過去2回ほど書いてきたものの纏めを今回は試みてみます。
現代社会は、やっぱり「より豊かでより快適な」人間生活を求めて動いているようです。
政府(政治)は、毎年の経済成長、より少ない失業率といったものを目標にします。
宗教は物欲よりも、心の安らかさを教えますから「快適さ」は自分の心の中にあるというのかもしれませんが、通常の人間はそれだけでは満たされないでしょう。(物質的なものも必要)
そうした現代社会の中で、まず政治の役割と考えてみますと、「平和、経済成長、雇用の安定、格差社会化防止」といったことが挙げられてくるのではないでしょうか。
民主主義社会では、政府がそれに失敗すると、通常、政権交代が起き、新しい政府が頑張り、然し失敗することもあり、また政権交代というのが一般的です。選挙というシステムで、国民の意思による選択が可能になっているのです
政治でも独裁政治下では政権交代が起きませんから、独裁者の意思で社会が動くことになります。
独裁者は宗教を嫌います。共産主義も宗教は禁止です。これは多分、共産主義が宗教の性格を併せ持っているという事でしょう。
宗教は元々偏狭なもので、異教徒とは相容れないのです。しかし世の中が進化してきますと、宗教も次第に寛容(柔軟)になり、異教徒との共存が可能になるようです。
この辺りは一神教と多神教では多少違いもあるのかもしれません。
独裁主義・専制政治と宗教とは、教祖(独裁者)の価値体系のみを認めさせるという意味で、国民や信者の人間としての思考や行動の範囲を限定してしまうという点で似ています。
こうした環境の中では、人間の最高次の欲求である「自己実現」は不可能になってしまい、「豊かで快適」ではなくなってくるようです。
こんな風に考えて来ますと「より豊かでより快適な」社会の実現のために適切な政治や宗教はどんなものかといった問題の解答へのヒントが出て来るような気がします。
恐らくその回答は、決して難しいものではなく、人間なら誰でも分かるうな簡単なものだと感じています。
試論の結論として、並べてみますと、多分こんな事になるのではないでしょうか。
政治について見れば、
特定のイデオロギーを掲げて、あるいは特定の宗教を掲げて、その価値体系を良しとし、それ以外の価値体系を否定するような政治は、何時かは行き詰まることになり、社会の進歩、国民生活を国民の望む「豊かで快適」なものにするために効率的に機能することはない。より柔軟で、幅の広い選択肢を許容するものが望まれる。
宗教について見れば、それぞれに特定の神を崇めるものであるから、世界には多くの神が存在する。あなたの神と私の神は違うけれども、異教に対しお互いに寛容になる必要がある。
出来れば、世界中にある神々は、宇宙全体から見れば、同じ創造主ではないか、と考えてみる。(日本では神道と、仏教の 習合が行われている)
こんなことになれば、人類社会の「豊かさ、快適さ」を一層進歩させるために、色々と都合よくなるのではないでしょうか。それなのに今の世界では必ずしもそうなっていません。独裁政治を良しとする国があり、特定の宗教を強制する国もあります。
「豊かで快適な」社会を求める地球人類は、こうした状態を、より良い方向に持っていくために、もっともっと知恵を絞らなければならないのでしょう。
最後に政治について蛇足を付け加えます。
民主主義というのは、特定の政治の型ではなく、逆に、「型が決まっていないからどんな型にもなり得る」という政治形態といいう事ではないでしょうか。
例えていえば、血液型の「0型」=特定の型の特徴がないから「0(ゼロ)型」みたいなものです。
民主主義国には、徹底した自由経済の国から社会主義的な福祉国家まであります。(例えればアメリカ型から北欧型まで)
選挙の結果によっては、右翼独裁や左翼独裁の政権を作ることもあります。(程度の違いはありますが、ヒトラーのドイツ、トランプのアメリカ、安倍・菅政権の日本・・・)
しかし一度本格的な独裁政権になってしまいますと、民主主義に戻すのは大変ですから、通常はその前に、民主主義の範囲にとどまるような政権交代を選挙によって行うように国民は考えるのでしょう。
人間は多様ですから、多様性の共存を認めるような柔軟性を持つ政治形態でないと「豊かで快適な」社会は永続しないのです。
民主主義はその意味で、現状では最も健全な政治システムなのでしょう。独裁政権の中で育ち大統領にまでなったゴルバチョフさんの意見は大切のように思う所です。
現代社会は、やっぱり「より豊かでより快適な」人間生活を求めて動いているようです。
政府(政治)は、毎年の経済成長、より少ない失業率といったものを目標にします。
宗教は物欲よりも、心の安らかさを教えますから「快適さ」は自分の心の中にあるというのかもしれませんが、通常の人間はそれだけでは満たされないでしょう。(物質的なものも必要)
そうした現代社会の中で、まず政治の役割と考えてみますと、「平和、経済成長、雇用の安定、格差社会化防止」といったことが挙げられてくるのではないでしょうか。
民主主義社会では、政府がそれに失敗すると、通常、政権交代が起き、新しい政府が頑張り、然し失敗することもあり、また政権交代というのが一般的です。選挙というシステムで、国民の意思による選択が可能になっているのです
政治でも独裁政治下では政権交代が起きませんから、独裁者の意思で社会が動くことになります。
独裁者は宗教を嫌います。共産主義も宗教は禁止です。これは多分、共産主義が宗教の性格を併せ持っているという事でしょう。
宗教は元々偏狭なもので、異教徒とは相容れないのです。しかし世の中が進化してきますと、宗教も次第に寛容(柔軟)になり、異教徒との共存が可能になるようです。
この辺りは一神教と多神教では多少違いもあるのかもしれません。
独裁主義・専制政治と宗教とは、教祖(独裁者)の価値体系のみを認めさせるという意味で、国民や信者の人間としての思考や行動の範囲を限定してしまうという点で似ています。
こうした環境の中では、人間の最高次の欲求である「自己実現」は不可能になってしまい、「豊かで快適」ではなくなってくるようです。
こんな風に考えて来ますと「より豊かでより快適な」社会の実現のために適切な政治や宗教はどんなものかといった問題の解答へのヒントが出て来るような気がします。
恐らくその回答は、決して難しいものではなく、人間なら誰でも分かるうな簡単なものだと感じています。
試論の結論として、並べてみますと、多分こんな事になるのではないでしょうか。
政治について見れば、
特定のイデオロギーを掲げて、あるいは特定の宗教を掲げて、その価値体系を良しとし、それ以外の価値体系を否定するような政治は、何時かは行き詰まることになり、社会の進歩、国民生活を国民の望む「豊かで快適」なものにするために効率的に機能することはない。より柔軟で、幅の広い選択肢を許容するものが望まれる。
宗教について見れば、それぞれに特定の神を崇めるものであるから、世界には多くの神が存在する。あなたの神と私の神は違うけれども、異教に対しお互いに寛容になる必要がある。
出来れば、世界中にある神々は、宇宙全体から見れば、同じ創造主ではないか、と考えてみる。(日本では神道と、仏教の 習合が行われている)
こんなことになれば、人類社会の「豊かさ、快適さ」を一層進歩させるために、色々と都合よくなるのではないでしょうか。それなのに今の世界では必ずしもそうなっていません。独裁政治を良しとする国があり、特定の宗教を強制する国もあります。
「豊かで快適な」社会を求める地球人類は、こうした状態を、より良い方向に持っていくために、もっともっと知恵を絞らなければならないのでしょう。
最後に政治について蛇足を付け加えます。
民主主義というのは、特定の政治の型ではなく、逆に、「型が決まっていないからどんな型にもなり得る」という政治形態といいう事ではないでしょうか。
例えていえば、血液型の「0型」=特定の型の特徴がないから「0(ゼロ)型」みたいなものです。
民主主義国には、徹底した自由経済の国から社会主義的な福祉国家まであります。(例えればアメリカ型から北欧型まで)
選挙の結果によっては、右翼独裁や左翼独裁の政権を作ることもあります。(程度の違いはありますが、ヒトラーのドイツ、トランプのアメリカ、安倍・菅政権の日本・・・)
しかし一度本格的な独裁政権になってしまいますと、民主主義に戻すのは大変ですから、通常はその前に、民主主義の範囲にとどまるような政権交代を選挙によって行うように国民は考えるのでしょう。
人間は多様ですから、多様性の共存を認めるような柔軟性を持つ政治形態でないと「豊かで快適な」社会は永続しないのです。
民主主義はその意味で、現状では最も健全な政治システムなのでしょう。独裁政権の中で育ち大統領にまでなったゴルバチョフさんの意見は大切のように思う所です。