民主主義社会の成立条件としての政党政治
私はもともとが、政治は、あまり勉強したこともありません。
ところが今、日本では政治が大問題になっていますし、アメリカでも選挙の結果は出ましたが、トランプさんの残した政治問題はいろいろとこれからも大変でしょう。
大学には大体政治という専門分野があって、先生は研究と教育に精を出し、学生は一生懸命勉強しています。
一方、現実の政治は、国家を運営する人(たち)とその国に住む国民が日々直接に関わりを持つ日常の生活分野の問題でもあります。
その意味では、学問としての政治はそれとして、国民の誰もが政治の影響を大きく受けるのですから、より良い政治の在り方について、ある程度の常識と、現実の政治についての判断力を持たなければならないのでしょう。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」をひくまでもありませんが、国民がそれぞれに自分なりの判断をせずに(出来ずに)、他人の判断に従うようでは、民主主義は成り立たないのでしょう。
最近、ポピュリズムが民主主義を破壊しているという意見は多いようですが、ポピュリズムというのはもともと「人気」がべー スで、人気というのは浮気者ですから、ミスコンや株価と同じで、急騰したり暴落したりするのです。
ところが政治は国民の実生活に直結していますから、それでは困るのです。
例に引いては恐縮ですが、「アメリカ・ファースト」で人気が出ても、まともな政治が出来ない人が、ポピュリズムに乗って大統領に当選する場合もあるのです。
政治というのは、国民生活に密着ですから、「安定」が第一義でしょう。GDPや物価、社会保障や賃金水準がジェットコースターのようでは、国民の生活には大迷惑です。
前回の、民主主義社会には二大政党が望ましいというのもその視点からですが、それが望まれるのは、古今東西を通じて、大方何処でも共通する一つの法則があるからです。
ではその法則とは、「権力は腐敗する」という法則です。例外は極めて少ないようです。私の知る限りでは シンガポールのリークァンユウさんは素晴らしい例外です。
共産党一党独裁の国は別としても、民主主義の形を取る国においても、権力が腐敗し、国の行き先がおかしくなる(なった)例は、 枚挙に暇がありません。
今日の世界を見渡しても、ロシア、ベラルーシ、ベネズエラ、中国の支配下になった香港などなど、その在り方は、民主主義には馴染むものではありません。
そして、困ったことに、腐敗した権力は、その腐敗の度合いに比例して権力維持への執念が強くなるようなのです。
そこで本論に入ることになるのですが、多くの場合権力の腐敗が「避けられない」とすれば、民主主義のルールによって、腐敗に気づいた国民が、選挙によって政権の交替を実現するというのが、民主主義の独裁政治への変異を止める正常な方法でしょう。それが遅れると、暴動や革命や内戦が必要な状態になることが多いようです。
そういう意味では、二大政党の対立という形で、政権の行き過ぎを適時に阻止するという方式が常に機能するアメリカやイギリスが独裁国家になる可能性は極小でしょうし、ヨーロッパの主要国も同様ではないでしょうか。
多分、民主主義の成熟というのは、その国の国民が、どう間違っても独裁的な国の在り方は必ず阻止するという意識と行動を実現できること、それが国民の生活の中での常識になっていくプロセスの到達点といえるのではないでしょうか。
その意味では、戦後常に一強多弱という政党の地図が変わらない日本というのは、成熟した民主主義国の中の例外適な在り方(自民党の中での政権交替で腐敗に対応)なのか、それとも成熟した民主主義国とは言えないのか、どう定義した良いのか迷う所です。
考えてみれば、与党内部は安倍一強で官僚も含めて「忖度一色」になった現状は、かなり危険な状態なのかもしれません。
私はもともとが、政治は、あまり勉強したこともありません。
ところが今、日本では政治が大問題になっていますし、アメリカでも選挙の結果は出ましたが、トランプさんの残した政治問題はいろいろとこれからも大変でしょう。
大学には大体政治という専門分野があって、先生は研究と教育に精を出し、学生は一生懸命勉強しています。
一方、現実の政治は、国家を運営する人(たち)とその国に住む国民が日々直接に関わりを持つ日常の生活分野の問題でもあります。
その意味では、学問としての政治はそれとして、国民の誰もが政治の影響を大きく受けるのですから、より良い政治の在り方について、ある程度の常識と、現実の政治についての判断力を持たなければならないのでしょう。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」をひくまでもありませんが、国民がそれぞれに自分なりの判断をせずに(出来ずに)、他人の判断に従うようでは、民主主義は成り立たないのでしょう。
最近、ポピュリズムが民主主義を破壊しているという意見は多いようですが、ポピュリズムというのはもともと「人気」がべー スで、人気というのは浮気者ですから、ミスコンや株価と同じで、急騰したり暴落したりするのです。
ところが政治は国民の実生活に直結していますから、それでは困るのです。
例に引いては恐縮ですが、「アメリカ・ファースト」で人気が出ても、まともな政治が出来ない人が、ポピュリズムに乗って大統領に当選する場合もあるのです。
政治というのは、国民生活に密着ですから、「安定」が第一義でしょう。GDPや物価、社会保障や賃金水準がジェットコースターのようでは、国民の生活には大迷惑です。
前回の、民主主義社会には二大政党が望ましいというのもその視点からですが、それが望まれるのは、古今東西を通じて、大方何処でも共通する一つの法則があるからです。
ではその法則とは、「権力は腐敗する」という法則です。例外は極めて少ないようです。私の知る限りでは シンガポールのリークァンユウさんは素晴らしい例外です。
共産党一党独裁の国は別としても、民主主義の形を取る国においても、権力が腐敗し、国の行き先がおかしくなる(なった)例は、 枚挙に暇がありません。
今日の世界を見渡しても、ロシア、ベラルーシ、ベネズエラ、中国の支配下になった香港などなど、その在り方は、民主主義には馴染むものではありません。
そして、困ったことに、腐敗した権力は、その腐敗の度合いに比例して権力維持への執念が強くなるようなのです。
そこで本論に入ることになるのですが、多くの場合権力の腐敗が「避けられない」とすれば、民主主義のルールによって、腐敗に気づいた国民が、選挙によって政権の交替を実現するというのが、民主主義の独裁政治への変異を止める正常な方法でしょう。それが遅れると、暴動や革命や内戦が必要な状態になることが多いようです。
そういう意味では、二大政党の対立という形で、政権の行き過ぎを適時に阻止するという方式が常に機能するアメリカやイギリスが独裁国家になる可能性は極小でしょうし、ヨーロッパの主要国も同様ではないでしょうか。
多分、民主主義の成熟というのは、その国の国民が、どう間違っても独裁的な国の在り方は必ず阻止するという意識と行動を実現できること、それが国民の生活の中での常識になっていくプロセスの到達点といえるのではないでしょうか。
その意味では、戦後常に一強多弱という政党の地図が変わらない日本というのは、成熟した民主主義国の中の例外適な在り方(自民党の中での政権交替で腐敗に対応)なのか、それとも成熟した民主主義国とは言えないのか、どう定義した良いのか迷う所です。
考えてみれば、与党内部は安倍一強で官僚も含めて「忖度一色」になった現状は、かなり危険な状態なのかもしれません。