1945年8月9日午前11時2分、広島市に続き一発の原子爆弾が米軍により投下され、7万人以上の人たちが亡くなりました。
生き残ったヒバクシャの人たちは、戦後も放射能の影響を受け、今もその災禍に苦しめられている人たちがいます。
きのこ雲の下、多く命が失われ、こどもも一般市民も無差別に殺されました・・・本当に無念だったと思います。
米軍の当初の投下目標は福岡県小倉市・・・当日曇天のため、急遽ターゲットを変更し長崎市に変更。
長崎市壊滅・・・広島の悲劇から、わずか3日間・・・許されない暴挙であり、国際法違反の反人道的な行為です。
あの日から、75年も経っているのに、未だに世界には1万3000発以上の核弾頭が存在しています。
新型コロナウイルスも直面する世界的課題ですが、一瞬にして人類を滅ぼす核の問題は決して忘れることは出来ません。
長崎の平和公園は、過去に二度訪れたことがあります。
碧い空が広がる九州の空気が、とても気持ち良かったのを覚えています。
平和祈念像の前で、手を合わせました。
平和祈念像は、高さ約10メートルの青銅製の像。
制作者の長崎出身の彫刻家北村西望さん。
天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸ばした左手は「平和」を表したものだということを聞きました。
その時、訪れた資料館で見たのが、被爆し破壊された浦上天主堂の写真。
1925年に30年かけて建造され、当時、東洋一の教会と言われていたそうです。
歴史的にも、敬虔なクリスチャンが多い長崎の町・・・そのシンボル、希望である天主堂。
原爆により破壊された、その無残な教会・・・すごい衝撃を受けました。
キリスト教徒が教会を破壊する・・・神につかえるキリスト教徒であれば許さない、さらに、いたたまれない気持ちになると思います。
なぜ、広島の原爆ドームのように保存できなかったのでしょうか?
キリスト教圏の米軍の指示により意図的に壊されたのかもしれません。
とっても残念だという気持ちが沸き起こったことを今でも覚えています。
広島の原爆ドームも、被爆者の人たちから「最悪の原爆の惨事を思い出すから、見るのも嫌だ」という声があがったと聞きます。
取り壊しの意見も多数あったと聞きます。
それでも、ヒロシマは原爆ドームをそのまま保存するという道を選びました。
長崎の町でも、同じような取り壊し、移設、再建築といった話になったのだと思います。
歴史に「もしも(if)」はありませんが、もし、浦上天主堂の破壊跡が保存されていれば、国際平和に向けて大きなインパクトがあったように思います。
すくなくとも、世界中のキリスト教徒に対して、強力な無言のアピールが届け続けることが出来たはずです。
昔、広島に荒木武さん(1916年~1994年)という市長がいました。
第27代~30代の広島市長をつとめた被爆者。
当時は、米ソの冷戦中・・・荒木さんは米ソの核実験があるたびに抗議の電報を打ち続けました。
核兵器廃絶は分かるけれども、その無力な抗議スタイルに広島市民もシラケムードだったことをこども心に覚えています。
荒木市長がやったことは、抗議の電報を打つことと、広島の街に木を植えること・・・。
そんな荒木さんは、「植木市長」とも揶揄されていました。
あれから約半世紀、広島の街は水と緑にあふれる国際平和都市になりました。
後世に残る仕事をされたことを、今では多くの広島市民は喜んでいます。
現在、広島市では被爆建物である旧陸軍被服支廠の建物(4棟)を保存するかどうか、国、県、市を交えて議論されています。
後世に伝えるべきだという解体反対派と崩壊の危険がある、管理責任をどうするかと主張する保存反対派もいます。
一つ言えることは、一度壊せば、もう二度と元には戻せないということ。
悲惨な歴史を忘れないためにも、後世に伝えるためにも残していただきたい被爆建物です。