いっそのこと、会社を辞めるか。会社にしても、それを望んでいるだろう。
そんな思いが頭を過ぎる。けど‥‥、と思い直す男だ。
かつての上司である課長の、「おおや、顔色がいいな。結構、結構」の嫌みも辛い。 . . . 本文を読む
その夜、部屋の灯りの下で二人の名刺を交互に見ながら、「ミドリ、ミドリ」と呟いてみた。
学生時代に思い浮かべていた平井ミドリとは違い、意外な子供っぽさに男は半ば酔いしれた。
青年時代に戻ったような気持ちだった。
時計は十時半を指している。
ベッドに寝転がりながら、窓に目をやった。
全くの闇夜だった。
そろそろ小降りになったらしく、雨音が小さくなっている。
明日には晴れそうな気配だ。
傍らの . . . 本文を読む
「いいや、いいんだ。もう慣れっこだよ」
男は、彼自身意外な程に快活に笑った。久しぶりに屈託なく笑った。
名刺交換の折りには、怪訝そうに「何とお読みするのですか?」と聞かれる度に、コンプレックスを感じる名前が、今だけは誇らしかった。 . . . 本文を読む
男は気を取り直すと、今朝買い求めたスポーツ新聞を背広の下に巻き付け、身体を冷やさないようにした。
先年亡くした祖父の言葉を思い出したのだが、物は試しと雨の中を駆けだした。
できるだけビルに沿って走り、濡れないようにした。
地面を見ながら、右に折れた。
体が少しビル際から離れた途端、前方を見ていなかった男は、信号待ちの通行人に接触してしまった。
「いや、これは失礼! 前を見ていなかったもので…」 . . . 本文を読む
「もう、私たちダメね。別れましょう」
冷然とした態度で告げると、女性はそのまま席を立った。
女性からのプレゼントである、ダイヤカットのライターがやけに重く感じられた。
そしてその銀色がやけに冷たく感じる。 . . . 本文を読む
思えば順風満帆の人生だった。世間に名の通った商事会社で、熾烈な出世レースに
勝ち抜く為に、常に走り続けていた。充実した毎日だった。そんな男が犯したミス。
ミスというにはあまりにも間の抜けた事柄だった。 . . . 本文を読む
重苦しい空気が、また男を襲った。振り払うように時計を見た。五時四十分過ぎを指している。ほんの数分のことではあったけれども、長い時間に感じた。かつてあれ程に欲しかった時間が、今は煩わしい。 . . . 本文を読む