人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

谷川俊太郎詩集「モーツァルトを聴く人」を読む ~ 「ふたつのロンド」( ニ長調K485&イ短調K.511)、「カーラジオの中のモーツァルト」を中心に

2022年01月17日 07時14分06秒 | 日記

17日(月)。わが家に来てから今日で2564日目を迎え、ATMの故障や行列の原因になるとして、硬貨を預かる際に手数料を取る銀行が増えている  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     だったら時間外手数料に110円も取る暴利と雀の涙の利息は止めるべきじゃね?

 

         

 

谷川俊太郎詩集「モーツァルトを聴く人」(小学館文庫)を読み終わりました 谷川俊太郎は1931年生まれ。1952年に処女詩集「20億光年の孤独」を刊行。その後、数々の詩集を発表、エッセー、絵本、童話など多方面で活躍中の詩人です

 

     

 

本書は、1995年1月に小学館から刊行された詩集「モーツァルトを聴く人」に、選詩集24篇(「音楽ふたたび」)と、堀内誠一氏との共作絵本「ピアノのすきなおうさま」を加えたオリジナル文庫です

詩集なので一度は黙読で、二度目は音読で読みました

私は詩にまったく不案内なので、ある詩を読むときに、それを理解するための手がかりが欲しくなります そこで、音楽に関する詩の場合、詩のタイトルや詩そのものに曲名が書かれている作品がとっつき安く感じます 本編「モーツァルトを聴く人」には19篇の詩が収録されていますが、タイトルに曲名が付いているのは「ふたつのロンド」です 2つのロンドとはモーツァルト(1756-1791)が1786年に作曲した「ロンド ニ長調K485」と、1787年に作曲した「ロンド イ短調K.511」です

「ふたつのロンド」は次のように始まります

「60年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた  古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった  浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた  ケッヘル485番のロンド ニ長調  子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律  ぼくの幸せの原型」

作者はたぶん、K.485のロンドを聴きながらこの詩を書いているのだと思います 私も今、ワルター・ギーゼキングのピアノによるCDでこの曲を聴きながら書いています 「子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律」は、コロコロと転がるような楽しげで軽快な音楽を表しています 作者はこのとき「幸せとは何か」を初めて理解したのでしょう しかしその後、その母親が病気で入院し4年7か月後に死んだことが書かれ、次の詩が続きます

「病室の母を撮ったビデオを久しぶりに見ると 繰り返されるズームの度に母の寝顔は明るくなりまた暗くなり ぼくにはどんな表情も見分けることが出来ない  うしろでモーツァルトのロンドイ短調ケッヘル511番が鳴っている  まるで人間ではない誰かが気まぐれに弾いているかのようだ」

実際にこの曲を聴いてみると、哀愁に満ちていて、「人間存在の根柢の哀しみ」を感じます 作者がここで言う「人間でない誰か」とは人間の能力を超越したモーツァルトかもしれません モーツァルトはこの「ロンドK.511」のすぐあと、不朽の名作「弦楽五重奏曲ト短調K.516」を作曲します 評論家・小林秀雄は「モオツァルト」のなかでこの曲の冒頭の楽譜を掲げ、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもいない」と書いています 「ロンドK.511」には「弦楽五重奏曲K.516」に共通する「かなしみ」があります この詩からはそんな「かなしみ」が伝わってきます

 

     

     

 

もう1篇、印象残った詩をご紹介します 後半の「音楽ふたたび」に収録された「カーラジオの中のモーツァルト」です 全文は次の通りです

「モーツァルト モーツァルト!  私はきみに追いつくよ  アダージョからアレグロへ  アクセルをかるくふかして  記憶が流れ 心がはためき 今はもう私自身が音楽だ 海に沿い 林をぬけて どこまでも響いてゆく  そして岬での小さな休止符 不動の青空と沈黙 その無為こそが目的地であると そう考えることの静かなよろこび  モーツァルト モーツァルト まだいるねきみもそこに」

上の詩の「アダージョからアレグロへ」というフレーズは、モーツァルトの交響曲では「第3楽章から第4楽章に移る場面」、ソナタでは「第2楽章から第3楽章に移る場面」を思い浮かべます この詩を読んで私の頭に浮かんだのは、1777年に作曲された「フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285」です 第1楽章はニ長調ですが、第2楽章から第3楽章へは「ロ短調からニ長調へ」「暗から明へ」「静から動へ」間断なく続けて演奏されます 第2楽章(第3楽章)で感傷に浸っている間もなく、モーツァルトはいつの間にか最終楽章に移って喜びに満ちた音楽を奏でている・・・モーツァルトの変わり身の速さにわれわれは着いていけない しかし、アクセルをふかしてモーツァルトのペースに追いついていこう、という気持ちが表れているように思います  

「不動の青空と沈黙 その無為こそが目的地であると そう考えることの静かなよろこび」というのはどう解釈すれば良いでしょうか? 音楽は時間芸術です。絵画と違い、音が鳴っている間だけが音楽と言えます したがって、音楽は演奏が終われば必ず終わる芸術です。音楽は始まった時から終結に向けて流れていきます それはまるで人間が生まれた時から死に向けて生きていくのと同じです 「沈黙」とは人間が必ず到達する死を意味しているのかもしれません あるいは、別のことも頭に浮かびます。小林秀雄は「本当に美しいものを前にした時、人は沈黙せざるを得ない。言葉で表現しようとすると嘘になる」という趣旨のことを書いていますが、そこにヒントがあるような気がします 「音楽を聴いて感動したなら、それを言葉で表現する必要はない。沈黙を守って感動に浸っていればよいのだ。モーツァルトもそう望んでいる」と捉えられそうな気もします

詩は人それぞれによって捉え方が異なると思います 「それは違うんじゃないの?」と思われる方もいらっしゃることでしょう 一度本書を手に取ってオリジナルの作品に接してみてはいかがでしょうか

 

     

コメント (2)
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