前回、独裁国は、国民の意思と必ずしも関係のない独裁者の思いを実現するために、国民の犠牲において随分無駄なことをしている場合が多いことを指摘しました。
そうなってしまう理由ですが、独裁政権では、国民の望むところと独裁者のやりたいことが食い違うことが多いので、(独裁者は国民の気持ちなどは意識せず、自分の考え方を国民が持するのが当然と考えるので)国民から見れば、国費の無駄遣いといったことが多くなる傾向があるでしょう。
この考え方を応用すると、どこの国においても、政権の「独裁度」というのを国家予算の中の無駄な支出の割合という形で算出できるのではないでしょうか。
つまり、国民が、そんなことに税金を使ってほしくないな、と思っていることに、どれだけ多くの予算を割いているかということが、政権の独裁的な行動を表しているという訳です。
考えてみますと、安倍政権の時から、いろいろな面で、そんなことが多くなっているような気がしますが、その中には国民には分からないような形のものも、イージスアショアのような、たぶん、使わないか使えないようなものもありました。
今度のコロナに関して言えば、アベノマスクなどもそうかもしれません。
こうしたことを政権の態度から見てみますと「国民に丁寧に説明して理解してもらう」という「言葉遣い」多くなったことが挙げられます。
このブログでも、安倍政権の「丁寧に説明する」ということの意味は、「同じことを何度でも繰り返して言う」との意味だと書いた覚えがありますが、政権が、国民が諦めるまで言い続けて押し通すのは「ソフトな独裁制」でしょう。
今日は、菅総理が、コロナ対策の、入院か自宅療養かの問題で、「方針は撤回しないが、丁寧に説明する」とはっきり言っていました。
これは国民が納得しなくても権力で押し通すという事を言葉だけソフトに言い換えたものでしょう。
自由と民主主義を掲げる政権でも、部分的には独裁政権であることは「有り得る」という事になります。その部分が増えてくると、いつの間にか実質的には独裁政権になる危険性もあり得ます。
これを阻止するのは選挙ですが、独裁政権では、名目は多数決でも、実質的には独裁政権が維持できるような工夫(工作)をしているようです。この辺も真似すると、次第に独裁政権に本格的に近づくのでしょうか。
日本が独裁国家になるとは思いませんが、今年の秋は総選挙です。国民にとって要注意の秋になりそうです。