図書館で、半藤一利さんの「ノモンハンの夏」の大活字本を借りて読みました。視力が衰え、大活字本しか読めません。
1939年にモンゴル国境で起きた日本の関東軍とソ連軍との間で起きた衝突です。
この事件を半藤さんは、陸軍参謀本部、関東軍、官邸、ノモンハン現地、モスクワなど俯瞰的に場所を変えて、時間とともにその推移を詳細に書いています。
これを読んで、この当時から軍部、特に関東軍の暴走が起きており、それを政府も天皇も止められなかったことを知り ました。日本軍の損失、戦死 19000人 負傷 26000人 とも言われています。その原因が、陸軍・関東軍の思い込みや情報不足、医師疎通の欠如などによるものです。軍人や政治家の無責任さに呆れました。無駄死にした兵士が可哀そうです。そして、ノモンハンの敗北から何も学ぼうとしないまま、日本は太平洋戦争に突入しました。そして日本人だけで 死者 310万人以上とも言われる惨禍をもたらしました。しかも、それに誰も責任を取りませんでした。
そして、今、為政者は過去の惨禍の歴史を学ぼうとせず、再び同じ道を歩もうとしています。
敵基地攻撃能力、これは真珠湾攻撃の再来です。
新藤さんは幼少のころ「日本は絶対に勝つ」と言われ続けてきたので、「絶対」と言うことを決して信じなかったそうです。でも、「戦争だけは絶対ダメ」を終生の信念にした と語っています。
ノモンハン事件が起きたときの世相と今の政治の世相が似ています。私は、そんな政治の流れに贖い、「戦争だけは絶対ダメ」を発信し続けたいと思います。
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ノモンハン事件 - Wikipedia より
1939年5月、モンゴル国境で起きた日本の関東軍とソ連軍の衝突。ノモンハン戦争とも言う。関東軍はソ連軍の機械化部隊との戦闘で大きな損害を受け敗北した。ソ連の被害も甚大であったこと、9月に第二次世界大戦が始まるという情勢となったため、休戦が成立した。これを機に日本は北進を諦め、南進論に転換して日中戦争の局面打開を図った。
1939年5月、満州国と外モンゴルで起きた国境紛争で、日本軍とソ連軍が直接対決した衝突事件。日本軍(関東軍)はノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始、モンゴルを支援するソ連軍が迎え撃った。広大な草原での機甲部隊同士の対戦となり、双方に多大な犠牲が生じたが、関東軍は戦闘は不利な情勢であると判断して、9月15日に休戦協定を締結した。そのときすでに9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻が開始され、第二次世界大戦が始まっており、ソ連軍は全力でヨーロッパ戦線にあたる必要が生じていた。日本軍も日中戦争において前年に武漢三鎮、広東を攻略したものの、戦線拡張は限界に達し、重慶に逃れて抵抗を続ける蒋介石・国民党軍と、延安を拠点とする中国共産党の八路軍の抵抗に手を焼きいていたので、ノモンハン事件での敗北を機に、中国との戦争の膠着を打開するため東南アジア方面に進出しようという南進論へと転換することとなった。