tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ブラッド・ダイヤモンド

2007-10-21 20:00:18 | cinema

人間の歴史を振り返れば、アフリカに限らず資源が豊富な場所ではその利権を求めて血が流れる。これは人間の宿命なのだろう。この映画では、秘密裏に反政府軍さえもが人力を総動員してダイヤの発掘作業を行い、そこで得たダイヤモンドを世界の闇ルートで売却することによって武装拡充のための資金を得る実態が描かれている。ダイアモンドに群がる世界中の女性たちが、このような反政府軍の軍事力を増強させ内戦が永続することを推し進めているのだ。悲劇は、反政府軍が近隣の村々を次々と襲撃しては略奪と残虐行為を繰り返し、男たちは殺されるか復讐を企てぬように両手を切断されたり、強制連行されてダイヤ発掘のために駆り出されること。また、子供たちは連れさられて少年兵として教育されることである。これが現在、アフリカで本当に起こっている悲劇なのだ。

ダイヤの密輸業者のディカプリオと反政府軍に村を襲われ家族と引き裂かれたジャイモン・フンスー、そしてジャーナリストのジェニファー・コネリーの3人は運命的な出逢いを果たす。この物語はフンスーが巨大なピンク・ダイヤを発掘することで動き出す。デカプリオはそのダイヤで利益をあげてアフリカからの脱出を図り、フンスーはダイヤで引き裂かれた家族を取り戻そうとし、コネリーはダイヤモンドの闇ルートに関するスクープを狙っている。彼らは、互いの利益のために本性をむき出しにして相手を利用しあいながら、それでも成り行きで闇ルートを暴いて悪夢の連鎖を断ち切ることになる。

アフリカの悲劇。少年兵が笑いながら銃を乱射したり、相手に撃ち殺されたりするといった日常には、「本来、おれは悪魔なんかじゃない。だがこの地に生まれたことが俺にそうさせるんだ」という現実が隠されている。しかし、この映画のラストでは、これらの悪夢の連鎖を断ち切るための、ほんのわずかな希望の光を映し出し、僕の魂に強く訴えてくる。何かができるはずなんだと。


愛してるのサイン(4)

2007-10-20 21:13:51 | プチ放浪 海沿い編

ところが、問題が生じた。過去に度重なる引越しを繰り返しており、ぼくがオープンウォーターダイバーであることを照明するCカードが何処に行ってしまったのか見つからないのだ。どのみち、十数年のブランクがあるから、いきなり潜るのは無謀であろう。慣らし運転をするか、あるいは、Cカードを取り直すかである。もっとも、その前に10数年の間、しまいっぱなしにしていたダイビング機材や、ウェットスーツがまともなのかどうか、チェックする必要もあった。もう、すでに夏は終わりかけている。そこで、9月初めのチェックダイブをして、9月の連休のどこかの島のファンダイブの申し込みをしようと計画したのだが、目当ての女性イントラがいるショップの沖縄ツアーはすでに満員だった。
せっかくダイビングに復帰しようとした夏が終わろうとしていた。ぼくはそれでも、9月の連休中のダイビングツアーをあきらめきれず、別のショップでツアーを探すことにした。そして、八丈島のツアーを企画しているショップが見つかった。それが、ナツコのいるショップだった。そんな経緯があって、冒頭の電話へと続いたのだった。電話する前は、そのショップで買った機材じゃない事から、オーバーホールを断られるかと心配したのだが、どうやら引き受けてもらえそうだった。そして、チェックダイブのつもりで、日帰りのボートツアーを申し込んだのだが、電話を受けたナツコはどうやらファンダイブと決めてかかってたらしい。10数年ぶりのダイビングにもかかわらず、いきなり、ボートでファンダイブという事態になってしまうことになる事を、ぼくはその時は知る由もなかった。ただ、言えることは、そのショップでは、カードの提示どころかダイビングの履歴を示すログブックの提示すら求められなかったことだ。潜らせてみればわかるということなのだろうか。ぼくは、不安のまま、日帰りのボートダイビングツアーの日を迎えることになった。

不安のまま迎えたボートダイビングツアーは、やはり予想通り、ひどいできだった。

spitz - sora mo toberuhazu

愛してるのサイン(3)

2007-10-19 20:11:59 | プチ放浪 海沿い編
それがまた、ダイビングを再開するきっかけは、一枚の水中写真からだった。その写真には、輝く水面越しの太陽を背に、絵の具を溶いたようなあざやかなブルーの中を黒くシルエットに浮かび上がったオニイトマキエイ(Giant manta: 鬼糸巻鱏)、通称マンタが泳いでいる姿が写っていた。その写真がぼくを痛烈に南の島へ呼んでいた。と書けば、80%ぐらいはウソになる。ダイビングを再開しようと思った本当のきっかけは、あまりにも暇な8月の週末に日帰りで潜ってこようとインターネットで近くのダイビングショップを探していて、とあるショップのHPに「女性スタッフがご案内します」とか、「水中撮影のノウハウをアドバイスします」の文言を見つけたからだ。
一昔前、ぼくがダイビングをしていた事は、ダイビングショップのダイビングツアーは、その店で買った機材じゃなければツアーの参加資格はなかったし、高い機材を無理やり買わされたり、ファンダイブで遊びに行ったのにイントラ(インストラクター)怒鳴られ、怒られまくっていたりが当たり前の時代だった。
今でも、その頃の名残なのだろうか、ダイバー達がちょっとでも勝手なまねをするとすぐに「なぐるぞ」を連発する初老のイントラもいるらしい。たしかに、客の命を預かるイントラ達だ。自分の想定範囲の中でしか、客の安全を確保できないのかもしれない。
ところが、そんなイントラ達から巣立っていった若き女性ダイバー達が、資格を得てインストラクターをやるようになってダイビング業界も様変わりしてきたようだ。なによりも、女性がインストラクターになることで生徒とのコミュニケーションがとりやすくなったのだ。いつまでも物覚えの悪い客に対して、彼女達はいらいらせずに何度でも丁寧に教えくれる。それに、年下の美人イントラに少々きつくお灸をすえられても、何かと言えば感情的になってわめきちらすオジサンのイントラから怒られるほど、へこむことはないだろう。
ダイビングのもう一つの楽しみは、大げさに言えばお互いに命をかけて海の底にグループで潜ることで人と人の間に構築される信頼関係や親近感である。だから、ツアーの夜の飲み会は異様なほど盛り上がることが多い。みんなが本当に友達になれるのだ。もちろん、その夜の宴会に、美人イントラがいればそれは天国に違いない。こんなことは、その昔は夢に近かったことかもしれない。だから速攻で「女性スタッフがご案内します」と書いてあったそのショップにメールしたのは言うまでもないことだ。

愛してるのサイン(2)

2007-10-18 19:57:32 | プチ放浪 海沿い編
ぼくの手元のオープン・ウォーターのライセンス・カード。一般にCカードと呼ばれるそれの発行年月日は、1989年だ。当時の日本経済は1985年のプラザ合意を引き金として、ドル高による貿易赤字に悩む米国がG5諸国と協調介入したことにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。それにもかかわらず、低金利と資産価格の高騰から、消費や不動産関連の投資が膨張したいわゆる「バブル経済」が発生し、1989年はそのバブル経済の真っ只中にあった。今考えても、輸出が大打撃を受けて不況になるべき経済が、どういうはずみでか狂乱の態を示してバブル経済に浮かれ出したのか不思議でしょうがない。とはいえ、世間の金離れに浮かれてダイバーズライセンスを取ったぼくもあちこちの海に出かけていた。
しかし、1992年のモルジブを最後に、ぼくはぱったりとリゾートダイビングを止めてしまっていた。別に、海に飽きたわけではない。ただ、まとまった休みが取れなくなってしまったのだ。もし、ぼくがウミウシやエビ・カニ類、ハゼ類などの撮影を好むカメラ派ダイバーだったら、なんとか休みをやりくりして、週末や日帰りで伊豆半島や伊豆七島に出かけていたのだろう。しかし、ぼくは「マンタ・サンゴ礁・マリンブルーの海」を象徴する南の島の典型的なリゾートダイバーだった。そのためにはどうしても最低5日以上の連続した休みを必要とした。だからダイビングから遠ざかってしまったのだった。また、Cカードの取得からずーっと一緒だったダイビング仲間も結婚やら仕事やらで海に行けなくなってしまった。ダイビングはバディ・システムと言って、万が一の事態に備えて2人のペアで潜る。信頼できるバディの喪失、これも海に行かなくなった一つの理由だ。

愛してるのサイン(1)

2007-10-17 19:42:13 | プチ放浪 海沿い編
「今、飛天坂の交差点なんすけど、そこに行くにはどうやっていくんですか?」
「市役所を右にして、市役所通りをまっすぐです」
「ありがとう」
ぼくは、礼を言って携帯の通話を切った。これがナツコとの最初の会話だ。
もっとも、その2日前に、会社からそのダイビングショップに電話を入れているから、その時に電話に出たのが彼女だとすれば、彼女との会話は2度目ということになる。
電話で教しえてもらった道は、お互いの思い込みの違いから出だしの方角が90°ずれていて、言われたとおり市役所を右手に見ながらまっすぐ行ってもたどり着けるはずもなく、結局、そのショップに着いたのは迷いに迷って20分後だった。
駐車場に車を止めて、ショップのドアを開けると、ナツコのまぶしい笑顔がぼくを迎えてくれた。
「さっきはどうも!」
「ごめんなさい。道案内がへたくそで」
細い身体でけらけら笑うナツコは、それでもダイビングのインストラクターというから驚きだった。とはいっても、リゾートなんかにいるインストラクターとは違って、あまり日に焼けているわけじゃない。髪の毛もひと頃のサーファー達が潮焼けと言って染めていた茶髪や金髪じゃなく、栗毛色の長めのストレートヘアだった。
まあ、後で聞いたらこの6月にこのショップに勤め始めたというから、8月も終わろうとする今シーズンはあまり潜りには行っていないのかもしれない。ショップのオーナーの男は、やはりインストラクターをやっていて、今日は2人のオープン・ウォーター・ダイバーの海洋実習生の教習に行っていて留守らしい。ぼくはさっそく抱えていた袋から、もう買ってから20年にもなるSASのBuoyancy Control Jacket(浮力調整ジャケット)とScubaProのレギュレータのオーバーホールを頼んだのだった。

DREAMES COME TRUE - 未来予想図Ⅱ-VERSION '07-

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