30日(木)。わが家に来てから今日で1428日目を迎え、米ワシントン・ポスト紙(電子版)は28日、トランプ米大統領が6月の日米首脳会談で、安倍晋三首相に「私は真珠湾を忘れない」と述べたうえで、対日貿易赤字に強い不満を表明したと報じた というニュースを見て感想を述べるモコタロです
「ああ シンゾーに悪い!私こそ広島、長崎を忘れない」と返したんだろうね?!
昨日、夕食に「牛肉と玉ねぎの甘辛煮」と「トマト、エリンギ、レタスと卵のスープ」を作りました 「牛肉~」は久しぶりに作りました。牛肉をタレに漬けて冷蔵庫で30分冷やしてから焼くのがコツです
昨日の朝日夕刊 文化面にピアニスト 小山実稚恵さんの記事が載っていました 記事によると、彼女は2020年に生誕250年を迎えるベートーヴェンを軸にしたピアノシリーズ「ベートーヴェン、そして・・・」を企画したとのことです 来年6月から21年11月まで計6回 オーチャードホールで公演するが、ただソナタを全曲演奏するだけではなく「ありそうでない演目を聴かせたい」として、第4回にはベートーヴェンが13歳の時に作曲した「ピアノ協奏曲0番」を演奏するそうです
ウィキペディアによると、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第0番」は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770‐1827)が1784年に作曲した作品で、現存する楽譜のタイトルには「ピアノフォルテもしくはチェンバロのための協奏曲」と記されているとのこと 楽譜はピアノパートのみ現存しており、管弦楽部分は不完全なため補筆が必要で、何人かのベートーヴェン研究家が手掛けているそうです 第1楽章「アレグロ・モデラート」、第2楽章「ラルゲット」、第3楽章「ロンド アレグレット」の3楽章からなり、演奏時間は約27分とのことです
これは面白そうです。是非聴いてみたいと思います
現在 池袋の新文芸坐ではデヴィッド・リンチを特集しています。昨日「エレファント・マン」と「ラッキー」の2本立てを観ました
「エレファント・マン」はデヴィッド・リンチ監督による1980年のアメリカ・イギリス合作映画(白黒・124分)です この映画は19世紀のロンドンを舞台に、実在した奇形の青年ジョン・メリックの悲劇の人生を描いたものです
見世物小屋で「エレファントマン」として暮らしていた青年ジョンの元に、ある日外科医のトリーブスという男が現われる ジョンの特異な容姿に興味を持ったトリーブスは、彼を研究材料にするため、自分が勤める病院に連れ帰る。それ以来、ジョンとトリーブスの交流が始まる。最初は人を恐れて話すことが出来なかったジョンはトリーブスとの信頼関係の中で、次第に打ち解けるようになり自分の意思を伝えるようになる しかし、エレファントマンを失った見世物小屋の管理人は商売あがったりの状況を何とかしようと、再びジョンを見世物小屋に連れ戻す それを見かねた見世物小屋の仲間たちは皆で協力して、檻に閉じ込められていたジョンを開放する 紆余曲折の末にジョンは再びトリーブスの元に帰りゆっくりとベッドに横たわる
トリーブスは「エレファントマン」であるジョンを研究材料にして学会で発表、その結果、彼自身も有名になり患者も増えることになりますが、彼は妻にこう言います。「私はあの見世物小屋の管理人と同じ人種ではないか。彼を見世物にして世間に晒し、人気を得ている」。この言葉によって、 彼は良心を失っていないことが分かります
この映画が公開された1980年は言うまでもなくカラーの時代です それにも関わらず敢えて白黒で撮った意味はどこにあるのでしょうか? 私が考えるに、エレファントマンの奇怪な顔や身体が、白黒の方がドキュメンタリータッチのリアリティを持って迫ってくるからではないかと思います
いつもはベッドの上で座ったまま寝るのに、誰からも危害を受けることがない安住の場所を保障され、初めて身体を横たえて寝るジョンの姿の背景には、サミュエル・バーバーの「アダージョ」が静かに流れます この映画のフィナーレに最も相応しい 静謐で美しい音楽だと思います
「ラッキー」はジョン・キャロル・リンチ監督による2017年アメリカ映画(88分)です
神など信じずに生きてきた90歳の男ラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は、一人で暮らす部屋で目を覚ますとコップ1杯のミルクを飲み、ヨガのポーズをして、馴染みの店「ダイナー」でクロスワード・パズルをやりながらコーヒーを飲んで煙草をふかし、夜は馴染みのバー「エレインの店」で常連客達とだべり、ブラッディ・マリー(ウォッカのトマトジュース割り)を飲む、という毎日を送っている そんなある日、自宅でめまいがして倒れたことから 自分に人生の終わりが近づいていることに気づいた彼は、死について思いを巡らせるようになる 子どもの頃に怖かった暗闇を思い出し、去って行った友人ハワード(デヴィッド・リンチ)のペットのルーズベルト(リクガメ)の行方を思い、「ダイナー」で出会った同年代の男から聞いた 戦火の中で微笑んで死んでいった日本人少女のことに思いを巡らす。こうした小さな町の住人たちとの交流の中で、彼は死を悟っていく
この映画は「パリ、テキサス」で知られる個性派俳優で、2017年9月に死去したハリー・ディーン・スタントンの最後の主演作で、スタントン本人の体験に基づくエピソードが描かれているほか、長年にわたるスタントンの盟友デヴィッド・リンチ監督が主人公の友人ハワード役で出演しています
この映画は、特別な大きな事件が起こる訳でもなく、偏屈なラッキー爺さんの日常生活を淡々と描いているようでいて、示唆に富む人生訓に満ちています
仲間たちから「孤独じゃない?」と訊かれたラッキーはこう答えます。「俺は孤独じゃない!孤独(lonely)と一人(alone)は違う。aloneは単独という意味で 孤独を意味しない。 all alone 一人一人は単独だ」。
人生を皮肉に捉えることしかできないラッキーの人生観を一瞬で覆したのは、「ダイナー」で出会った海軍出身の同年代の男の話です。彼は「第2次世界大戦で日本軍と戦った時、われわれが近づくと、村の連中は襲われると思って、先に子どもを崖から突き落として、あとから自分が飛び降りたんだ。凌辱されるよりも自決を選んだんだよ その時、一人の少女が死を目の前にして微笑んだんだ。とても美しかった。それは彼女が仏教徒だったからだと思う」と語ります。死を前にしてニッコリ微笑む・・・このエピソードがラッキーの生き方を変えます。それ以降、ラッキーはしかめっ面の代わりに微笑みを浮かべるようになります
もう一つは、友人ハワードの話です 彼は長年連れ添ったペットの亀に「ルーズベルト」と名付け、遺産相続までしようとしていますが、そのリクガメに逃げられてしまいガックリきています しかし、彼は考えた末にこう悟ります。「ルーズベルトは逃げたんじゃない。新しい生き方を求めて旅立ったんだ それを今まで自分が邪魔していたんだ。そう考えることにしたよ。縁があればまたどこかで出会うだろう」。
90歳の老人ラッキーの淡々とした日常生活を観て感じるのは、すぐ近くに馴染みの店があり 話し合う相手がいることが如何に幸せか、ということです
ラッキーは不安になると 赤い大きな電話機のダイヤルを回し 誰かに話しかけます 会話をしているようですが相手の声は聴こえず、ラッキーの声だけが聴こえるので、本当は相手など存在せずラッキーが一人芝居をしているのではないか、と思いますが、生涯独身と自称しているラッキーには本当はどこかに家族(元妻か子ども)がいるのではないか、とも思わせます
大きなサボテンが林立する中、ラッキーがタバコを吸いながら去って行くと、サボテンの蔭からルーズベルトがゆったりした足取りで出てくるラスト・シーンは、そこはかとないユーモアがあって思わず頬が緩みます ラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は、あのまま天国に行ってしまったようです