● 内山 節 「現代日本の閉塞をつきくずす『地方』の価値と力」
は面白い の 二 須山敦行
◎ 《 未来を切り開く思想は? 》
結論から言うと、未来を切り拓く思想は、マルクス主義、社会主義思想ではない、と言っているのだ。
筆者は言う。
「思想」とは、実践から生まれ、またその「思想」によって高められるという関係が大切だ、と。
社会主義思想の中心のマルクス主義が「批判思想」にとどまらず、「体系思想」であったために、もたらしてしまった「幻影」の作用について述べている。
マルクス主義が、思想体系に基づいて実践が成立するかのごとき幻影を、人間に植えつけてしまった。(ある思想に従って、)理念的な社会の構築が出来るという幻影を。
それゆえに、現代のような、未来を指し示す思想がみつからない時代に、かえって絶望感をもたらしてしまうことになるのだと。
一度社会主義思想を手にしたことによって、未来もまたひとつの思想体系によって提示できるという幻想が残った。(そこで、挫折した「社会主義者」は絶望し、多くの人も絶望感の虜になる。)
しかし、それは、それによる絶望感は、社会主義思想がつくりだした幻影である。
よく考えてみれば、
ひとつの思想体系が未来をつくりだした歴史など存在しないのである。
筆者は続ける。
しかし、
今日、新しい社会のあり方を模索し、実践している人たちの思想はそのようなものではない。と。
その人々は、
戦後的惰性に従わない生き方を確立しようとして行動し、
その行動を支える思想を実践をとおしてつくりだしているのである。と。
(筆者がいう、この人たちとは、
「戦後の超克を内包するローカリズム」と呼ぶことのできる新しい人々で、彼らは
・自然と交流しながら生きることができること
・農民にならなくても農的部分を取り込んだ暮らしが可能なこと
・手作りの生活が拡大できること
・暮らしと地域文化が一体になっていること
・他者を支え、他者に支えられる暮らし
・市場経済に完全には支配されないことが生み出す余裕
・時間に管理されない生き方 などを、示している。)
筆者が言う、「戦後的惰性」というのは、「経済成長」を価値とする「資本主義」の中で、個人の利益を確保しようとする、保身的な、「個人主義」のことである。
戦前も戦後も、その保身的な「個人主義」についての、「反省」がなされていない、という問題が根本的な問題だと言っている。
それに対置しているのが、自然や住民やその他、他者の存在との主体的な関わりを構築しようとする人間のことで、「公」との関係を正面から捉えられる人間のことである。
「利潤」のために、「人間」を破壊する、「自然」「地球」を破壊する、資本主義との対決をする人間でもある。
「社会主義」という「理念」から出発するのでなく、目の前の「他」との関係から、実践的に関わる中から、それに対抗する、新しいものを作って行こうとし、それは、「思想」を育むことになる。
ある意味、それは、「思想」(もしかしたら「社会主義」)への入り口である。
しかし、
思想体系たる「マルクス主義」を信奉する者も、その他の「社会主義者」も、何らかの実践的な課題を入り口として、やがてそこへ辿りついたというものであろう。実際、彼らは「無党派」、「市民派」に決して劣ることのない、実践的な目前の課題への鋭い挑戦者たちである。
とすれば、(筆者があえて分けようとしている)両者は、そんなに違わない存在だとも言える。
とても近い、あるいは、或る者にとっては、一人の中に両者がいるようなものでもあるだろう。
それは、ことさらに、違いを強調するべきではないとも言える。
より根本的に対立しているのは、本質的には、「御身大切(自分さえ)」と「みんなのために(他者を認める)」みたいなことである。
だから、「社会主義者という理念的な存在」と「実践から出発する主体的な存在」という二種類の人間がいるのではなく、「理念的なアプローチ(観念的なアプローチ)」と「実践的なアプローチ(現実的なアプローチ)」があるということなのかもしれない。
そのように、二種類の人間を、同一性を持った者として見る方が、将来への展望を拓きやすいという気もする。
大まかに言い換えると、「共産党」と「市民運動」みたいなことである。
共産党は最近とみに、労働運動に限らず、住民運動、市民運動に熱心であり、市民運動との共同を深めている。
確かに、時に、市民運動を「敵視」することがある。理由は、市民運動の反共攻撃への対抗であったり、自らの優位性を言いたいような対抗意識だったりする(ずっと迫害に耐えて頑張って来たからな。それでも褒められずに)。
市民運動も、反共を乗り越える傾向にある。反共を抜け出せないこともある。理由は、共産党の自己絶対化や独善性への嫌悪である。前衛党という指導者らしい自己認識に耐えられないということもある。宗教的で、考えないで上部に従っている主体性の無さに対する軽蔑もある。社会主義を名乗る外国の、あまりにみじめな姿への嫌悪感が、ダブルイメージになる要素もあるだろう。
しかし、市民運動も、「資本主義の反人間的な暴圧」に対して、「保身的個人主義」を超えた人間存在の可能な社会を生み出そうとしているのだから、未来社会を描こうとする指向性を持っている。それをそのまま未来社会を描くところまで行ってしまっているのが、「社会主義者」だ。
また、共産党員でも、日本共産党でも、マルクス主義学者でも、「未来社会」の姿をどれだけ明確に描き得ているかというと、そのイメージはあいまいではっきりしない。そこは、実際はよく読んでもいないマルクスに任せているような具合だと思う。将来の人間が決める、というようなスタンスなのではないか。
そういう意味では、共産党も市民運動も、同じように、未来社会は、未解決の大事な課題として持っている、というところなのだ。
私の結論は、共産党と市民運動の連帯だ。政治的には、共産党とリベラル勢力との連帯だ。そのお互いのやっていることにたいする敬意に基づいた連帯だ。それは、今のご都合主義で言うことではなく、ずっと永遠に近く、次々と現れ無限に存在する他者との接し方だろう。他者への敬意に基づく連帯は、未来社会が必ず内包する重要な要素だろう。
そして、安倍自民党に、あれだけの票が集まるというのが、今の日本の現実だ。
それは、内山氏が言うように、成長する資本主義の中で、保身を第一義に生きようとする、みすぼらしい「個人主義」が、人々を捉えているからで、現実の日本は、そういう人々が多数の社会なのだ。
そして、利潤率の低下から逃れられない資本主義は行き詰まり、人々は、何やら新しい地平へこぎ出しそうな気配でもある。それは、反原発の市民運動であり、内山氏のよく見ている地域づくりの動きなどである。
大きくは、脱成長、脱グローバリズム、そして脱資本主義である。
その道は、はっきりしてきているような気もする。まだまだ見えない気もする。
『世界』を読むのは、その道をもっとはっきり見たい、という思いから、人々が言っていることを知りたいのだ。
私は、結構、そういうことに餓えている。