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住まいは人権! 一般社団法人協働舎
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福祉制度の充実には私たち一人ひとりの声

暑い夏がやってきた。

2018-07-27 | まいにち

今日は国際学院大学の公開市民講座「ヒロシマの継承」へ参加してきました。

若い人がいなかったのは残念でしたが、中国新聞編集委員の西本雅実さんが「被爆死を語る」と題して話されました。

懐かしい副島まちさんのお名前が出てきました。副島さんは私が高校生の頃、ソビエトの核実験を一つのきっかけに原水爆禁止運動が分裂して行く中、「すべての国のいかなる核実験にも反対」の立場を貫き通されました。今では当たり前のことのようやけど。当時は「綺麗な」死の灰があるなんてことを堂々という人もいましたから。

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被爆史は30日から区役所で買えるそうなんで、購入しようと思います。


死刑の執行・・・でいいのかどうか

2018-07-27 | まいにち

日本では大量の死刑が行われたが、8年目のノルウェーのその後(2年前の記事)を改めて読んだ(ニューズウィーク日本版)

 

連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開

2016年7月21日(木)16時35分
鐙麻樹(ノルウェー在住ジャーナリスト&写真

Photo:Asaki Abumi

<2011年にノルウェーで一人の男が77人の命を奪った連続テロ事件から間もなく丸5年。禁錮21年と短く感じられる判決に豪華な独房などの寛容さは何を意味するのか。テロ被害に遭った他の国からも視察が訪れるというノルウェー流テロとの付き合い方> (銃乱射事件が起きた島には犠牲者の名前が綴られたモニュメントがある)

 


「あの日」から、5年が経った。

 ノルウェーの人々の心をざわつかせる「7月22日」が、またやってくる。2011年7月22日、アンネシュ・ブレイビク受刑者(以下ブレイビク)は、オスロ中心地にある政府庁舎を爆破し8人の命を奪った後、オスロから離れたウトヤ島で労働党の青年部の関係者69人を銃で殺害した。単独犯行によって殺害された合計77人のうち、ウトヤ島では政治活動に積極的な20歳以下の若者が多くを占めた。

 犯行の動機は、ノルウェーの多文化主義やイスラム系移民から国を守るためだったとし、「残酷だが、必要な措置だった」とブレイビクは警察に話した。ブレイビクには、最高刑に相当する禁錮21年の判決が下された。「ここまで多くの人々の命を奪ったのに、最高刑が21年? 死刑はないのか?」──そう思う人も多いかもしれない。

 
 
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出廷したブレイビク受刑者(昨年) Lise Asreud/NTB scanpix/ REUTERS

 

 殺人者に対して、ノルウェーは「優しすぎる」か?

  ノルウェーには死刑制度がない。それに加え、ノルウェーのブレイビクに対する処置は、その後も多くの国々を驚かせている。「快適すぎるのでは」という刑務所の環境、オスロ大学政治学科への通信制による入学許可。そして、「隔離収監が人権侵害だ」というブレイビクの訴えの一部は裁判所によって認定された。

【参考記事】「77人殺した囚人でも独房は人権侵害」という判断は甘すぎる?

 ブレイビクが特別扱いされているのではなく、どの受刑者とも同じ権利を国や大学、裁判所が提供しようとした結果だ。ブレイビクだけに厳格な処置をすることを、ノルウェーは拒む。異例の対応は、国の価値観の変化を意味し、ブレイビクの憎悪が勝利したことになる。ノルウェーの人々は、ブレイビクの「思う壺にはさせない」と、「憎悪犯罪に、さらなる憎悪や刑罰で答える」ことを否定する。刑務所というのは、罰する場所ではなく、社会復帰のためのリハビリを行う場所なのだ。

憎しみよりも、愛と思いやりをノルウェーは選ぶ


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ブレイビクが襲撃したウトヤ島では、若い未来の政治家の卵たちがサマーキャンプを楽しんでいた。写真は2015年に撮影 Photo:Asaki Abumi

  当時、労働党青年部の党員であり、事件発生時には自宅にいたヘッレ・ガンネスタドは、ツイッターでこう呟いた。「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」。この一言は国内外のメディアでも大きく報道され、当時の首相もスピーチで引用した。ウトヤ島の生存者であるスティーネ・レナーテ・ホーヘイムは、CNNのインタビューにこう答えた。「暴力は暴力を、憎悪は憎悪をうみます。これは良い解決策につながりません。私たちは、私たちの価値観のための戦いを続けます」

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党員がメッセージを書いた紙がかけられたウトヤ島の木(左のメモから「肌の色や宗教に関わらず、人間は人間」「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」「ウトヤ島」 Photo:Asaki Abumi

  テロを経験したノルウェーのこのような対応は、テロ事件が度重なる世界の中でも特殊だと話題を集めている。その一部は、生存者や犠牲者の家族の、その後の生き方。そして、テロの引き金のひとつであった、憎悪や差別感情との国民の向き合い方だ。パリなど他国でテロを経験した遺族の中には、ノルウェーの7・22サポートグループを訪問するなど、テロ後の対応について視察に来るものもいる。

銃乱射事件が起きた島に、民主主義や過激思想を学ぶ建物を立ち上げる

utoya_asakiabumi04.jpgウトヤ島には小舟で向かう。事件当時は、フィヨルドを泳いで生き延びた者もいた Photo:Asaki Abumi

 事件から5年がたち、悲劇を後世に伝え続けるために、ウトヤ島にはメモリアルセンターが建てられた。13人の若者の命が奪われた現場となったカフェの小屋の解体を青年部は望んだが、世論が反対した。結果、犯人が撃った銃弾の跡などを残したまま、メモリアルセンターができた。「ヘインフーセ」(守護の家)と名付けられた館内には、生存者や犠牲者の家族の同意の下、当時のSMSのやり取りが寄贈され、展示されることとなった。労働党青年の現代表マニ・フサイニは、取材に対して「この家の名前は、中にあるものを守るという意味です。館内には、かつてのカフェの一部が残っています」と答えた。

 7月15日付けのアフテンポステン紙では、館は「過去の出来事を悲しむ場所ではなく、未来を考える場所」であり、「どのような世界を望まないか考える場所ではなく、どのような世界をこれから作っていきたいか考える場所」だと説明されている。ただの展示館ではなく、「教育の場」でもあり、民主主義を問い、過激な極右思想、法制度、情報源を批判的に読み解く能力、ヘイトスピーチ、7・22に何が起きたのかを学ぶ場所となっている。9年生と10年生には社会科見学の場として提供される。テロの出来事を話しにくいと感じる教員がいる中、良い教育の場になりそうだ。

 クラッセカンペン紙 18日付けでは、「なぜ事件は起きたのか、同じような悲劇をどうしたら避けられるか。歴史から学ばなければ、また繰り返される」とウトヤ島の代表ヨルゲン・フリドネスさんは語る。

事件を内部と外部から見つめる、2つのメモリアルセンター

  フリドネスさんは、「2011年に7・22センターで当時のツイッターが公開されたことをきっかけに、SMSの公開が検討されていた」と同紙に語る。オスロ中心地では、爆破現場となった市庁舎内に別の7・22センターがすでに設けられている。そこには、ブレイビクが使用した所持品や車が展示されているほか、ウトヤ島の青年たちの壊れた携帯電話、当日の人々のツイッターでのやり取りが公開されている。


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 爆破事件の現場となった政府庁舎内には7・22センターが設けられている。ブレイビクが爆弾として使用した車の残骸 Photo:Asaki Abumi

 

 市内にある7・22センターは、事件を外部からみつめる。その一方、ウトヤ島でオープンするメモリアルセンターでは、被害者と愛する者たちのプライベートなSMSが初公開されており、事件を内部から見つめることができる。

生存者と犠牲者、愛する者たちとのプライベートなやり取りが初公開

 ウトヤ島のセンターは22日に公開されるが、地元の大手アフテンポステン紙がその一部を公開した(以下、新聞より引用)。


  ベネディクテ・ヴァトンダル・ニルセン(15)から助けを求めるSMSを受信した時、母親は、娘が大げさに妄想を言っているのだと勘違いをした。ベネディクテさんは、ブレイビクからの銃声から逃れるために小屋に隠れていた。

17:25
娘:ママ、大変よ。銃で攻撃を受けているの!!
母:どんな武器なの
娘:警察に電話して!ここに向かってって!
母:そこに大人は誰もいないの?
娘:いるわ!ママ、私殺されそうなの。助けて!労働党への攻撃よ!

ウトヤ島は、子どもにとって一番安全な場所だと思っていた母親。警察が島で事件が起きていることを認め、母親は事態の緊急性をやっと理解した。

17:46
母:警察と話したわ。電話して。

17:58
母:電話してちょうだい

18:12に、2人は電話で会話をし、娘は「ママ、これから何が起きても、私がママを愛していると覚えていてね」と伝えた。物音がして、電話は切れた。

18:13
母:警察とまた話したわ。ウトヤ島に向かっているそうよ。電話して。ママもそっちに向かおうか?

警察のレポートでは、18:14に娘は腹部を撃たれ、射殺された。13人の仲間と一緒に、腹部から血を流した状態で水辺で発見された

18:53
母:電話して。迎えにいこうか?

19:04
母:そっちにいこうか?

19:20
母:お願い、電話して。迎えにいくのに、どこにいるか知る必要があるわ。


 警察には島に来ないように促されたが、母親は車で全速力で向かった。娘は水泳が得意だったから、きっと泳いで逃げたのだろうと思っていた。それから4日間、ほかの家族と同じ待機場所で知らせを待ち続けた。心が引き裂かれるような時間が続いた。事件が起きて約1週間後、電話が鳴り、母親は娘の死を知った。今でも犯人への怒りや、救助が遅れたことに怒りを隠せない母親のベアテ・ヴァトンダルさん。犯人や極右の思想、娘に何が起きたのかを後世が忘れないために、SMSの公開を許可した。

 ブレイビクが狙った、「青年部」とは何か?

 最後に、「青年部」とはなにかを説明したい。日本ではあまり注目を浴びることがないが、ノルウェーでは各政党に「青年部」があり、ここから未来の有望な政治家が育成される。現在の首相や大臣たちも、多くが青年部で10代の頃から楽しい政治活動時代を送ってきた。青年部の主張は母党に大きな影響を与え、青年部で採用された法案は、数年後に国会で可決されることもある。筆者が普段、集中的に取材をしているのもこの青年部だ。青年部の若者たちは、ノルウェーにとって「明るい希望に溢れた未来」そのものなのだ。

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ウトヤ島のサマーキャンプではテントで寝泊まりする Photo:Asaki Abumi

 

 ブレイビクが狙ったのは、移民背景の政治家が多く、移民政策に寛容な当時の与党で、当時の首相が所属していた労働党の青年部だった。どこの青年部でも、7〜8月にはサマーキャンプが開催され、若者たちはスポーツや政策議論をしながら数日間を過ごす。ブレイビクが血で真っ赤に染めたのは、労働党青年部の子どもたちがキャンプをしながら楽しむウトヤ島だった。ウトヤ島は、「労働党の心臓」とも例えられる、政治色の強い場所だ。

 青年部たちは普段もテレビや新聞で頻繁に取り上げられるため、国民の間でも愛着が深い。ノルウェーでは、政治活動に積極的な若者は好意的に受け止められる。だからこそ、国の未来を担う青年部の若者が残酷に殺害されたことは、国民にとって大きなショックだった。

 テロ後、若者と民主主義の攻撃だとして、各政党への党員申し込みは急増した。ブレイビクの思惑は外れ、政治活動に積極的な若者たちはさらに増えた。「ブレイビクが否定した今のノルウェーを、私たちは維持する。ノルウェーは変わらない。憎しみの道を辿らず、憎しみには負けない。憎悪や差別感情を拡散させないために、後世に歴史を伝えなければいけない」。この思いを支えにし、ノルウェーでのテロ議論や憎悪や差別との闘いは、これからも続いていく。

Photo&Text: Asaki Abumi


yoroi-profile.jpg[執筆者]
鐙麻樹(ノルウェー在住 ジャーナリスト&写真家)
オスロ在住ジャーナリスト、フォトグラファー。上智大学フランス語学科08年卒業。オスロ大学でメディア学学士号、同大学大学院でメディア学修士号修得(副専攻:ジェンダー平等学)。日本のメディア向けに取材、撮影、執筆を行う。ノルウェー政治・選挙、若者の政治参加、観光、文化、暮らしなどの情報を数々の媒体に寄稿。オーストラリア、フランスにも滞在経歴があり、英語、フランス語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語で取材をこなす。海外ニュース翻訳・リサーチ、通訳業務など幅広く活動。『ことりっぷ海外版 北欧』オスロ担当、「地球の歩き方 オスロ特派員ブログ」、「All Aboutノルウェーガイド」でも連載中。記事および写真についてのお問い合わせはこちらへ

 
 

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早川先生がお亡くなりになった

2018-07-27 | 福祉

ネットで早川先生が亡くなられたのを知った。早川先生は居住は人権だと話され始めてお話を聞いた時には、「あっ、そうなんか!」とびっくりした。その後岩波新書を買って読んだ記憶がある。福祉サイドの人間ももっと別の分野の人から学ばなあかんと思わせてくれた先生だっった。         (以下は神戸新聞のネット記事)

早川和男さん
 

 居住を基本的人権と位置付ける「居住福祉学」を提唱した神戸大名誉教授の早川和男(はやかわ・かずお)氏が25日夜、病気のため大阪市内の病院で死去した。87歳。奈良市出身。自宅は非公開。通夜と葬儀・告別式は親族のみで行う。

 京都大工学部を卒業後、旧建設省建築研究所などを経て神戸大工学部教授に。日本の住宅政策の貧困さを批判し「住宅貧乏物語」「居住福祉」などを著した。

 阪神・淡路大震災では老朽化した住宅で多くの高齢者が犠牲となり、住宅復興への支援も乏しかったことから、行政による災害と指摘。2001年発足の「日本居住福祉学会」の初代会長を今年6月まで務めた。

 神戸、西宮市が震災被災者向け「借り上げ復興住宅」の住民らに退去を求めている問題では、闘病しながら住民側が裁判所に出す意見書をまとめ、継続入居を訴えた。


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