狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

国防案件に住民投票は馴染まない!石垣市長選に現新2氏 陸自配備めぐる住民投票争点 沖縄

2022-02-21 07:19:23 | 政治

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八重山市長選関連する沖タイの見出し紹介

■一面トップ

砥板・中山氏 一騎打ち

石垣市長選告示

市政継続か刷新か

■二面トップ

政策強調 支持訴える

■社会面トップ

2候補、論戦本番

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

[石垣市長選 2022.2.27]砥板・中山氏 一騎打ち 石垣市長選告示 市政継続か刷新か 27日投開票

2022年2月21日 05:00有料

 【石垣】任期満了に伴う石垣市長選が20日告示され、新人で前市議の砥板(といた)芳行氏(52)=無所属=と、4期目を目指す現職の中山義隆氏(54)=自民、公明推薦=が立候補を届け出た。両氏による一騎打ちが確定。中山市政3期12年間の評価を最大の争点に7日間の選挙戦がスタートした。投開票は27日。(2・23面に関連)

 砥板氏は保守系ながら保革双方からの支援を受けて挑む。新庁舎の屋根に県外産赤瓦が使用された件で昨年12月、市当局の説明不足を理由に与党を離脱した経緯があり、中山市政を「独善的」などと批判。

 「市民の声を聞く」ことを第一に掲げ、「チェンジ市政」を訴える。島への陸上自衛隊配備計画については従来の姿勢を百八十度転換し、賛否を問う住民投票を実施することを主張する。前勢岳北側のゴルフリゾート計画は環境負荷が大きいとして見直しを求めている。

 中山氏は観光産業に力を入れ市民所得向上につなげたことや、コロナ禍以降はPCR検査体制の確立、県内でいち早くワクチン接種を進めた実績を強調。「脱コロナ、景気回復を誰が実現できるかだ」と市政継続を訴える。

 ゴルフリゾート計画については「観光をV字回復させるためには必要」とする。環境面への懸念に対し「負荷はぎりぎりまで減らされている」と理解を求める。陸自配備の住民投票は「国防などの問題を地方自治体の住民投票で問うのはふさわしくない」とする。

 両氏は20日、出発式で勝利への決意を語った。

 砥板氏は「独善的な市政が続けば石垣島が壊れる。この島に生まれ、この島に来て本当に良かったと思える島をつくる」と訴えた。

 中山氏は「コロナ禍の打破、市民に明るい希望を与えることができるかが争点。コロナに強いまちをつくっていく」と訴えた。

 市選挙管理委員会によると、19日現在の選挙人名簿登録者数は3万9330人(男性1万9713人、女性1万9617人)。期日前投票は21~26日、市役所1階コミュニティールームで。

 砥板 芳行氏(といた・よしゆき)1969年10月8日生まれ。石垣市登野城出身。東京デザイナー学院中退。八重山青年会議所理事長や日本青年会議所沖縄地区協議会副会長などを経て2010年市議選で初当選。3期目で辞職した。

 中山 義隆氏(なかやま・よしたか)1967年6月26日生まれ。石垣市登野城出身。近畿大商経学部卒。証券会社勤務後、八重山青年会議所理事長などを経て2006年市議選で初当選。10年の市長選で初当選し、現在3期目。

(写図説明)出発式で政策を訴える砥板芳行氏=20日午前、石垣市真栄里の選挙事務所

(写図説明)出発式で政策を訴える中山義隆氏=20日午前、石垣市浜崎町の選挙事務所

               ★

自衛隊配備のような国防案件に住民投票は馴染まない。

細谷雄一慶応大学教授や米国シンクタンクが指摘するように、中国の工作資金が沖縄メディアに流入。反自衛隊や反米軍の世論を形成しているという。

当然中国の思惑が住民投票に影響する。

米軍基地、自衛隊に反対の住民、政府に反対意向の強い住民の心を利用して、沖縄に経済的なメリットを与え、中国人を企業に労働者として送り込み、研究機関や団体に資金供与して、日本を分裂の危機にして行く可能性が高いとの指摘である。

このような状況で自衛隊配備に住民投票を行うのは中国の思う壺である。

ちなみに安全保障、国防案件は国の専権事項であり住民投票にはなじまない。

上記沖タイ記事では、肝心の争点を曖昧にしているので両候補の争点が見えにくい。

砥板候補は、国防案件である自衛隊配備を住民投票の実施が公約という。

島への陸上自衛隊配備計画については従来の姿勢を百八十度転換し、賛否を問う住民投票を実施することを主張する。

一方の中山候補は「国防は国の専権事項との立場」を取る。

 

かつては保守論客きっての自衛隊配備推進論者だった砥板氏が、国境の島石垣への自衛隊配備に住民投票の条件を付けるなど理解しがたい。

八重山防衛協会が砥板氏を除名するのも納得である。

 

石垣市長選に現新2氏 陸自配備めぐる住民投票争点 沖縄

配信

時事通信

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コメント (1)

続・国の発表はウソだらけ、オミクロン、重傷者はいない!コロナ死者数は「過去最大」なのか

2022-02-21 05:06:17 | 医学・健康

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コロナ死者数は「過去最大」なのか


忽那賢志氏の記事が炎上している。彼は次のグラフを出して「オミクロンの死者は過去最大でデルタより多い」というのだが、それは本当だろうか。

忽那氏の記事より

忽那氏は厚労省の新型インフルエンザQ&Aを引用して「インフルエンザで1年間の間に亡くなる方と同じ数の人が、新型コロナでは1日から数日の間に亡くなっている」という。そこにはこう書かれている。

国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214人(2001年)~1818人(2005年)です。

ところがQ&Aでは、その後にこう続くのだ。

また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。

「コロナ死者数」は水増しされている

インフルエンザは5類感染症なので、コロナのように全数検査はしない。病院に来てインフルと診断されて死んだ患者を集計したのが2005年で1818人だが、これは全体数ではない。それを推定したのが超過死亡数である。

国立感染症研究所の推定によれば、次の図のように2005年の超過死亡数は1.5万人である。これは全死因の超過死亡数だが、ほとんどは感染症、特にインフルによるものだ。


国立感染症研究所

コロナの死者は2020~21年の2年間で約2万人だから、インフルより少ない。しかもこれは死んだときPCR陽性だった人をすべて集計した速報値で、オミクロンでは70歳以上が90%を占める。

その死因をくわしく調べて死亡診断書に「コロナが直接の死因」と書かれたのは、大阪府の報告書によれば、死亡例445例のうち271例(6割)だった。


大阪府コロナ対策本部

これも呼吸器疾患による死亡は少なく、心不全・腎不全などの基礎疾患が悪化して死亡したケースが多い。人工呼吸の実施件数は次の図のように全国で390件で第5波より少なく、重症者数は純減に転じている。

 

人工呼吸の実施件数(ECMOネット

要するにコロナ死者が増えた原因は、オミクロンの感染力が強いために、持病の悪化で死んだ人の中でコロナ陽性が増えたということなのだ。検査陽性者数は2月上旬でピークアウトしたが、死者の増加は2~3週間ずれるので、2月いっぱいがピークだろう。人口統計に記載されるコロナ死者数は死亡診断書ベースなので、速報値の半分ぐらいになるだろう。

 

【おまけ】

【なソ】岸田政権が都道府県に「PCR検査を抑えろ」の大号令 交付金差配の内閣府を通じた圧力か 内閣官房は「担当者不在」理由に無回答

 
1: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:21:24.99 ID:wzAULuIf9
no title

事務連絡を通じた圧力(C)日刊ゲンダイ

岸田政権が都道府県に「PCR検査を抑えろ」の大号令 交付金差配の内閣府を通じた圧力か
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20220220-00000010-nkgendai-life

〈1日当たりの検査件数を1月第二週における1日当たり平均検査実績の2倍以内として頂くようお願いします〉──。先月27日、内閣府地方創生推進室と内閣官房コロナ対策推進室が、連名で各都道府県に送付した事務連絡の一文である。意図は自治体の無料PCR検査を「抑えろ」だ。

当時はオミクロン株が猛烈な勢いで全国に広がり、感染者数はネズミ算式に上昇。寒空の下、各自治体の無料PCR検査会場は長蛇の列で、検査試薬や抗原検査キットの需給逼迫が問題となっていた。そこで同日、厚労省は検査の優先順位を決定。症状がある人を診断する「行政検査」が最優先で、各自治体が行う「無料検査」は下位に位置付けた。それとワンセットで発したのが、前出の事務連絡だ。
6: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:23:27.12 ID:mIe1Qwel0
ついに左翼からも岸田政権は批判され始めたか。
これは長くはないな



7: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:23:27.16 ID:q33R+0cj0
検査抑えてピークアウト
なお陽性率爆高



18: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:27:01.46 ID:O3XhSk8z0
>>7
陽性率で十分だと思うけどね



8: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:24:19.85 ID:/c6a6LlP0
ワロタw
検査しなけりゃ増えない



9: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:24:36.68 ID:G1CvqKAW0
てめーらの給料と手当を抑えろや



10: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:24:48.22 ID:2DnF9N2u0
全都民に毎日検査とか言ってる立憲共産党を見習え



12: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:25:13.16 ID:q2548WtE0
なぜ漏れたのですかw



19: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:27:09.34 ID:VkF8DlFv0
検査を抑え込んでも死者はどうすんだ



26: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:28:46.51 ID:LHgc7heg0
現代がこれを最初に報じるとかどんなディストピアなんだか



28: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:29:46.70 ID:u4losVqU0
きったねえ奴ら



29: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:29:51.90 ID:AtCSItgJ0
(症状のある患者がPCR検査をできるようにするため)
(無症状を対象にした無料のPCR検査を)
抑えろ

って指示じゃんこれ



34: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:31:05.54 ID:mexhzCxJ0
>>29
コロナから2年も経ってるのに、なんで検査費用ケチるのよ
自民党らしいと言えば自民党らしいが
結局検査減らして、見かけ上のコロナ患者を減らして誤魔化すんでしょ?

まあ、いつもの手口よ



51: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:34:11.34 ID:AtCSItgJ0
>>34
費用じゃなくてPCR検査能力だよ
ピペットチップやらマイクロチューブやらの資材が今世界的に不足してて実験室の仕事に支障をきたしてるくらいだ



31: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:30:39.67 ID:aNVj1GJL0
やっぱりなー、数字の乱高下変だもんな。
岸田内閣のメンバー見るるとアレだもんな…



38: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:32:09.31 ID:/q/iZEtT0
むしろこれがリークするようなレベルの忠誠心のほうがやばい



40: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:32:37.87 ID:GXR0xT6P0
ガースーで良かったんじゃね?(´・ω・)



47: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:33:34.45 ID:vArB6DiZ0
というか、それに能力使っても仕方ない位多いからじゃねーの?



48: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:33:36.01 ID:/q/iZEtT0
症状軽いとか無いに賭けたんだろうが、めっちゃふつうに発熱して寝込むんだよね



61: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:36:19.22 ID:9yA9uZEM0
一昔前も検査してればみんな風邪に感染してたよ
今更騒いでるやつバカでしょ



74: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:37:44.59 ID:/q/iZEtT0
なにもかもリークしてしまうことがまずい
そのへんの高校生ですら国家機密をしてるようなもん



107: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:43:26.93 ID:E7yJZn180
隣の半島みてれば徹底的にPCRしろなんてバカの主張だと気づくやろ



131: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:47:05.05 ID:pjA7PSl40
>>107
韓国なら既にPCR検査体制は崩壊してる。
抗原検査キットで前診断つけないと受けられなくて、その抗原検査キットの数も精度も足りてないのが現状。



110: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:43:47.58 ID:PURsxoKq0
風邪なんだから家で寝てれば良いよ。



116: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:44:39.99 ID:8BjuPQL/0
もう検査などやらんで良い

寝ていろ



120: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:45:00.80 ID:VXYlhC/W0
これは間違ってない
検査薬足りないからな

無料で検査と言うのがあほだった

ワクチン・検査パッケージの停止 ワクチンに感染を防ぐ効果ないため

ワクチンの代わりに、全員検査で緩和するようにした(東京都、神奈川県などが採用)

無料検査に殺到



135: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:47:25.39 ID:3bEmtI+10
岸田マジ時間が経過する毎に化けの皮剥がれるな
やばすぎやろ



136: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:47:32.38 ID:PoH3nfZu0
反検査厨「検査をすると医療が崩壊する」wwwwww



137: 名無しさん 2022/02/20(日) 17:47:36.61 ID:cJLlTBiG0
いくら検査数を減らし
ても陽性率は隠せないからな

引用元: ・【権力】岸田政権が都道府県に「PCR検査を抑えろ」の大号令 交付金差配の内閣府を通じた圧力か 内閣官房は「担当者不在」理由に無回答 [上級国民★]

 

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【自民・高市氏】首相になっても靖国参拝に意欲「中途半端は相手がつけ上がる」

2022-02-21 00:46:42 | 政治

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石原慎太郎、靖国でブちぎれ!

【自民・高市氏】首相になっても靖国参拝に意欲「中途半端は相手がつけ上がる」

   30
1: 蚤の市 ★ 2022/02/19(土) 21:26:25.51 ID:QpZEF+pF9
抜粋
 

>自民党の高市早苗政調会長は19日、東京都内で講演し、自身が首相になった場合でも靖国神社(東京・九段北)への参拝を続ける考えを改めて示した。首相の参拝には中国や韓国の反発が予想されるが、高市氏は「途中で参拝をやめるなど中途半端なことをするから相手がつけ上がる」と強調した。

 
>講演では首相の参拝について「主権国家を代表する者として先人に尊崇の念を持ち、感謝の誠をささげることは当たり前だ」としたうえで、「『当たり前のことだ』と続けていれば、段々と周り(の関係国)もあほらしくなって、文句を言わないのではないかと楽観的に捉えている」と述べた。

 

毎日新聞 2022/2/19 20:21(最終更新 2/19 20:29) 397文字
https://mainichi.jp/articles/20220219/k00/00m/010/202000c

9: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:28:58.67 ID:/2sXwpU30
久々に名前聞いた
好きにしたら良い
11: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:29:11.74 ID:GLAeowUA0
高市みたいな政治家はいてもいいが、首相になったら、それはそれで面倒
201: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:12:38.57 ID:bDo2qxC20
>>11
それで事なかれ主義の首相を選んできたが
さほど機能していないどころか悪化してるので
それなら高市でいいやってなってる
206: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:14:01.81 ID:A3FRJp8d0
>>201
同感
25: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:32:34.41 ID:NEkJciC/0
なんかこの人救世主みたいに祭り上げられてるね
26: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:32:41.26 ID:oCmVxwnH0
安倍は首相の時に参拝したろ
30: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:34:33.89 ID:VtYYi1LD0
さすが高市さんや
この人なら批判されたからって止めないだろう
頑張って下さい
33: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:37:03.53 ID:MTRczWMK0
日本国の首相は英霊の眠る靖国神社に参拝するべきだ。何故してなかったんだ。おかしいじゃないか。
41: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:39:12.07 ID:Fm/qMQlb0
その為には南京プロパガンダでの
どんな指摘が来ても即反論できるように、
データとロジックであらかじめ「理論武装」しておかないと…

 

同時に日本人がされた事も国民に知らせて欲しい
中国兵による通州事件や終戦直後の日本人への悪行を

57: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:42:37.99 ID:TX0qvkD40
>>41
南京のアレはアメリカの原爆投下を相殺するために作られた歴史問題だから理論武装しても意味なくね?相手は日本の首都武力占拠して何かあったら日本中に核落とすと脅す連中だよ?
 
64: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:44:17.47 ID:Fm/qMQlb0
>>57
日本だけで理解しても意味がない
世界が思っている固定概念(誤解)を
を解く事も必要
46: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:40:01.00 ID:/JaAnK+50
こういう時代になったらアメリカもYESだと思うな
ステージが変わった
近い時期に総理大臣は靖国参拝はすると思う
63: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:44:04.02 ID:G/lDkn5s0
これには安倍ちゃんも困惑
76: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:47:04.93 ID:xeqyE3bv0
つけ上げってるアメリカどうにかしろ
92: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:51:56.32 ID:A3FRJp8d0
高市は高市でおもしろいからいいよ
142: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:01:08.60 ID:A3FRJp8d0
それでこそ高市だろw
180: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:09:34.26 ID:MDWmYsaK0
つけ上がるのは確かとしても、まあやり通せるのかね
国内が整備されてないでしょうに
186: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:10:21.93 ID:A3FRJp8d0
高市は空気読まずにやるよ
228: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:16:32.42 ID:MJT/J6Wa0
週一で行けばいい
そしたらいちいち文句言うのもアホらしくなって、何も言わなくなる
毎日でもいい
260: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:26:31.42 ID:tvmADpQK0
もうアメリカはおk何だろうね、中国ともめるのは日本の勝手だし
263: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:27:37.17 ID:4SRZtyCT0
支持するわ
483: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 23:09:52.38 ID:X08KRvMQ0
公明連立続けるの?
373: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:51:21.16 ID:y0UjtRZr0
高市の言う通り
あやふやは逆に攻撃される
日本人の悪い癖
466: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 23:06:44.94 ID:E19SYSQR0
やったれ!
639: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 23:33:10.64 ID:HiZCRGHr0
面倒くせぇから毎日のように参拝したり前を通ってやればいい
477: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 23:09:18.97 ID:P0B9iQqI0
選ばれるかどうかは別として
堂々と宣言してるのは良いんじゃないか
265: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:28:17.50 ID:cb7x1yA80
てか中共なんかもう気にしてないのでは
ケチつけるネタ程度でしょ
276: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 22:30:50.39 ID:wuNR939c0
亡くなった方にお参りして政治問題になるのがおかしい
252: ロドシクルス(大阪府) [US] 2022/02/20(日) 09:09:42.45 ID:Kl3DkN310
>>1
その通り
毅然とした姿勢が大事だ
277: ネンジュモ(愛知県) [ニダ] 2022/02/20(日) 09:24:53.03 ID:nuIAJr4C0
>>1
そらそうだ
100: テルモリトバクター(東京都) [US] 2022/02/20(日) 08:09:18.71 ID:RGcDfebl0
自分の意見と立場を明らかにしてるのは偉い。
これをハッキリ言わない奴が多過ぎ。
111: キサントモナス(SB-Android) [ヌコ] 2022/02/20(日) 08:14:51.55 ID:sY27oEu50
>>100
それな
選挙ある政治家は本来そうじゃなきゃならん

 

昔民主党の候補の事務所に外交政策の質問したら何にも答えない
自分にとって票が取れないかもと判断したら誤魔化して逃げるそんな恥知らずのばかり

好き嫌いは置いておいて高市のこの態度は評価できる

301: マイコプラズマ(山口県) [US] 2022/02/20(日) 09:34:13.13 ID:Hpg63eDV0
ところで首相になれそうなのか?
319: エアロモナス(大阪府) [EU] 2022/02/20(日) 09:48:50.59 ID:gjg+nJSA0
今や向こうもそんなに気にしてないような

引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1645309187/

引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645273585/

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国の発表はウソだらけ、オミクロンの重傷者はいない!

2022-02-20 15:32:38 | 医学・健康

 

 

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国民が絶対に知らされない真実|コロナオミクロン株の症状と発生の理由

 

 

国の発表はウソだらけ、オミクロンの重傷者はいない!

 

国の発表はウソだらけ「オミクロンの重症者はいない」

【1】「コロナ死」認定のカラクリ

2月10日、岸田政権は13都県に適用している「まん延防止等重点措置」の期限を3月6日まで延長した。「医療逼迫を回避する」とお題目のように唱えるが、実態はどうなのか。医療現場の声は政府や御用学者の主張とはまるで違う、怒りに満ちたものだった。

 

〈座談会出席者〉

A=保健所職員(保健師)

B=コロナ病棟の看護師

C=発熱外来の診察医

 

─リモート座談会に出席頂き、ありがとうございます。医療崩壊という言葉が盛んに喧伝されますが、病院の内情はどうですか。

 

B 雰囲気は最悪ですね。今、都内の病院はどこも老人病院と化しています。コロナ入院患者のほとんどが高齢者か体重100キロを超えるような超肥満の人たちです。自力で食事ができず、トイレにも行けない。寝返りも自分でうてないので、防護服を着ながら介護するのが本当に大変なんです。患者1人に医師が1人付き、看護師が数人がかりで介護をします。

 

─政府や自治体からは「重症者数」「重症者病床使用率」がキーワードとして発信され、重症者で医療が逼迫しつつあるような印象を受けます。

 

B 入院患者イコール重症患者ではありません。テレビのニュースでよく聞く「重症患者」というのは人工肺や人工呼吸器、人工透析を繋いでいる患者を意味します。ところがそうした重症患者が実際にはいないのが、オミクロン株による第6波の特徴なのです。要介護の高齢コロナ患者には人工呼吸器が必要となる場合もありますが、ご家族が「もう年も年ですし、そこまで苦しい思いをさせてまで延命しなくても」と治療を辞退される場合もあります。そういう方は重症患者に含まれません。何週間も入院して、そのまま亡くなる方がいても、医師が死亡診断書を書く際に「老衰」と書くべきか「コロナ関連死」と書くべきか悩む症例が多いのです。持病や高齢などで間もなく寿命が尽きる人がたまたまコロナに感染した後に亡くなると「コロナ死」と認定してしまう。実態として「コロナ死」はほとんどいないということです。

 

C その通りです。オミクロン株による死亡率はワクチン接種の効果もあって、圧倒的に低い。残念ながら治療の甲斐なく亡くなっているのは、重い障害がある方や、余命半年と宣告されたような末期ガンの患者、認知症で自力でご飯を飲み込むことも困難な方などです死因に「○○ガン」と書くとコロナの診療報酬加算が取れなくなりますからコロナ死に計上されますが、ニュースで大々的に「コロナ死亡者何人」と数字だけが一人歩きしている。実情とはかなり乖離していると思います

 

B 「重症患者」「中等症患者」という定義も曖昧です。コロナ専門病院によっては、職員が燃え尽きて大量離職しないように「コロナで重症化したら大変な人」を重症患者扱いして個室に入れ、その結果、コロナ以外の重篤な患者を断っているところもあると聞きました。

 

A 昨年、病状が悪化した妊婦が入院できず、お腹の赤ちゃんが助からなかった悲劇は、全国の医療従事者にとって衝撃でした。ガンや難病で治療中の患者や妊婦が重症化しないよう、あらかじめ入院を勧めています。あとはBさんが言っていたように、オミクロン株が流行してからは、過度の肥満の中高年が入院するケースが多くなった。体重100キロ前後のご主人の世話を持て余した奥さんから、「看病もキツいし、家で倒れられても、救急車で運び出すこともできない。頼むから入院させて下さい」と懇願されます。もともと肥満で気道が圧迫されている上に、オミクロン感染は喉が腫れ上がるので、急に呼吸が困難になるのです。

 

【2】退院を拒否する患者の家族

B コロナ病棟は重症者というより、家族が面倒を見きれない患者のたまり場です。だから「症状が軽くなったから退院して下さい」と伝えても「嫌です」と断られる。家や施設に戻されても厄介なので、退院に応じてもらえないのです。だからベッドが空かない結果、事故や急病で救急搬送される患者を受け入れられない事態を招きます。これは医療崩壊とは違うと思います。認知症患者や超肥満患者のオムツを交換し、体の向きを変えるだけで、真冬だというのにもう汗だく。あまりのキツさに辞めていく人もいますね。

 

A だから政府は「重症でなければ4日で退院」という方針に転換しました。そもそも病院に重症患者なんていないことは、岸田内閣も専門家会議もよくわかっているんです。政府のコロナ対策に科学的根拠なんて存在しない。自民党員の大半は高齢者です。高齢者が病院に入院できない、高齢者にワクチンが打てない、それじゃあ夏の参議院選挙に勝てない、と。だからダラダラとまん延防止策を延長するしかないわけです。

 

─なるほど。ところで今、発熱外来には患者が殺到して大変なことになっているようですが‥‥。

 

C 患者が殺到する理由は、コロナが怖いのもあるでしょうが、熱が出たというだけでパニックになる人が多いからです。「40度の熱が出ました」と救急車を呼ぶ家庭もあります。患者が爆発的に増えているのは確かですが、それは薬局で販売されている検査キットが元凶です。検査キットで陽性となっただけではコロナ患者と確定しないので、発熱外来に殺到します。そして陽性患者が1人出れば、濃厚接触者になった人も発熱外来やPCRセンターに押しかける。そこで感染が広がる‥‥と、検査のしすぎで悪循環に陥っているのです。1月末に国が検査をせずに陽性患者として扱う「みなし陽性」診断を認めましたが、あれも医療現場を混乱させた。しかも持病のある人にだけ処方が認められているコロナ治療薬「モルヌピラビル」(販売名:ラゲブリオ)を処方するにはPCR検査の必要があるため、1人の患者さんを何度も診察しなければなりません。

 

A PCR検査を積極的に行っている東京・世田谷区のコロナ陽性者数が突出しています。世田谷区は人口も多いのですが、累計陽性者数は約5万3000人(2月10日時点)。人口2位の練馬区や3位の大田区と比較しても飛び抜けている。

(「週刊アサヒ芸能」2月24日号より)

https://asagei.biz/excerpt/39179

https://asagei.biz/excerpt/39182

https://asagei.biz/excerpt/39188

 

上記記事を要約するとこうだ。

①マンボウ等重点措置の効果はない。

➁政府は夏の参院選のため、効果のないマンボウを地方自治体に丸投げしてグダグダ続けている。

➂2類から5類に下げない政治決断のなさの結果、経済を圧迫し犠牲者が、飲食店、酒屋、観光地などに及んでいる。

➂医療逼迫の実態は家族が看切れない老人や100キロ以上の肥満者であり、退院を催促しても家族が断わるという。

④亡くなっている方は「重い障害のある方」「末期がん患者」「認知症」などで、これらを「コロナ死」とすることで「コロナ診療報酬加算」が貰える。

⑤実際は純粋なコロナ死がいないのに、コロナ死にしてマスコミは「死者何人」と数字だけ報じる。

⑥混乱の原因はPCR検査のやり過ぎである。

国の発表の大ウソで一番困っているのは国民である。

【武田邦彦】某テレビ局トップが私に暴露した内容がヤバすぎる・・・ 今回はマスコミによるウソ報道についてノーカットで徹底的にブチまけます!

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沖縄タイムスに中国の工作資金!「沖縄紙に中国資金」と「誤記」 米有力研究機関報告書 慶大教授発言を引用

2022-02-20 12:24:15 | マスコミ批判

 

 

狼魔人日記

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細谷雄一慶応大学教授が「沖縄の新聞に中国の工作資金が間接的に入っている」と公表した件は、沖縄タイムスが抗議したにもかからず、まだ決着はついていない。

と言うよりも、沖縄タイムスが有耶無耶にしているので、「沖縄の新聞に中国の工作資金が間接的に入っている」と言う細谷教授の発言は事実と言うこと。

 

細谷慶大教授「沖縄紙、中国からお金を貰っている」

名指しもされていないのに自ら名乗り出た沖縄タイムス。

図星だった!

 

 

 

「沖縄紙に中国資金」と誤記 米有力研究機関報告書 慶大教授発言を引用

2020年8月15日 05:00 ※「誤記」ではない。間接的に中国資金が入っている。

 米有力シンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)がまとめた「日本における中国の影響力」と題した報告書に、中国政府が「沖縄の新聞に資金提供し影響力を及ぼしている」との誤った記述が含まれていることが分かった。政府の審議会委員などを務める日本人研究者の発言で、研究者は「誤解を招きかねない表現になった。中国が沖縄の新聞に資金提供しているという根拠や認識はない」と説明した。(2面に関連)

 報告書は7月23日に公表された。米国務省でプロパガンダ対策を担うグローバル・エンゲージメント・センターの支援で、コロンビア大教授などを歴任した国際政治学者のデビン・スチュワート氏が、専門家40人のインタビューなど2年間に及ぶ調査結果をまとめた。

 スチュワート氏は「メディアを通した中国の影響力行使の最も重要な標的は恐らく沖縄だろう」と記述。慶応大の細谷雄一教授(国際政治学)の発言として、「中国は日本に影響を及ぼすため間接的な手法を採用している。例えば沖縄独立と米軍撤退を追求するため沖縄の新聞に資金提供し、影響を及ぼすことを通じて沖縄の運動にも影響を及ぼすような非公然ルートがある」と引用した。

 スチュワート氏は本紙取材に対して「細谷氏には報告書の発言部分の記述を確認してもらった」と説明。事実関係を自身が確かめたかどうかなど、その他の質問には答えなかった。

 細谷氏は本紙に対し、「中国が大きな予算を使って対日世論工作を展開していて、米軍基地がある沖縄が主戦場なのはよく知られた事実だが、手法はあくまで間接的だ」と述べた。CSISには「よりニュアンスが伝わる形での修正を求めた」という。

(平安名純代・米国特約記者、編集委員・阿部岳

提供の事実ない

本紙 訂正求め

 沖縄タイムス社は「本社が中国政府から資金提供を受けている事実はない。著名なシンクタンク、研究者が根拠のない見解を公表していることは残念で、訂正を求めたい」とコメントした。

【おまけ】

公安調査庁「中国が沖縄分離運動を支援している!」→ 中国外務省「………」

 
20170714224743b0bコメント


【ツイッターの反応】

               ★

 
沖縄タイムスは、沖縄2紙が中国から「間接的」に資金提供を受けていると、政策研究機関「CSIS」に報道されたことに脊髄反射した。
 
CSISが根拠にした細谷慶大教授の指摘が、あたかも誤りであるかのような「否定報道」に懸命だ。
 
ちなみに細谷教授は、沖タイの質問に次のように答えている。
 
「中国が大きな予算を使って対日世論工作を展開ししていて、米軍基地がある沖縄が主戦場なのはよく知られた事実だが手法はあくまで間接的だ
 
(CSISには)よりニュアンスが伝わる形での修正を求めた
 
6月15日の沖タイ報道以来、4日経過した本日19日、沖タイはコラム「大弦小弦」を使ってデマと断定している。
 
だが、細谷教授は沖縄紙と指摘はしたが沖縄タイムスと名指ししたわけではない。
 
>細谷教授は本紙の指摘を受け、記述の修正をCSIS側に求めたという
 
これこそ沖タイお得意の誤報(デマ)である。
 
細谷教授は沖縄紙は資金を受けているのは事実だが、あくまでも「間接的」であると主張しているが、資金提供を否定した訳ではない。これは誰が読んでも明白だ。
 
 
 
つまり細谷教授の指摘は間接的資金提供であり、沖縄紙が直接現金を受領したり、送金を受けているという意味ではない。
 
細谷教授がCSISに修正を求めたのは、「間接的」と分かるニュアンスに修正を求めたのであり「沖縄紙が資金を受けている」こと自体が「デマ」だと言っているわけではない。
 
にも拘らず、沖縄タイムス一紙のみが「デマ」だと大騒ぎする根拠は何か。
 
沖縄タイムスが「直接」中国から資金提供を受けていないとしても、琉球新報を始めた八重山日報、八重山毎日、宮古毎日等の他紙にか確認の取材をしたのか。
 
しかも、細谷教授が「間接的」と指摘する以上、沖タイも含めて簡単に「デマ」と言い切れるものではない。
 

[大弦小弦]「中国が沖縄の新聞に資金」というデマ

2020年8月19日 07:20

 沖縄を巡る事実誤認はここまで来たか、と暗たんたる気持ちになった。米国の有力な政策研究機関「CSIS」が報告書に、誤った記載をした中国政府が「沖縄の新聞に資金提供し、影響力を及ぼしている」と▼沖縄の新聞社に中国のカネが流れているというデマは、ネットを中心に流布されてきた。ただ、一般の市民がささやくうわさ話とは、事態の深刻さが全く違う▼CSISは全米に1871ある研究機関の中で、ランクが1位。 米政府の政策決定に影響力がある、名門中の名門だ。記述したのは慶応大の細谷雄一教授だが、掲載した側の見識を問いたい。「あのCSISが載せたから間違いない」と誤りが一人歩きしかねない▼(略)私たちは「事実はこうですよ」と書き続けるしかない。細谷教授は本紙の指摘を受け、記述の修正をCSIS側に求めたという▼(略)沖縄の尊厳を傷つける言説には、紙面で何度でも反論する(吉田央)

               ★

細谷教授は沖タイの取材に対しこう述べている。

「中国政府が沖縄の新聞に資金提供」という発言は「前後を読めば直接の提供でなく間接的な手段だと理解してもらえるはずだが、切り取られてネット上で広がっている」と話した。

中国が沖縄の世論やメディアに働きかけている意図は明確だとした上で「結果は別。中国によくない印象を持つ割合は本土より沖縄が高いという調査結果もあるり、成功しているとは言えない」と分析した。

最後にもう一度、沖タイ「大弦小弦」の誤報を指摘しておこう。

細谷教授は本紙の指摘を受け、記述の修正をCSIS側に求めたという

これは明らかな誤報である。

細谷教授は、中国の資金提供は「間接的手法」であるとのニュアンスが伝わるように修正を求めたのであり、

資金提供そのものが誤報であると修正を求めたのではない。

沖縄タイムスが、このような姑息な手段(デマ)を弄して迄も中国政府の資金提供を否定する理由は何か。

沖タイが、「間接的資金提供」を受けているという何よりの証拠ではないか。

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すり抜ける富と知 沖縄復帰50年(1)米基地工事に本土企業

2022-02-20 09:27:11 | ●●沖縄の黒歴史

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すり抜ける富と知 沖縄復帰50年(1)米基地工事に本土企業 圧倒的資金で次々受注

2022年2月19日 08:59有料

 「松村組、清水組、大林組。米軍の工事を請け負い、もうかっていたのは本土業者ばかりだった」

 終戦からほどない1950年初頭。沖縄で米軍基地建設工事が本格化した。建設作業を間近で見てきた饒辺永太郎さん(86)は、キャンプ瑞慶覧近くの自宅で、70年前の様子を述懐した。

□    □

 凄惨(せいさん)な沖縄戦で灰燼(かいじん)に帰した沖縄。日本政府は27年間の米軍統治を経て72年、日本に復帰した沖縄へ振興策を始めた。「本土との格差是正」「自立的経済発展」を目標に掲げ、50年間で13兆円の予算を投じた。

 だが、79年度からの41年間で国が発注した県内公共工事のうち、受注額の半分近い46・3%、金額で1兆1854億9452万円は本土企業が受注していた。

 国の予算が沖縄を素通りし、本土へ富が蓄積する「還流」の構図だ。その源流をたどると、終戦直後の米軍基地工事に行き着く。

□    □

 49年12月、米軍基地建設に向け、46人の技術者が沖縄に降り立った。鹿島建設、間組、大林組。いずれも本土の建設大手10社の社員で、翌年からの本格的な基地建設に向けた測量と設計のために、連合国軍総司令部(GHQ)が選抜したメンバーだった。

 当時、米国とソ連の対立で冷戦の兆しが見え始め、49年には中華人民共和国が建国された。GHQはアジアでの軍事的拠点として沖縄を重視。沖縄の恒久的使用を決め50年2月に基地建設を開始すると発表した。

 嘉手納弾薬庫、基地内住宅や教会、牧港の倉庫群、軍用道路1号線(現国道58号)-。現在の米軍基地の骨格となる工事が次々進められた。

 沖縄現代史を研究し基地建設の歴史に詳しい鳥山淳琉球大教授は「米国の予算で米兵と家族が快適に生活する空間をつくっている。長期的な使用判断を裏付けるものだ」と指摘する。

 嘉手納弾薬庫、牧港倉庫群は大林組、軍道1号の那覇-嘉手納間は間組など、本土の大手業者が工事を請け負った。業者は各地に拠点となる事務所や作業員宿舎を建設した。

 北中城村瑞慶覧では東京の「隅田建設工業」が拠点を構えた。地域住民は、現在の瑞慶覧交差点近くの「大平バス停」を「隅田前」と呼び、瑞慶覧区の字誌には、作業終わりの労働者たちが商店の店先で酒を飲みにぎわった様子から、当時を「隅田時代」と呼んでいたとの記述も残る。

 だが、「にぎわい」の元は、米軍工事を元請けとして受注した本土業者だった。この時代、一部大手を除き、圧倒的な資本力の差で沖縄の建設業者が工事の受注元となることは、ほとんどなかった。

 饒辺さんは「瑞慶覧周辺にはどんどん基地が造られ、隅田建設も大きな屋敷に泊まり込んでいた。基地内の住居や兵舎建設を手掛けたのは、ほとんどが本土業者だった」と振り返った

 (企業名は当時。政経部・大野亨恭)

◇     ◇

 沖縄は日本復帰から50年を迎える。5次にわたる振興計画の下、多額の予算が投じられたが自立経済は道半ばだ。沖縄に蓄積するはずの「富」や「知」がどこへすり抜けているのか。実態を検証する

               ★

この記事からうける印象は、戦後5年で沖縄復興のため本土の大手建設会社が次々と沖縄入りした。そして地元建設会社をさし措いて「富を独占した」というもの。

その当時本土ではGHQの公職追放が官民問わず実行中であった。

だが、沖縄だけは公職追放は行われなかった。

沖縄で公職追放が行われなかった理由は人材不足である。

そのため本土では公職追放の標的になった大政翼賛会の幹部だった当間重剛が行政主席になったり同じく大政翼賛会の総務を務めた瀬長亀次郎が新聞社の社長を務めたり那覇市長を務めた。

当然当時の大手建設会社の幹部も公職追放の対象となる筈だったし財閥解体の対象であった。

ところが、沖縄の建設業界も人手不足と技術不足のため、米軍工事を元請けとして受注したのは専ら本土業者だった。この時代、一部大手を除き、圧倒的な資本力の差で沖縄の建設業者が工事の受注元となることは、ほとんどなかった。基地内の住居や兵舎建設を手掛けたのは、ほとんどが本土業者だった。

つまり、地元業者では実行不可能な技術力の差が「すり抜ける富」と表現された。

 

コメント (2)

沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

2022-02-20 07:21:14 | 資料保管庫

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沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪2009-08-28 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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沖縄タイムスが沖縄戦に関して多くのデマを流し沖縄戦を歪曲したことを書いてきた。

沖縄タイムスの歴史歪曲の罪は大きい。

『うらそえ文藝』が、過ちを訂正して謝罪せよと告発に踏み切ったのは、良識ある県民の意志を肌で感じたからであろう。

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、

1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、

「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、

その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、

沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、

「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、

33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道しかしないが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

元赤松隊一行を見送るため渡嘉敷港で穏やかに記念写真に納まる渡嘉敷村民



これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内でのみ読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、

あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の

「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている。

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、

赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、

赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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【核兵器】ロシアが米欧に警告 「一線越えれば全面戦争」

2022-02-20 05:11:09 | 外交・安全保障

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沖縄タイムス紙面掲載記事

[表層深層]ロシア侵攻に現実味 「親ロ派住民保護」名目か 大規模避難 爆発や砲撃も

2022年2月20日 05:00有料

 バイデン米大統領が18日、ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を決断したと表明した。侵攻起点になる可能性があるウクライナ東部の親ロ派支配地域では、実行者不明の爆発や砲撃が相次ぐ。親ロ派は「ウクライナ軍の全面攻撃が迫っている」と主張、ロシア領への住民の大規模避難を始めた。「攻撃からの住民保護」を名目にロシアが軍事介入するシナリオが現実味を帯び始めた。(1面参照)

 ウクライナ東部ドンバス地域の親ロ派「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」の周辺ではここ数日、ウクライナ政府軍との交戦が激化。親ロ派は政府軍が市民の居住地域に迫撃砲を撃ち込んでいると主張するが、ウクライナは「プロパガンダ(宣伝工作)」(クレバ外相)と反論している。

 「ウクライナのゼレンスキー大統領が、間もなく攻撃を命じる」

 18日には、ドネツク人民共和国トップのプシーリン氏が避難を呼び掛けるビデオ声明が公表された。70万人が対象の大規模計画だ。ロシアのウォロジン下院議長は「ゼレンスキー氏は大戦争が起きるよう挑発している」と非難。自国民保護のためであれば「ロシアは立ち上がる」と警告した。

 ロシアのテレビはサイレンが響く街頭や、母親に手を引かれた子どもらが夜間にバスで脱出する様子を放映。1万人以上がロシア南部ロストフ州に逃れた。プーチン氏は避難民1人につき1万ルーブル(約1万5千円)を支給するよう指示した。

 18日夜から19日未明にかけては主要都市ドネツクとルガンスクの「政府庁舎」近くやガスパイプラインで少なくとも3回の爆発が起きた。ルガンスク人民共和国の当局は「破壊工作だ」と断じたが、親ロ派の自作自演の可能性は捨てきれない。

常とう手段 「ロシアが前に用いたやり方と同じだ。行動をうそで正当化しようとしている」。バイデン氏は18日の演説で、ウクライナ政府軍の親ロ派攻撃計画について「何の根拠もない」と否定、ロシアが攻撃に踏み切る言い訳を捏造(ねつぞう)していると訴えた。

 米英メディアはプシーリン氏の避難要請ビデオを解析したところ、実際には2日前につくられた映像だったと報じた。事実であれば爆発の連続で緊張が高まる前から、避難要請は既定路線だったことになる。米当局は、親ロ派が危機を扇動する準備をしていたと疑う。

 米国家安全保障会議(NSC)でロシア・欧州担当上級部長を務めたヒル氏は2008年のジョージア(グルジア)紛争で、ロシア側が偽装工作によって侵攻の口実をつくった経緯に触れ「長年にわたるロシアの常とう手段だ」と指摘した。

不安広がる ロシアは兵力を着々と増強。オースティン米国防長官はロシア部隊が「攻撃態勢にある」と述べ危機感をあらわにした。

 バイデン氏の演説でロシアの攻撃対象になり得ると名指しされたウクライナの首都キエフ。会社員の男性バディムさん(25)は19日、侵攻を巡る情報が乱れ飛ぶ状況に「もう疲れた」とうんざりした様子だった。

 ロシア国境に近い東部ハリコフの会社役員イホルさん(37)はプーチン氏について「ウクライナをそっとしておくような人ではない」と指摘。「侵攻はありそうだ」。ウクライナの人々の心に確実に不安が広がっている。

(写図説明)ウクライナ東部の状況

(写図説明)19日、ウクライナ東部の親ロ派支配地域「ドネツク人民共和国」からロシア側に避難する娘を見送る父親(ロイター=共同)

2022年02月19日

 

【核兵器】ロシアが米欧に警告 「一線越えれば全面戦争」

1 名前:影のたけし軍団 ★:2022/02/19(土) 21:02:35.74 ID:DT7nr9gR9
20220219at42S_p一線越えれば「全面戦争」 ロシア演習、米欧に警告
ロシアは軍最高司令官のプーチン大統領の指揮下、核弾頭を搭載可能なミサイルの演習に動いた。

北大西洋条約機構(NATO)不拡大を含むロシアの提案をめぐり、米欧との交渉が進む中で出されたメッセージは、ウクライナのNATO加盟というレッドライン(一線)を踏み越えれば全面戦争も辞さないという警告だ。

ロシアが昨年12月に示した提案には欧州でのミサイル配備制限も盛り込まれ、米欧もこれに応じる方向。ロシアはさらなる譲歩を引き出したいところだ。

NATOに比べ通常戦力で劣るロシアにとって、核戦力は安全保障の要。

大量破壊兵器で攻撃された場合だけでなく、通常兵器で国家の存立が脅かされた場合も核兵器を「先行使用」できるとの基本方針を堅持する。

ロシアは昨年来、10万人以上の軍部隊を国境付近に集結させ、勢力圏と位置付けるウクライナがNATOに傾斜しないよう威圧。ミサイル演習は緊張を極限まで高めるものだ。

ロシアは自国の核兵器使用基準が低いことを示してNATOを萎縮させ、ウクライナへの軍事支援を踏みとどまらせて「将来の加盟国候補」との間にくさびを打ち込む狙いとみられる。

ウクライナには、ロシアに「奪われた」南部クリミア半島と東部ドンバス地方を力づくで取り戻すべきだという強硬論も一部にある。

プーチン氏は7日、NATO加盟でこうした意見が勢いづけば「勝者のいない」核戦争になると強くけん制した。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2022021900459&g=int
2: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:02:48.90 ID:HguC0jtV0
は?

4: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:03:26.20 ID:7MJRkNkT0
警告キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

9: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:03:55.20 ID:09SIpHMp0
第三次世界大戦キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

12: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:04:12.05 ID:uoNLC/Bc0
いやあんたらが超える側だろ

17: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:04:23.78 ID:93wawqns0
てめーがウクライナ周辺でウロチョロして一線越えようとしてんだろ

24: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:04:49.79 ID:Fa8SlWaa0
侵攻しようとしてるのは一方だけだしな

26: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:04:55.24 ID:p5RN19JQ0
いったい何が始まるんです?

32: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:05:17.16 ID:G/s6Wk/S0
よろしいならば核戦争だ

35: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:05:24.99 ID:3nbDn28q0
プーチン必死やな。
よほど切羽詰まってるんだ。

41: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:05:45.42 ID:QV4NpzXe0
宣戦布告やん

40: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:05:42.62 ID:ggokMMOJ0
xlhu9ED

43: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:05:56.07 ID:bezqTIip0
まあ、大抵は威勢の良いほうが劣勢ということ 北朝鮮しかり

58: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:06:19.79 ID:/y/AOD840
めんどくせえ国やな
北朝鮮やんけ

55: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:06:17.23 ID:ZT1Vj/8X0
日本消滅しちゃうよお😭

63: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:06:40.28 ID:FZlodwqZ0
ちょっとモヒカンにしてくるわ

68: ただのとおりすがり 2022/02/19(土) 21:06:52.52 ID:Stg/GnOS0
北海道がロシア領になる日も近づいたな

75: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:07:20.36 ID:vKaflQLt0
北方領土が戻るチャンスなの?

79: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:07:30.77 ID:bmEz5AJu0
怖ロシア

83: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:07:44.58 ID:triWPY+h0
お互い譲らんし謀略だらけだし
もう世界は終わるのかな

87: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:07:51.73 ID:AocnnNDd0
プーチンがただのキチガイに

94: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:08:05.03 ID:o72oU1+V0
プーチンさんもう戦争したくてたまらない感じだな

105: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:08:42.39 ID:Jk1UFzfM0
プーチンは、振り上げた拳を下ろせないから迷走してんな

103: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:08:32.30 ID:WD6dhqWx0
グレートリセット来る!

108: 通りすがりの一言主 2022/02/19(土) 21:08:55.34 ID:9xNLNe1C0
>>1
核なんてつこうたらそれこそロシア終わんの分かってるやろ?
脅しとしてはイマイチやでw

118: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:09:16.23 ID:uU4ku/Xu0
アメリカ本土に核ミサイルの雨が・・・

121: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:09:18.98 ID:GI7xLD880
これを機にロシアを徹底的に潰してくれよ

126: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:09:35.02 ID:fwbm+2kC0
都合が悪くなると核で脅すんだから
もう犠牲覚悟でアメリカさん頑張っちゃえよ

129: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:09:39.02 ID:9QzJs2E70
第三次世界大戦になったら中国が攻めてきて占領されるのに。

137: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:09:53.55 ID:2GcG0dYT0
バイデンも「なんだとコラ、やってやるよ」くらい言えよ

143: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:03.56 ID:w/AhPz090
一線を越えればとか言うが、ロシア軍がウクライナの国境を越えなければ、なんの問題もないのだが。

プーチンはウクライナがロシアの領土とか勘違いでもしてるのか?

144: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:04.50 ID:sSYHxX3z0
先に言ったもの勝ち

145: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:07.27 ID:j4mb6e2N0
中国と北朝鮮も呼応するか?

149: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:22.87 ID:GyJ6+D/U0
日本は千島列島と樺太奪還のチャンスだろ

自衛隊の準備はしているのか?

153: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:27.65 ID:vnXt5eO40
全面戦争とか言ってるうちは大丈夫だろ
黙り始めた方が怖いわ

169: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:10:52.62 ID:WVEm0xbg0
核ミサイルは何故か東京へ向けて発射されるのであった

174: 通りすがりの一言主 2022/02/19(土) 21:11:08.90 ID:9xNLNe1C0
ロシアが核のボタンを押せば西側諸国の核が一斉にロシアに向かうことになるでw

181: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:11:35.01 ID:ei2L6F140
五輪の閉会式終了で開戦な

185: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:11:48.41 ID:ZX1LSa0J0
ノストラダムスちょっと間違えたな西暦を

196: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:12:12.45 ID:eCRZB5fX0
日露中立条約を結んで巻き込まれないようにしろよ

198: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:12:13.26 ID:r7c/KgNd0
プーチン強気に見えるが、かなり追い詰められてるね
しかしロシアは引かないだろう

213: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:12:47.73 ID:xxvbnV290
まあそうなるよな
アメリカも十分挑発してるし

214: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:12:53.70 ID:FZlodwqZ0
習近平「どっちも潰れろ!」

223: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:13:15.30 ID:3nbDn28q0
ロシアは負けて敗戦国になる。
国連の常任理事国からも外されて涙目。

225: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:13:17.87 ID:ydc4q1Gp0
オリンピック見てるとあながちあり得なくないような…

229: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:13:30.80 ID:VL++TmGu0
ツァーリボンバ花火が見れるのか

246: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:08.39 ID:/UtRk6vO0
とりあえず持ち株は全部売りました
戦争カモン

244: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:05.97 ID:WBezouU60
ウクライナのNATO加盟を勝手にレッドラインに設定すんなクソロシア

247: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:08.47 ID:zd1x0+2B0
核も随分軽くなったものだな。
自国の被害でもないのに、何考えてんだ?
キチガイめが、、、

252: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:19.47 ID:61ezLwd80
結局、日本も核武装しないとこうやって脅迫された時に泣き寝入りするしかなくなるんよなぁ…

263: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:40.92 ID:U+hjDDKC0
ツァーリーボンバー一発でアメリカ大陸終了だな

264: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:40.90 ID:RAFNn0S80
NATOとロシアが戦争始めたらロシアは勝算ないやろ
モスクワが核の飽和攻撃受けてジエンドやで

267: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:45.03 ID:E6pgTTk60
これでアメリカ主導の世は終わりになるんやな

269: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:46.73 ID:qeQ6JVgT0
すぐ核に頼るロシア
拠り所が核にしかないんだね

276: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:14:56.62 ID:E/FNSwZb0
全面戦争になったらロシアの経済がどうなるのか楽しみ

289: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:15:17.66 ID:VtYYi1LD0
バイデンのうちにやるだろそりゃ
敵の大将が認知症なんやぞw

292: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:15:21.68 ID:o2eQbxjE0
核戦争か
人類が滅びるね

304: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:15:48.70 ID:noVrFQB50
警告とかいらんから早く殺し合えよ。戦争は最大の娯楽だわ

310: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:15:59.27 ID:A7RAYIR10
また美味しい日本料理出すからやめろよ

316: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:06.76 ID:ross3gXP0
越えちゃいけないライン考えろよ?

325: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:19.96 ID:bZphNsjP0
核を落としたもの勝ちだということは米が証明してるやろ
やれや

329: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:30.83 ID:onEuvMWh0
本当に戦争したらロシアが消滅しそうだけどな

331: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:32.36 ID:fy9g5akF0
>>1
ここで引いたらプーチンもさすがに格好つかないから必死だな

333: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:33.19 ID:2lJlXca90
フィギュアスケートの件でよく分かったけどロシアは無辜の民を躊躇なく殺せるであろうことは確かだ

337: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:38.75 ID:2n2MGA2T0
んな事してロシアになんのメリットがあるんだ
何に行き詰ってるんだロシアは

341: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:43.62 ID:DDiymqh50
まぁ負けるのはロシアだろうけど被害は西側諸国のほうが大きいだろうな。
日本も核ミサイル10発くらいくらうかも

347: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:16:53.30 ID:L65TPdxt0
直接核兵器で殺されるというより、EMPで文明レベルが中世になりそう。

366: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:17:14.32 ID:TqZ/eWNl0
日本に核が落とされないように頑張れ外務省!

384: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:17:58.05 ID:ICnkjGCa0
おう岸田
どさくさに紛れて核武装な
忘れるなよ

396: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:18:20.59 ID:zyiivPku0
うっかりボタン押してみて

400: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:18:24.32 ID:J5TByZzu0
2020年代でこういう緊張状態を見れるとは

415: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:18:52.29 ID:M6EZXALD0
ペヤング買い占めなきゃ

446: ニューノーマルの名無しさん 2022/02/19(土) 21:19:41.15 ID:MWp6tvW00
とりあえずトイレットペーパー買い増ししてきた


元スレ:https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645272155/
 
コメント

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2022-02-19 17:28:03 | 政治

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2021-06-10 00:52:48 | ★改定版集団自決

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沖タイの歪曲記事、徳嵩氏、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2012-05-12 

 

                 ☆

■沖縄タイムス 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

             ☆

 

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知の通りである。

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続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」

2022-02-19 16:15:18 | 政治

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続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」2012-05-01

 

 パンドラの箱を開けた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。


 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。―


 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」


 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。


 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて新聞で発表した。『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している。


 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。


 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている。」初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。 (つづく)

            ☆

■八重山日報 2012年5月1日

 

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

             ☆

我々は「言論の自由」などと気軽に言うが、発表する場所の無い言論など一片の紙屑にすぎない。

だが弾圧され、言論封殺された言論が逆境を乗り越え一旦日の目を見ると、本来の価値に加えて輝きを増し、その反動で読む人の胸を打つ場合がある。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんの著作「慶良間で何があったのか」が、それだ。

琉球新報が「社の方針と異なる」という理由で掲載拒否したことを、「慶良間で何が起きたのか」を本日の完結編まで読んだ人なら容易に理解できるだろう。

仮に琉球新報が読者を舐めきった暴挙に及ばず、そのまま上原さんの連載記事を継続していたらどうなっていたか。

勿論「言論封殺」で訴えられることもなかった。

「慶良間で何が起きたのか」の記事がネットに載ることもなかった。(琉球新報はこの種の連載記事はネットには載せない) 

したがってこのようにネットを通じて「幻の原稿」が全国に拡散されることも無かったはずだ。

琉球新報が必死になって封殺しようとした「慶良間の真相」は、皮肉にも、琉球新報自身の「言論封殺」により全国読者の耳目に触れる機会を与えられたことになる。

さらにもう1人、「幻の原稿」に輝きと弾みをつけた功労者の名を忘れてはいけない。

南の島の小さな新聞八重山日報だ。

沖縄の代表的新聞琉球新報に反旗を翻すことは、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」で同じ記者クラブに属する弱小新聞としては、かなり勇気の要ることだ。

さすがの八重山日報も上原さんが琉球新報を提訴した経緯を書いた拙原稿を寄稿したときは、琉球新報社の社名を「R社」にする気の使いようだった。

だが八重山日報はあえて上原さんという火中の栗を拾った。

八重山日報の決断は、閉塞した沖縄の論壇に風穴を開けたことになる。

八重山日報の勇気ある行動にはいくら賛辞を送って余りあるものがある。

           ☆

 

上原さんの原稿に登場する比嘉(安里)喜順さんは4年前の2008年、94歳の天寿を全うされた。

「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。

ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。

本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。

結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。

昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。

 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。>(「沖縄県警察史」より)

軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。

平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。

だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。

新任の安里巡査は、

島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。

島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった

ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。

防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。

小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。

これが「集団自決」問題を複雑にしている。

防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。

手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。

 

次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 
私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)

軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。

だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。

日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、

「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。

その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
   

■安里巡査を取材していた地元作家■

安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。

勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、

「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。

4年前の2008年、比嘉(旧姓安里)喜順さんは94歳の天寿をまっとうされた。

重要証言者の死

 

「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。

例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。

安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変った。

「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。

これは上原さんの原稿を掲載拒否した琉球新報の言論封殺と軌を一にする。

 

安里巡査を取材した本土新聞記者■

「世界日報」の鴨野記者が安里元巡査を取材した記録がある。

記録保存のため同記事を以下にコピペする。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」


戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。

古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。

彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」

と率直に吐露。

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

http://www.worldtimes.co.jp/ HPから日本初の電子新聞が読めます。 2007年 臨時増刊号

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安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

2022-02-19 13:14:26 | 資料保管庫

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沖縄県が日本復帰50年の節目に『沖縄現代史』を刊行するという。

沖縄2紙に歪められた戦後沖縄の黒歴史が公的刊行物として歴史ロンダリングが行われるのを危惧する。

本日登場する安里巡査(戦後比嘉と改名)は、渡嘉敷島の集団自決現場に立ち会った重要証人だが、同氏が戦後沖縄に在住しているにもかかわらず、彼に取材した沖縄メディアは一人もいない。 

現場に立ち会った重要証人に取材すると不都合な事実が露見するからだ。

 

安里巡査の証言、「沖縄警察史」より2012-04-30

琉球新報が己のイデオロギーを守るため掲載拒否した上原正稔さんの連載沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」

その核心部分である「慶良間で何が起きたのか」が現在、南の島の小さな新聞「八重山日報」で連日好評掲載中である。

同時にこの幻の原稿は沖縄戦研究者の注目を浴びている。

琉球新報の面目はこれで丸潰れである。

琉球新報の独善的な掲載拒否により知る権利を奪われた読者の怒りが今、燎原の火の如く県内に広がりつつある。

筆者の知人にも上原さんの原稿を八重山日報で読んで怒り心頭のあまり琉球新報の購読を止めた人が複数いる。

琉球新報の面目が潰れれば潰れるほど読者は離れていく。

石垣市の読者より上原さんの記事を読んだ感想をメールで頂いた。

重い内容ですが、「極限の事実」、しっかり受け止めて読みました。
それにしても琉球新報の読者の皆様にはお気の毒なことです。

琉球新報の罪は相当に重い、と思いますね。書き手の書物から事実を知り、
学ぶ、読者の喜びであり、知的財産です。これを奪う罪ですね。

石垣島より


■八重山日報 2012念4月29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

              ☆

 

上原さんの文中に登場する集団自決の証言者で、琉球新報の方針と異なる証言をする人は、例え県内に在住している人でも、沖縄メディアは決して取材することは無かった。

最近物故されたが、1945年3月当時渡嘉敷島の巡査をしていた比嘉喜順さんや赤松隊長と終始行動をともにしていた知念朝睦副官らがそうだ。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかけ、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護法による年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、知念さんや比嘉(安里巡査ー戦後比嘉家に養子で改姓)さんは当時成年であり信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。したがって「援護金」のために嘘の証言をする必要の無い証言者である

また知念副官も他所から赴任した島の血縁社会には無縁な軍人であった。

当時安里巡査は29歳で知念副官は25歳。 二人とも渡嘉敷の血縁社会には無縁であり、親族に「集団自決」の被害者のいない証言者であり、「援護法」に絡む嘘の証言の必要の無いよそ者であった。

年齢的にも、村の指導的立場の副官、警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんと知念さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「(沖縄2紙にとって)不都合な真実」を知っていたからである。

 

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する安里氏の証言を改めて読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

 

安里巡査の証言を「沖縄警察史」という公的刊行物より2回にわたって紹介する。

安里(比嘉)喜順氏の証言-1

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。

 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

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★沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2022-02-19 07:55:41 | 資料保管庫

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昨日の記事で「平和学者」で元県知事・大田昌秀の著書『二人の少女』を巡る大田の大嘘を暴露した。

実は、「二人の少女」については、ネタ本がある。 『鉄の暴風』の出版元である沖縄タイムスの記者で後の同紙の社長を務めた新川明の出版物だ。

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動2009-08-12 を編集・再掲します。

                ★

『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。

当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として沖縄紙の紙面を賑わしている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。

新川明

 

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。

                   ◇

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。

中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

 

 

■白旗の少女

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場する。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。

少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。

だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。

記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。

新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。

そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

 兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のように書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。
 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。

そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。

「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、そうではない。

相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている

コメント (1)

「いきなり出てきて警棒で」沖縄県警、眼球破裂の高校生から聞き取り 食い違い解消されず

2022-02-19 06:00:22 | マスコミ批判

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「いきなり出てきて警棒で」沖縄県警、眼球破裂の高校生から聞き取り 食い違い解消されず

配信

琉球新報

県警「軽率な投稿慎んで」

                 ★


新着順
この頃はね | 11時間前
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眼球問題ばかり取り上げているが、事の本質からそらそうとしているように感じる。
なぜこの事件が起きたのかを解明しないと駄目
その次になぜ少年が警察官と対峙することになったのか
制止する警察官になぜ少年が突っ込んだのか
制止しようとしている警察官の行為は正当だったのか
警棒を使用したのは制止するためだったのか身を守るために使用したのか
まずそこを解明しないといけないのでは。

警察官は職務により制止しようとしたがバイクが突っ込んできたので身を守るために
警棒を使用したと見るのが正当ではないだろうか。
しかし不幸にも少年の目を直撃してしまった。こう見るのが正しいのでは

返信503

38929
4349
hni***** | 11時間前
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琉球新報もメディアを名乗るのなら、この事件の現場やその時の状況を可能な限り再現して、公開すればいい。なんとなく、警察を悪者にしたいと言う意図が透けて見える。
どんな道路で、道路とか住宅や建物の配置、時刻、気象状況、バイクのライトの点灯の有無、バイク運転者のスピード、ヘルメットの着用の有無、バイク免許の有無、履物、服装、飲酒の有無などなど、分かる範囲で報道してはどうなの。
「突然に飛び出して来た!」と言う状況についても、確り前後の経緯を確認する必要があろう。
怪我をしたことが意外に大きく取り扱われているが、元はと言えば、逃走から始まった事なのではないのか。何故、逃げる必要があったのかね。過去にも、同様の迷惑行動をしていたことがあるのではないか。

返信180

23316
2025
yorosiku | 11時間前
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文春 1月30日記事では・・・
いきなり殴られた恐怖で逃げた。殺されると思った。」と発言。

一貫して発言が変わらないとの記事ですが「殺されると思った」はどこへ消えたのですかね。
恐怖で逃げたのなら「殺されると思った」の方がインパクトが高いと思いますが・・・。
しかも、いきなり出て来たのなら、まず運転者は「ブレーキ」をかけないと危険極まりないと思いますが、何故、殴られる前にブレーキもかけずすり抜けようとしたのか。
猫や犬が急に出て来て止まれないにしても反射的に咄嗟にブレーキは踏むでしょう。
重要なのは、警察が出て来た時にどういう動作をしたのかって事がポイントでしょうね。
警察が極悪人と断定出来ているならまだしも、深夜にライト点けて反射して眩しい状況下なら、どんな人が運転しているかの確認は不可能でしょうから、まずは停止をさせるだけでしょう。
いきなり警棒で殴り付けるはあり得ないかと。

返信169

20246
2345
a22***** | 12時間前
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走行しながら向かってくるバイクを静止させる為に警官が警棒を持った手を咄嗟に伸ばしたら、それをかわして逃げようとした少年の目に運悪く当たってしまった。っていう気がする。

仮に警官が警棒で意図的にフルスイングで殴って来たら確実に転倒するだろう。衝突の後、走行し続けられたのだから“殴られた”っというより“あたった”という表現の方が適切に感じてしまう。

でも、職務中の警官も軽傷を負ってるわけで…これって轢き逃げしてますよね?

返信106

10567
597
kam***** | 11時間前
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日本の警察が暴漢に対処できずあたふたしている動画が
面白おかしく紹介されてしまってたりしますが
結局、力で対処するとこうなってしまうという所もあるんじゃないかなと思いますね
危険と隣り合わせの仕事でバイクと対峙して何ができたのか
もしかしたらもっと酷い事件になっていたかもしれないことを
身を挺して未然に防いだ可能性もあるわけで
高校生という言葉を強調するのではなく深夜にバイクで逃走しようとしていた男
と正しく表現するべきだと思いますけどね

返信59

7693
476
yos***** | 11時間前
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少年の言う様に警棒で目を突かれて眼球が破裂したとして、果たしてそれを証明できるのですかね。眼球が破裂するほどの衝撃を受けても運転が続けられるものなのか、逃走を続けた先で自分で転倒してぶつけて眼球を破裂したと捉える方が自然。もし、警棒で目を損傷したと言うなら激痛でその場で悶絶して動けないのが普通だと思いますけど。

返信46

4976
356
msa***** | 10時間前
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普通に考えると警察官が何もしていない相手に対して警棒を抜くはずはないと考えられます。また危険を回避する為に使ったとしても相手の眼球を狙ったりもしないと思う。
なぜこの様な状況になったかを考えると
少年にも問題はあったはず。
眼球破裂と大怪我をしてる為あたかも被害者のように書かれてたりしますが
バイクに乗ってて警察官が制止をしたのを振り切ろうとしたと思います。バイクに突っ込まれると見の危険を感じたから防御したのだと思います。また警棒が当たって眼球破裂したって彼はヘルメットを被ってなかったのか?被ってなかったのであればまたそれはそれで問題である。意見が食い違ってるのはどちらかが嘘をついてる事は明らかだが
怪我の事は一旦置いといて真実を突き止めてもらいたいですね。

返信24

2385
204
aka***** | 11時間前
非表示・報告

まずは警察官は海外のように常時録画できるカメラを胸に装備するのがいいと思います。お互いの主張が正しいのか正しくないのか、双方非があるとしたらその部分を隠しながら話しているのか、わからないです。
今後無駄な時間を費やさないためにも警察は常時録画して行動するのを薦めます。

返信23

3495
123
hwr***** | 9時間前
非表示・報告

記事を見て思ったことです。
 
新聞、ニュース、雑誌記事には、
高校生本人が直接、会話をしたような内容で、
1月27日から報道発表されていたのですが、
実際に高校生本人がマスコミの取材に応じて、
自分の言葉で応えられるようになったのが、
いつなのか気になります。
 
それから、通行人の目撃者がなくて、
監視カメラ等の映像がないとのことですが、
高校生本人からDNAの検体を採取して、
県警が科学捜査研究所に送ったものを鑑定して、
この鑑定結果などを基に、
接触当時の状況を詳しく調べて、
状況を再現することが可能なのかどうか
とても気になります。
 
また、鑑定結果などを基に
接触当時の状況を詳しく調べて得られた内容から
接触当時の状況を再現することができた場合、
この内容を元にシュミレーション映像にして、
公開していただけるのを期待します。
 
全ての謎が、科学的に解明されるのを期待します。

返信8

379
31
mik***** | 10時間前
非表示・報告

路上取り締まりにおいて、警察官が路上側面から飛び出して旗を振り降ろし停止を求めるのは一般的によく見る光景である。警察官の正当な職務執行として何ら問題なしと思われる。旗がなければ警棒などを差し出して停止を求められることもある。。これも職務執行
の一環として認められるはずだ。警棒等を使用することによって自身の身の安全を守る必要がある。今回の詳細は分からないが、警察官が飛び出していきなり警棒を振るって暴行するなどは到底考えられない。考えられるのは差出した警棒が不運にも目に強くあたったというのが真実ではなかろうか。

 

【おまけ】

沖縄タイムス+プラス ニュース

高校生の失明 採取したDNAと警棒の鑑定進める 沖縄県警「暴走行為していない」とSNS情報を否定

2022年2月18日 16:04

 1月27日未明に沖縄市宮里の路上でバイクを運転していた男子高校生(17)と巡回中の男性巡査(29)が接触、高校生の右眼球が破裂し失明した事案で、県警捜査1課は18日、男子高校生から事情聴取を開始し、採取したDNA鑑定を進めていると発表した。接触時に巡査が手に持っていた警棒などの鑑定も進め、その結果を踏まえ事実関係を明らかにしていくとした。

 捜査1課はSNSなどで一部事実誤認が拡散されているとして「男子高校生は当時暴走行為をしておらず、ヘルメットをかぶり、免許を持っていた。バイクは盗難車でもない」と説明した。

 男子高校生は聞き取りに対し「バイクで走行中にいきなり警察官が現れ、警棒で殴られた」「怖くなって現場から逃走した」と話しているという。記憶は明瞭という。

 また、自らの119番通報で「バイクの事故」としたのは「(警察官に殴られたと言えば)いたずらだと思われるので事故と通報した」と説明したという。

 

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コメント

バスに乗り遅れるな!「三国同盟」と「カーボンゼロ」

2022-02-19 05:16:00 | 政治

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三国同盟の「バスに乗り遅れるな」

日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに (角川新書)
アゴラの「カーボンニュートラルは21世紀の三国同盟」という記事が今ごろヘッドラインに上がっているので、82年前の日独伊三国同盟の本を紹介しよう。これが日米開戦へのpoint of no returnだったという歴史家が多いが、当時の政府部内では反対が強かった。

その情勢を逆転した主役は、松岡洋右外相である。彼は昔の外交官によくある「語学バカ」で、英語で1時間でも2時間でも原稿なしでしゃべったという。松岡は1940年7月に近衛内閣の外相として迎えられ、三国同盟の締結に奔走した。
 
前年からドイツ軍はヨーロッパで快進撃を続け、北欧やフランスを占領して、イギリスの陥落は時間の問題だと思われていた。イギリスのアジアの植民地を獲得するためには、日本軍は早く東南アジアを占領すべきだという火事場泥棒的な南進論が強まった。

対英戦争は、必然的に対米戦争になるので海軍首脳は慎重だったが、松岡は「対米戦争も辞さず」という強硬方針を打ち出した。日独伊がソ連と連携し、イギリスが降伏すれば、アメリカは中立を守るとみていたのだ。そのためヒトラーと会談して、日独伊ソ四国同盟の締結を提案したが、そのときヒトラーは対ソ戦を準備していた。


松岡の状況認識は今からみると荒唐無稽だが、当時はそうではなかった。東京日日新聞ロンドン特派員の「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行語になった。今でいえば「カーボンゼロに乗り遅れるな」という日経新聞のようなものだ。三国同盟が結ばれたときの新聞は、祝賀一色だった。

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そのバスとは、ドイツがヨーロッパを征服して民主主義の時代は終わり、全体主義の時代が来るという時代の流れだった。その「空気」は陸海軍の現場にも共有され、政府や軍の首脳もそれに屈服した。その点では対米戦争の意思決定は民主的に行われたのだが、そこには致命的な見落としがあった。
 

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★太田昌秀の黒歴史、嘘に塗れた多数の「沖縄戦記」の出版で「平和学者」に

2022-02-18 11:37:58 | 資料保管庫

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今年は沖縄が日本に復帰して50年の節目になる。

沖縄2紙やその紙面を飾るサヨク学者がこぞって捏造された沖縄の戦後史を出版するだろう。 さらに沖縄県も県費を使って沖縄現代史を刊行するという。

結果的に沖縄2紙やサヨク学者に歪められた沖縄の黒歴史が「沖縄戦後史」として公的刊行物となり、歴史に刻まれることになる。

■蟷螂の斧

沖縄の黒歴史が公的刊行物となり、沖縄の戦後史として歴史に刻まれることに対抗し、約20年にわたりブログ「狼魔人日記」に書き綴ってきた記事を蟷螂の斧と言われようとも、沖縄戦後史の資料集として刊行する予定である。

そして、沖縄県民を騙してきた「3悪人」として瀬長亀次郎、太田昌秀、翁長雄志を挙げメモ書きとして瀬長、翁長についてはアウトラインを書いた。

そして今日は最後の一人大田昌秀について鉄槌を下す。

 

大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 

元沖縄県知事大田昌秀氏の最新の著作「二人の『少女』の物語」(2011年、新星出版)は、戦争に翻弄される二人の「少女」を描いているが、全編を通して大田氏のイデオロギーで歪曲、捏造されている。

「大田昌秀 2人の少女」の画像検索結果

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多い。

 だが沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。

沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。

戦時中、沖縄に上陸した米軍が撮影した一枚の少女の写真がある。

「うつろな目の少女」と呼ばれる写真の少女は、負傷した右手を布で首から吊るし、花柄模様の着物は血に染まり、オカッパ頭の放心した表情でカメラを見る姿はいかにも痛々しい。

 
うつろな目の少女

この写真は琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』(大田昌秀著)の表紙を飾り、さらに扉一枚を使って大きく紹介され、同書に掲載のもう1人の沖縄戦の少女、「白旗の少女」とともに沖縄では良く知られた写真である。

白旗の少女

 

  

 本稿は、大田昌秀氏のベストセラー『これが沖縄戦だ』の表紙を飾った「少女」にまつわる稀代の詐話師大城盛俊氏と著者大田昌秀氏が、琉球新報や朝日新聞などを巻き込んで捏造した驚くべき嘘の物語である。

 ■嘘つきは「語り部」のはじまり


2010年の夏、筆者は浦添市のとある喫茶店で、『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏から座間味島旅行の土産話を聞いていた。

沖縄県文化協会長を務める星氏は、沖縄の知識人として誰より早い時期に集団自決の行われた座間味島に現地取材をしたことで知られ、県史の編纂にも参画した。

星氏は、座間味村に滞在中、偶然にも、神戸から来た20人ほどの「平和学習ツアー」と称する教員グループと同行することになる。そして民宿が所有する小型バスに便乗して戦跡の壕巡りを体験した。そのときの写真の一枚に写っている人物を見た筆者は、思わず驚きの声を発した。

「うつろの目の少女だ!」「この嘘つきの語り部がこんな所でまだ他人を騙しているのか」――

 

「大城盛俊」の画像検索結果

沖縄戦の語り部・大城盛俊氏

写真には正面を向く老人が写っているだけで、1人の少女も写っていない。写真の老人を指して、少女だと呟く姿は他人の目には、異様に映ったであろう。

筆者が「うつろな目の少女」、「嘘つき」などと決め付けたその老人は、夏休みを利用して神戸の教員グループを率いて座間味案内をしていた沖縄戦の語り部だった。

この人物こそ筆者が長年追い続けていた当時78歳の大城盛俊氏だった。写真を見て「少女だ」と言ったわけは、大田昌秀著『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)の表紙の写真の少女が、戦後65年経って座間味村で戦跡ツアーを案内する語り部の老人と同一人物と考えたからだ。伊丹市在住の大城氏は、沖縄戦の語り部を引退すると報じられていた。

老人とオカッパ頭の少女をめぐる衝撃の物語を説明するため、四年前の「沖縄慰霊の日」に時を巻き戻す。

■朝日の一面を飾った「うつろな目の少女」


2008年6月23日「沖縄慰霊の日」。その日の朝日新聞夕刊は、一面トップをこのような大見出しで飾った。

63年年目 沖縄慰霊の日」

「残酷なのは戦争」

「75歳語り部来年引退」

朝日の記事は、沖縄戦で日本兵の残虐非道な暴行で右目を失明し、その後遺症で足が不自由になった大城盛俊氏が、沖縄戦の語り部としての講演活動を引退すると報じた。さらに記事は、63年前に米兵によって撮影されたオカッパ頭の「少女」の写真と、講演をする現在の大城氏の写真を並べて掲載し、「少女」と大城氏の関係を、次のように報じている。


大城さんは沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。


 過去に1120回を超える講演をしてきたといわれ、講演会のプロともいえる大城氏なら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると誰でも想像する。ところが沖縄出身の筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、朝日が報じる石垣島での最後の講演会しか知らない。しかもただ一度の沖縄での講演会が、なぜか沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だというのも不可解だった。朝日の報道により、大城氏と「うつろな目の少女」の関係は一応理解できる。だが筆者が大城氏を嘘つき呼ばわりする理由にはならない。

それを知るためには面倒でも更に時を遡って2007年の8月に巻き戻さねばならない。

2007年、「11万人集会」で沖縄2紙が狂った


2007年、その年は沖縄にとってまさに狂乱の年だった。3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄・慶良間諸島で起きた集団自決に関し「軍の命令による」という従来の記述を削除するよう求めた。地元2紙がこれに反発し、集団自決に関する特集を組み、検定意見撤回を求めるキャンペーンを展開した。

そして9月29日の「11万人集会」(「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会」)へと狂気のように雪崩れ込んで行った年であった。

2007年とは「残虐非道の日本軍」を糾弾するキャンペーンで沖縄中が大きく揺れた年であった。

ちなみに同じ年の6月には、琉球新報は連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」の第2章「慶良間で何が起きたのか」を、突然「社の方針と反する」という一方的理由で掲載拒否し、著者の上原正稔氏によって「言論封殺」で提訴され、上原氏の勝訴が確定している。 

■琉球新報の衝撃的スクープ?

その年の8月25日、各市民団体、労働団体の検定意見に対する抗議声明が連日の紙面を飾り、反日本軍キャンペーンが熱気を帯びている最中、沖縄戦の語り部の大城氏ははるばる伊丹市から沖縄を訪れ、驚愕すべき証言をした。そのときの琉球新報は大城氏の証言を次のように報道している。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。・・・5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。

大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は23年で1120回を数えると記事は結んでいる。だが、「残虐非道の日本軍」の印象操作に必死の琉球新報が、その時、沖縄戦の語り部である大城氏に那覇市では一回の講演も依頼せずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

他にも疑問が続出した。

特に不可解なのは、戦時中に米兵の毒牙から身を守るため女の子が髪を切って男の子に変装する話は仄聞するが、その逆のケースは聞いたことがなかった。坊主頭の軍国少年が主流の当時の学校で、オカッパ頭に髪を伸ばしたら学校で苛められるのは明らかであり、大城氏の証言をそのまま信じることは出来なかった。

もう一つの大きな疑問は琉球新報が発行した『これが沖縄だ』は、大田昌秀氏の数多ある著作の中でもベストセラーといわれ、各書店はもちろん県平和資料記念館などの各戦跡・観光地でも販売され県民なら一度は目にしたことのある有名な本だ。

その表紙を飾る写真の少女が、発売以来30年たってから初めて、出版元の琉球新報によって「少女」は変装した大城氏の写真だった知らされたことが腑に落ちなかった。大城氏が表紙の少女が自身であると知ったのは1984年(昭和54年)で、その時大城氏は著者の大田昌秀氏を訪問し、2人は感激のあまり肩を抱き合って泣いたという。

だが何故その時、2人はこの感動の戦争秘話を本の出版元である琉球新報に連絡しなかったのか。日本兵の暴行により片目を失明し片足が不自由になった「少女」が実は男の子の変装した姿だった・・・琉球新報にとって「残虐非道の日本兵」を喧伝する材料としてこれほどオイシイ話は無いはずだ。

大城氏と大田氏が方を抱き合って感激の涙を流した1964年から、2007年の琉球新報のスクープ報道まで20年以上も時間の経過している。

 何故20年もの時の経過が必要だったのか。

特に大城氏は表紙の「少女」が自分であると大田氏に名乗り出て以来、沖縄戦の語り部として23年間の間、「少女」を売り物に講演活動を展開している。沖縄のメディアがこんなオイシイ話を20年余も放置していたのはいかにも不自然だった。琉球新報のスクープ記事の後、大城氏の出身地である沖縄南部の「具志頭(ぐしかみ)村立歴史民俗資料館」の「沖縄戦コーナー」を確認したが、「うつろな目の少女」の写真は「村内収容所」「傷の手当てを待つ少女」とキャプションをつけ展示されてはいるが、大城氏が変装した姿だったという断り書きは無い。

さらに沖縄県平和祈念資料館でも確認したが問題の写真は展示さえされていなかった。学芸員も表紙の少女が女装の少年だったということは知らなかった

 ■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■


疑問は次々湧いてきた。大城氏は日本兵に顔面を殴打され右目を失明したという。その時の状況を、「頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。」と説明している。

あらためて「少女」の写真と大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。 写真の少女は着衣が黒く汚れているが、顔は無傷で腫れなども無い。細紐で首から右手を吊るしているが、顔や手足の露出部分に腫れや傷の痕跡はない。撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。大城氏の説明では、目が傷で腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院でのことだ。ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。「少女」が63年前の大城氏であるかどうかはさて措いても、後年大城氏が右目を失明した原因が、そのときの日本兵に殴打されたためという主張には大きな疑念が生じてくる。

■暴かれた大城氏の嘘

そして2011年の9月、筆者は「少女」に関する衝撃的事実を知ることになる。

戦争に翻弄される子どもたちを描いた記録映画「戦場ぬ童(いくさばぬわらび)」の中で玉那覇(たまなは)春子さんという女性が「うつろな目の少女」は本人だと名乗り出ていることを知ったのだ

「玉那覇春子」の画像検索結果玉那覇春子さんが名乗り出たことを報じる朝日新聞(1965年8月13日)

沖縄県西原町の玉那覇春子さんが、映画に出演するようになったきっかけは、1枚の写真だったという。

米軍従軍写真班が撮影した右腕を負傷したオカッパ頭の少女だ。

玉那覇さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。

写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。現在の玉那覇さんは、右腕のひじの先がない。

右腕とわき腹に負傷し、鉄の破片が入っていた。その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕を吊ってくれた。

逃避行の果てに、気がついた時は、米軍の野戦病院のベッドに横たわっていた。

右腕は切断されていた。だが現在も目は不自由ではない。

写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じで、身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前にどうせ死ぬのだから、きれいな恰好をしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。

戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と玉那覇さんは語る。


映画の中では右手がない様子がわかる。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれている。

■一フィート運動の成果、記録映画「戦場ぬ童」

「戦場ぬ童」は1985年、沖縄戦44周年記念記録映画として製作され、1985年第32回教育映画祭(日本視聴覚教育協会主催)で、優秀作品賞を受賞している。

このことは地元2紙にも大きく報道され、平和教育の絶好の教材として全県各地で、繰り返し上映された。

現在でも各図書館にはDVD化されたものが所蔵され誰でも見ることが出来る。

やはり大城盛俊氏は嘘をついていた。

その前年の1984年に大城氏が「少女」は自分であると大田昌秀氏に名乗り出て、その年から「うつろな目の少女」を売り物にし、全国で講演を活発に展開した。

そんな時期に玉那覇さんが名乗り出た。大城氏自身、「少女」を演題にしたら、講演の申し込みが殺到したと告白している。

当然「うつろな目の少女」は沖縄戦の語り部を自認する大城氏の講演の絶好の売り物になる。

以後大城氏の講演会のチラシには必ず「少女」の写真と現在の自分の写真が並んで掲載されるようになる。

(★チラシ写真)

大城氏は、沖縄戦のプロの「講演屋」として、「少女」を捏造して講演の売り物にしていた。23年間に1120回という膨大な回数の講演会をこなした理由もこれで理解できる。ところが、大田昌秀氏は大城氏が自著に掲載の「少女」に成りすまし嘘の講演を続けるのを黙認した。その当時の大田氏は琉球大学教授であり一フィート運動の役員をしていた。

 一フィート運動のフィルムを基に製作され、優秀賞を受賞した記録映画「戦場ぬ童」を、沖縄戦の泰斗を自負する大田氏が見ていないはずはない。大田氏はその前年の1984年5月、大城氏と対面し、その「数奇な運命」の告白を聞いている。一方の大城氏はその年の9月、厚生省から「援護法」の申請を却下され、それを契機に講演活動を始めている。大城氏が日本兵に食料を強奪され、壕を放り出され、その際受けた暴行で右目は失明、後遺症で歩行障害まできたし、実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺されている。

大田氏は「残虐非道な日本軍」を主張するために、大城氏ほど絶好な例はないと考えた。 事実をイデオロギーで覆い隠すのが得意の大田氏としては、「少女」を講演の売り物にした大城氏が「残虐非道の日本軍」を喧伝し全国で講演会を続けることは自分のイデオロギーの喧伝に利すると考えたのだ。

■沖縄2紙も大城氏の嘘に加担

 大田氏と同様、大城氏の嘘を黙認していたのが沖縄2紙だ。琉球新報と沖縄タイムスが自社紙面で優秀賞受賞を大きく報じた「戦場ぬ童」の内容を知らないはずは無い。大田氏と沖縄2紙は共謀して大城氏がその嘘を題材に講演活動することを黙認してきた。そして琉球新報が2007年の「検定意見撤回運動」のどさくさに紛れ、大城氏の嘘を大きく報道し、嘘が一人歩きを始める事になる。ちなみにその年は連日「残虐非道の日本軍」の悪行を糾弾する証人が登場し、某県議などは、食糧事情の悪化した当時では考えられないことだが、「日本兵に毒おにぎりを食わされそうになった」というデタラメな証言をした。ちなみに「毒おにぎり」と「うつろな目の少女」の二つの記事は、現在琉球新報のウェブサイトから削除されている。

そして2008年の「沖縄慰霊の日」。

大城氏の嘘はついには朝日新聞の一面トップを飾ることになる。朝日による嘘のロンダリングだ。ここで連想するのは「従軍慰安婦」問題で詐話師といわれた吉田清治氏のこと。吉田氏がついた嘘の体験談を朝日新聞が後押し、一人歩きした嘘は一時は教科書にまで掲載された。大田昌秀氏と大城盛氏の関係は吉田氏と朝日新聞のそれに酷似している。大城氏がついた嘘を大田氏が検証もせずに是認し、それが琉球新報、朝日新聞と嘘のロンダリングを続けた。最後は「少女」の生みの親である大田氏が自らの書籍で嘘のロンダリングを完成させることになる。

■大田昌秀著『2人の「少女」の物語』の大嘘
 大田氏は最新の著作『二人の「少女」の物語』(新星社 2011年)を出版することにより、大城氏が語り部として20数年間に渡り全国にばら撒いてきた嘘を「沖縄戦の真実」として認め歴史の一ページに刻むつもりである。

大田昌秀著『2人の「少女」の物語』には概ね三つの大きな嘘が含まれている。「うつろな目の少女」についての嘘は、これまで述べたとおりだが、もう1人の「白旗の少女」についても嘘がある。比嘉富子さんが「白旗の少女」は自分であると名乗り出た動機を大田氏は故意に隠蔽し読者を誤誘導しようとしている。「1一フィート運動」の成果である米軍撮影記録フィルムの中で、健気にも手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は見る者の心を打った。白旗の少女が公開されたその翌年には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、そこでは「少女を盾にする日本兵の醜い姿」が描かれた。
 「あとがき」には日本兵に対する憎悪をむき出しの、このような文言が書かれている。

<本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >

  <沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >

沖縄の「識者」たちによる「白旗の少女」を歪曲した絵本の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年、「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

その本の後書きには、当初名乗り出ることを躊躇していた比嘉さんが、名乗り出るどころかあえて出版に踏み切った動機をこう書いている。

<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのように誤解されているのは、大変残念なことです。この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>

 比嘉富子さんが、勇気をもって真実を告白してくれたお蔭で日本兵の「捏造された汚名」は雪(そそ)がれることになった。不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られていた。ここに登場する日本兵は名も知られぬ無名兵士ゆえ、慶良間島集団自決の梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。だが日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が定着していたであろう。記録映画を見た観客は、事実をそのまま写すカメラの目を通して真実を見て取る。だが、新川明氏や大田昌秀氏のような「識者」の文を通して伝えられる物語は真実とは遠くかけ離れ、イデオロギーで歪曲されたものである。 

『2人の「少女」の物語』では、大田氏は比嘉さんが日本兵の汚名を雪ぐために名乗り出たという重要な理由には一言も触れていない。比嘉富子さんは、「少女を盾にした卑劣な日本兵」という通説が嘘であることを証言するため、あえて名乗り出た。だが大田氏は比嘉富子さんの心情を隠蔽することにより「残虐非道な日本軍」というイデオロギーを押し通そうとした。「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。否、「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は、一行の訂正もされず発売されているし、各図書館に所蔵され、子供たちの「平和教育」に使用されている。「残逆非道の日本軍」というイデオロギーを押し通すために・・・これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

■「一フィート運動」にまつわる嘘
『2人の「少女」の物語』が語るもう一つの大嘘は、「一フィート運動」の嘘だ。

同書には「一フィート運動」は大田氏が1983年(昭和58)に自宅で創始したというくだりがある(同書158ページ)。一フィート運動はドキュメンタリー作家の上原正稔氏が創設した。これは沖縄戦に関心のある県人なら誰でも知っている紛れもない事実である。当初、顧問として「一フィート運動」に関わった大田氏ら沖縄の左翼学者は上原氏のイデオロギーに拘らない姿勢に反発し、数を頼んで上原氏を追放した。これが真実である。では何故沖縄ではこのような明らかな嘘がまかり通るのか。

■「反戦平和は免罪符」
沖縄には誰が言ったのか「反戦平和は免罪符」という言葉がある。大田氏は、嘘を撒き散らしながらも「反戦平和」を叫ぶことにより沖縄2紙の免罪符にしっかり保護され、琉球大学教授から県知事、参議院議員と上り詰めた。現在でも「大田平和総合研究所」所長として内外に嘘を撒き散らしている。大田氏のプライバシーに関しては本題を外れるので深く立ち入らないが、最後に沖縄紙が必死で大田氏をかばった例として、上原正稔氏に対する「暴力事件」を挙げておく。

■大田昌秀氏の正体
1992年9月13日、琉球政府の民政官を務めたフィアリー氏を歓迎するパーティがハーバービューホテルで催された。会場にはアメリカ総領事ら県内外の知名氏が出席していた。満座の客が注視する中、大田昌秀氏が上原正稔氏に私怨により暴力を振るい床を引きずり回した。この事件は、沖縄2紙の記者がその場にいたが、大田氏の「反戦平和は免罪符」のお陰で一行の記事にもならず、県民の耳目から完全に遮断された。まるで島ぐるみで太田氏のご乱行を隠蔽しているとしか思えない。事件の目撃証人は数多くいるがほとんどが新聞社OBを含む左翼文化人のため口をつぐむ人が多いという。上原正稔氏は、確実に証言してくれる人物として、大田氏の暴力を押しとどめた沖縄タイムスOBの大山哲氏と元沖縄県副知事で沖縄県博物館・美術館館長も努めた牧野 浩隆氏の名を上げている。

稲嶺恵一知事のもと副知事を務めた牧野氏によると、大田氏は知事在任中、強権的な運営で「天皇」と呼ばれ、誰も批判できない状態だった。「発言すれば非国民扱い。そういう悲壮感がありました」と述べている。

沖縄2紙が与える「反戦平和の免罪符」を盾に、数多い著書の中で嘘を撒き散らす「文化人」の代表格が大田昌秀元県知事の正体である。

大田氏は自身が経営する大田平和総合研究所では沖縄戦のみならず、「中国大陸で日本軍が行った残虐行為」として数々の捏造写真を展示し日本軍に対する憎悪を煽っているが、その中でも「うつろな目の少女」の写真は一際目立つ展示がされている。ところが不思議なことに、その写真の説明文には「大城氏が日本兵の暴行を避けるため少女に変装した」というセンセーショナルな記述は一行も無い。琉球新報のロゴの付いた展示写真には次のような説明文が付されているだけである。

「戦火は何の関係ない人も悲惨極まりない地獄図となった。 戦火の火中に巻き込まれ、不可解な事態に疲れ果てた少女」

この時点で大田昌秀は大城氏の大嘘を知っている。知っていながら一言も説明文に記載がないということは、太田氏が大城氏の大嘘に加担したことになる。

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