食事はつくって待っていてくれるからと、そそくさと帰ろうとするとうらやましがられていた。
まともに調理して食べ続けるのは、何十年ぶりになるだろう。
食べる事は、生きることの基本で、と学生に教えている以上は、
雑にしてはいけない!と日々実践している。
しかし、毎日毎日続けても、成果にはならない。
食事を作り続ける原動力となっているのは
仏様への日々のお供え。
自分の空腹を満たすためだけだったとしたら、
食事を作り続けるか?あやうい。
人が生き続ける行為は、大変なことである!
と実感させられている食事作りの毎日。
台所は仕事場であると再認識中。
備品を把握し、動線を確立するのに1ヶ月以上を要し、
在庫管理、調整はまだまだ道半ば。
片隅を拝借して、エビデンス的な調理が
すべての場所を使えて出来る快感も味わっている。
秋の実りを実感できる植物はないので
来春に思いを馳せている。
ふきのとう、ふきの煮物。
夏の庭のうっそうとした景観をすっきりさせるためにも、こごみを天ぷらにして
ギボシはうるいとおなじなので、若芽をおひたしに
カラスノエンドウも、てんぷらに。
四六時中、病院に拘束されていた奴隷状態からの解放感も味わいながら
身近な植物を利用した生活を実践出来そう。
夏は、蚊に刺されながらも、お裾分け出来る程の茗荷を収穫。
招福楼で出された美しい紅色をした茗荷料理にも挑戦。
食事を作るというのは、
季節の変化にも対応して、材料を調達、保存しなければいけない。
廃棄を出さない工夫も、大事な経営感覚。
同じと言うことはない変化への対応能力が要求される知的で、
また、美意識も要求される高度な仕事を再認識中。