1973年11月23日。クメール・ルージュが放った一発の弾丸が、捕虜として拘束した日本人の青年の頭を撃ちぬいた。青年はフリー・ジャーナリスト、一之瀬泰造。彼が26歳になったばかりの時だった。
1972年、内戦の激化するカンボジア。銃撃の飛び交う中、彼は愛用のニコンを携えてシャッターを押しつづけた。彼はロバート・キャパや沢田教一に憧れて戦場カメラマンを志し、激動のインドシナ半島を駆け巡るうち、やがて解放軍の“聖域”〈アンコール ワット〉を撮影することにとり憑かれてしまう。「うまく撮れたら、東京まで持って帰ります。もし、地雷を踏んだらサヨウナラ」
と書き残した彼が、最後に見たアンコール・ワットはどんな風に見えたのだろう。そして、彼はなぜアンコール・ワットを目指したのだろう。
彼が大学の恩師に宛てた手紙には
「アンコールにクメール・ルージュ、村人を撮ったら死んでもいいくらい、魅せられてしまったからです」
そう書かれている。
1970年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、UPI通信社東京支局に勤務。翌1971年退社し、1972年1月、彼はバングラデシュに向けて日本を発つ。当初、インド、タイ経由でビザをとってベトナムに向かうつもりだった彼は、既に解放勢力側の支配下にあったアンコールワット遺跡への一番乗りを目ざし、1972年3月カンボジアに入国。シェムリアップに滞在するが、カンボジア政府軍との間にトラブルから国外退去へ。
1973年6月、ボクシングコーチという名目でカンボジアに再入国。また追い出されるも、1973年11月、韓国弾薬船でメコン河を遡る決死行に出て、カンボジアへ再々入国。そして、単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息不明に。
(1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生。韓国がアメリカ以外の国としては最大の兵力を投入し参戦した1965年以降、各地で韓国軍による戦争犯罪があった)
ぼくが一ノ瀬泰造を知ったのは、貫通した弾丸にえぐれたニコンでだ。衝撃的だった。
ベトナムのスアンロク近くで行われた作戦に従軍したとき彼が持っていたニコン。彼は、戦闘が中断したとき、水汲みにきた北側の兵士を見つけて写真を撮ろうとしたその瞬間に銃撃され、カメラは銃弾でもぎ取られた。
数センチ、数10センチ銃弾がずれれば、彼はカメラでなく自分の体に銃撃を受けていた。だが、彼は右手を負傷したもの、その後も一年以上も取材を続けている。
生命を賭けてまでも撮らなければならない「写真」。彼があこがれたロバート・キャパも地雷を踏んで命を落としている。
ベトナム、カンボジア、ラオスとインドシナの混乱期を取材したカメラマンは多いが、彼の写真は民衆に向けた優しい眼差しと言う点で特徴的だ。戦場という血なまぐさい舞台に立ちながら、アンコール・ワットと村人に魅せられ、まっしぐらに青春を駆け抜けた。彼が最後に見たであろうアンコール・ワットは、いまも変わりなくたたずみ、ぼくらにあの時代のカンボジアを思い起こさせる。
ぼくは、最近、カメラを持つのが怖くなってしまった。被写体に向かえば、狩猟本能のようにムラムラと写欲が湧き出してくるのだが、被写体に向き合うまでは、ぼくには写真が撮れるのかと不安でいたたまれなくなってしまう。
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