なんのための日本語 (中公新書 (1768)) 加藤 秀俊 中央公論新社 このアイテムの詳細を見る |
通勤の電車の中でぼつぼつと読んでいますが、眠くなることの方が多くて…なかなか進みません。
こんな文章があります。
[くどいようだが、外人の日本語に完全を期待するのは間違っている。語彙や発音だって、いい加減でかまわない。不自由がなければそれでいい。かつて内田百聞は英語の中にも「亜米利加英語」「シナ英語」「インド英語」などっがあるのと同じように日本語だって、おのずからそれぞれの母語集団ごとに一定のクセや訛りのある日本語が誕生し、やがては「マレー日本語」「ジャワ日本語」などが成立するだろう、と夢想したが、それは正しかった。現実に今ではフランス訛りの日本語、ウズベキスタン風の日本語、ブラジル式日本語、フィンランド式日本語などが続々と登場している。例えばタイの人の話す日本語はふわっとしているし、インドのかたは、おおむね話に切れ目がなくて早口。ロシア人の日本語にはさざ波のような抑揚がある。みんなきれいだし、よくわかる。こんな風にいろんな文化的背景を持った人々がせいいっぱい努力して「それぞれの日本語」をはなし、使うようになっているのだ。その結果として、たとえばベトナム人とメキシコ人が「日本語」を媒介にして会話している風景などが生まれた。そういう現場をみるたんびに、なんと多くの日本語が存在しているのかとおどろいてしまう。
このように「母語ばなれ」したさまざまな日本語を許容し、お互いに理解することに努めることこそが日本語の国際化というものだろう、と思う。母語・外語ごちゃまぜの多言語世界とはそういうものなのだ。]
この文章の中の「日本語」を「日本手話」に置き換えてみたらどうだろう?
私たちはこんなに広い視野を持っているかどうか…。