狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

最終章、「オカッパの少年」の謎を追って

2011-11-01 14:15:17 | オカッパの少年

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沖縄では有名な写真「うつろな目の少女」が、琉球新報のスクープで70代の老人である大城盛俊氏であると報道されたとき、大きな衝撃と同時に一つの疑問が黒雲のように胸中にわき上がるのを禁じえなかった。

大城氏がウソを付いたのを、琉球新報が裏づけ調査もせずそのまま垂れ流したのではないかと言う疑念である。

その後、この衝撃的記事は沖縄タイムス、八重山毎日新聞とフォロー記事が出て、ついには朝日新聞の一面トップで報道されるまで拡散されていった。

さらに朝日の記事をフォローしたのが次に引用する韓国の中央日報日本語版の記事である。

本稿は琉球新報のスクープ記事に疑念を持って、大城氏の過去を追跡調査した過去エントリーに加筆した連載記事の最終回である。

連載中に八重山教科書問題のため一時中断したが、直前の記事はこれ。

4・オカッパの少年の謎を追って!

 

              ☆

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   
(中央日報 2008年6月26日)

 

                     ◆

 

■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏の証言を以下に紹介する。  

<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。
 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。

日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからであり、厚生省はこれを却下している。

1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。

大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。

戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 

大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 

大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 

重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。

このように仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。

「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。

その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。

一方沖縄では本人が著した一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。

大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。

まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。

 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。

それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

             ★

朝日報道では引退したはずの大城氏はその後も西宮界隈の教員たちを引率して慶良間戦跡ツアーのコーディネーターをしていることが判明している。

 ⇒座間味にいた「うつろな目の少女」

そしてやはり大城氏はウソをついており、それを承知していながら琉球新報が捏造記事を書いたことが判明した。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

琉球新報がウソと知りつつ歪曲報道したと言う証拠は、次のエントリーで紹介する。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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死刑執行日が確定!八重山教科書問題

2011-11-01 08:12:52 | 八重山教科書採択問題

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10月26日の文科相による有償供与発言に発狂して以来しばらく静かにしていた沖縄タイムスが、今朝は久しぶりの「発狂記事」である。

★一面トップ

≪文科相「月内が期限」≫

不統一なら竹富有償

県側「再協議を」

★社会面トップ

教科書 歩み寄り困難

竹富教育長「県指導待つ」

住民、国に反発と失望

「文科相むちゃくちゃ」識者

★第二社会面トップ

県の直談判 国応じず

大城教育長 表情厳しく

文科相と県、見解に相違

        ☆

発狂新聞の狂った見出しに一々突っ込みを入れる余裕はないのでスルーするが、一つだけ言わせてもらえば、識者が「文科相むちゃくちゃ」というのは、そっくりそのままその識者にお返ししたい。 

識者とは最近頻繁に紙面に登場する佐久間琉球大学教授のことだが、専門が教育行政だというから呆れた識者である。

発狂新聞の顔色ばかり窺っていると事の真偽見えなくなるのだろう。(涙)

今回の教科書騒動で2人の人物が注目を浴びた。

玉津石垣教育長と慶田盛竹富教育長のことである。

この2人ほど立場によって毀誉褒貶の評価の異なる人物も珍しい。

発狂新聞を筆頭にする極悪複合体の評価によれば、慶田盛氏は「戦争賛美の軍国主義者たちに敢然と立ち向かった英雄」であり、一方の玉津氏は、独裁的にルール無視で軍国主義的教育改革を目論む稀代の大悪党」ということになる。

逆の立場から見る玉津氏は、「極左前市長の長期政権の下で沖教組の違法な採択方にすっかり馴染んでしまった八重山採択地区で、教育改革目指す信念の男」である。一方の慶田盛氏は「自分のイデオロギーをごり押しするためルール破りをしている大悪党、で沖縄のヒトラーと呼ぶ人もいる」ということになる。

10月26日の文科相の有償給付発言のとき、当日記は次のようのエントリーをした。

死刑宣告!竹富町教育へ、無償給付対象にならない

今回の教科書騒動の直接の原因はルール破りの慶田盛氏であるから、直接の死刑宣告は慶田盛氏に対してではあるが、朝日新聞流に言えば「一寸待ってほしい」というところだ。

そもそも慶田盛氏がこれほど頑なにごり押しを続けられるのは単(ひとえ)に県の指導に従ったからだ。

県のお墨付きを得ていたからこそ、あのように違法なごり押しが出来たのである。

26日の大臣発言で死刑は確定しているのに県教委はわざわざ文科省に出向いて死刑の執行日を「11月末日まで」と決めてきたのである。

上京した大城教育長と狩俣課長に普通の判断力があるのなら、閣議決定された文科省の見解が、直談判したくらいで簡単に変えられるとは考えていなかったはずだ。

従って大城教育長の苦悶の表情は「発狂新聞」に対するパフォーマンスに過ぎない。

一方の慶田盛教育長は「町としては県の指導を受けるだけだ」(沖縄タイムス11月1日)述べている以上、県がこれまでの法規の解釈の過ちを素直に認めて「竹富町に八重山採択地区の答申に従う」ように指導すれば、一件落着となるはずである。

ところがそうは問屋が卸さないのが沖縄の摩訶不思議である。

異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」の面目躍如ともいえる。

そもそも県教委が狩俣課長を急遽現地に派遣し、騙まし討ちのような手法で「井戸端会議」を召集させ、その「二次会」を採択会議と多数決で決めるという違法行為に対して「合法」のお墨付きを与えたことが騒動の発端である。

県が何ゆえこのような違法行為を強引に押し通そうとしたのか。

発狂3紙の激しい玉津バッシングの援護射撃を受ければ、従来通り容易に「極悪複合体」の意志が罷り通るものと考えたからである。

ところが県教委には二つの「想定外」があった。

一つは玉津氏が嵐のようなバッシングに怯むことなく教育改革の信念を押しとしたこと。 

そしてもう一つの想定外は八重山日報が「発狂3紙」が隠蔽した不都合な事実を県民の前に報道したことである。

八重山日報は、「発狂3紙」が報道しなかった9月8日の井戸端会議(全教委協)での狩俣課長の行き過というより「違法な指導」の一部始終を暴露した。

八重山日報の記事は、仮に県教委が行政訴訟に持ち込んでも、合法と主張する「全教委協」が違法であることを証明する「決定的証拠」になり得る。

絶体絶命の県教委の心境は次の記事に表れている。

県教委側が同省に提出した資料では、同協議会「答申」について「法的拘束力はない。 答申通りに採択するように竹富に求めることは、かなりの無理があると同省の見解に反論している。(沖縄タイムス11月1日)≫

事態を甘く見ていた県教委は「発狂新聞」の援護射撃を受け、井戸端会議での違法な採択にお墨付きを与え、慶田盛氏をますます増長させた。

だが、死刑執行日を一ヵ月後に控えた慶田盛氏は県教委に下駄を預けた。

「県の指導を受ける」と。

結局竹富町は、「県の指導を受ける」と発言しているのに、県側が「発狂新聞」のバッシングを恐れ、上げた拳を下ろしきれないでいる、というのが現状である。

地元2紙のウェブ記事は更新が遅いので産経を引用しておく。

【採択の危機】
県教委、文科省に不当性訴え
2011.10.31 22:29
 沖縄県八重山地区(石垣市、与那国町、竹富町)の中学公民教科書採択問題で、沖縄県の大城浩教育長が31日、文部科学省を訪れ、育鵬社を選定した採択地区協議会の答申に従わず、別の教科書を採択した竹富町教委を教科書無償措置の対象外とした文科省方針について、「法的拘束力を有しない答申を守るか否かによって無償か否かが決まる考えは理解しがたい」と不当性を訴えた。

 森裕子文科副大臣らとの会談で、大城教育長は、育鵬社を逆転「不採択」とした3市町の教育委員全員による協議の有効性を改めて主張。教科書の一本化を図るための手段として、「新たに協議の場を設定する以外にない」と主張し、引き続き、3市町で合意形成を図っていく考えを示した。

 一方、文科省は県教委に対し、11月末までに公民教科書の需要数を報告するよう求めた
            ☆

 

■八重山日報 10月31日

混迷深まる教科書問題
憲法違反と教職員組合反発
 八重山地方の中学公民教科書の選定をめぐる混乱が収まらない。
保守色の強い育鵬社版を拒む竹富町に対し、中川正春文部科学相が
町の予算での購入を促す事態に発展し、
地元から「義務教育を無償
と定めた憲法に違反する
」との批判も出ている。

「町で東書版購入を」文科相
 3市町が無償給付を受けるには、同じ教科書に統一する必要があ
ると教科書無償措置法は規定。8月、八重山採択地区協議会は育鵬
社を選び各教育委員会に答申したが、竹富町教委は東京書籍を選択
した。地方教育行政法が採択権限は各教委にあると定めているため
に生じた「ねじれ」だ。
 中川文科相は26日の衆院文部科学委員会で「(協議会の)結果
に基づき採択していない竹富町教委は無償給与の対象にならない」
と答弁。協議会の結論を重視する姿勢で、1963年の制定以来、
教科書無償措置法が適用されない初のケースになる可能性も出てき
た。
 だが、協議会で教科書の内容について突っ込んだ議論のした形跡
はない。共同通信が入手した議事録によると、委員の一人は「(教
科書を)全部読むことはできない」と発言。
協議会会長の玉津博克
石垣市教育長から「見なくても見たと言えばいい」と伝えられたと
語る委員もおり、現役教員が務める調査員が推薦しなかった育鵬社
が選ばれた理由は不明だ。教科書無償措置法は、無償給付する主体
を「国」と定める。「無償措置は国が責任を持ってやること。自治
体に負わせるのはおかしい」。沖縄県教委の狩俣智義務教育課長
中川文科相の真意を測りかねている。県教職員組合も「有償で教科
書購入を強いるのは、義務教育の無償を定めた憲法に違反する」と、
発言撤回を求める声明を出した。

「予算問題ではない」竹富町
 竹富町で必要な公民教科書は約40冊。財政を圧迫するわけでは
ないが、町教委は「お金のお問題ではない」と反発。一方
石垣市
教委の前花雄二教育部長は
「やむを得ない措置」と文科相発言を歓
迎している。
 竹富町が採択した後の9月8日、3市町の全教育委員が会合を開
き、東京書籍を多数決で選定。県教委はこの決定を有効としてる。
県教委幹部は週明けに上京して文科相に県の立場を説明する予定だ
が、決着の行方は見えない。   
      (共同) 


■八重山毎日 10月31日

文科相発言撤回を求め特別決議
教科書採択問題 10・30連帯の集い
宜野湾市
【宜野湾市
】「許すな!育鵬社版『公民』教科書の採択 防止しよ
う!自衛隊配備・安保強化 すべての原発を止めよう!」をテーマ
に「STOP!戦争への道10・30連帯の集い」(主催・同実行委員
会)が30日、宜野湾市ジュビランスで開かれ
、八重山地区の教科
書採択問題で中川正春文科相が「竹富町は教科書の無償給付の対象
にならない」との発言を受け、見解の撤回を求める特別決議案を採
択した。決議文は同日付で中川文科相に送付した。
 
集いは全国、全世界の仲間たちと手をつなぎ、米・日両政府によ
る日米新安保の強化や辺野古新基地建設、先島への自衛隊の増配備
など南西諸島の軍事力強化を防止するとともに、すべての原発を直
ちに停止し廃炉にすることを目的に開かれ、350人(主催者発
表)が参加した。
 主催者を代表して崎浜秀司氏が「
福島の原発、宮古・八重山、辺
野古の問題も根っこはひとつ。将来、若い人たちを戦争に駆り出す
ことが狙いだ。すべて軍事的な問題で八重山の教科書問題はその一
番手であり、決して許してはいけない。頑張っていきましょう
」と
参加者に呼び掛けた。
 八重山地区の教科書問題では「子どもと教科書を考える八重山地
区住民の会」の大浜敏夫事務局長がこれまでの経緯や抗議活動を説
明、「子どもたちのためにも育鵬社の教科書が採用されないよう地
元でも取り組んでいる。辺野古の問題同様、全県的に運動を広げて
いきたい」と訴えた。
 教科書採択の問題提起で
佐久間正夫琉球大学教授が「地方教育行
政法」第48条の「文科相は教育委員会に対し、教育に関する事務
の適正な処理を図るため、必要な指導、助言、援助、を行うことが
できる」と記されている内容を挙げ
、中川文科相の結論は「必要な
指導、助言または援助」に当たらないとし
全員協議を無効とする
発言も「法制度からの根拠はまったく述べられていない」と指摘し
た。
 集会では、特別決議案も採択、集会アピール文を朗読し、ガンバ
ロー三唱で決意をひとつにした。

             ☆

左翼学者の扇動に乗って魑魅魍魎集団が、「行政訴訟」も辞さないと叫んでいるが、有償給付を憲法違反で争うのは無理だし、だからと言って関連法規の解釈でも勝ち目は皆無。

県教委に残された選択肢は次の三つしかない。

(1)「裏切り者!」と罵声を浴びるのを覚悟で、竹富教委に育鵬社版教科書の採択を指導する。

(3)「極悪複合体」の支援を受けて「県民大会」を開き、「民意」や「沖縄の心」を訴え、泥沼の政治闘争に突入する。

(3)国を相手に行政訴訟」を起こし、真っ向から対決する。

まぁ、どの選択肢を選んでも身から出た錆で、行き着く先が地獄であることだけは間違いのない事実である。

大城教育長と狩俣課長はお互いに手を繋ぎながら、冥府魔道を驀進中である。

自業自得とはいえ、地獄の閻魔様に舌を抜かれるのは大城教育長と狩俣課長のどちらが先だろうか。

ん?慶田盛氏の方が先?

            ★

■「パンドラの箱掲載拒否訴訟」 

表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、沖縄の言論空間と歴史の偏向を糺す運動にも影響をあたえるものとなっています。
第四回口頭弁論と報告会を下記の通りおこないますので、ご参加下さいますようご案内申し上げます。

今回の口頭弁論は、決定的な証拠が提出されるはずです。 ご期待下さい。

なお★上原正稔公式サイト で検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されます。

             記

第四回口頭弁論

  日時:  11月8日(火) 午前11時

  場所:  那覇地方裁判所

報告会

  同日 正午

  場所 沖縄県護国神社社務所内会議室

 

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