tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

主人公は僕だった

2007-10-07 21:00:30 | cinema

小説家と呼ばれる人たちは、自分が書いている小説の主人公に感情移入してしまうのが普通じゃないだろうか。主人公が悲しみの底に沈むと、書き手自身も自然とブルーになるし、主人公が泣きたい時には涙がこみ上げてくる。これは、書き手としての小説家ばかりじゃなく、感性豊かな読み手にも言える事だ。自分の行動に似通った主人公にはどうしても共感を覚えがちであり、ストーリーの進行によっては心を弾ませ、あるいは、主人公とともに萌え、さらには、人生に憂いを覚える。また、書き手としても、読者がここまで感情移入してくれれば、作家冥利につきるというものだ。

この映画、そんな作家と主人公の関係が出てくる。あの国税局の役人という誰からでも嫌われる職業の主人公は、機械的に生きる事で嫌われ者としてのさみしさをごまかして生きている。その主人公が、ある日、自分の人生についてのナレーションを耳にする。その声は、自分についての物語を執筆する女流作家の声だったのだ。
自分の日常生活が、活字となってリアルタイムで進行していく。自分の未来は作家の手の中に・・・・・・。この映画、SFとも、ファンタジーとも着かないまったく新らしい仕掛けで進行するのだが、不思議と違和感は無い。きっと、今の世の中は、インターネットの普及によりバーチャル世界での自分自身の存在に慣れているからかもしれない。仮想空間で、自分の想定したキャラがリアルな世界を引きずりながらも生活していくのだ。まるで、自分が物語の主人公にでもなったように・・・・・・。
だれかの小説の”主人公”であることに気がついた映画の主人公は、その小説家を探し出し自分の運命を運命を変えるべく物語のストーリーの変更を懇願する。ここがこの映画のキーポイントだ。悲恋の物語として完結する完璧な結末を主人公は受け入れるのか、あるいは、小説家が自分を曲げてまで主人公の懇願を聞き入れて物語の結末をハッピーエンドに変えていくのか。『Little did he knows』彼は知るよしもなかった。

恋愛コメディはワンパターンらしい。まず、最初にヒロインに嫌われる。そして、あれこれあって、最後はハッピーエンド。男が本当の自分というものに気がつき、そして懸命に女性を追っかけて、女性はいつしか男を受け入れて・・・・・・。これがラブストーリーの王道なのかもしれない。一方、愛し合っていた二人が突然の永遠の別れという結末を迎える場合もある。今もなお、アジア系の映画に繰り返し観られる古典的な恋愛悲劇のパターンだ。こうしてみると、喜劇と悲劇の差は、ほんのわずかでしかない。

主人公は、小説に書かれた死の瞬間をあらかじめ知った上で、不思議に淡々とそれを受け入れる。こんなことが彼にできたのは、人生を達観したからではなく、愛したことも、愛されたこともない人生の中で、ついに愛を見つけられたからなのだろう。人を愛する事でようやく人生の意味を知ることができたのだ。彼は愛する人を得ることができたから、自分の死なんてどうでも良かったのだ。人生の価値は生きながらえた時間の長さではなく、いかに自分らしく生きたかなのかもしれない。この映画は、"日常を彩る何気ない物や行為には、より崇高な意味が隠されている"として終わる。ほんのささいなことの積み重ねが感動を呼び、人生を豊かにしていくのだ。