tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

アメリカ、家族のいる風景

2007-10-11 19:54:52 | cinema

英語の原題 "Don't come knocking"は、”訊ねて来ないで”という意味。”come knocking (on my door)” で訪問するという意味だ。ちなみに、”come knocking at my door”もググッて見れば同じような用法が見つかる。文法的に間違いではないらしい。
たずねて来てなんてほしくない父親が、20年も放ったらかしにしたうえで、何を思ったのか急に訪ねてくる。誰だって、そんな父親には逢いたくはないはず。でも、逢わなきゃ、一生逢わないままに終わる。仮に逢ったとしても、父親の人生を理解するだろうか。 
生きることの意味が子孫を残すことにつきる、なんてここでは言いたくない。でも、明日を省みずにやりたい放題生きてきたカウボーイのような男が、中年になって子供を持って初めて人生の意味を知るというのはよく聞く話だ。

心まで染み渡るような青い空。そして光あふれる西部の荒野。中年男のハワード(サム・シェパード)は、西部劇の撮影中に荒野から逃げ出す。派手なブーツを投げ捨てて、連絡すらしたことない母親の元へ向かう。
”Are you my son?" "Yeah. It's me, Mom."何事もなかったかのように息子を迎える母。母親に自分の子供のことを聞かされたハワードは、父の形見の車を駆ってまだ見ぬ息子を探しに出かける。
"Ah, Ginger Ale, please."
"Well, it took you long enough."
バーでバンドをやっている息子の歌を聞いているドリーン(ジェシカ・ラング)からハワードに対して発せられたこの台詞。彼女はジンジャエールを注文する声だけで20年ぶりのハワードと気づき振り返る。
「時間がかかったのね」
煮え切らず責任逃れを繰り返して来たハワードを、彼女はそのつけを背負いながらも、いつも思い続けていたのだろうか。男なら聞いてみたい、いいセリフだ。もちろん、家庭を壊すことをその代償にしなければならないが。
いったい、彼女はどんな人生を送って来たのだろう。そして、何故、糸の切れた凧のようなハワードを許すことができるのだろう。父親を許せないのは息子のアール(ガブリエル・マン)の方だった。

罪作りなハワードを、別の女性との間にできた娘が訊ねてくる。ネットでハワードの写真を取り込んで見つめるスカイ(サラ・ポーリー)。彼女も父親のことを死んだ母の話でしか知らない。彼女は自分の父親がどんな男なのか見てみたいのだ。そして母親の死を告げたとき、ハワードがどんな反応をするのか知りたいのだ。
そんな父親の突然の出現に戸惑い、逢う事を拒否するアール。自分の若いころとそっくりのアールに見つめるだけのハワード。我が子との初対面が自分が望む様な感動と喜びではなかった事で、ハワードはまた怖じ気づく。
執拗な追っ手に捕まり、撮影に引き戻され、彼は最後にようやく互いに人生の意味を受け入れる。彼の父の形見の車をアールに譲り、満足げに仕事に戻る。残されたアールとスカイは能天気な親父を歌にしてドライブする。 この先、この親子はどうなっていくのだろう。彼らなら、きっと普通の親子以上に20年もの逢えなかったギャップを乗り越えて、いい関係が築けそうなそんな気がしてならない。

男女が、そして親子が許しあう。どんなに反目しあっていても、どんなにひどい男でも、時間の経過がそれすら許す余裕を与えるのかもしれない。人は一人では生きられない。希望に満ちたラストは、人は許しあえるものなんだよと僕に訴える。「行かないでジョニー」「すぐ帰ってくるさ。じゃあな」なんてクサイ西部劇を撮影するシーンを映しながら。