● 蟻川恒正 「『個人の尊厳』と九条」を読んで
『世界』9月号 須山敦行
※ 今月号をまだ最後まで読んでいないが、多分、今月号最大の収獲は、この文章であると、やや興奮させられている。
◎ 《 「二分論」を否定する安倍氏 》
先の戦争が「誤った戦争」であるとする認識を認めようとしない。
戦争指導者によって引き起こされた「誤った戦争」であると認めない。
「戦争の惨禍」への「反省」は認める
やむを得ず行った戦争という理解のもとでも「悲惨な結果」をもたらしたことを「反省」できる。
※ 「七〇年談話」でも、今の国会の答弁でも、ここは安倍首相は揺るがない。絶対に認めない。
「憲法」は、前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」と、「政府」を「国民」から明瞭に切り離している。
「ポツダム宣言」は、「日本国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者」と「日本国国民」とを二分している。
「一億総懺悔」=「無責任体制」
「二分論」を有耶無耶にする土壌からは、「責任」が蒸発する。
※ 今月号の、田中×西谷対談での、「国体」というマジックワードによる、「国」と「国民」の融解と同じ論点である。
融けてしまった所では、責任は蒸発する。
◎ 《 戦争と「個人の尊厳」 》
渡部良三『歌集 小さな抵抗』(岩波書店 2011年)
「捕虜虐殺」、新兵教育、「刺突銃」、「殺人演習」、
「虐殺(を)拒む戦友(が)ひとり(として)無(かった)」
自己の良心に誓って殺人演習を拒み通した渡部が、にもかかわらず、良心の痛みに苦しんでいるということ
なぜ自分は、あのとき、自らが命令を拒否するだけでなく、木にくくりつけられた捕虜の前に進み出て、殺してはならぬ、と教官や僚友に説くことができなかったのか。
渡部は、そのことを生涯悔い続けることとなる。
広中俊雄『戦争放棄の思想についてなど』(創文社、2007年)
彼が真に自己の個人としての尊厳を確保しようと欲するなら
兵役拒否とともに反戦活動もすべきだ
ということになるであろう。
とはいえ、良心的兵役拒否者の反戦活動を許容することは-反戦活動は表現の自由の問題であるとはいえようが-国家にとって困難とみられる……。
このようにみてくると、日本の憲法九条のように「戦争の放棄」をすることが選択すべき道として明快であり最もすぐれていると考えられる。
※ 反戦活動を超えた、最もすぐれたものとしての「憲法九条」。まさに宝だ。
広中は、
良心的兵役拒否を「個人の尊厳」と等置することを許さない。
良心的兵役拒否者が「真に自己の個人としての尊厳を確保しようと欲するなら兵役拒否とともに反戦活動もすべきだ」と考えるからである。
良心的兵役拒否者の「個人の尊厳」は「反戦活動」もしてはじめて全うされるのであり、良心的兵役拒否だけでは全うされない。
虐殺命令拒否だけでは「個人の尊厳」は全うされない。
だから渡部は苦しんでいるのである。
※ 「個人の尊厳」とは、実に厳しいものなのだな。
人間とは、これほどまでに「尊厳」に満ちた存在なのだな。
◎ 《 時計の針を巻き戻すなら 》
渡部ができなかった「反戦活動」も、時計の針を少し巻き戻すなら、できたかもしれず、さらにもっと巻き戻せば、確実にできたといえる。
↓
いまは当然できると思われていること-「反戦活動」-が、徐々にできにくくなり、そうして、最後にはできくなるということ。
※ 歴史から学ぶとは、こういうことだ。
今を知ることだ。
そして、それを今、実践することだ。
過去と未来を見て、今を闘っていることが、「個人の尊厳」を守ろうとすることだ。
◎ 《 安保法制「違憲」論の根源性 「個人の尊厳」の否定 》
「戦闘現場」とは、文字通り、人が殺し、また、殺される戦場である。
殺されることと殺すことが等価となり、「『殺されるよりは殺す』という命題」が全生活を支配し、そうであるが故に、この命題のうちに「『避け得るならば殺さない』という道徳が含まれていることを発見」さえし、だからこそ、そこから、「改めて『殺さず』という絶対的要請にぶつか」る「私」のような葛藤が、目には見えないけれど、いつでも、そこここで、演じられている、その「戦場」である。 (大岡昇平『俘虜記』)
◎ 《 「二分論」がある故に、己の責任を考える 》
「二分論」がある故に、末端の兵士は自らに
責任があるかもしれないという認識に直面する機会を持つ。
自らの内面に「二分論」があれば、あとは、その線をずらす(自分を責任を負わぬ者の範疇に入れる線をずらし責任を負う者の範疇に含ましめる)だけである。
「二分論」を否定し去ろうとする精神からは、およそ反省は生まれない。 安倍君
殺さないと決め、一つの倫理的義務を果たしえた兵士も、しかし、殺してはならぬと僚友に説くもうひとつの倫理的義務は果たせないその事態を、広中俊雄は、「個人の尊厳」が全うされない事態と解した。
安保法制は
自衛隊員の誰かを、戦場という窮極の場所の故に、いつか、人知れず「個人」とし、先述したふたつの倫理的義務の前に立たせ、しかも、「個人の尊厳」を全うしえない事態に必ず直面させるだろう。
窮極の場所で「個人の尊厳」が守られないならば、「個人の尊厳」を謳うこと(「すべて国民は、個人として尊重される」-憲法一三条前段)は空しい。
九条を持つ日本国憲法の一三条は、だが、戦場という窮極の場所にあっても「個人の尊厳」が守られなくては仕方がないとする考え方をとらない。
なぜなら、九条は、
「軍隊」ではない自衛隊の、「軍人」ではない自衛隊員を、「個人の尊厳」が全うされない戦場という窮極の場所に立たせないことを人々に約束する規定であるはずだからである。
※ 「個人の尊厳」を守る、人間を守る「九条」の偉大さ、に改めて、「九条」を捉え直した気がする。「命」であるだけでなく、「人格」、「人間」、「人権」、「個人の尊厳」を守る「九条」なのだ。
近代「人権思想」と深く関わり、未来社会に道を拓く、「九条」なのだ。
この思いを深くし、本文の内容に共鳴するのは、引用された渡部良三の『歌集 小さな抵抗』の、短歌の心に染み込む内容によるものだ。すごい作品群だ。
短歌を教える、中高の教師達には、是非、自主教材に取り入れて欲しいと思う。生きる人間にとって、短歌はどんなものか、生徒に何かをもたらすだろう。
渡部良三の『歌集 小さな抵抗』を読んでみたい。是非、読みたい。と思っている。