AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

『シグナル~月曜日のルカ~』鑑賞。(ときめき研究家)

2012-06-23 11:06:07 | ときめき研究家
ナッキーさん絶賛のアイドル映画『シグナル~月曜日のルカ~』をようやく鑑賞した。
(ネタバレがあるので、これから観る方はご注意ください。)

確かに、主演の三根梓を魅力的に描くことを最優先にした「アイドル映画」だった。

映画そのものとしての出来には、注文をつけたい所が多数あった。(私は、アイドル映画にもできれば映画自体としての面白さを求める。)
・ストーカーである「レイジ」の異常性が中途半端。中盤から登場して、気持ち悪い感じがよく出ているのだが、その異常性がどのようにして形成されたのかが窺えず、現実感がなかった。また、撃退され方が淡白。
・それと関連して、「レイジ」に関わり「ルカ」が3年間引き籠るきっかけになった経緯が、そこまでの衝撃を受けるものだったという説得力が感じられなかった。
・井上順の支配人はハマリ役だが、ルカの祖父役の宇津井健はどうも映画技師に見えなかった。大物過ぎるのか。
・相手役「宮瀬」の西島隆弘は好演。彼自身も問題を抱えているのだが、その展開や彼の演技はあっさりしていて、焦点をルカから逸らさない。映画自体を評価した場合には物足りないのではないか。

そうした欠点があっても、否そうした欠点があるからこそか、アイドル映画としての輝きを放っていた。
三根梓は演技も拙く、場面によって表情や感情がバラバラな感じがしたが、それはルカの情緒不安定さを表現しているものと善意に解釈。
何より、輝きすぎないのがいい。これからもっと輝くのだろうなと思わせる八分咲きの輝き。『時をかける少女』の原田知世もそうだった。
終盤、ルカが宮瀬に過去を告白して、白いブラウスのボタンを外し胸の傷をちらりと見せるシーンがあり、胸と言っても鎖骨の少し下あたりなのだが、ほんの一瞬だけで、傷もよく見えなかった。AKBはじめ世間では大胆な露出も多い中で、その恥じらい方がかえって新鮮だった。

映画のテーマは「好きならば好きだと言おう」ではなく、「イヤならばイヤだと言おう」。
ルカと宮瀬の両方のエピソードに当てはまるテーゼだ。
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古川愛李推し読者からの投稿その1 選抜総選挙は面白い

2012-06-23 05:48:38 | アイドル・AKB48 興行の手法・人気
古川愛李推し読者からの投稿その1 選抜総選挙は面白い

古川愛李推しの読者より長文のコメントを頂いたので、複数回にわけて紹介します.以下引用です。

私も、息子(大1)や娘(中1)に日々AKBの話を聞かされ、CDが出るたびにiPodにダウンロード(ホームシェア)させられ、MVや歌番組、冠番組のビデオをしょっちゅう一緒に見て、ぐぐたすやらブログを読まされているうちに、俄かファン(ヲタとは言えませんが)というか、結構な情報量を浴びるようになり、いつしかカミさんに「何気にファンだよね」と言われるようになりました。

私は、ナッキーさんのような正統な「アイドル」像に拘るものではないので、年をとっていようが、「アイドル」的でなかろうが、美しく、また自分の趣味に合う愛すべきパーソナリティであれば広く愛好するものですが、80年代にそれなりにアイドル全盛期の洗礼を受けたものとしては、やはり往時のアイドル像に深い憧憬と懐旧を覚えるのも事実で、AKBグループにしばしばその残像を見ているのも、つい息子たちに付き合ってしまう要因だと思っています。

1.選抜総選挙について

息子がAKBにハマったのも「ポニーテールとシュシュ」以降ですし、私も有名になってからの彼女たちしか知らないので、AKB全般を論じられる立場にはありませんが、選抜総選挙には、イベントとしての盛り上がり、各メンバーが切磋琢磨する契機、それがグループに対する世間の注目を集める、シングル売り上げを押し上げる、等々のメリット(?)もある半面、アイドルユニットとしての運営上は極めて危険なイベントだと思います。

まず、ごく野次馬的なファンの立場から見た総選挙のメリットから。

個々のメンバーを見つめる、という意味では「総選挙」にも興味深い面が多々あることを今回しみじみ感じました。

まず、いつも一定のキャラを懸命に演じているメンバーたちが、この日、この表彰ステージ上では、かなりの部分内面を曝け出してしまうことです。

特に、峯岸みなみが、「いつも選挙のことを聞かれると、『16位と17位、どちらがおいしいんでしょうね。私はバラエティー斑だから順位は興味がないので』というふりをしてきましたが、いつも心の中にあったのは、一つでも高い順位に入って、この場所にたつ自分の姿でした。いつも素直じゃなくてごめんなさい」と泣きながら語る姿が印象的でした。

(※)以後発言引用はあくまで記憶によるものなので不正確な面はお許し下さい。

秋元康が指原莉乃のフォトブック「さしこ」の中の指原との対談で、「あの峯岸みなみですら、95%はバラエティーと納得しながらも、5%は前田敦子になりたい、という気持ちを捨てきれないでいる」というようなことを言っていたのを、まさに自ら裏打ちするような、峯岸の告白でした。

私がしみじみと感動したのは、峯岸が本心はアイドルとして高い順位に上がりたいと思っている、ということではなく、日ごろ一生懸命にバラエティ・キャラクターを演じている、いわば芸能人としての仮面を、生中継されているあの開票のシーンで脱ぎ捨ててしまうこと、いな、あの武道館のステージには、そうした一線を踏み越えさせてしまう圧力がある、という事実です。

それに近い衝撃だったのは、あの番組でも何度も流された、彼女たちのドキュメンタリー映画「-少女たちは傷つきながら夢をみる」の、第三回総選挙後、大島優子がこらえきれず泣きながら篠田麻里子にすがりつくシーンでした。

ステージでは必死に笑顔を作って、悔しさをこらえて、前田敦子を立ててみせた大島優子の気丈さ、最後のプライドが崩れ折れる舞台裏のシーンをカメラがリアルタイムで追い、それが映画、DVDという形で公開されるという事実が衝撃でした。

そんな一面を茶の間で見られることは、メンバーたちを深く知りたい、という個人的な興味の上からは、実に中身の濃い、興味深いイベントでしたが、アイドルの人気投票、という、究極の公的な場が、結果として、芸能人、アイドル、という表の姿、仕事の顔を引き剥がして、彼女たちの人間性、素顔、内面をむき出しに公衆の面前に晒してしまう、というのは皮肉な逆説だと思います。
そんなまな板の上に立たされる彼女たちは、本当に過酷な運命にあると思います。

引用終わり、次回に続く

解説と感想(ナッキー)
アイドルの素の姿を見せて、それがアイドルの価値を高めるという事象は、1970年代から1983年までは、いわゆる賞レース(レコード大賞、歌謡大賞)であったので、アイドルの魅力を高める手法としては、使い古された手法だと思います。

しかし、AKB48が、過去のアイドルと異なり、アイドル史上上特筆に価するのは、
過去の賞レースは、優勝者の素顔しか楽しむことしかできなかったのに対し、
(補足:ザ・ベストテンの松田聖子の、泣きながら歌ってけど、涙がでなあった歌唱を含めると、賞レース以外にも、アイドルの魅力を向上させたテレビ番組はある)

選抜総選挙は、複数のAKB48メンバーの「順位発表の後の一言」により、賞レース優勝者1名だけでなく、いろいろなメンバーの素顔を見せるところに、特徴があると思います。

峯岸みなみの秋元康評を考察すると、前田敦子より峯岸みなみの方が、アイドル性でははるかに上だと思うので、峯岸みなみは、峯岸みなみのままで、前田敦子を目指す必要なない、と思います。

賞レースが、昔の価値を失ったのは、1984年の新人賞に菊池桃子が参加しなかったことが契機となっています。
菊池桃子が、賞レースに参加しなかったのは、すでに確固たる人気を確立していたので、賞レースで勝っても負けても関係ないから、賞レースは他のアイドル(84年デビューでは、岡田有希子、荻野目洋子、長山洋子)に譲るというスタンス。
辞退の理由は、記憶では、「気持ちの整理ができないから」だったかと思います。

選抜総選挙は、菊池桃子のように事務所の配慮で不参加を許さないので、古川愛李推しの読者によれば過酷、AKB48ファンにとっては公平なシステム、落ちても上がってもメンバーのコメントが聞ける有意義なイベントだと思います。

70年代、80年代の章レースで、勝者だけでなく、敗者のインタビューが聞けたとしたら・・・こんな面白いことはなく、それがAKB48選抜総選挙では実現されているのですから、面白くないはずがありません。

ナッキー
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