県議団の「集団自決」現地聞き取り調査は、
議員団にとって思わぬ展開となってきた。
最重要証言者の金城武徳さん(76)の証言が「不都合な真実」だったからだ。
これは今までの「政治的活動」を否定する「不都合な証言」だ。
沖縄戦の「不都合な真実」
マスコミは必死になって「真実」を隠して報道したが、苦し紛れに
証言者というより、「利害関係者」の姉妹を証言者として引っ張りだすことに成功したようだ。
最近の地元新聞の異常な騒ぎ様を見ていると、事情を知るものには何かにあせっているとしか思えない。
次々とあやふやな生き残り体験談を報じている。
<生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。
たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。
激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。> (秦郁彦氏ー現代史学者)
食料不足で餓死するものもいた当時、おむすびに毒をまぶす罰当たりがいたとは信じがたい。
飽食の現代と違って米の飯は滅多に口に出来ないご馳走だった。
誰でも彼でも証言すれば良いって訳では無いだろう。
それとも、
「証言も皆ですれば怖くない」ってか。
*
元助役の妹が軍命証言 座間味「集団自決」 (7/7 9:47)
文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制などの記述が削除・修正された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午後、座間味島を訪れた。「集団自決」の生存者や遺族らの聞き取りでは、当時助役だった兄の宮里盛秀さんを「集団自決」で失った宮平春子さん(80)が、兄の言葉として「集団自決」をするよう軍命があったことを証言した。 一行は、村長と助役、収入役ほか役場職員とその家族らが「集団自決」した産業組合壕跡や「集団自決」で犠牲になった402人を含む戦死者1220人を合祀(ごうし)した平和の塔などを回った。
座間味コミュニティーセンターでは「集団自決」の生存者6人が集まり自らの体験を証言し、戦争の悲惨さを訴えた。
視察を終えた前島委員長は「生の声を聞き(「集団自決」の軍関与があったと)確証を得た。文科省と闘う力を得た。事実を後世に伝える責任があり、教科書の記述回復が実現するまで頑張る決意を強くした」と話した。
仲里利信議長も「皆さんの気持ちを県議会がくみ取って教科書検定意見を削除させていきたい」と話した。
(7/7 9:47)
◇
>当時助役だった兄の宮里盛秀さんを「集団自決」で失った宮平春子さん(80)が、兄の言葉として「集団自決」をするよう軍命があったことを証言した。
「集団自決」の関係者に名前を変えた人が多いので、はじめてこの問題に接する人には分かりにくい。
そもそも、全ての発端となった『鉄の暴風』の著者も初版出版当時の伊佐から太田に改姓している。
又渡嘉敷島の重要証言者安里巡査も比嘉嘉順と改名している。
上記の「当時助役だった兄の宮里盛秀さん」も宮村盛秀と改姓しているが、当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、本人が自決命令を出したとされている。
同じ記事を沖縄タイムスで見ると証言者として、自決命令を出したとされる宮村(宮里)盛秀さんのもう一人の妹宮村トキさんも証言している。
< 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。
座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。
集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。
その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。>
「軍命令説」を定着させたのは、宮村盛秀氏の弟の宮村幸延氏であり、今回証言した宮平春子さん(80)宮村トキ子さん(75)はその妹である。
座間味村役場の援護係だった宮村幸延氏が昭和62年に、集団自決は当時の村役場助役(宮平春子さんの兄・盛秀)の命令だったが、
遺族補償のため梅沢守備隊長の命令として申請した事情を記して、梅沢氏へ渡した「詫び状」を提出した。
その辺の経緯を現代史家・秦郁彦氏は次のように述べている。
<座間味村役場の援護係だった宮村幸延氏が昭和62年に、集団自決は当時の村役場助役の命令だったが、遺族補償のため梅沢守備隊長の命令として申請した事情を記して、梅沢氏へ渡した「詫び状」を提出した。梅沢氏の無実を証する決定的証拠といえるもので、文科省の検定でも援用された。>(産経新聞 平成19年4月14日)
その「侘び状」は「母の遺したもの」によると次のとおり。(重要証言者は伏字になっている)
昭和20年3月26日よりの集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく、助役宮○盛秀(宮村盛秀・引用者注)の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。
昭和62年3月28日
元座間味役場 事務総長 M・Y(宮村幸延・引用者注)
梅沢裕 殿
役場の「事務局長」というのは、村議会の事務局長のことである。「元」ではなく、現職の事務局長であった。亡くなった助役の苗字も、遺族の戦後改姓の「宮村」になっている。
<「母の遺したもの」には次のようなくだりがある。
<それから(詫び状を書いた日から)20日ほど経った4月18日の『神戸新聞』に、「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」「遺族補償得るため“隊長令”に」という大見出しで報道され、さらに4月23日の『東京新聞』夕刊にも同じ内容の記事が掲載された。このなかでは、「Aさん」(M・Y氏)は『集団自決は、部隊長(梅澤氏)の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。これを弟の私は、遺族補償のため、やむを得ず隊長命として(補償を)申請した』との親書を梅澤さんに寄せた」とある>
だが、係争中の裁判で被告側は宮村幸延氏(故人)の「証言」を翻す。
<「隊長命令説は遺族等援護法の適用を受けるためにやむを得ず作り出されたもの」と書き綴った『証言』と題する書面は、幸延氏が作成したものではない>
<宮村幸延氏は「侘び状」を作成した記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べているほか、仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられた同氏が、梅澤から「妻子に肩身の狭い思いをさせたくない、家族だけに見せるもので絶対公開しないから」と言われ、何の証拠にもならないことを申し添えた上で作成したもの>
・・・幸延氏が泡盛を飲まされ、泥酔状態で書かされた可能性があるなどと主張している。
この泥酔説に原告(梅沢)側は次のように反論している。
<『証言』と題する書面は、その際、幸延氏自身が、一言々々慎重に言葉を選びながら作成したものです。決して被告がいうようなものではありません。そのことを裏付ける証拠が書面自体の中にもあります。書面の末尾には「梅澤裕殿」との宛名があり、そのうち「裕」の字が明らかに誤っています。梅澤さんが自らの字を誤って書く筈などありません。また、書面の筆跡は極めてしっかりとしています。幸延氏が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じる筈です。これらの点を、被告らはどのように考えているのでしょうか。>
<そればかりではありません。幸延氏は、その後、神戸新聞社の取材に対しても、同様に、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ず、『歴史を拡大解釈』してつくったものだと答えています。ところが、被告は、なんと神戸新聞の記事は、幸延氏に対する取材のないまま造られた捏造記事だと主張しています。これに対しては、この記事を書いた神戸新聞の中井元記者から、数回にわたり取材を行ったことを証明する陳述書が提出されました。最早、その証言の信用性を疑う余地は全くありません。>
★宮平春子さん(80)と宮村トキ子さん(75)姉妹に「証言者」としての資格があるのか。
①両姉妹の兄・宮村盛秀氏は当時、助役兼防衛隊長をしており、事実上集団自決は、部隊長(梅澤氏)の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役・盛秀氏の命令で行われた。
②戦後、これを同村の援護課職員だった盛秀氏の弟・宮村幸延氏が、遺族補償のため、やむを得ず隊長命として(補償を)申請した。
③「梅沢悪鬼説」が流布するのは自分の責任と感じた宮村幸延氏は梅沢氏に謝罪して「侘び状」も出した。
④その後、被告側は「泥酔説」で上記謝罪をひるがえし、記憶が無いとする。
このように兄二人が「事件」の当事者としてその「証言」が二転三転する中、しかもマスコミが「軍命令あり」の大キャンペーンをする中で、冷静な「証言」が出来るだろうか。
兄・盛秀氏は「集団自決」の命令を出したと言われる人物。
もう一人の兄・幸延氏は援護課職員として遺族補償のため、軍命令を主張した人物。
その妹二人が「軍の命令だった」と証言するのは予見できること。
それに、今回始めての証言というが、次の理由だけではにわかには信じがたい。
「沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。」(沖縄タイムス)
数少ない生き残りの証言を村史に記すのに同島に在住しなくとも証言できたはずだし、これまでも何度も証言の機会はあったはずだ。
◇
「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言 (7/7 10:15)
「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。
米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。
びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。
春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。
盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。
集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。
組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。
教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。
(7/7 10:15)
◇
>「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」
敵に包囲されて迫撃砲を受けている状態も考えて、当時の日本人ならこのような心境になってもおかしくは無いと思う。
これを全て現地の守備隊長の責任にして「軍の命令で自決した」というのは無理がある。
>あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい
>教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。
宮平さん、記者の誘導尋問で
「『集団自決』そのものが教科書から消された」
とでも思っているのでは。
少なくとも筆者には取れるのだが・・・。
沖縄タイムス 2007年7月6日
「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言