昭和の46年間を論じてきました。当初、昭和20年(1945年)以前の戦争の昭和とそれ以降の平和と経済成長の昭和(今はもう懐かしいレトロの昭和)を2回に分けてと思っていましたが戦後の昭和はやっぱり2つの違った時期があって、どうしても長くなるので、続と続2になりました。
続と続2の境は大阪万博の翌年、1971年(昭和46年)で、この年の8月15日、アメリカのニクソン大統領が基軸通貨ドルの金兌換を停止し、変動相場制になり、そのために世界経済の不安定化が進み、その荒波に翻弄される日本になったことによります。
具体的には、順調な成長期は終わり、2度の石油危機、更にプラザ合意による円高、バブル経済までで、その崩壊で平成長期不況に入る直前までという事になります。
前回の最後の部分で触れました石油危機は、前後2回、最初は昭和48年(1973年)の10月です。
石油の99.8%を輸入に頼るといわれた日本は大混乱、トイレットペーパーと洗剤が店頭から消えるパニックが起き、消費者物価は高騰、結果、翌昭和49年度の経済成長率はマイナス0.8%(実質)と戦後初のマイナスを記録したのです。49年の春闘は33%の賃上げとなり、消費者物価はピーク時には26%も上昇、急激なインフレの進行で、日本経済は潰れるといわれる危機状態になっています。
しかしこの時、日本の労使は賢明でした。翌50年春闘までの1年間分析と討議を重ね、インフレは、石油の値上がりのせいよりも、大幅の賃上げのせいであることを理解、賃金上昇を急速に抑制することで合意、経済を正常に戻しています。
そして昭和56から57年にかけて起きた第2次石油危機は、混乱もなく乗り切り、中成長、安定成長などと言われる安定した日本経済への回復を実現しています。
ここで指摘すべきは欧米主要先進国の状況です。アメリカを始めほとんどの国々は、石油価格の上昇から賃金コストインフレの誘発という状況を続け、当時先進国病といわれたスタグフレーションに陥って、その脱出には政権交代を要し、1990年前後までの長い時間がかかっています。
先進諸国の中で唯一スタグフレーションを回避した日本は、先進諸国から驚嘆の目で見られたようです。
ハーバード大のエズラ・ボーゲルが「ジャパンアズナンバーワン」を書いたのが1979年、(昭和54年)日本が第一次オイルショックを克服し終わった年です。
アメリカが赤字国になり、ドルの金兌換を停止、変動相場制になって日本がまず経験した難関はこれでした。
日本は世界に類のない労使の協力という形で難関を乗りきり、戦後の高度成長の時と同ように先進諸国を驚かせることになりました。
真面目に頑張る日本人のエネルギーが、この成功を齎したのでしょう。付け加えれば、これはほとんどが民間の労使の力で、政府の役割は、側面援助程度でした
しかしこの成功は、昭和の日本に、次なる難関を齎したようです。
それは日本の突出に対する警戒感、特にアメリカにとっては、覇権国アメリカに追いつくことは阻止したいとする覇権国の本能のようなものでしょうか。
1985年、ニューヨークのプラザホテルのG5 において、日本は、円レートの切り上を要請されたのです。
ここでは、日米の「経済学の知識」の差が出たようです。日本は受け入れました。しかし変動相場制の中での受け入れは、円高の限度がどうなるかの十分な注意まではしなかったようです。
結果的に円レートは1ドル240円から2年後には120円と2倍に値上がりしたのです。
日本製品の価格は、外国では2倍なり、航空運賃や国際電話の料金は、日本から海外への場合は、海外から日本への場合の2倍の料金になりました。
石油危機の時は石油の値段は世界中で同じ値上がりでしたが、円高の場合はコスト高になるのは日本だけです。そして、これを克服するのは昭和を大きく過ぎてからになりました。
プラザ合意から昭和64年、平成元年(1989年)までは、日本は、アメリカの勧めに従って金融の大幅緩和をやり土地バブルを起こし、バブルの宴に酔い痴れていたのです。
終戦以降の昭和は、廃墟から出発、世界2位の経済大国になり、ニクソンショックまでは順調でした。
そしてその後の第一の試練だった石油危機は立派に乗り切ったものの、プラザ合意では経済学の知識の低さから鷹揚に円高を受け入れ、最後の4年間は、バブルの宴に酔い痴れていたのです。
後に待っていた平成不況は、これもアメリカ発の世界金融大惨事、いわゆる、いわゆるリーマンショックの影響も受け、2010年代まで続く長期不況でした。
黒いダイヤル電話機、白黒テレビ、たばこや塩の看板、満員の通勤電車、植木等のスーダラ節・・・などなどで、今や郷愁の対象となっているレトロの昭和の背景には、こうした日本経済の動きがあったのです。
そしてその前の戦争の昭和の20年、昭和は大きく2つの時代にまたがる、日本経済の大転換を歴史に記した時代だったのです。
この昭和の意義を、日本人はいつまでも大事にしなければならないのではないでしょうか。
続と続2の境は大阪万博の翌年、1971年(昭和46年)で、この年の8月15日、アメリカのニクソン大統領が基軸通貨ドルの金兌換を停止し、変動相場制になり、そのために世界経済の不安定化が進み、その荒波に翻弄される日本になったことによります。
具体的には、順調な成長期は終わり、2度の石油危機、更にプラザ合意による円高、バブル経済までで、その崩壊で平成長期不況に入る直前までという事になります。
前回の最後の部分で触れました石油危機は、前後2回、最初は昭和48年(1973年)の10月です。
石油の99.8%を輸入に頼るといわれた日本は大混乱、トイレットペーパーと洗剤が店頭から消えるパニックが起き、消費者物価は高騰、結果、翌昭和49年度の経済成長率はマイナス0.8%(実質)と戦後初のマイナスを記録したのです。49年の春闘は33%の賃上げとなり、消費者物価はピーク時には26%も上昇、急激なインフレの進行で、日本経済は潰れるといわれる危機状態になっています。
しかしこの時、日本の労使は賢明でした。翌50年春闘までの1年間分析と討議を重ね、インフレは、石油の値上がりのせいよりも、大幅の賃上げのせいであることを理解、賃金上昇を急速に抑制することで合意、経済を正常に戻しています。
そして昭和56から57年にかけて起きた第2次石油危機は、混乱もなく乗り切り、中成長、安定成長などと言われる安定した日本経済への回復を実現しています。
ここで指摘すべきは欧米主要先進国の状況です。アメリカを始めほとんどの国々は、石油価格の上昇から賃金コストインフレの誘発という状況を続け、当時先進国病といわれたスタグフレーションに陥って、その脱出には政権交代を要し、1990年前後までの長い時間がかかっています。
先進諸国の中で唯一スタグフレーションを回避した日本は、先進諸国から驚嘆の目で見られたようです。
ハーバード大のエズラ・ボーゲルが「ジャパンアズナンバーワン」を書いたのが1979年、(昭和54年)日本が第一次オイルショックを克服し終わった年です。
アメリカが赤字国になり、ドルの金兌換を停止、変動相場制になって日本がまず経験した難関はこれでした。
日本は世界に類のない労使の協力という形で難関を乗りきり、戦後の高度成長の時と同ように先進諸国を驚かせることになりました。
真面目に頑張る日本人のエネルギーが、この成功を齎したのでしょう。付け加えれば、これはほとんどが民間の労使の力で、政府の役割は、側面援助程度でした
しかしこの成功は、昭和の日本に、次なる難関を齎したようです。
それは日本の突出に対する警戒感、特にアメリカにとっては、覇権国アメリカに追いつくことは阻止したいとする覇権国の本能のようなものでしょうか。
1985年、ニューヨークのプラザホテルのG5 において、日本は、円レートの切り上を要請されたのです。
ここでは、日米の「経済学の知識」の差が出たようです。日本は受け入れました。しかし変動相場制の中での受け入れは、円高の限度がどうなるかの十分な注意まではしなかったようです。
結果的に円レートは1ドル240円から2年後には120円と2倍に値上がりしたのです。
日本製品の価格は、外国では2倍なり、航空運賃や国際電話の料金は、日本から海外への場合は、海外から日本への場合の2倍の料金になりました。
石油危機の時は石油の値段は世界中で同じ値上がりでしたが、円高の場合はコスト高になるのは日本だけです。そして、これを克服するのは昭和を大きく過ぎてからになりました。
プラザ合意から昭和64年、平成元年(1989年)までは、日本は、アメリカの勧めに従って金融の大幅緩和をやり土地バブルを起こし、バブルの宴に酔い痴れていたのです。
終戦以降の昭和は、廃墟から出発、世界2位の経済大国になり、ニクソンショックまでは順調でした。
そしてその後の第一の試練だった石油危機は立派に乗り切ったものの、プラザ合意では経済学の知識の低さから鷹揚に円高を受け入れ、最後の4年間は、バブルの宴に酔い痴れていたのです。
後に待っていた平成不況は、これもアメリカ発の世界金融大惨事、いわゆる、いわゆるリーマンショックの影響も受け、2010年代まで続く長期不況でした。
黒いダイヤル電話機、白黒テレビ、たばこや塩の看板、満員の通勤電車、植木等のスーダラ節・・・などなどで、今や郷愁の対象となっているレトロの昭和の背景には、こうした日本経済の動きがあったのです。
そしてその前の戦争の昭和の20年、昭和は大きく2つの時代にまたがる、日本経済の大転換を歴史に記した時代だったのです。
この昭和の意義を、日本人はいつまでも大事にしなければならないのではないでしょうか。