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◆沖縄タイムス 2010年10月14日 市町村面
移転頓挫報道 市が反論
普天間第二小学校「予算確保の事実は無い」
【宜野湾】米軍普天間飛行場に隣接する市の普天間第二小学校について、「過去に移転の予算まで確保しながら基地反対運動を展開する市民団体の抵抗で頓挫した」とする全国紙の報道をめぐり、同市が8日の市議会定例会で真っ向から反論する場面があった。
問題となった記事は、産経新聞がことし1月に掲載した。 1980年代、市は学校の移転先として軍用地の一部を返還することで米軍の合意し、防衛施設庁(当時)と協議して予算も確保したが、市民団体などが「移転は基地の固定化につながる」と抵抗したーと当時の安次富宜野湾市長らの証言を基に記述。 「基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供達を人質にした」など関係者のコメントを紹介している。 記事はインターネットを上でも大きな話題になり、市には多数の抗議が寄せられた。
一方、同市の山内繫雄基地政策部長は答弁で、(1)用地購入には30~60億かかる上、国の補助も得られず、市の財産では対応不可能だった(2)学校の老朽化も進んでいたため、同校PTAが時間のかかる移転ではなく、現在地での前面改築を求める決議をしたーなどと反論。 移転予算予算が確保されていたということも、市民団体の反対のために移転できなかったことも事実ではない」と強調した。
同記事では、11月に予定される市長選に出馬を表明している前衆議院議員の安次修氏=盛信氏の息子で元市議=も「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせてもいいということだった」とコメントをしている。
◇
約30年ほど前の「事件」を沖縄タイムス、琉球新報の地元二紙が黙殺した。 それを産経新聞那覇支局にすっぱ抜かれ面目を潰した沖縄タイムスが、宜野湾市に取材し、9ヶ月ぶりに反論?したのが上記記事。
反論ならば「大手新聞の捏造記事」とでも題して、社会面のトップ扱いで掲載すればよいものを、人目につき難い【市町村面】という地味な県内のローカル紙面に掲載されたのはなぜか。
記事が反論どころか大筋では産経記事が正しかったことの証明になるからだ。
文末の「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせてもいいということだった」という元市議のコメントが表しているとおり、
「世界一危険な小学校」の移転が二度にわたって頓挫したことはまぎれもない事実だし、「反論」と大上段に構える市側の「予算計上の有無」は、この問題の本筋から外れている。
問題は、本当にくだんの小学校が命の危険に晒されるほど危険なら、予算の都合はさておいた万難を排してでも移転すべきではないのか。 さらに30年近くも危険のまま放置した市側の責任はどうなるか。 土地買収に金が掛かるというが、現在の敷地を売却し、「小学生の命を救うため」と募金をすれば何とかなったはずだ。 多くの子供の命にかかわることだ。
そこから浮かび上がる事実は、移転頓挫の原因は、「プロ市民」の反対運動が主な理由であり、「予算云々」は枝葉の問題に過ぎないということ。
移転運動が起きた当時、宜野湾市役所の労組も反対運動に加担していたと聞く。 「世界一危険な基地」を売り物に次期県知事の座を狙う伊波洋一宜野湾市長は、その頃宜野湾市労組で赤旗を振って活躍中のはずである。 伊波氏率いる当時の労組の面々は予算云々より移転そのもで「売り物」がなくなるのを危惧し反対したのではないか。
沖縄タイムスは、宜野湾市を突っついて産経新聞に反論したつもりなのだろうが、そもそも地元の新聞でありながら「危険な小学校」の移転話の「頓挫事件」を報道しなかったことは、新聞としての役目を自ら放棄していたことになる。
人目につき難い紙面に「反論のアリバイ記事」を書いたつもりだろうが、良識ある読者が読めば見事なまでの「ブーメラン記事」であることは自明である。
読者の参考までに問題の産経記事は【おまけ】に掲載しておくが、本件に関しては当日記でも書いてあるし、テレ朝で全国放映もされており、今頃反論しても恥の上塗りをするだけである。
⇒伊波市長がテレ朝「S・フロントライン」に生出演!
ちなみに産経記事を書いた宮本雅史那覇市局長は、本日開催予定の「第三回「正論」セミナー」(文末に詳細)で講演されるので、事の顛末に興味のある方は、ぜひご参加下さい。
講演テーマが「沖縄リポート」となっているので興味深い話しが聞けるかも知れません。
【おまけ】問題の産経記事
【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転
2010.1.9 23:26
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが9日、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ。(宮本雅史)
普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。
移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。
当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。
安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。
同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と説明している。
その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。
当時市議だった安次富修前衆院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。
◆講演会のお知らせ
◆第三回「正論」セミナー
日時 平成22年10月15日(金曜日) 午前11時半開場・午後2時終了
場所 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ
(那覇市前島3-25-1 電話0988-860-2111)
講師 宮本雅史・産経新聞那覇支局長 『沖縄リポート』
阿比留瑠比・産経新聞政治部 『民主党政権と沖縄』
参加費 1500円(昼食費込み)
お問い合わせ 沖縄「正論」友の会 電話098-861-677
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