夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

水琴窟、能舞台 (プリ)バロックのホール そして夜噺

2005年07月11日 09時07分19秒 | 芸術・文化
07/11/2005 10:58:56 
この間のプリバロック用のホールを欲しいと書いた後で、そのことで音楽家と話をするチャンスがあったけど、この人何も分かってなかった。ピアノ奏者なので、ピアノ曲はバロック以降のものが多いし、あまりホールのことを気にするようなことはなかったのかもしれないけど、同じ演奏家でも例えばフルート奏者などは反響があって何ぼのもの。ホールの残響にはかなり気を使う。
だから最近は木のホールなどがたくさん作られているのだけど、結構音楽家ってその辺無頓着なんだなって、がっかりした。

水が滴り落ちている。それが何もない空間の石の上に落ちているだけだら、ピタピタという音だけでおわり、何の情緒もない風景。でもそれが水琴窟のような囲まれた空間に落ちると、その空間の持つスペースの広さによって、音の成分の聞こえ方が違ってくるし、周りに反響して残響も生まれてくる。それによって聞くほうは、音に色を感じたり、雰囲気を感じたりして楽しむ部分が出てくるのだけど。
能の舞台の下に甕を埋め込むことも同じ原理。舞台をトンと足で踏んだときの音色と残響が全く違ってくる。これがピタピタ、コトコトだけしかしなかったら、役者も観客もしらけてしまうだろうと思うけど。

特にプリバロックの音楽は石造りの空間で演奏されていることが多く、そのためにあの通奏低音とその連綿とした流れの中に、オブリガートのメロディが響き渡る。これが醍醐味なんだと思う。
音楽専用のホールが生まれ、バロック以降の和声の進行の考えが生まれてくると、ホールの設計ピッチも上がってくるし、(ということは昔の音楽はもっと中音以下が豊かに聞こえていたわけ)この残響は全く邪魔なものでしかなくなるわけ。それはそれですばらしい進歩だと思うけど、でもプリバロックの音が全く聞けなくなるというのもまたちょっと寂しいよね。

それにしても、バロックの音楽もまた無視されている。あの「マンハイムのため息」をきちんときけるようなホールは少ない。確かに小ホールはたくさんあるけど、アクースティックが対応していないところが殆ど。こんだけホールがあるんだから一つくらいって、これにも当てはまることかもしれない。

オリジナルを大切にするということは、それを知らなければできないことだけど、それを知る場すらないのが現状なのかな。これは日本のいろんな伝統や文化についても言えるかもしれない。
夜噺のあの和蝋燭の光の下での怪しげな雰囲気は、いくら光量を落としても電気の照明では味わえない。夜噺では色の付いた花を使わない。蝋燭のもとでは色がにごったり、見えないから。それも今は明るい部屋で出来ますからって、色花を生けることも当たり前になってきてるようだけど、ならこれは夜にやるお茶であって、夜噺ではないって言うと、あいつは煩いからって嫌がられる。

茶道具を美術品として鑑賞するのはいいけど、でもそれらは本来的には道具なんですよね。
本来の価値を見て、その上で美術品としての価値も見る。それが博物館に入ってしまえば美術品としての価値でしか判断できなくなる。それは本来的な価値ではないと思うけど。

とは言いながら、では日本刀を道具としてみるために人を切るのって聞かれると、答えに困るけど。