『世界』を読む会

寅さんの博も読んでいる『世界』を読んで、話し合おう。

「平和の礎」に朝鮮人「慰安婦」の名は無い

2015-08-31 15:06:39 | 日記

● 川田文子 「鳥になって故郷に帰りなさい」を読んで
  『世界』9月号                  須山敦行

※ 『刻銘なき犠牲 沖縄にみる軍隊と性暴力』という連載の第一回目である。沖縄、慶良間の朝鮮人慰安婦の跡を巡るルポルタージュで、リアルで深く心に迫る内容である。

◎ 当時六歳だった吉川(喜勝)さんは、慰安所の朝鮮女性を見て
  楊貴妃はきっとこんな女性だと白い肌の朝鮮女性の美しさに息をのんだ。
  島の唐辛子を差し出すと喜ばれ、金平糖をもらった。

◎ 知念嘉子さんは、こう聞いた。
  「女の人たちはいつでも泣いてるよ。お風呂に入る時も泣いてるよって、(新里さんの家の、同じ名前の)嘉ちゃんが話をするから、ああ、気の毒だなと思っていましたけれど」

◎ 知念嘉子さんの言葉。
  ハルコ(日本人の源氏名を持たされた朝鮮人慰安婦の一人)の遺骨はその近くから掘り出され、白玉の塔に移された。その時、母はハルコに詫び、神ウマイを唱えた。
 「ごめんなさいね。日本のためにこんな遠いところに連れて来られてこんなになって、鳥になって空を飛んで、故郷を探して帰りなさいね。お父さん、お母さん、待ってるから」と。
  ハルコは親に五歳の女の子を預けてきていた。

※ どうしても涙してしまう。
  ハルコの不幸に。悲運に。
  そして、知念さんの母の心に。沖縄の人々の心に。


◎ 《平和の礎にも「慰安婦」の名は無い》

  軍の機密保持のため行き先も知らされず慰安所に連行された多くの女性は、読み書きもできず、音信不通になっていたからだ。
  ハルコの名は白玉の塔に刻銘されていない。本名不明のためだ。
  糸満市摩文仁の丘の平和の礎にも「慰安婦」の刻銘はない

※ 敵も味方も沖縄戦で死んだ人は全て刻銘されている、平和の礎に、朝鮮人慰安婦の名は刻銘されていないというのだ。初めて知った。
 平和の礎の礎を何故、そう読むのかもハッキリ知らなかった不勉強なので、仕方がないか?(「いしじ」は「いしずえ」の沖縄方言)
 ネットで、この問題を調べてみると、朝鮮人の側では「恥辱の証になる」ということで拒否しているということもあるようだ。沖縄の行政として、平和の為に、真摯に取り組む姿勢が、県政の転換などで、回り道した事情もあるようだ。あの戦争の加害、被害をどう捉え乗り越えてゆくのか、大切な課題を、まだ残しているということだ。何よりも加害者の国、日本、そして被害者である、中で、明日の揺るがぬ平和の為に、取り組む課題は多く残されているのだ。
  『世界』で、学び続けることが必要だ。

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「個人の尊厳」と九条

2015-08-26 14:18:15 | 日記

● 蟻川恒正 「『個人の尊厳』と九条」を読んで
 『世界』9月号                 須山敦行

※ 今月号をまだ最後まで読んでいないが、多分、今月号最大の収獲は、この文章であると、やや興奮させられている。

◎ 《 「二分論」を否定する安倍氏 》

  先の戦争が「誤った戦争」であるとする認識を認めようとしない。

  戦争指導者によって引き起こされた「誤った戦争」であると認めない。

  「戦争の惨禍」への「反省」は認める
  やむを得ず行った戦争という理解のもとでも「悲惨な結果」をもたらしたことを「反省」できる。

※ 「七〇年談話」でも、今の国会の答弁でも、ここは安倍首相は揺るがない。絶対に認めない。

  「憲法」は、前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」と、「政府」を「国民」から明瞭に切り離している。

  「ポツダム宣言」は、「日本国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者」と「日本国国民」とを二分している。

  「一億総懺悔」=「無責任体制」

  「二分論」を有耶無耶にする土壌からは、「責任」が蒸発する。

※ 今月号の、田中×西谷対談での、「国体」というマジックワードによる、「国」と「国民」の融解と同じ論点である。
  融けてしまった所では、責任は蒸発する。

 

◎ 《 戦争と「個人の尊厳」 》

 渡部良三『歌集 小さな抵抗』(岩波書店 2011年)
  「捕虜虐殺」、新兵教育、「刺突銃」、「殺人演習」、
  「虐殺(を)拒む戦友(が)ひとり(として)無(かった)」

 自己の良心に誓って殺人演習を拒み通した渡部が、にもかかわらず、良心の痛みに苦しんでいるということ

  なぜ自分は、あのとき、自らが命令を拒否するだけでなく、木にくくりつけられた捕虜の前に進み出て、殺してはならぬ、と教官や僚友に説くことができなかったのか。
  渡部は、そのことを生涯悔い続けることとなる。

 広中俊雄『戦争放棄の思想についてなど』(創文社、2007年)
   彼が真に自己の個人としての尊厳を確保しようと欲するなら
   兵役拒否とともに反戦活動もすべきだ
   ということになるであろう。

  とはいえ、良心的兵役拒否者の反戦活動を許容することは-反戦活動は表現の自由の問題であるとはいえようが-国家にとって困難とみられる……。
  このようにみてくると、日本の憲法九条のように「戦争の放棄」をすることが選択すべき道として明快であり最もすぐれていると考えられる。

※ 反戦活動を超えた、最もすぐれたものとしての「憲法九条」。まさに宝だ。

 広中は、
 良心的兵役拒否を「個人の尊厳」と等置することを許さない。
 良心的兵役拒否者が「真に自己の個人としての尊厳を確保しようと欲するなら兵役拒否とともに反戦活動もすべきだ」と考えるからである。
 良心的兵役拒否者の「個人の尊厳」は「反戦活動」もしてはじめて全うされるのであり、良心的兵役拒否だけでは全うされない。

 虐殺命令拒否だけでは「個人の尊厳」は全うされない。
 だから渡部は苦しんでいるのである。

※ 「個人の尊厳」とは、実に厳しいものなのだな。
  人間とは、これほどまでに「尊厳」に満ちた存在なのだな。

 

◎ 《 時計の針を巻き戻すなら 》

  渡部ができなかった「反戦活動」も、時計の針を少し巻き戻すなら、できたかもしれず、さらにもっと巻き戻せば、確実にできたといえる。
      ↓
  いまは当然できると思われていること-「反戦活動」-が、徐々にできにくくなり、そうして、最後にはできくなるということ。

※ 歴史から学ぶとは、こういうことだ。
  今を知ることだ。
  そして、それを今、実践することだ。
  過去と未来を見て、今を闘っていることが、「個人の尊厳」を守ろうとすることだ。


 

◎ 《 安保法制「違憲」論の根源性 「個人の尊厳」の否定 》

  「戦闘現場」とは、文字通り、人が殺し、また、殺される戦場である。

  殺されることと殺すことが等価となり「『殺されるよりは殺す』という命題」が全生活を支配し、そうであるが故に、この命題のうちに「『避け得るならば殺さない』という道徳が含まれていることを発見」さえし、だからこそ、そこから、「改めて『殺さず』という絶対的要請にぶつか」る「私」のような葛藤が、目には見えないけれど、いつでも、そこここで、演じられている、その「戦場」である。   (大岡昇平『俘虜記』)



 

◎ 《 「二分論」がある故に、己の責任を考える 》

 「二分論」がある故に、末端の兵士は自らに
  責任があるかもしれないという認識に直面する機会を持つ。
  自らの内面に「二分論」があれば、あとは、その線をずらす(自分を責任を負わぬ者の範疇に入れる線をずらし責任を負う者の範疇に含ましめる)だけである。
  「二分論」を否定し去ろうとする精神からは、およそ反省は生まれない。  安倍君

 殺さないと決め、一つの倫理的義務を果たしえた兵士も、しかし、殺してはならぬと僚友に説くもうひとつの倫理的義務は果たせないその事態を、広中俊雄は、「個人の尊厳」が全うされない事態と解した。

 安保法制は
 自衛隊員の誰かを、戦場という窮極の場所の故に、いつか、人知れず「個人」とし、先述したふたつの倫理的義務の前に立たせ、しかも、「個人の尊厳」を全うしえない事態に必ず直面させるだろう。

 窮極の場所で「個人の尊厳」が守られないならば、「個人の尊厳」を謳うこと(「すべて国民は、個人として尊重される」-憲法一三条前段)は空しい。

 九条を持つ日本国憲法の一三条は、だが、戦場という窮極の場所にあっても「個人の尊厳」が守られなくては仕方がないとする考え方をとらない。
 
 なぜなら、九条は、
 「軍隊」ではない自衛隊の、「軍人」ではない自衛隊員を、「個人の尊厳」が全うされない戦場という窮極の場所に立たせないことを人々に約束する規定であるはずだからである。

※ 「個人の尊厳」を守る、人間を守る「九条」の偉大さ、に改めて、「九条」を捉え直した気がする。「命」であるだけでなく、「人格」、「人間」、「人権」、「個人の尊厳」を守る「九条」なのだ。
  近代「人権思想」と深く関わり、未来社会に道を拓く、「九条」なのだ。

  この思いを深くし、本文の内容に共鳴するのは、引用された渡部良三の『歌集 小さな抵抗』の、短歌の心に染み込む内容によるものだ。すごい作品群だ。
  短歌を教える、中高の教師達には、是非、自主教材に取り入れて欲しいと思う。生きる人間にとって、短歌はどんなものか、生徒に何かをもたらすだろう。

 渡部良三の『歌集 小さな抵抗』を読んでみたい。是非、読みたい。と思っている。

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日本の「植民地主義」に向き合う

2015-08-24 19:00:46 | 日記

● 内海愛子×高橋哲哉 「跋扈する歴史修正主義をかき分けて」を読んで
  『世界』9月号                          須山敦行

※ 「戦後七〇年、歴史との向き合い方を考える」という対談である。
 高橋氏が問題にしている点は、日本人に戦争への反省はあっても、植民地支配に対して真摯に向き合う議論が少ない、ということである。日本人の中に染み付いている「植民地主義」は本当に根深いということだ。確かに、「戦争」、「戦争死」、「戦争の被害」などへの言及に比べ、「戦争」と地続きである「植民地支配」の内容、意味、実態に対して向き合う事が少ないように思う。それが、アジアとの近隣国との問題の解決の為に重要だということを改めて考える視座をもらった気がする。

  以下、取り上げられていた、論点を並べてみる。

◎ 《 「脱亜」 》

  戦後はまさに「脱亜」でした。  (内海)

  戦後の歴史の中で、アメリカに負けたことは受けいれたが、アジアへの加害は忘れ去ってきた。

※ 近代日本の建設を「脱亜」として進めてきた日本だが、戦後はアジアへ加害の無視という形で、その「脱亜」が一層進行したというわけだ。
  「脱亜」は、日本を捉える重要な概念だ。

◎ 《 「吉田松陰の復活」 》

  吉田松陰の『幽囚録』  
     「欧米列強に日本が伍していくためには、いま早急に軍備を整えなければならない。そして蝦夷地を開拓し、オホーツク、カムチャッカを奪い、琉球を幕府に従わせ、朝鮮を攻めて昔のように日本に服従させ、さらに北は満州から南は台湾、ルソンに至るまで一手におさめるべきであり、オーストラリアも植民地にすべきだ」

  安倍首相が最も尊敬すべき人物として挙げている

◎ 《 「東京裁判」で裁かれなかった 植民地支配 》

  日本人が植民地意識を戦後に引き継いでいった一因はこうした戦争裁判のあり方もかかわっている。

※  対連合国で裁かれたが、対アジアは無視された。

  こうした戦後処理の中で、アジアとりわけ東アジアでの戦後処理に多くの問題を残しています。

◎ 《 米国の「属国」日本 》

  戦後処理に関しても、米国の冷戦に対する都合から来る意図や圧力が大きく働いた

  「サ条約に基づく日本の独立は、せいぜい米国の「信託統治」領であった」  
                            ガバン・マコーマック

  日本の支配層による 「自発的隷属」

◎ 《 沖縄を見る目の「植民地主義」 》

  自衛隊と日米安保のセットで安全保障をということへの賛同が日本国民の八割を超えている

  戦後日本人の意識は昭和天皇のそれと近かった

  沖縄の基地の本土移設を引き受けることが、安保を支持している本土が担うべき責任だ

  本来は本土にあるべき基地が沖縄にあることに気づかなければ、当事者意識を持つのは難しいでしょう

  「沖縄から見れば違う日本が見える。」  (内海)

  植民地主義とは、実は沖縄を観光地として見ていること、それ自体の中にあるのかもしれない。
                      (高橋)

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「死の産業」と安保法制

2015-08-18 14:16:03 | 日記

● 谷口長世 「『死の産業と商人』から眺めた安保関連法案」を読んで
  『世界』9月号                         須山敦行

※ 《筆者は
  筆者は、ブリュッセル在住のベルギー国際記者連盟副会長という国際ジャーナリストということだが、世界を動かす、あちら側の重要人物から直接話を聞いている、実際の要人との交流のある人物のようで、内容に臨場感があって、現実に深くコミットしていて、面白い。

※ 《具体的な人物
  兼原信克 内閣官房副長官補兼国家安全保障会議次長という人物が、安倍首相の下で安保法制のすべてを采配してきた、というように、具体的に顔のある内容を書いている。
 「憲法九条再解釈」路線は、10年以上前からの規定の路線で、第三次アーミテージ・ナイ報告(2012年)にも示されている。
  兼原君はアーミテージのグループと親交で、安保法制は、兼原君の属する外務省関係者をはじめとする日本のグループとアメリカのネオコンと呼ばれる軍産複合体に近い人々との合作だと言う。

◎ 《影のサミット
   「G7サミット」の後には、場所を変えて「影のサミット」が開かれ、そこで事の本質に属する内容が検討されている。
   現代の戦争を巡る状況は、軍事産業と情報技術産業の一体化が進み、「紛争」対応と「復興開発」が、介入の当初から「軍民起用力」という形で同時進行している。「死の産業」が「生の産業」と一体化し始めているのだ。軍事活動の主体である各国軍隊と人道支援の担い手の諸組織、そして復興開発を受注する企業の三位一体の協力である。「死の産業」は、今や「総合安保・復興開発の市場」へと間口を広げているのだ。
   つまり、戦争し、終わらせ、開発すること全体が、企業の利益の材料になっているのだ。そういう勢力が、戦争をリードしているというわけだ。

◎ 《紛争・軍事で儲ける国へ
  日本の今回の安保法制は、「紛争や他の軍事活動に積極的に関与し、儲ける国・日本」への布石というのが、その本質だ。兵器産業・情報技術・土木建設などのインフラ業界 を巻き込んだ「死の産業」=「世界の平和・安定化の産業」(安倍流に呼べば)のためだ。紛争の発生、悪化から停戦、そして復興・国造り・開発へと流れ作業式に、「シームレスな」市場が出現するのだ。

◎ 《南スーダンに注目》
  南スーダンには、陸上自衛隊310名が存在し、内戦状態が19ヶ月続いている。ここで邦人の人質事件が発生すれば、安保関連法案を絵に描いたような状況が現出することになる。危険で不安定な南スーダンから、安倍政権は自衛隊を撤退させるべきだったが、それを怠った。南スーダンの危機的な報道は、「だからこそ安保関連法案が必要」の世論説得材料になりうる。
  参議院で野党が先手を打って、数年前の陸自派遣後に起きた南スーダン情勢悪化に適切に対応しなかった政府の責任を追及すべきである。
  どちらが先になるかが重要な分岐点だ。それまでに南スーダンで何が起きるか、予断を許さない状況である。

※ 具体的なこれからの参議院での質疑の内容にまで踏みこんだリアルな話であるのが面白いが、筆者が「野党」と呼んでいるのは、なんとなく「民主党」のことのように感じる?

◎ 《南スーダンで中国を支援か》
  中国は、石油企業の利益を守るべく、歩兵大隊を南スーダンへ送っている。
  日本の自衛隊は、安保関連法が成立すれば、国連現地司令官次第で中国の部隊に対する後方支援をする可能性も出て来る。安倍が安保関連法を訴えた第一の理由は中国の軍事的増強への対抗だったのに、全く矛盾した状況となる。

◎ 《 法案成立後の闘い 「制約」
  もし、法案が成立してしまったら、「制約」が重要なポイントになる。
  自衛隊の派遣には国会の承認が要る。承認では当然、「制約」を巡る質疑が必至だ。
  野党が「制約」について具体的な要求をするためには、明確に統一された党の安全保障政策が前提となるが、民主党内では安全保障政策が大幅に食い違いがある。民主党が具体的な政策に基づき、政府の矛盾や嘘に鋭く切り込む実力を示せば、国民の支持は広がるだろう。
  安倍政権の暴走を止めるのは、安保法制反対の世論にすがる野党の力ではなく、国民の暮らしと国家の安寧に現実的な政策を実行できる責任ある政党である。

※ ここで、「野党」とはどうやら「民主党」のことだと、言っているようだということが分かる。そして、「安保法制反対の世論にすがる野党の力ではなく、国民の暮らしと国家の安寧に現実的な政策を実行できる責任ある政党である。」という件(くだり)になると、「現実主義」的な軍事や抑止力というところから、果たしてどんなところへ進む議論になるのだろうか、と、危ぶまれる気もする。

 

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猛暑に負けず、8月例会!

2015-08-10 22:50:28 | 日記

8月例会、は4名でした。
去年の8月にスタートした会なので、一周年でした。
今月も、和やかに、そして熱く語り合いました。
『世界』の話題の輪に皆さん、加わってみて下さい。
何かが変わりますよ。

常連3名のお薦めの三点は、以下でした。

● 伊藤亨    ・「安保法案はなぜ違憲なのか」 長谷部恭男
         ・「戦後七〇年の夏、日本外交の貧困」 寺島実郎
          ・「集団的自衛権というホトトギスの卵」 石川健治
● 巻和泉   ・「忘れられない島をめぐる記憶と未来」 
                     ジャン・ユンカーマン×前泊博盛
         ・「原発と火山噴火予知」 石原和弘
         ・「冷たい復興」 日野行介
● 須山敦行 ・「忘れられない島をめぐる記憶と未来」 
                     ジャン・ユンカーマン×前泊博盛
         ・「一八歳選挙権と教育政策の矛盾」 藤田英典
         ・「集団的自衛権というホトトギスの卵」 石川健治


◎ 『世界』を読む会  9
月例会 の 予定

● 日 時 9月9日(水) 午後7時
 ※ 例月通り、第2水曜日に戻りました。
● 場 所 喫茶アンデス 練馬区豊玉北5-17-9 井上ビル 2F
      電話 03-5999-8291
      練馬駅[A2]から徒歩約0分  
● 持ち物 雑誌『世界』9月号
● 連絡先 須山
      suyaman51@mail.goo.ne.jp

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