狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

聖母マリアが便器とは  胡錦濤・便器の方が安心できる

2007-07-17 11:57:56 | 県知事選

中国に巨大公衆トイレ 聖母マリアの便器などずらり| 中国・台湾|国際|Sankei WEB

 Chn0707150001中国南西部の重慶市に1000以上の便器が並ぶ4階建ての巨大公衆トイレがお目見えした。

 3000平方メートル以上の広大な敷地に建てられたトイレの外観は古代エジプト風で、中には口を広げたワニや聖母マリアをかたどった便器がずらり。穏やかな音楽が流れる中、無料で用を足せるという。

 同市は「世界最大の公衆トイレ」としてギネスブックへの申請を準備中だ。(AP)

(2007/07/15 15:46) 産経新聞

 

                     ◇

中国人は同じ漢字を使うアジア人だから、西洋人より理解しやすい、という日本人の考えは大きな間違いだ。

これを当日記は過去にずっと主張してきた。

それよりも何よりも。かの福沢諭吉先生は1世紀以上も前に既にこれを看破していた。

 

友人の一人が奥様と一緒に中国旅行をしたが、一番困ったのは公衆トイレだという。

仕切りも何もない皆で並んで用たすトイレでは男でも出るモノも出ないだろう。

ましてや女性では。

奥様は今度誘われても中国へはタダでも行かないと言っていた。

トイレに関する感覚も中国人と日本人は違うようだ。

北京オリンピックを前にして、公衆トイレを整備するなら、仕切りと、ドアの付いた個室を造れば済むはずだ。

中国人は自慢げにギネス云々するが、キリスト教徒でなくても、日本人なら聖母マリアに小便を引っ掛ける気にはなれない。

日本人は蛙に小便でもオチ○○ンが曲がると教わった。

それが相手が聖母マリア様では

バチが当たって腫れ上がってしまう。

どうせそこまでやるなら、胡錦濤が大口開けた便器の方が面白かった。  

勿論、標的は口の中。

江沢民、毛沢東で三人セットも面白い。

 

【追記】

台湾籍ながら立派な日本人の王貞治監督は、自分の顔を便器にしたテレビのクダラナイ企画をを許さなかったね。http://mnews.news2ch.net/read.php/1061072683/

 

 

関連エントリー:

トイレの川柳

ヤケクソ

コメント

ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言

2007-07-17 07:47:09 | 歴史

「久間発言」があぶりだす結果となった知られざる日本の現代史。

原爆投下と米ソの確執に関する興味深い記事を、愛読するメルマガの丸ごと引用で紹介します。

                     ◇

 

◆■■■■国際派時事コラム「商社マンに技あり!」■■■■◆
            http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/


       昭和20年、北海道の命運をきめたもの

■■■■■第201号■■平成19年7月17日発行■■■■◆

 


 久間章生(きゅうま・ふみお)前防衛大臣の原爆発言に関連し
て、昭和20年夏の北海道を論じた名コラムがあるのでご紹介する。

 静岡県立大学国際関係学部教授の大礒正美さん。
 
 辛口コラム集
『大礒正美の よむ地球きる世界 <日本はどうなる編>』
はコラム子も企画に加わったおすすめの本なので、この夏の緑陰
の友としてぜひどうぞ↓

(出版社のホームページ)
http://homepage2.nifty.com/sai/mart/


 きょうの配信の後半は、これに関連するコラム子の一文。
 大礒コラムとあわせてお読みください。

 

◆◆ 平成19年7月1日 ◆◆

    ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言

          ◆◆ 大礒正美(おおいそ・まさみ)◆◆        


 久間章生防衛相が6月30日、終戦時の原爆投下に関して不正
確な発言をし、また余計な反響を拡げている。

 久間氏はいわゆる防衛族議員であり、2度目の防衛庁長官から
省に昇格した防衛省の初代大臣に継続就任した専門家である。

 その人でさえ事実関係がよくわかっていないようなので、ここ
では発言の意図などを論じることなく、事実だけを3点、指摘し
ておくことにする。


 第1に、米首脳の原爆使用の意図が何であれ、それがソ連の対
日参戦を防ぐことには繋がらなかった。

 ソ連の中立条約破棄(対日宣戦布告)は、ヒロシマとナガサキ
の中間に、急いで実行されている。

 すなわち

1945年7月26日 ポツダム宣言(ソ連抜き)、
8月6日 広島原爆投下、
8月8日 ソ連の対日参戦、
8月9日 長崎原爆投下、
8月14日 ポツダム宣言受諾と続いて、

8月15日に天皇の終戦宣言で戦争は終わったことになっている。

 これだけ見ても、原爆使用はソ連の対日攻撃を阻止するどころ
か、むしろ準備万端直前のスターリンを激怒させ、ためらうこと
なく開戦に踏み切らせたことが窺(うかが)える。

 ポツダム会談中の7月24日に、スターリンはトルーマンから
原爆実験成功を知らされたあと、宣言(米英中)からも外された。

 この二重の恨みが、かねてからの北海道占領の意志を固めさせ
たのだろうと推測される。


 第2の事実は、米軍が8月15日正午をもって戦闘を終結した
のに対し、ソ連は同18日に

「9月1日までに北海道の北半分(留萌市と釧路市を結ぶ線から
北)とクリル(千島)列島南部を占領する」

よう命令を発していることである。 

 これは、8月16日にスターリンがトルーマンに対し

「千島列島と北海道の北半分を占領したい」

と要求し、厳しくハネつけられたことへのお返しであった。

 すなわち、ソ連の北海道占領要求は8月15日の終戦の翌日で
あって、その要求が原爆使用によって阻止されたわけではない。

 久間防衛相がそういうように誤解しているとすれば、訂正して
おかなければならない。

 
 第3の事実は、ソ連軍の北海道上陸作戦は実行に移され、実戦
部隊を乗せた艦船が留萌(るもい)の沖合にまで迫ったことであ
る。

 国際政治学者の舛添要一参院議員は久間発言にコメントして、

「ソ連軍が北海道を確実に占領したかは分からず、間違った歴史
解釈だ」

と批判したが(東京新聞、7/1)、そんな曖昧な事態だったのでは
ない。

 実際に、ソ連軍の上陸が目前に迫っていたのであって、
もしスターリンの気が変わらなかったら、即応する米軍はいなか
ったのだから、どうすることもできなかったはずである。


 しかし、何ごとかが起きて、上陸寸前のソ連軍は8月22日、
突然、転進命令を受け、23日未明までに全部隊が北海道の北を
回って南千島の占領に向かった。

 そして同じ23日、ポツダム宣言で日本帰還を約束されていた
満州の日本軍捕虜60万以上を、シベリアに移送して労働に使役
する命令が発せられた。

 この2つの方針転換が相関していることは疑うべくもない。


 スターリンを土壇場で変心させた決定的要因は何だったのか、
未だに謎のままである。

 一旦はトルーマンの拒絶を無視したほど強気だったスターリン
(「鉄の男」というあだ名の持ち主)が、北海道を断念する代償
として日本軍捕虜の使役で満足したのだろうか?

 「北半分」といっても天然の境界はない。

 スターリンの本音は北海道の全部であり、その野心を実現した
暁には、北海道の住民を全部シベリアに拉致し、代わりにロシア
人を大量に移住させるつもりだったに違いない。

 それが、ロシア的思考というものである。

 ソ連の対日軍事行動は、結局9月5日まで続けられ、北海道の
属島である(千島列島に含まれない)色丹島、歯舞諸島まで占領
して、ようやく終わった。 

(Copyright 大礒正美 2007)◆


===


 昭和20年8月22日、北海道に上陸せんばかりのソ連軍が、
南千島へ転進したウラには、米国とソ連のあいだに取引があった
はずで、その辺が「謎」ということなのだが、

 やはり無視してならないのは千島列島を防衛した日本軍の獅子
奮迅の活躍ぶりだろう。

 これこそ映画にしたら列島の数千万人が涙する。
 ほんとうの意味の祖国防衛戦。

 8月18日から22日まで日本軍第六方面軍が北千島でソ連軍
と戦い、戦闘では勝ち続けた。
 満洲の関東軍とは大違いだったのだ。

 北千島でのソ連軍の苦戦、というか、予想外の大敗北がモスク
ワに伝えられて、

 「これではそう簡単に北海道はかすめ取れぬかもしれぬ……」

と気持ちが揺らいだスターリンが、米国との正面対決を回避し、
安全パイをねらって「千島列島確保」と「関東軍捕虜抑留」へと
軸足を移した、と考えるのが素直だろう。

 7年ちかく前、ホームページを開設してすぐに書いたコラムを
ご紹介したい。

 

◆◆ 平成12年10月9日 ◆◆

        北 千 島 の 第 六 方 面 軍

                   ◆◆ 泉 幸男 ◆◆


 日本にとっての第2次世界大戦は、昭和20年8月15日に終
わったと思われている。終戦の詔書(しょうしょ)が発せられた
日、だからである。

 あの混乱の時期に、詔書を占領地の隅々にまで徹底させたのは、
みごとというしかない。

 しかし、「8月15日」に幻惑されて、その後に始まった本当
の意味の「祖国防衛戦争」を忘れてはいけないと思う。

 8月18日から22日まで北千島で続いた戦争がこれだ。


 北海道占領を目指して、ソ連軍が千島列島の北の端から攻めて
きた。8月18日午前1時半のこと。

 そのあとどうなったかは、
佐治芳彦著『現代史への挑戦』(平成9年、KKベストセラーズ刊)
に詳しい。

 「なにが日本を分割の悪夢から救ったのか」(45~55ページ)に、
淡々と書いてある。


 第一報を札幌で受けるや、「自衛戦闘」を指示した樋口季一郎
(ひぐち・きいちろう)中将。

 これに応えて、ソ連軍に猛烈な逆襲を繰り出した池田戦車連隊。

 この戦車隊は、当時の精鋭部隊だったそうで、よくもまあ、昭
和20年8月に虎の子を残しておいてくれたものだ。


 戦車隊の戦闘は、大勝利だったのである。

 
 この守備隊が頑張って時間稼ぎをしてくれたおかげで、北海道
本島の占領は辛くも免れた、というべきだろう。

 さもなくば、どうなっていたことか。


 北海道はさしずめ「アイヌ社会主義共和国」とでも名を変えて、
ソ連の傀儡(かいらい)政権が支配したことであろう。

 青森県は日米の軍事基地で埋め尽くされたであろう。

 …と想像をたくましうすればキリがないが、この大変な国民的
英雄のはずの樋口中将や池田連隊長のことを、佐治氏の著を読む
まで知らずにいた。

 いや、そもそも8月15日以降に日本の領土において戦争が継
続していたこと自体、知らずにいた。


 8月15日に靖国神社を首相が公式参拝するか否かが、毎年政
治の1アイテムとなるのであるが、思い切って8月22日に公式
参拝することにしてはどうか。

 「なぜ8月22日なのか」を首相が語り、国民がこれを聞けば、
日本人はずいぶん変わるのではないだろうか。


 

コメント

沖縄の人気土産ランキング 1位は泡盛  豆腐ようは?

2007-07-17 06:37:32 | 食文化

一年ほど前だったかお笑いタレントの「ダウンタウン」が司会する
バライエティ番組を見るともなく見ていたら、

沖縄出身のゲストが豆腐ようの話を持ち出し、画面に実物が出てきた。

司会の一人(松ちゃん?)がいきなり一切れを丸ごと口に放り込んでギャーと奇声を発した。

勿論豆腐ようは一気に食うものではない。 

酒の肴にチビリチビリと時間をかけて食するもの。

豆腐ようもかなりの市民権を得ていると思っていたのだが、一気食いするとは・・・。

豆腐ようファンとしては、あのようにテレビで一口で食って「まずい!」の印象は困る。

一人豆腐ようを思って義憤に燃えた。

 

豆腐ようには食べるのにも、造るのにも泡盛がつきものだ。

その泡盛が沖縄土産の人気ランキング1位だという。

泡盛の女房役の豆腐ようはランキング上位どころか、ベストテンにも入っていない。

世は正に男女同権の時代だ。

女房役に甘んじずに、豆腐ようが全国区になることを期待したい。

 

            *      *      *

 

沖縄で買いたいお土産ランキング 1位は泡盛(産経新聞)

1)泡盛

(2)ちんすこう

(3)沖縄そば/ソーキそば

(4)パイナップル、マンゴーなど南国系フルーツ

(5)黒糖

(6)シークヮーサージュース

(7)海ぶどう

(8)ハイチュウパイナップル味など沖縄限定菓子

(9)紅いもたると

(10)サーターアンダギー

 

【人生食あり 守られる味】豆腐よう 芳醇さ引き出す紅麹

赤い漬け汁がかかった豆腐よう=東京・西池袋「おもろ」

赤い漬け汁がかかった豆腐よう=東京・西池袋「おもろ」

沖縄の伝統食に「東洋のチーズ」と呼ばれる食べ物があると聞いた。「豆腐よう」というそうだ。さっそく東京・西池袋にある沖縄料理の老舗「おもろ」を訪ねた。

 シソの大葉にのった豆腐ようは、約3センチ角の灰白色のサイコロ形で、少しとろみのある赤いソースのようなものがかかっていた。近年の沖縄ブームで、食べたことのある人は多いかもしれない。しかし初めて見たそれは、「へえ」と思わせるのに十分だった。

 「赤いのはソースじゃなくて、豆腐ようを発酵させる紅麹(べにこうじ)が出す天然色素だよ」と主人の南風原(はえばる)英樹さん(64)。箸でサイコロの角をつまんで口に運ぶ。ねっとりとやわらかく、泡盛の香りの中に、確かにチーズのような芳醇(ほうじゅん)な味わいがある。

 「おもろ」は戦後間もない昭和23年に、石垣島から東京にやってきた南風原さんの父が始めた店で、29年に建て直して以来の小さな店舗だが、それでも豆腐ようは毎日10食以上は売れるという。「酒の肴(さかな)として、ちびちび食べるものだよ。いわゆる珍味だね。泡盛に漬け込んだものだから、酒に弱い人は豆腐ようで酔っぱらったりするんだ」。南風原さんはそう言って笑った。

 沖縄県浦添市にある豆腐よう製造大手「紅濱」販売部長、下地雅人さん(53)によると、豆腐ようは、島豆腐(沖縄独特のかための木綿豆腐)の水分を抜いて、泡盛、紅麹、黄麹でつくった漬け汁に3~4カ月漬け込んで作られる。麹の作用で豆腐の大豆タンパクが分解され、グルタミン酸やアスパラギン酸などのアミノ酸が生成し、うまみが出てくるのだという。

 「紅麹は温度管理が難しくて、沖縄の気温では菌が出す熱で死んでしまうんです。子供を育てるのと同じように、大事に大事に扱っています」

 豆腐ようは一体どうやって生まれたのだろう。琉球大名誉教授、尚弘子さんが監修した『沖縄ぬちぐすい事典』(プロジェクトシュリ)には、その起源は「中国にも腐乳(ふにゅう)という似た食べ物があることから、豆腐の保存食として一八~一九世紀の初めごろ、中国から琉球に伝わったとされる」とある。

 確かに豆腐は腐りやすい。腐乳は豆腐を塩漬けにして発酵させた保存食で、そのままでは塩辛すぎるため、おかゆなどと一緒に食べられている。塩の代わりに泡盛を使うことを思いついたのが、沖縄の人々の大発見だった。

 下地さんは「豆腐ようが一般に食べられるようになったのは、沖縄でもこの10年あまりのこと」だという。

 腐乳から豆腐ようが誕生した時代、酒自体が貴重品で庶民の手には入らなかった。つまり豆腐ようも貴族階級の食べ物だったのだ。琉球王朝がついえた後も、首里の城下町の家々で秘伝として作り方が守り伝えられた。

 今から約20年前、琉球大が中心となって、沖縄の伝統食を特産品として産業化すべく研究が行われた。豆腐ようも研究対象のひとつで、世界中から約100種の紅麹を集め、さまざまな史料をもとに、豆腐ようを作り出すことに成功した。

 「紅濱」では、赤い色素を出さない紅麹の変異株を使った「白い豆腐よう」や、黄麹の配合を増やしてマイルドにした「ピンクの豆腐よう」も生産している。

 また動物実験では、豆腐ようには血圧やコレステロール値を下げる効果があることも分かってきているという。守られてきた味は、新たな時代を迎えつつある。(深堀明彦)

(産経新聞 2007/07/15 11:36)

 
コメント