舞鶴と言えば何故か思い出すのが「岸壁の母」の中のこの台詞。「港の名前は舞鶴なのに・・・何故飛んで帰ってきてはくれぬのじゃ?」
昔から年齢詐称を疑われるほど懐メロが好きだった私😅、ある日友人に誘われていったカラオケ喫茶で、岸壁の母を歌ったら、その場にいた見知らぬ高齢のご婦人が、突然声を上げて泣き始めました。おそらくお身内のどなたかに似た境遇の方がいらしたのかもしれません・・・それから何年も立ってこの場所に立ったとき、ふっと、その時の事を思い出しました。
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は苦難に満ちた復興への第一歩を踏み出します。しかし、その歩みの中に加われない多くの日本人が、中国、ソ連、千島などに残されていました。その数、兵隊350万人、民間人310万人・・およそ660万人余。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港。それを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げだけで、約20万人が舞鶴の地を踏みました。
しかし、極寒のシベリアで抑留されている人々を残したまま、昭和25年、ソ連からの引揚が中断。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として引揚者を受け入れ。昭和33年、引揚者472人を乗せて帰国した「白山丸」が、最後の引揚船となりました。
終戦から13年、舞鶴港は66万人余人の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎えいれたとありましたが、全国の引揚者の人数を足しても、100万以上の人々が祖国の土を踏むことは出来ませんでした。終戦から25年を経た昭和45年、平和への願いを後世に伝えようと、引揚港を見下ろす丘の上に引揚記念公園を整地しカリヨンの鐘を設置。昭和63年には、舞鶴引揚記念館が完成しました。
日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻したソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された方々を待ち続けた何万人もの「岸壁の母」。帰らぬ我が子を待ち続ける母の思いを歌い上げたこの歌は、舞鶴市を引き揚げの街として全国に知らしめたのです。
舞鶴湾奥北東部の平湾に、二羽の鶴をイメージして架けられた、斜張橋「クレインブリッジ」。主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは羽をイメージして設計されたそうです。
引き揚げの拠点となった舞鶴平湾・・・波一つ無く穏やかな海面を見ていると、人々の慟哭が風に乗って聞こえてくるような気がします。どうぞ、外地に残されたすべての御霊が、懐かしい日本の地にお帰りになられていますように🙏🙏
訪問日:2010年7月9日
私は博多入港の第一回目の引き揚げ船で、母に連れられ日本へ戻りました。
船は駆逐艦で「萩の船」と、母が語っていました。父はソ連の捕虜となり、シベリアの炭鉱でした。入港前、博多の沖で何日間か停泊して いました。母が甲板に立ち、海を見ていました。母が口に含んでいた梅干しの種を、海へ吹き出すと、静かな青い海の底へ沈んでいきました。
なぜか今でも、音のない静かな情景が心に残っています。この時私は、3歳でした。辛さも悲しみも知らない幼児でしたが、今では思い出すたび、切ないものに胸がふたがれます。
貴方のブログを、他人事でなく、読ませていただきました。
海の底に沈んでいく梅干しの種・・・
小さな波紋が目に焼き付いて、言葉が出ませんでした。
敗北で終戦を迎え、故無きことも含めて一方的に責められ続けてきた戦後ですが・・
こうした事こそが、勝者の驕りによる戦争犯罪だと私は思います。