友人のOさんから、「参考までに読んでください。」と下記のメールをいただきました。今、沖縄で起きていること、明治以来の沖縄の歴史 など複雑な問題を含んでいますが、沖縄問題を理解する上で参考になると思います。長文ですが、関心をお持ちでしたら読んでみてください。そして、沖縄問題を自分自身の問題として考えてみてください。
件名: 三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記
ヘリパッド建設やオスプレイ強行配備に反対する沖縄本島北部・東村高江の住民たちの闘いを描いた『標的の村』、そして美しい海を埋め立てて巨大な軍港を備えた新基地が造られようとしている辺野古での人々の戦いを描いた『戦場ぬ止み』など、ドキュメンタリー映画を通じて、沖縄の現状を伝えてきた映画監督三上智恵さん。今も現場でカメラを回し続けている三上さんが、本土メディアが伝えない「今、何が沖縄で起こっているのか」をレポートしてくれる連載コラムです。不定期連載でお届けします。
第61回
ヒロジさん・文子おばあへの弾圧と土人発言
辺野古や高江で反対運動をリードしてきたヒロジさんが、逮捕後10日経っても釈放されない。そして文子おばあまでも名護署に呼ばれ、事情聴取を受けた。沖縄の抵抗運動の象徴でもある二人に対して、今、あからさまな弾圧が始まっている。
今、高江ではヘリパッド建設予定地の山の中、実際にうなりを上げている重機の前まで行って抗議行動をしている。米軍提供区域なのだから、逮捕される可能性は否定できない。そんなリスクのある抗議行動に転じたのにはわけがあった。7月22日、1000人の機動隊によってゲートが開けられてからは、ヘリパッド工事の作業車の列を止めようと、人々は県道で身体や車を使って阻止行動をしてきた。しかし毎日渋滞に巻き込まれてしまう地域住民からの苦情が大きくなっていた。これ以上県民の支持を得られない方法を続けたくない。ヒロジさんたちは逮捕覚悟で山に入るようになった。G地区やH地区は40~50分の山道を行くのでかなりきついが、高齢の女性も含め、毎日数十人が建設現場を目指して山に入って行く。
17日も、そうやって工事現場に行く仲間が安全に通れるように、ヒロジさんは有刺鉄線を二本切断したという。逮捕は3回目、今回は器物損壊の現行犯。警察は防衛局員と入念に打ち合わせをし、逮捕の段取りを進めていたようだ。さらに拘留中の20日、傷害と公務執行妨害の容疑で再逮捕された。防衛局員を「揺さぶった」「つかんだ」という疑いだそうだ。テントにも、自宅にもガサ入れがあった。なにがなんでも今回はすぐには出さぬ。なにがなんでも年内にヘリパッドは完成させる。反対運動を徹底的に追い込んでやろうという政府の圧力をひしひしと感じる。
一方、連日ヒロジを返せ、と名護署にも通っている文子おばあ87歳。反戦おばあの代表格である彼女は21日、同じ名護署に任意取調べで呼ばれていた。告訴したのはなんと42歳の国会議員。この話はにわかに信じがたく、怪しいので触れたくもないのだが、和田政宗議員は5月9日、メインゲートの前で反対運動を批判する演説をしていたところ、文子おばあに暴力を受けたと主張している。87歳の車椅子の女性が42歳現役議員らに暴力を振るったと。しかも証拠という映像は、無断で顔を撮り続ければ怒るであろうおばあに執拗にカメラをむけたもので、叩き落されたようにカメラが落下して、そこに偶然「イテテテ」と言う撮影者の顔が映っているという、摩訶不思議な仕上がりでネット上に散乱している。
任意ではあるが、たびたび出頭するように連絡を受けていた文子さんは、「あたしは逃げも隠れもしない。悪いことはしていない。さっさと終わりにしたい」と話していた。周囲は体調などをとても心配しながらも、それならばとみんなで堂々と送りだし、また迎えようと名護署前に大結集した。
「若い警察官と会うんだからねえ、お化粧してきたよ」とみんなを笑わせながら、拍手を背に笑顔で警察署に入っていったが、1時間もしないででてきてしまった。顔面蒼白だった。迎える大勢の仲間たちに報告することも控えて、まっすぐ帰宅をした。一体なにがあったのか?
原因は、右翼のサイレンだった。名護署前に集まる人々に罵声を浴びせ続けた右翼の宣伝カーが、戦争を思い出させる軍歌を立て続けに大音量で流し、空襲警報を思わせるサイレンを鳴らし続けた。壮絶な戦争体験を持つ文子さんは、戦争のドラマをワンシーンを見ただけで胸が苦しくなってしまうほど敏感な方だ。署内でその音を聞くうちに動悸がして、生唾が出て、弁護士がずっと背中をさすっていたがとても話をする体調ではなくなってしまったので切り上げざるをえなくなったという。
私は怒りを覚える。87歳の高齢の女性に数ヶ月にわたって出頭を迫り、話なら自宅でといっても聞き入れずに、右翼の攻撃にさらすような状況での事情聴取に追い込む警察。警察機関とは、そんなに無慈悲なものなのか。警察署以外で事情聴取したら、おばあの仲間たちに囲まれてしまいそうで怖かったのか。これが、基地のない未来を次の世代に残したい一心で、暑い日も寒い日も現場で頑張っている文子さんに対してすることなのか。日本中に、世界中に、文子さんが涙を流してトラックの前に立つ姿が届けられている。たくさんのエールが届いている。そういう女性に対するリスペクトや配慮は、警察官に期待してはいけないものなのか?
映画の追い込みで連載を休んでいる間にいろいろなことがありすぎた。でも今回はもう一つ、ついでにこちらも警察官の見識が問われている「土人発言」についても触れておきたい。
高江で抗議行動中に大阪の機動隊員から沖縄県民に発せられた「土人」「シナ人」発言。これについてはヘイトや差別の問題として捉えることもできるが、私はあえて「国防をめぐる中央と辺境の問題」という視点で書きたい。国家というのはしばしば、国境周縁部の土地と住民を軍事利用し、国防の義務を押し付ける。日本の歴史を見ても、中央は自らの利害を優先し、辺境に暮らす人々をどんなに都合よく利用し、また見下してきたか。それは今の沖縄をめぐる構造差別の問題そのものだと思う。土人発言をした機動隊員個人が、たまたま差別意識が強かったとか、無知すぎて言葉の意味がわからなかったなどという話に矮小化してはいけない。
「土人が!」という言葉の裏には「土人のくせにつべこべいうな!」という意味がある。そこには「お前らごときに国策に文句言う権利などない」と言う人を見下した意識が垣間見ることができる。では機動隊員はなぜ、彼らは上から目線なのか。日本の安全保障という大義を遂行する側にいることで自分の正当性は保証されている、と思っているのだろう。正しい高みに自分はいるのだ、と。そしてこんな風に思っているのかもしれない。
「中国が攻めてくるという国家の危機を理解せず、国防に非協力的で、自分優先でワーワー言うだけの反対派というグループは、自己中で公共心のない下等な生き物だ。沖縄にはその手が多く、問題だ」と。そんな沖縄県民に対する評価が警察内部で共有されているからこそ、あの機動隊員は悪びれずに暴言を吐いたのだ。
しかし、この偏見の歴史は深いのである。国策に協力的ではない沖縄をなんとかせねば、という中央の身勝手な発想は明治期からあった。国家のために身を投げだす立派な「防人(さきもり)」になってもらいたいのに、全くもってなってないと蔑む視線。沖縄の人々は日本人として不十分で、戦争に協力しない困った存在であるという論理の下、その後皇民化教育が徹底されていくことになる。
国防の観点から、沖縄の県民性を問題視する「調査報告」の類が何度も書かれている。明治31年、沖縄に徴兵令が実施される。しかし沖縄県民は兵役逃れで自ら身体を傷つけたり、村全体で徴兵に反対したりする有様だった。これを「改善」するため、軍部や役所などの機関は明治期から沖縄の思想、風俗の調査をし、これを問題視してきた。(明治43年「島尻郡誌」など)
大正11年12月、県出身兵教育のためにつくられた沖縄連隊区司令部のリポートでは、沖縄の県民性について偏見に満ちた評価が並べられている。
・進取の気性が乏しく優柔不断で意志は非常に弱い ・行動が鈍く、機敏でない ・強者をくじき、弱者を助けるという男気、犠牲的精神というものが全くない ・気力がなく、節度もなく、責任感が乏しい ・向上発展の気概がない ・婦人に優雅さがないことは他に類を見ない、などと主観に過ぎないものを含め散々だ。一方、数少ない利点として、理屈を言わず安い報酬に堪え、使いやすい民である、とも書かれてある。
沖縄戦前夜、沖縄に駐留を始めた石部隊(62師団)が昭和19年に書いた会報には、恩知らずで打算的な傾向が強い、女性の貞操観念が弱いので誘惑されるな、などと書かれている。そして「デマ」が多い土地柄だから防諜上、極めて警戒を要する地域である、とか、住民は一般に遅鈍であるため事故が多いという記述がある。
これらはただの偏見で終わらなかった。この「自分たちとは違う」という一方的な評価の下で、沖縄戦当事、軍隊は県民に残虐行為を働いていく。たとえば、敵の上陸と玉砕と言う運命がわかっていながら、ギリギリまで労働力として沖縄県民を使い、彼らの安全を後回しにしたばかりか敵の上陸目前となれば、足手まといだとして集団自決に追い込んでいった。「愚鈍で責任感が薄い」沖縄県民が、軍の機密を知りすぎているとして、スパイの疑いを理由に殺害した。捕虜になって敵にぺらぺらしゃべってしまいそうな沖縄県民の口を封じることは、皇軍の崇高な目的のためには止むを得ないと正当化する。無実の沖縄県民の命を奪ってもさして胸が痛まない。その冷たさは、自分と彼らはレベルが違うんだ、辺境に住む「土人」は自分たちとは違うのだから、いちいち気にする必要はないのだと、一線を引く今回の機動隊員の意識と通底している。
機動隊員に対する怒りや許せないという気持ちも当然ある。でもそれ以上に、こういう残酷な若者を量産している構造に対して恐怖を感じるのだ。つまり、差別や区別をすることで人は相手に対して残酷になれる。自分と同じだけ大切な人間だと思っている相手に残酷なことはできない。逆に言えば、職務とはいえ、自分が誰かにひどい状況を押し付けているとしたら、自己嫌悪や罪の意識に苛まれてしまうだろう。であれば「人種が違う」と見下げてしまうほうが彼個人は楽になる。上官に対して「この仕事はおかしいと思います」と言うのは難しい。良心の葛藤を抱え込むのも勘弁して欲しい。それなら自己保身のためにも差別構造に乗っかってしまうほうがいい。そうやって「所詮、土人だろ」と仲間同士で言い合うことで、苦しみから解放されるのだ。これは人間の心の弱さの問題だ。
この構造が怖いのだ。まっすぐに目を見て「基地は作らないで」と訴える人々を前にまっとうな人間でいようとすると壊れてしまうから、冷淡な考え方をすることでやり過ごすのだとしたら、この基地建設のために何百人と全国から送り込まれてくる若者たちの心がどんどん歪められていくのではないか。残酷な差別主義者にならなければ到底やり過ごせないような理不尽な仕事を、正義感溢れて職務についた機動隊や海上保安庁の若者に押し付けていく政治のあり方を根底から問うべきではないのか。
これは、「沖縄は私たちとは違う土人の島だから、防波堤にしてしまってもいいんだ」という議論に行き着く。今まさに70年前を想起させるような南西諸島の軍事要塞化がすすんでいる。有事の際真っ先に攻撃されるのは沖縄の人たちだろう、とうすうす気づいていながらも、自分たちの残酷さを正当化する理屈を100探している国民がいる。お金をもらってるんでしょ? 基地はないとこまるんでしょ? 中国のスパイなんでしょ? 左翼思想で騒ぎたいだけでしょ? そんなあらゆる言い訳の一つとして「土人が!」が存在すると思う。人種差別の問題だけでは見えてこないのが、誰かを防波堤にして自分は生き残ろうとするあさましさであり、そのあさましさを隠すために差別を作り出していくという側面を考える必要があると思うのである。
「土人の島だから防波堤にしてしまえ」ではなくて、「防波堤として使いたいから、住んでるのは土人ということにしてしまえ」という理屈が呼び起こす差別があるということである。
先の大戦では 日本は辺境に住む人たちを蔑視することで、国防上、身勝手に利用し残酷な運命を強要する事ができたのだと思う。その仕組みは今も変わらない。「沖縄にひどいことをしているのでは?」と自問自答するよりヘイトに乗っかってしまうほうが楽。そんな一人ひとりの人間の弱さが恐ろしい時代を連れてくるのだろう。