
先日来、ブログやフェイスブックで「タケノコ」で旬を味わったり感じたという記事が写真と合わせ載っている。そんな旬を頂戴した。タケノコは刺し身は別にして、皮をむき茹でた後で調理、そして食卓に並ぶのが一般的。頂戴したのは茹でてあるのですぐに調理できる重宝な食材に処理してある。旬の初物が頂ただける。
「旬」というのは、古代、朝廷で行われた行事の一つを表すそうで、深い意味と味わいがあるようだ。次に魚介・野菜・果物などがよくとれて味のもっともよい時を表す。旬のものはうまい、旬の魚、などと使う。四季のある日本ならではの贅沢を表している。ところが、このところの温暖化でこの贅沢が孫子の代には薄れ消えていくのでは、そんな気心配をしている。
竹林と人里の急接近というか、竹林の広がりが里山では高齢化と合わせ難題になっている。確かに、近くの竹林でも手入れされず、タケノコも伸びきれない箇所がある。一方で造成地として姿を消していく竹林も目にする。樹脂が竹の担う役目や用途へ進出したことが大きな原因の一つとしたら、樹脂製造に携わった一人として心苦しい。
旬を届けてくれた人によると、イノシシが食べ飽きたので、収穫できるようになったとのこと。そういえば以前に、イノシシの食べ残しを掘っていると笑って話す農家の人に出会った。タケノコと一緒にワラビも届いた。近所の人からフキの裾分けもあり、いただきもので旬をいただける。「労せずに届いた旬に舌鼓」。