近年、この時期になるとうれしいニュースが次々と入ってくる。ノーベル賞の日本人受賞ニュースである。戦後間もなく湯川博士が物理学賞を受賞した時には、何かまったく別の世界の出来事のように感じたことを思い出す。中間子理論なるものがそもそも別の世界であったし、その後も、忘れたころに受賞者が出て、特殊な人がもらう特殊な世界のように思えていた。
ところが近年、今年は誰であろうか、と受賞者が出て当たり前のような雰囲気になってきた。村上春樹の文学賞に至っては、「もらって当然」と信じる人たちが集まりあって「その瞬間」を待っているということだ。しかも、受賞内容が、LEDにかかわることや身近な医療に関連するなど、ノーベル賞が何か身近なものになってきた。
今年も生理学・医学賞で大村智・北里大特別栄誉教授(80)、物理学賞で梶田隆章・東京大学宇宙線研究所長(56)の二人が受賞した。これまた、梶田所長のニュートリノはまだしも(これとて小柴受賞やカミオカンテでなじみ深いものになっていたが)、大村教授の受賞内容に至っては、ゴルフ場の土から採取した細菌から寄生虫撲滅薬を作ったという話だから、全く身近な話だ。しかもそれが、寄生虫に悩むアフリカ人など何億人もの命を救っているという。先年の山中教授の時も感じたが、庶民にとっては「これぞノーベル賞!」という感じだ。
それにつけても、受賞者のすぐれた人格、豊かな人間性は驚くばかりだ。その謙虚な発言を聞きながら、「偉い人ほど威張らないのだ。力のない奴ほど力を示そうとして威張るのだ」と娘と話し合った。真似をしてできるようなものではない。
ところで、最近の日本人受賞者の増加は何を意味しているのだろうか。ほとんどの業績が3、40年ぐらい前からのものらしい。ちょうど高度成長のころ、未来に向けた様々な研究がはじめられていたのであろう。高度成長期は様々な問題も残したが、日本人がひたすら前を向いて頑張りぬいた時期でもあった。それらの研究が今花咲いてきたのであろう。
日本は爛熟期に入ってきたと言われている。爛熟の花が今や咲いてきたのであろう。心配なのはこの先だ。あの戦後復興、高度成長期のような頑張りぬくエネルギーを、今後も生み出していけるのであろうか? もちろん、全く新しい形の研究、取り組み姿勢を、今の若者は生み出してるのであろうが……。