来ないかと又悶える自分であるが、
教育を取り戻すことは、民主主義の社会のために、決定的に重要な課題である。
教育は放置できないのだ。学校は放置できないのだ。