沖縄が日本に復帰して半世紀。
1975年5月15日・・・待ちに待った瞬間でした。
が、その後、米軍の基地問題や米軍がらみの事故、事件・・・解決できない問題が山積しています。
国を挙げて、より良い沖縄県、平和な沖縄県を造っていかなければなりません。
米軍基地の7割強が集中する沖縄県。
北東アジアにおいて地政学的に重要拠点ですが、沖縄だけに過大な負担させるのは、やはり心が痛みます。
太平洋戦争で国内唯一の陸上戦が行われた沖縄。
沖縄県民の人口の4分の1にあたる9万人が死亡したと言われています。
日本軍人を含めると20万人の死者。
現在行われている悲惨なウクライナ戦争を見ても、その死者数は想像を絶します。
本土を守るための捨て石・・・もっと早く戦いをやめていれば、悲劇は起こらなかったでしょう。
広島市からわずか20キロしか離れていない山口県岩国市にも沖縄に次ぐ規模の米軍基地があります。
在日米軍の最精鋭部隊のUS海兵隊が駐屯、問題のオスプレイや最新の戦闘機F35などが配備されています。
広島市も1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B29「エノラゲイ」号から投下された一発の原子爆弾で14万人が虐殺されました。
戦後も放射線による影響でたくさんのヒバクシャが苦しんでいます。
沖縄と基地、広島と岩国・・・戦争と平和を常に考えさせられる立ち位置にあると思います。
沖縄は大好きで、コロナ前は1年に一度沖縄に行っていました。
沖縄の人は人間的で優しい人たちが多いです・・・広島から来たというと良くしていただきました。
食事もホテルではとらず、いつも地元の人たちが使うステーキ屋、ソーキそば屋、ドライブインなどで食べていました。
また、沖縄に行きたいです。
コロナよ、去れ!
そういえば、広島県のオミクロン感染者の減りません。
コロナの感染が始まったころ、米軍岩国基地が震源になったという噂が流されました。
現在、沖縄県もオミクロンが広がっていますが、米軍基地と関係しているのかもしれません。
米国人はコロナを恐れていないのかもしれません。
広島県の地方紙・中国新聞の今日の朝刊でも沖縄復帰50周年を大きく取り上げています。
社説も沖縄です。
この50年間の沖縄史。
そして、沖縄県出身の初プロ野球選手、安仁屋宗八さんのインタビューも掲載されています。
当時は返還前で本土に行くにはパスポートが必要だったようです。
安仁屋さんは11人兄弟の8番目。
1944年、那覇市で誕生・・・戦争真っただ中。
戦中戦後を生き延び、野球をはじめて、沖縄高校に進学、沖縄初のプロ野球選手・・・実に強運の持ち主です。
以前、安仁屋さんとお話したことがあります。
「ジャイアンツ・キラー」と呼ばれていた安仁屋さん。
セリーグの盟主、読売巨人軍に滅法強いピッチャーでした。
そのことを安仁屋さんに聞くと、流ちょうな広島弁で答えてくださいました。
「巨人相手の時は燃えたよのう。当時のカープのフロントは巨人戦で勝つと2勝分として査定してくれたんよ。そりゃー頑張るよのう。ほいで、当時、沖縄のプロ野球中継は週に一回、巨人戦だけじゃったんじゃ。両親や親類、近所の人、沖縄の人たちが見てくれたけんのう。親孝行したよのう。」
年俸すごかったんでしょうね?と聞いたところ、
「稼いだ金は、みな飲んだよ。流川でみな使うてしもうたよ・・・ワッハッハ」
流川は広島市、いや中国地方最大の歓楽街。
安仁屋さんは大の酒豪として知られています。
きっと女性にモテモテだったんでしょうね。
地域の経済に安仁屋さんは大きく貢献されました(笑)。
安仁屋さんは、カープ退団後、阪神に移籍。
そして、再びカープに復帰し、コーチや二軍監督を務められました。
通算119勝124敗・・・1968年には23勝をあげた凄いピッチャーでした。
現在77歳のナイスガイ。
今では、広島市の放送局でパーソナリティや野球解説を務め、地元の金融機関の広告にも出演されています。
プロ野球開幕前の順位予想で安仁屋さんはいつでもどんな時でも「カープ優勝」・・・笑。
カープ愛にあふれています。
まんざら受け狙いでないことを、実際の沖縄キャンプ、日南キャンプ視察からエビデンスをあげて説明されます。
沖縄と広島を「平和」というキーワードで繋いでくださる安仁屋宗八さん。
沖縄と広島に元気をあたえ続けてほしいなあと思います。