インバウンドに外国人限らず今の日本人も、“インスタ映え”、しかも他人の撮った場所での”追体験“ばかり。
インスタグラムにでていた場所へ行き、同じ写真を撮り、周りの人たちとの“共有感”
山小屋で手伝いをした時に、登山客の会話を聞いていると、スマホで他人の登山のSNSで盛り上がる、結局、他人の跡を追体験しているだけ。個人の山の経験を話している人たちとは、はっきりと言って違います。こういう人たちが商業主義に踊らされて道具を買うのでしょうね。最近は登山店へ行きませんが、なぜ、毎年、”富士山登山に相応しい““アルプス登山に相応しい”という道具を毎年毎年宣伝。そして経験も無いスタッフが色々と売りつける。傍からみてもどうかな?と
京都へ行くと、はっきりと言って全く”京都“の持つ、伝統、歴史とは無縁のとんでもない混雑ぶり。お寺で静かに時を過ごす、等とは程遠い、コンサート会場そのもの。
こんな京都を求めてきているのだろうか?
また、来てみたいと思うのだろうか?世界の人口から考えたら、たった1回の来日でも数年間は続くと思いますが。
数値目標だけの画一的な今の日本の政治家、官僚たちにすると、インバウンドで外国人の落とす“金”だけが経済目標。そこに生活している人たちは関係なし。
北海道のニセコも同じ。
結局、昔から住んでいる日本人は街を出て行き、そこでの土地売買、観光業者だけが儲けた金が日本の経済指標。
今の日本、政治家、官僚を含めた統治組織は”数字“のお遊びだけ。
そしてそれに踊らせて画一的なことしかできない、独創的な新たな発想を妨げる、それが今の日本。
他人と同じ風景を観て満足。そして次の追体験。
我々の世代は、とりあえずそれを体験したら、違うものを探します。
自ら考えること、という発想が無くなり、僅かなそれをコントロールしようとしている組織、人たちに牛耳られている世界
まるで、HGウェールズの“1984”のごく少数による画一的支配の世界が日本のみならず世界的に。
恐ろしいのか、それとも今までとは全く違う世界観なのか。
コロナの時に静かな、日本人にとって”京都らしい京都“を堪能できました。
色々と考えさせられる京都旅行
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