記者の余録
「県民感情への配慮」とは (6/24 10:05)
最近どうも引っ掛かる言葉がある。「県民感情に配慮する」という、政府との関係でよく耳にするフレーズだ。
高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」について、日本軍関与の有無を断定的に記述しないよう検定意見が付された。
1982年の検定意見でいったんは消された「住民虐殺」の記述が、後に復活したことがある。これについて文部科学省は13日、県関係者に「当時は県民感情に配慮した」と説明した。何となくありがたく感じる。つい「じゃあ今回も」と同じ基準を求めそうになる。実際、抗議行動や撤回要請の中でそんなやりとりが出ることもある。
だがよく考えてみる。「配慮」なのだろうか。
沖縄県民であれば必ず、近親に戦死者あるいは体験者がいる。戦争の傷跡がいまだ色濃く残る地で、人々が今回の検定に憤り、撤回を求めるのはまっとうな主張だと思う。求めているのは「配慮」ではなく、「事実」の記述にほかならない。(略)
(与那嶺路代、東京報道部) (琉球新報 /24 10:05)
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>1982年の検定意見でいったんは消された「住民虐殺」の記述が、後に復活したことがある。
高嶋欣也琉球大学教授が、「教科書検定意見書は撤回できる」と自信満々に叫ぶ根拠はこの先例による。
高嶋教授といえば、国立大学教授という肩書きながら、歴史の事実検証にはそっぽを向き、専ら「市民運動」を煽動することをその職務と勘違いしている市民運動男。
沖縄戦について語るとき、必ずついてくる枕詞がある。
「日本唯一の地上戦を経験した・・・」
「戦後も75%の米軍基地が集中する・・・」
そして、この「県民感情を配慮して・・・」。
これらの枕詞無しに沖縄戦の議論が始まると定番の恨み節が乱れ飛んでくる。
「本土防衛の捨石にされた・・・」
「県民感情を踏みにじる・・・」
そして「県民をバカにしている」と来る。
もうそろそ、沖縄戦を感情論を抜きにして冷静に論議・検証する場があってもおかしくない。
それは専門家・歴史化の仕事だと思うが、沖縄の専門家は歴史家というより市民運動が本業としか思えない。
>これについて文部科学省は13日、県関係者に「当時は県民感情に配慮した」と説明した。
そう、1982年といえば四分の一世紀前のこと。
当時は文部省も事実の検証と言うより、「県民感情」に押し流されたというのが本音だったのだろう。
しかし、もう既に戦後62年。
「県民感情抜き」で冷静に歴史の検証をしなければならぬ時期に来ている。
さもなくば、必ず将来に大きな禍根を残すことになる。
>つい「じゃあ今回も」と同じ基準を求めそうになる。実際、抗議行動や撤回要請の中でそんなやりとりが出ることもある。
語るに落ちたとはこのことだろう。
抗議行動や撤回要請をした運動家の本音はそんなところだったのでしょう。
<事実はどうでも、県民感情を配慮して撤回して欲しい>、これが本音。
62年前の文部省に代わって、今度は沖縄の運動家達が“感情”に訴えている。
全会一致で「撤回要請」を議決したという県議団の先生方も、議決した後になって現地聞き取り調査に行った。
この事実だけでも彼等が歴史を検証によらず“感情”で決めていることが分る。
また、その聞き取り調査事態も、
「もう決まったことだから、早く片付けよう」
と先に結論ありきの発言をする議員もいたという。
まことに噴飯モノの「県議会決議」であり「現地調査」であった。