❶昭和祭:4月29日(日) AM10時 波上宮
➋昭和天皇のご聖徳を伝えつぐ集い 同日13時30分~15時30分 県立博物1階口座室
参加費:1000円 講師:西田健次郎氏
❸新しい憲法をつくる沖縄県民の集い:5月3日(金)14時 沖縄県立博物館講堂
講師:高橋利行氏元読売新聞編集局次長
❹翁長知事国連演説控訴審 判決 5月9日(木)13時10分那覇司法裁判所201号室
地裁は、住民訴訟の期限切れ(公金支出から一年以内の監査請求)を理由に却下判決となりましたが、大きな違法性がある場合や住民では簡単に違法性に気づけない場合は、一年を超えての監査請求から提訴した事例が訴訟条件を満たしているとされた事例は沢山あります。
原告らは、地裁へ差戻になるか、知事の違法支出を認めた勝訴判決が出るものと思っています。
⑤5波上宮 例大祭 5月17日(金)AM10時 直会11時30分(於 神宮会館)
台湾人元日本兵が焼身自殺: :2008年5月20日
高雄市で20日午後7時ごろ、「台湾無名戦士記念碑」の前で車が燃えているとの119番通報があり、消防車が出動して火を消し止めた。車内から焼死体が発見され、台湾人元日本兵の許昭栄さん(80歳)と分かった。台湾人元日本兵は大東亜戦争中、日本軍として出兵し南洋戦線で活躍したが、戦後になって国民政府に邪魔者扱いされ、中国戦線に駆り出された。多くが死亡し、生き残った老兵も苦難の人生を送った。許さんは21年前にカナダから帰国し、台湾人日本兵の補償問題に取り組み、著書もある。努力が実り、2005年に旗津に「台湾無名戦士記念碑」が立ったが、今年になって碑のある「戦争と平和記念公園」の名が「平和記念公園」と改名され、金門島での戦死者の碑も並立されることが決まった。遺書には、陳総統が記念碑のテープカットに来ないことを恨む文言が書かれてあった。
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令和への改元を数日後に控え、「昭和は遠くなりにけり」の感慨ひとしきり。
去り行く平成・昭和と共に国民の記憶から消えつつあるものに残留日本兵という言葉がある。
残留日本兵とは、第二次世界大戦の終結後も、終戦を知らされず、あるいは敗戦信じず現地で潜伏し作戦行動を継続し現地に残留した旧日本軍の将兵を指す。
沖縄が祖国復帰した1972年、戦後28年を経過して平和ボケに浮かれていた国民を衝撃的「事件」が直撃した。
グアム島のジャングルの地下壕に潜み、日本の敗戦を知らずに単独抗戦を継続していた横井庄一軍曹が28年ぶりに祖国日本の土を踏んだのだ。
羽田に駆け付けた多くのマスコミに向かって発した横井軍曹の第一声が印象的だった。
「恥ずかしながら生きて帰りました」
この言葉が反響を呼び、その年の流行語になる騒ぎだった。
さらにその二年後の1974年、フィリピン・ルバング島のジャングルで残留情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開していた小野田寛郎少尉が、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、日本へ帰還を果たした。
この時も横井さんに続く最後の日本兵としてマスコミは大騒ぎした。
だが、その後残留日本兵の報道は絶えて、小野田さんが最後の残留日本兵として国民の記憶に刻まれた。
ところが最後の残留日本兵は小野田さんではなかった。
最後の残留日本兵は、1974年の12月にインドネシア・モロタイ島で発見された中村輝夫さんだった。
だが、日本のマスコミは中村輝夫さんのことを報じることはなかった。
理由は、中村さんが台湾籍の残留日本兵だったからだ。
発見された1974年の日本はその二年前に国交回復した中国大陸への礼賛ムードもあり、中村輝夫さんの発見は大きく取り上げられなかった。
心の底から日本人として従軍していた中村輝夫さんは、「日本の皆さんにご心配をかけて…ありがとう。機会があれば日本に行ってみたい。」とコメントしたが、その願いも叶わず、発見から4年後、1979年(昭和54年)に鬼籍に入った。
中村さん(李光輝)が帰還した当時の台湾は、日本統治時代を敵視する国民党政権時代。
中村さんが出征後に生まれた息子さんも北京語教育を受け、アミ族の言葉と日本語しか話せない中村輝夫さんとは会話が成立しなかった。
発見されインドネシアの日本大使館に保護された時も用意された福建語の通訳を介さず、日本語の方が楽だからと日本語で通した。
帰国した台湾では北京語のメディアに質問されても言葉がわからず、日本語には反応していたという。
中村さんの墓所は台東県東河郷の太平洋を見下ろす小高い丘の中腹にあり、墓石には「顯考李公光輝之墓」と刻まれている。
また、中村の発見をきっかけとして、日本人日本兵と台湾人日本兵との弔慰金の格差が表面化し、台湾青年社の王育徳らが1975年に「台湾人元日本兵の補償問題を考える会」を結成してデモを行うなど、差別解消を求める運動が活発化した。
そして、今年になって台湾と同じ日本の植民地だった韓国で、「徴用工問題」がマスコミで取り上げられた。
これを機会に、台湾籍日本兵の補償請求権に関する訴訟問題が持ち上がった。
韓国徴用工問題と台湾籍日本兵問題は、どちらも日本人として行動した時代の請求権。
だが、韓国徴用工の請求権は1965年の日韓基本条約で清算済であり、請求する相手は日本ではなく韓国政府である。
ところが台湾籍日本兵に対して、日本は中国大陸への気兼ねから、何の補償も行っていない。
従って台湾籍日本兵の日本政府に対する請求権は当然存在する。
現在生存する台湾籍日本兵の数は少なくなっており、生きている間の補償と名誉回復が急がれる。
近々、日本政府相手の台湾籍日本兵補償訴訟が提訴される運びとなった。
そして、この度台湾籍日本兵の中で最高齢の97歳になられる楊馥成先生が来沖し、4月23日に行われた奥武山・護国神社の春季例大祭に参列、25日に放映のチャンネル桜「沖縄の声」にも出演していただいた。
ちなみに楊馥成先生は台湾籍日本兵訴訟の原告の一人である。
【動画】【沖縄の声】特番!沖縄県護国神社 第六十一回春季例大祭/台湾籍日本人の国籍復帰と戦後補償[桜H31/4/25]
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