夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

なんなのかな~

2010年09月04日 23時48分22秒 |  求める魂と与える心


人から「ペットを飼うなら、一番してはいけないこと、、、
それはペットより先に死んではいけないってことだ」
って、注意されました。
「彼らは、貴方が死んだってことが分からないのだから、放り出されたって思われても仕方がない。
ペットにとっては貴方は全て、宇宙にも相当するような存在。それがなくなるということはペットにとって裏切りにも等しいこと」

私はこのブログのコメントに対する返事などで、ペットを飼うということは彼らを看取ることって何度か書いていますけど、その方のご注意とはちょっと違うけど、でも意味していることは重なっているところもあるのかなって思います。

今日の多摩川の散歩でも、16歳という柴ちゃんに会いました。
大病をしてから足腰が弱くなり、目も悪くなってしまったけど、内臓はまだ丈夫なので、引っ張ってでも散歩をさせてください。そうでないと、全身が衰弱してしまうからと獣医さんに言われて毎日散歩をさせているのだそうです。
病気をする前は、チビ太のように元気溌剌としていたのだけどって、チビ太の姿見ながらため息をついていました。

多摩川の私の散歩コースには、毎日何百という犬が散歩に出てきています。
よろよろと散歩をしているコリーや、ゴールデンレトリバー。お母さんの腕の中で散歩をしている、ミニチュアダックスフント。。。
その中には、もう歩くことも出来なくなった老犬が乳母車に乗せられてやってきて、芝の上にバスタオルを引いてもらって、冬は毛布をかけてもらって日光浴をしている犬がおりました。「この子は外にでるのが大好きだったので、最後は好きなことをやってあげたいから」ってその犬を連れている老婦人は話しておられました。(この子の話は一度書いたことがあったように記憶しています)
みんな、その子たちから受けた暖かい、楽しい思い出をとても大切に思い、家族として接しているのですね。


私はどうしても、ペットは先に死ぬって前提で考えてしまう。
その最期を看取ることは飼い主としての責任、ペットを飼うってことは最初にその覚悟をする必要があるんだってね。
もちろん、嫌々の責任感とか、義務感とかってことではなくって、自然に、あたり前にそれができることが前提ですね。
でも逆に、チビ太が老犬になって、そのころに私が死んでしまったら、チビ太はどうして生きていくのかな? 昔はそんなことは思いもしませんでしたけど、今は、そんな風に思ってしまったりします。



いすみ市の隣町に、老夫妻が住んでおりました。
あるときから、その庭に子猫が入り込み、しばらくしたら家の中に入ってくるようになりました。
旦那さんは追い出そうとしたのですけど、奥さんが可哀想だからというので飼うことになったそうです。
旦那さんが猫を嫌いだったのかどうかは分かりません。
というのは奥さんは声楽を勉強した方。
その方が喘息を患い、ステージを諦めたのです。
もしかしたら、旦那さんは奥さんの体が心配だったのかもしれません。
なぜって数週間もしないうちに、旦那さんもその子猫にメロメロになってしまったのですから。

その猫は愛情をたっぷりと注がれ、野良猫だった過去はまったく忘れ去ったみたいに、この家で生まれた王女さまのように振る舞っていたそうです。

ある日、知人がその家を訪ねました。
その猫が、奥さんが一番大切にしていたグランドピアノの上に寝ているのを見て、叱りましたら、奥さんに「どうして叱るのよ、可哀想でしょう」って言われて吃驚したって話しておりました。
ピアノの上は猫ちゃんのお気に入りの場所になっていたのです。

数年前に旦那さんが亡くなりました。
そして今年の初めに猫が死にました。
奥さんは病床にいてそのことを知らないままに三日後になくなったそうです。

なんだか、猫だったり、犬だったり、妙にこんな話をたくさん聞くんです。
なぜでしょうね。