1991年の秋、わたくしの住んでいた借家のすぐ前の道を歩いて書道教室に通っていた女子児童が行方不明になった。我が家にも前年娘が生まれたばかりで他人事とは思えず気にしていた。ドラマで見かけるような服装の刑事が訪ねてきて手がかりを探していると玄関口で言った。何にも心当たりがないことに申し訳ない思いをしたまま、あれからもうすぐ33年の年月が過ぎる。当時のあの出来事を思いながらこの映画を観た
母親は久しぶりの息抜きに好きなバンドのライブに行く。娘のお迎えを叔父(母親の弟)に頼んだその日、娘は行方不明になる。街頭でチラシを配り情報提供を呼びかけ、地元テレビ局の報道番組にも頻繁に顔出しして協力を仰ぐ
父親の勤め先でも支援のための見舞金が集められ、人々の善意の中で娘の無事な帰還を願うかたわら、情報収集のためのホームページの書き込み欄には匿名の誹謗中傷が増えていく
確か数年前に山梨の道志村で行方不明になった女の子の事件でも、ネットには心無い書き込みが溢れていたという
この手の輩はいつの世にもいるのだろうし、ある意味想像力の欠如した可哀想な人種なのだけど、事件の渦中にいる人にとっては精神的な凶器だ。言論の自由と誹謗中傷はどのように見極めればいいのかわたくしには分からないけど、そこに悪意しかないものはそれがどんなに正論めいていたとしても取り締まられるべきだ
行方不明になった女の子と最後まで一緒にいた叔父が怪しいと疑われ、地元テレビ局の報道班も彼のインタビューを重ねる。しかし、思わぬ理由でアリバイは証明され、残ったのは虚しい疑心と姉弟の確執だけだ
真実の報道という建前で否応無く破壊されて行く人間関係。垂れ流しの情報とやらはマスコミでもネット空間でもそれほど変わりはしない。結局のところ無責任な物語が行くあてもないまま漂っては消えて行くだけ
残されるのは、帰ってこない娘を案じる家族の痛ましい心情だけ
そんな閉塞感で押しつぶされそうなある日、いつものようにテレビ局の取材を受けていると警察から娘が保護されたとの一報が入る。大急ぎで警察署に向かう夫婦に告げられたのは、いたずら(と言うには余りにも悪質だ)電話だろうとのショッキングな返答。狂ったように泣き崩れる母親が痛ましい
年月は無情にも流れて行き、ルーチンのようにチラシ配りは行われている。娘の時と同じような状況下で誘拐事件が起こり、もしかしたら同一犯かもしれないと緊張感が走るがすぐに解決され誘拐された子は家族のもとに帰る
当初疑われていた叔父が、車の中で姪っ子に対する情を吐露する場面には親族だけに通じ合う愛情が溢れている。小さな車の中にいる傷ついた姉(母親)弟(叔父)にあったわだかまりはこうして消えてゆくのだろう
今日も駅前のロータリーでは夫婦だけでチラシ配りが行われている
引き続き応援してくれる人もいれば、無関心に通り過ぎる人もいる
それが現実
安直なハッピーもアンハッピーも要らない
少し過剰な気もするけど、石原さとみの渾身の演技に感服する
彼女の転換期となるのに相応しい力作となった。イライラしたヒステリックな言葉が石原さとみから発せられると何とも不快でザラザラしたものに感じられる。娘の失踪に負い目を抱いていながら、ネットの中傷含め夫やテレビ局の報道関係者にも疑心暗鬼の感情を抱くメンタルの不安定さを鬼気迫る勢いで演じ切った
虚ろな横顔との対比も映像的には効果的で、今までの石原さとみとは別人を見ることになる
今年の女優賞の目玉になりそうだ
夫役の青木崇高、叔父役森優作、テレビ局報道の中村倫也、それぞれ引き算の演技で石原さとみを盛り立てる
監督の吉田恵輔は過去2作しか観ていないので評価するのは難しいけど、「空白」でも扱った子を失った親の空虚感とマスコミに対する悪感情がこの作品でもダイレクトに投げかけられていたので、家族(親子)を描くことに才を発揮する人なのかもしれない
1991年秋に行方不明になった女の子も今では不惑を超えた年になった。北朝鮮の拉致もひどく辛い事実だが、行方不明になった理由だけははっきりしている。だからって気が休まるわけじゃないけど、理由も分からぬまま33年の月日が経つことの無情さは計り知れない
何らかの解決があることを願うしかない
親はそうして年々年老いてゆく
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