英語はビジネスのための言葉、フランス語は愛をささやく言葉、イタリア語は歌を歌う言葉、ついでにドイツ語は馬と話す言葉、などと言われるようです。
これはドイツ語には失礼で、私はドイツ語は重厚な哲学を論じる言葉と言いたいと思います。
戦後「メディア論」で世界に名を馳せたマクルーハンは「メディアはメッセージである」という名言を残しています。
テレビが広く普及してラジオとは違った形、雰囲気でのメディアとして一般化してきた頃だったでしょうか。
ラジオの出演者は家庭とは別世界から情報を提供してくる特別な人間ですが、テレビの出演者はお茶の間にいる仲間の話という感覚で、同じ情報でも印象の強さや親近感が全く違うという意味で、メディアそのものがメッセージになる面があるという指摘をしていました。
こんなことを書きましたのも、今やメディアはますますその種類を増し、そこで使われる言葉もまた、夫々のメディアに即したものになるという世の中になって来たからです。
更にメディアが大きく変わったのは、ラジオやテレビ、映画などは、コンテンツを作るのはそれぞれの専門家、専門機関がそれなりにそれぞれの専門性を駆使して製作するのですが、今全盛のネットというメディアは、だれでも、いつでも、家族や仲間と話すことがそのまま電波に乗って世界中に伝えられるという進歩した科学技術を、日常的に、音声、文章、静止画、動画という多様な媒体(メディア)を使って発信することが出来るのです。
そして、現代人の生活は忙しくなり、メッセージ・コンテンツは簡にして要を得た短いのもが好まれるのが一般的になっているのです。
ということで、ここで考えたいと思っているのは言葉の在り方の問題です。
人間の脳は論理的思考をするための機能を揃えていると言われます。起承転結、序破急などといった物事の順序についての感覚と理解力を持っていますし、因果関係、三段論法といった論理的思考もできます。
論理学もあって、記述や推論が正しいかどうかを理解することもできます。記号論理学というのもありますが、最たるものは数学でしょう。
言葉で表したり、数式で説明したりすることで、人間は深い思考をしているのでしょう。言葉がなければ思考が出来ないという説は正しいようです。
ところで、「言葉は文化を作る」というのもその意味でしょう。そして、そう考えると、最近、我々の使う言葉がどんどん短くなって、ツイッター、X の世界で世の中が動き、それを補完するのが、一瞬で印象を与える「映像」という事は、今日の、さらにこれからの、文化そして社会の在り方に、大きな影響を与えることになると思っています。その兆しが選挙とSNSの関係などに出て来ているようです。これは確りした言葉で、深く考えることが必要な問題でしょう。